べっとりとした嫌悪

 改めて検分すると、剣の刃は欠け潰れ見るも無惨な状況だった。鈍器として扱うにもまだマシなものが他にあるだろう。アーシェラは嘆息と共にそれを腰の鞘に戻し、たった今仮初めの忠誠を誓った主君──セルビアへと向き直った。

 周囲の騎士たちは皆――といっても、四人しかいないのだが――、ともかく皆、アーシェラとセルビアとの間で、視線を行ったり来たりさせている。内訳は敵意と心配だ。それも当然だ、とアーシェラは突き刺すような視線を甘んじて受け入れる。

 悪魔を知るということは惨劇を知るということだ。アーシェラ自身、悪魔など一匹残らず淘汰されるべきだと信じている。心の影では自死すべきとも思っていた。だがこの身が無くては悪魔を狩ることはできない。この恩讐は晴らされない。意識されたジレンマは、アーシェラに知らず知らずその拳を握りしめさせていた。

「これから聖銀機関の本部に戻る。……アーシェラ、お前は私の後ろに乗れ」

 指し示された方を見れば、遠くの丘で一人、同じような騎士が、六頭の馬を繋いで待機しているらしい。アーシェラはこくりと頷くが、一人の騎士が、居ても立ってもいられないという風に申し出た。

「枢機卿猊下……危険です。その、自分が」

「私で構わない」

「しかし……」

「なに、いざ襲われてもなんとかなるさ。それに私はこの者の誓いを受け取ったのだぞ? 信じなくてどうするのだ」

「……失礼、しました」

 身を引いた騎士は、アーシェラをぎろりと睨み付けて後方に下がっていった。

「……お手間は取らせません。私は彼と行きます。その方が──」

「止めておけ。手間がないようにこうするのだ。主には従いたまえよ、お前は騎士であるのだから。……何か持っていくものはあるか?」

 アーシェラの全ては焼けてしまった。物は炎で、記憶は闇で。持ち出せるものは、もう何も残っていない。

 ああ――そういえば。

 地面を見渡すと、黒く焼け焦げた葡萄の髪飾りはすぐ見つかった。かつての精緻さを僅かに残すのみで、髪飾りは表面の防腐剤が熔けて歪な形になっている。

 誰かにあげよう、と、どこかの店で買ったのは、なんとなしに覚えていた。それが誰だったのかはもう判らない。シエル、とアーシェラを呼ぶ優しい女性の声だけが耳の奥に残っているのが、胸に切なく、痛ましい。

「それは?」

「……誰かに渡そうと思っていました。確か。もう、何も覚えていませんが」

「……そうか、記憶が……」

 握りこんだそれを優しく包むように、温かい手が重ねられた。

「辛いだろうが、行くぞ、アーシェラ。我々には為すべきことがある」

 ばさ、と投げ渡された外套は、持ち主の髪と同じく真っ白だった。返り血を身体中に浴びた身はどうにも目立つ。隠せというのは自明だった。処女雪を踏み荒らすような良心の呵責に苛まれながら、アーシェラは純白の外套を着込んで、フードをぎゅっと目深に被った。所々で黒い血がじわりと小さな染みを作っている。

 それを誤魔化してくれるかのような、丘の上からの太陽の光に向かって歩いていく。四肢には奇妙な感覚が残っている。まるで自分の手足に重みが無いかのようだ。だが、歩くに大きな支障はなかった。丘の上にたどり着くころにはそれにも慣れ、心中から消えてしまった。

「枢機卿猊下。……そちらの方は?」

「ちょっとした収穫だよ」

「……アーシェラ・スフェリオです。よろしくお願いします」

「あ、ああ……よろしく」

 セルビアは慣れた所作で馬に跨がり、アーシェラに手を伸ばした。

「ほら。来い」

「……ありがとうございます」

 セルビアに促されるまま、アーシェラはセルビアの前方に、ちょうど抱き抱えられるような形で乗馬することとなった。

 セルビアの腕が良いのか、存外快適な馬上とは異なり、手足の先は痺れるように痛む。 具合としては、何度目かの徹夜明けといった風だ。感覚がやたら軽く、自分と四肢が切り離されているような……。

 次第に瞼も開けていられなくなり、アーシェラはそのままゆっくりと、暗闇に微睡んだ。


 眼前の暗闇に、花が咲いた。

 赤い花だ。瑞々しい血の赤の花々が、何もない暗夜を覆って、赤と黒の世界を形作っている。悪魔となり、自我を失っていたときのそれとは少し違う。それよりはまだ、現実世界の風味があった。それでもここは尋常ならざる場所であろうし、そんな空間にちょこんと座っている人影も、おおよそまともな存在でないことは確かだった。

 人影はふわり、赤を纏って、唐突に色彩を取り戻した。黒紅のキャンバスに、緑の少女が現れる。貴族のそれのような、細緻極まる装飾が施されたドレスと、作り物のような造作や翡翠色の瞳に髪。総称して言えば、人形めいた、という形容が最も適切だろう。

「やあ。おはよう。といっても君の感覚では逆なのかもだけど、ボクとしては、君がここで目覚めたという体だから、おはよう、ってことで良しとしてくれ」

「……おはよう。それで?」

「良いね。さっぱりしてて。まあ、言ってしまえば悪魔なんだな、ボクってやつは」

 ふふ、と笑って見せる人形は、あの異形と同族とはとても思えなかった。

「何故、悪魔が」

「束の間の共同戦線というやつさ。ボクもまた、君と同じく悪魔を討つ悪魔だ」

「悪魔を討つ悪魔だと?」

「そう。ボクもわけありってことさ」

「だから何だ。……悪魔など人を不幸にするだけだ。善人ぶって英雄にでもなろうとしているなら、私がお前を殺してやる」

「いや、怖いなぁ」

 少女が指を鳴らすと、ぽん、と、でろでろと泥水のように表面を転たわせる血でできた武具が、そこかしこに現れた。それは剣であったり、槍であったり盾であったりしたが、皆一様に禍々しい装飾が施されている。

 悪魔の少女は、道化めいたステップでその内いくつかに触れる。すると、ばしゃんと音を発てて、それらの形は崩れ去った。

「ボクは君に親近感を抱いてるんだ」

 ばしゃん、ばしゃん、ばしゃん。

 破裂していく武具。形成される血の海。次々と形あるものがただの血へ姿を変えていくおぞましい旋律に、悪魔は優雅なステップを踏む。

 少女は一歩距離を取り、数瞬そこに浮いていたかと思うと、不意に再び指を鳴らした。音は波紋となって血の海に広がっていき、それに呼応するように、端から真ん中へ、血の海が収縮を始めた。

 そうして、程なく血の海は、ひとつの固体に凝縮した。

 剣だろうか。ひどく歪なうえ装飾過多で、槍とも斧とも、弓と言われても納得できてしまいそうな、毒々しい血色の武器だ。先程までの武具よりも遥かに異常性を感じさせる不気味さがあった。否、というより、それら全てを合わせただけの異質さと言うべきか。

「人でも悪魔でもない、その境界で右往左往してるその姿にね」

 りゃいいいん。

 少女が赤の地平に刺さっていた剣を抜くと、獣が泣くみたいな音が、何もない世界に響いた。少女はそのまま、その手に握るものを投擲。獲物を狩る蛇よりなお速い凶閃が、避ける間もなくアーシェラの胸に突き刺さる。

 不思議と、痛みはなかった。

「だから、ボクは同士たる君にささやかな助力をしよう」

 ただ、何か熱いものが身体を巡っていくような、そんな違和感を感じた。穂先から毒が流れているみたいに、痒みが胸から末端へと波状に訪れる。

「な、にを」

「おっと。もう時間みたいだね。おやすみ、それかおはよう。また会おう、アーシェラ」


 ゆっくりと瞼が開く。暖かみのある木造の空間、そこそこの寝心地のベッド。いつの間にか馬の旅からは降ろされていたらしい。おまけに着替えまで済まされている。

「……何だったんだ、クソ……」

 まだ身体に残っている違和に頭を振っていると、ふと近づいてくる人の気配を感じ、身体を起こす。元から勘は鋭いほうだったが、これは多分、悪魔になったからだろうな、と冴え渡る視界を見て思う。窓の向こう遠く、山々の木々の葉一枚一枚に至るまでを見通せる。目が良いという範疇を遥かに越えていた。五感が異常に研ぎ澄まされている。夕闇の静寂も手伝って、足音は既に聞こえていた。

「シエル。具合はどうだ?」

「……はい。良好です」

 心身共にお世辞にも良好とは言えなかったが、アーシェラは余計な心労をかけさせまいとそう騙った。セルビアがはは、と明るく笑い、アーシェラの瞳を覗き込む。

「騎士は嘘をつかないものだ」

「……普通です」

「普通、か」

 セルビアがぱちん、と鋭い音と共に何かを開いた。細かな装飾が施された小型の銀ナイフだ。何を思ってか、セルビアはその鋭利な刃を躊躇もせずに手のひらで握る。当然のように肌には血の線が走り、ぽたり、と一滴、床に冠が描かれた。

「何を――」

 アーシェラがそれを諌めようとベッドから腰を上げると、突然心臓が跳ね上がった。ぽたぽた滴る赤い雫から、震える目が離せない。

 喉が渇く。脳が欲する。が欲しいと叫んでいた。

「やはりか。いや何、すまないな。何しろお前のような前例はないからな、少し試してみたのだ」

「……は、あ……?」

「悪魔に必要なのは、人間の血なのだ。お前は人の意思を持つ。血に関する欲求はどうかと思ったが、そこは悪魔が強いようだな。それでも理性である程度は抑えられるか……」

「あの……」

 つらつらと赤が這う白亜の肌に噛みつきたくなる衝動を、胸を押さえて嚥下する。

「おっと。ではこれは礼だ。飲みたまえ」

「そ、んな」

 ただ座り込んだままのアーシェラに、つかつかと黒く艶めく半長靴が接近する。そのまま顎に手が当てられて、ぐい、アーシェラのすぐ目の前に、切れ長の眉と、銀色の瞳が現れる。

「言っただろう、必要なものだ。摂らねば死ぬぞ。それにいよいよ切迫詰まると、生存本能が理性を飛ばすとも限らないぞ?」

「あなたは……何なのですか」

 思わず言葉が口を衝いた。アーシェラは悪魔である。血に目が眩む怪物である。ならば何故、悪魔を滅する聖銀機関の者たるセルビアにこうもアーシェラへの敵意がないのかが、不思議を通り越して不安ですらあった。

「私は悪魔なのですよ、猊下。それにどうして──」

「セルビア・ヴェグナンチカ。お前の主だ」

「そういうことではなく――むぐ」

「いいから飲め」

 口の中に、蕩けるような甘い味が広がった。きっとこの甘美なる蜜液に勝るものなどこの世にない、そう感じられるほどに。

 ……私は、悪魔だ。どうしようもなく、ただ悪魔だ。悪魔を殺すと宣う者が悪魔である、なんて、どんな喜劇なのだろうか。

 ただ血を啜るけだものとなりながら、終末の時を想う。気づけば吸血の衝動と窓からの夕陽は治まっていて、セルビアは手に包帯を巻いていた。

「明日の朝まではゆっくり休める。休めるときに休んでおけ」

「あなたは?」

「無論、私ももう休むさ。ではな。……身体に何かあったら遠慮なく私を起こせ。向かいの部屋だ」

「……分かりました」

「では、よい夢を」

 言葉通り、閉じられた扉のすぐ向こうから、扉の開閉音が聞こえてきた。

 ……よい夢を、とは言われたものの、アーシェラは何しろあの奇妙な夢を見たばかりである。やたら冴え渡る夜目を頼りに、ベッドから起き上がって窓に向かうと、窓の外、日の落ちた夜の闇には、星の光が広がっている。


『綺麗ね。とても綺麗』

『別に、いつだって見れるじゃん』


「──っ!」

 幻像を追って左手を伸ばす。勿論──何か、誰かに触れることはなく、それは空を切るだけだった。星々の煌めきは涙に霞み、きらきら、きらきら輝いた。

「あなたを守りたかったんだ、私は……それだけは、覚えているのに、どうして」

 どうして、大切な人がなぜ大切であったのか、その理由さえも、私には残っていないのか。

 部屋の入り口の外套掛けに、セルビアから着せられた白外套を認めて、アーシェラは幽鬼のように立ち上がる。『叙任祝いだ。この外套はお前にやる。』と簡単なメモが襟に貼り付けられていた。腕章と胸ポケットにあったバッジとは回収されているところをみると、聖銀機関ではあれが階級なり何なりを表すのだろう。

 頭の片隅ではそんなことを考えたが、今はどうでもいいことだった。目的である、潰れた黒焦げの葡萄をポケットから取り出す。

「……もう誰にも渡せないな」

 手渡す人も居なければ、もはや人にあげられるようなものでもない。それでも捨てる気にはなれない。今となってはこれが唯一、アーシェラがもう名も分からぬ大切な人を思っていたことの証であり、それを失ったという戒めでもあった。

 手探りで前髪の房をひとつ割り出して耳に流し、そっと葡萄の髪止めを刺す。鏡を覗く気になれなかったので、実際どうなっているかは不明だが、きっと滑稽なものに違いなかった。

「──……寝よう」

 これ以上起きていても良いことはない。髪止めを抜いてサイドテーブルに置き、ベッドの中に潜り込んだ。瞳の裏で揺らめく猥雑な色彩は今回は何かの形を取ることはなく、アーシェラはただ眠りの底に落ちていった。


 次の日の朝は少し暖かくなった。

 アーシェラが白い外套を羽織って部屋の外に出ると、丁度向かいの扉からもまた人影が現れた。

「おはようございます」

「ああ、おはよう。よく眠れたか?」

「はい、おかげさまで。それで、その、この外套は……」

「メモを見なかったか?」

 きょとんとしていた瞳が欠伸と共に閉じられ、また開く。あまりに純真な目線に、遠慮から外套を返すことなどできなかった。

「……ありがたく、頂戴します」

「うむ。それでいい。ところで、これは昨日伝えるのをすっかり忘れていたのだが、お前が元々着ていた服は処分してしまったが、構わなかったか?」

「はい。ああまでなるともう、手の施しようがないでしょうし」

 悪魔の返り血が余すところなくべっとりと染み付いていた服だ。洗うのも一苦労だろうし、そもそも好んでまたあれを見たくはなかった。

「だろうな。知っての通り悪魔の血は激毒でもあるし」

「ええ。私は平気ですが」

 自嘲気味に呟くと、セルビアはばつが悪そうな顔をして、アーシェラの頭にぽすんと手を置いた。

「悪かった。……あまり気負い過ぎるな。お前はアーシェラ。それでいいではないか」

「いえ、はい」

「……食欲はあるか? 朝食が用意されているはずだ。ただ……」

「お腹は空いていないんです。多分、ご想像の通りだと思います」

 空腹はもちろん、物を食べようという発想がまず出てこない。食べられると感じられない、というか。肉も果実も何もかも、木や岩と同列の認識でしか思い起こせない。美味しいと理解していても美味しそうと思えない。どうせならばこうした記憶も消えてしまえば良かったのに、と思ってしまってから、自らの卑屈さに反吐が出そうになった。

「そうか。……うむ、血が吸いたくなったらいつでも言え」

 その言葉にアーシェラは応えないまま、外套に袖を通し襟を整える。

 あまり吸血のことは考えたくなかった。丁度人間の食べ物に対する感情と逆のそれが、確かな苦みとなってアーシェラを蝕んでいる。駄目だと分かっている。食べていいものではないと知っている。だが、どうしようもなく惹かれている。この身は悪魔であると、強く感じさせる。

 アーシェラは内心を誤魔化すように微笑んだ。

「猊下はお取りになるのですよね。お供します」

「そうだな。では行こうか。ああそれと……雰囲気が変わったな。嬉しいことではないかも知れんが、その、何だ、似合っているよ」

 若干の戸惑いの後に、髪止めのことだと理解する。思わず頭に手をやって、融け潰れた葡萄の歪な面を撫でた。

「ありがとうございます。……これを付けていれば、私が戦うその理由を、忘れることはないでしょうから」

「そうか。そうだな」

 セルビアはくるりと新しい外套を翻して、こつこつと廊下を歩んでいく。その二歩後ろを保ちながら、アーシェラは階下へ向かった。

 一階の大広間では、騎士団の面々が陰鬱な雰囲気を孕みながら、散発する会話で機械的な摂食を繋いでいた。その隅で、一人の騎士と骨ばった禿頭に筋骨隆々な益荒男が深刻そうに話し込んでいる。セルビアに付き添いながらアーシェラがそちらを眺めていると、ふと禿頭の男と目が合った。男は数度瞬いて驚きを顕にし、そぞろに騎士に会釈をすると、アーシェラの元に駆け寄ってきた。

「おい、お前、アーシェラだろう!? 髪が黒いから判らなかった、いや違う、そんなことはいい、カズ達は無事かッ」

「無事ではないと、思います。恐らく、ですが……。あの街で生き残った者は誰も居ません」

「ケヴィン殿。アーシェラと知り合いなのですか?」

 セルビアが隣から口を挟む。ケヴィンというのが、この禿頭の男の名前なのだろう。ケヴィンはアーシェラの反応に怪訝そうな顔をしながら、セルビアの問いに答えた。

「ああ……長年の取引相手だ」

「お前商人だったのかアーシェラ? 剣に大層慣れていたから、そういう職とばかり」

「……分かりません」

「分からないって、オイ──」

「ケヴィン殿、アーシェラは……その、記憶がないのだ。分かることは、自分の剣に刻まれていた、恐らく彼女の名前だけでな。だが幸いそこだけは合っていたらしい」

「……そう、か……。そうか。なら、ああ、仕方ないな。大変だったろう。何なら、家くらい貸すぞ」

「ありがとうございます、ですが私は、枢機卿猊下に仕え、悪魔を滅ぼすと誓いました」

「……分かった、頑張れよ。これは、餞別だ。……もう、お前と取引することもないだろう」

 言って、ケヴィンは腰に革紐で吊っていた大判の手帳から数ページを破り取ると、アーシェラに差し出した。

「取引で重要なのは、相手を知ることだ。俺は、手前の取引相手のことは、何だってこの手帳にぶちこんである。……記憶の件の慰め程度にはなるだろう。ホラ持っていけ」

「ありがとう、ございます」

 それきりケヴィンはくるりと背を向け、元の場所に戻ろうとして、はたと立ち止まった。

「……もし、もしだ。全てが終わって、全てを思い出せたなら、その時はまた、この手帳にお前のことを書けるかもな」

「……はい。そんな、幸せな結末があったのなら、その時は」

 今度こそケヴィンは元々話していた騎士の前に帰り、また同じように話を始めた。

「……良かったな。気が向いたら私にも見せてくれるか?」

「ええ……彼は、どういった方なのですか?」

「商人だ。悪魔に対してアンテナを張っていたらしいな。昨晩、物資や宿を調達した際世話になった。彼の申し出で、今は悪魔についての知識をこちらから提供している。この地では、彼が悪魔対策を先導してくれるだろう。対策と言っても、逃げる手段だけだが……。しかし、彼のような正義感と冷静さのある者がいて助かった。騎士を何名か置いて先導に当たらせるつもりだったが、おかげで楽ができそうだ」

「……かつての私は、幸せだったのでしょうね。そんな方と、お仕事をできたとは」

「今の上司はどうだ?」

「はは、もちろん幸せですよ」

「まぁ、いつか本気でそう言わせてやるよう、私も努力しなければな」

 半ば本気での言葉だったのだが、訂正するのも野暮なので、アーシェラはゆっくりと、びっしりと書き連ねられたメモに視線を落とした。

 取引の履歴を始めとし、父母のことは好物から身長に至るまで網羅されていたが、それらはあまりアーシェラの興味を惹かなかった。こんな父母がいた、と言われても、まるで実感がない。アーシェラの名は比較的最近になってから記載され始め、これもまた色々と言及されているのだがどうにも他人事だ。ただ……私にはアシーナという、穏やかで、どこか天然で、そして美人な姉がいたという記述には、どうしてか目が離せなくなる。

「……アシーナ……姉さん……」

 呟いた、どこか懐かしい響き。それでも──覚醒には至らない。記憶は未だ靄の中。栓無きことを考えないように、アーシェラはメモの束を外套のポケットへと仕舞った。

「さて、諸君。半刻後に出発だ。身支度を整えて、ついでに顔でも洗って少しは明るい顔になってくるように。以上、連絡」

 食事を済ませた騎士たちがセルビアの言葉で自室へと戻っていく。アーシェラもその流れにつられて部屋に戻りはしたものの、考えてみればアーシェラの所有物など、潰れた剣とセルビアから賜った外套、それに例の髪飾りだけだ。そういえば今着ているこの衣服は誰のものなのだろう、どうも新品というわけではないようだが、とふと考えたが、答えはほぼ決まっていた。ここに女性はセルビア以外にいない。胸元が物寂しい不自然なシワを作っているのも確信を裏付けた。

「……姉さんは、どうだったっけかな」

 こちらの問いに、答えはなかった。

 髪飾りを手に取り、部屋に備えられていた姿見の前に立つ。鏡を見るには覚悟がいるが、いつまでも見ないように努めるというのもおかしな話だろう。ゆっくりと深呼吸をして目を開く。

 鏡面に写るのは、人の面を被った悪魔の顔だ。思わず握った拳をゆっくりと開いて、胸元へと持っていく。

 シャツは二番目のボタンまで開けると幾分か不自然さも薄れた。覗くのはやたら白い肌だ。ケヴィンの記述によれば、かつてアーシェラは明るい茶色の髪を持つ、活発そうな少女であったとのことだが、ちらほらと紫がかった赤黒い髪と病的な肌からはとても活発などという単語は連想できそうにない。

 手櫛で簡単に髪を整えて、髪飾りを差す。

「ふっ──やっぱ、カッコ悪いな」

 そう独りごちるも、また同時に不恰好なくらいが丁度良い気がした。悪魔は本来異形の者だ。ささやかな人避けになれば万々歳である。

 念のため改めて部屋を見渡して、他に荷物がないのを確認してから、剣を腰に提げて部屋を出る。当然だが、一人荷支度のなかったアーシェラに先んじるような仲間は居らず、アーシェラは少し外の空気を吸ってくることに決めた。

 表から伸びた小さな道の先、宿屋の裏には、簡単な庭があった。

 園芸が営まれていた痕跡はあるものの、最近はろくに手入れされていないようで、花壇や並んだプランターは雑草に覆われている。それら緑から少し開けた場所に出て、腰の剣に手をかけた。

 ぎちりと嫌な音を発てる剣を抜き、一通りの型を通してみる。こういうことだけはよく覚えている。絶えず反復し覚え込んだ剣術だけは、今も身体に残っている。言葉を失わなかったのと同じだろう。戦う術は残された。だが所詮は誰も守れはしなかった剣だ。この力を無闇に信じるなど、頼るなど、あまりにも愚かに過ぎる。

 故に、また繰り返す。ただ繰り返す。確かに剣は動くのだと自身を納得させるために。

 そうして幾ばくか剣を振っていると、背後でざっと砂利を踏む音がした。

「アーシェラ。アーシェラ・スフェリオ!」

 剣を収めて振り返ると、そこには一人の騎士の姿がある。温厚そうな丸っこい顔つきは相変わらずの警戒の視線を放っている。

「出発だ」

「ああ。ありがとうございます」

「……なあ、お前は──人なのか」

 唐突な質問は、独り言のように静かだった。多少変容しているとはいえ、なまじ見た目は人間であるから、戸惑うのも当然だろうと、そう思った。だからアーシェラはきっぱりと答えた。

「いいえ。私は悪魔です。その時が来たら決して躊躇わないでください。……行きましょう」

 表に戻ると、そこには既に大方の人員が集まっていた。アーシェラと彼女を呼びに来た騎士が到着して、あと一人という数である。

「申し訳ありません。お待たせしました」

「なに良いさ、まだビリじゃない。リセのやつは何をしてるんだか……。ああ、それとアーシェラ。乗馬の経験は?」

「はい、問題なく」

「それは良かった。二人乗りはお互いに窮屈だからな。ケヴィン殿が馬をひとつ手配してくれた。なかなか良馬だぞ」

「なんと……ケヴィン殿には、感謝の限りですね」

「全くだな」

 からからと笑うセルビアの向こうから、ひどくやつれた様子の若い騎士が歩いてきた。

「……申し訳ございません」

「どうしたリセ。ひどい顔だぞ」

「少し、気分が優れず……」

「ふむ、お前は、今回が初めての実地だったな。お前の感性が正しいよ。あれは惨憺たる有り様だった。あれを見た次の朝に、食べ物が喉を通るべくもないさ。……この仕事を続ければ、いつかきっと、見慣れてしまうがな」

「……猊下……」

 ちらりとリセがアーシェラに視線をやった。複数の感情が入り交じった曖昧な瞳に、アーシェラは口を開きかけ、言葉を一度呑み──結局、ゆっくりと吐き出した。

「忘れてしまうのは……きっと良いことではありません。サー。私には出血の痛みがありませんが、そも私には血が通っていないのです」

 ポケットの中には記憶の欠片がある。ざらざらと乾燥していて、冷たい感触が。リセという騎士は曖昧に頷いて自分の頬を二度三度と気付けした。一連を見守っていたセルビアは、どこか不満そうに踵を返す。

 アーシェラには何がセルビアの不興を買ったのか理解できなかった。不躾に心中を吐露したからだろうか? それとはまた違う気がする。居たたまれない雰囲気の中を、ようやく全員が揃った騎士の隊列は馬小屋へと歩いていった。

 冷たい風に見上げると、空には暗雲が立ち込めており、今にも泣き出してしまいそうだった。

 アーシェラに宛がわれた金茶の馬は、なるほど前評判通りの良馬である。豊かかつ引き締まった肉体、すらりと長い足の尻高のフォルム。この馬ならば地平線の彼方までも行けるかと感じさせるような馬だった。

「あー……なんか、よろしくね」

 ひとつそうおざなりに声をかけて、馬具に足を掛ける。ぶるると馬の嘶きを聞くのは、どこか懐かしい感覚だった。

「アーシェラ。お前は私の隣にいろ」

 馬上の純白が促した場所に馬を進める。二列縦隊の前から二番目だ。先行する騎士の馬のぱたりぱたりと揺れる尾を、ぼうっと眺めながら、馬上行はしばらくが過ぎた。人気のある町並みも、爽やかな草原も、アーシェラの興味を強く引くことはなかった。

 セルビアがふと思い立ったように口を開く。

「やはり馬上は暇だな。ケヴィン殿のメモで何か分かったか? お前のことは」

 出立の際の歯車がずれたような感覚は、屈託ない笑顔からはもう感じられなかった。心には安堵と同時に、どうしてだったのかという取り残された疑問の影が差す。

「はい。私がどういう人間だったかは、概ね。今の私からは──とても想像できませんね」

 笑い話のつもりだったのだが、セルビアは神妙そうな顔でしばし黙り込んでしまう。

「……お前は、今のお前をどう思っている?」

「私は悪魔です」

「では悪魔とは何だ?」

「悪魔は……人類の敵、残虐の限りを尽くす破壊の使徒です。必ず滅ぼされるべき存在です」

 思わず語気に力がこもった。燃え跡痛々しい惨憺たる瓦礫の山が脳裏に浮かぶ。あそこにも、アーシェラが、その家族が皆で笑っていた、平和な世界があったのだ、などと、言われて誰が信じられよう。

 そして、今は理性あるアーシェラとて、その枷はいつ外れるかも判らない不確かなものなのだ。昨晩の吸血衝動がその証左だった。

「ほう、ではお前は残虐の限りを尽くすのか?」

「いつかそうなるかもしれません」

 故に毅然とそう答えたが、セルビアはまた、羽の折れた鳥でも眺めるようにアーシェラと視線を交わした。

「今のお前はそうじゃないだろう」

「そういう簡単な問題では、ないのです……私は、悪魔なのです、どうしようもなく」

「そう頭ごなしに否定するな。人間にだって悪魔のような、残酷無比極まるやつはいる。逆だっていても不思議じゃない。我々は悪魔を討つのではない。悪を為すものを討つのだ」

「……ええ。それは、理解できます。それでも、頭では分かっているつもりでも……私はこの私が嫌いです。どうしても悪魔が憎いです。どんなに善い悪魔を見ても、私が抱くのは嫌悪だけでしょう」

 吐き出すようにそう告げ、口を閉じる。一度途切れてしまった会話は、ぱかりぱかりと、馬たちの蹄がまばらに地を打つ音に惑わされ、再開の糸口を見失ってしまったかのように思えた。

 セルビアはふっと緊張を解くようにまた笑う。引き込まれてしまうような魅力のある笑顔だった。艶やかで、可憐で、大人っぽいような子供っぽいような、とても正確には言い表せないその笑顔は、既にどこかで感じたことがあるように思える。

「アーシェラ。お前は私を信じているか?」

「は?」

 そして、まったくの予想外からそんな問いがきたものだから、アーシェラはすっとんきょうな声を上げてしまう。

 信じているか。その答えは……否だった。現状に不満などない。あのままではただ悪魔として堕ちていくだけだったアーシェラが、悪魔を倒す者として第二の生を得られた。復讐の機会を与えられた。それだけでも十分すぎる。そう、十分すぎた。

 アーシェラはセルビアの真意を測りかねている。

 他の騎士の反応が正しいのだ。悪魔に対する感情など、敵意、警戒……良くて、触らぬ神にといったところ。なのにセルビアはあまつさえアーシェラを信じ、側に置くばかりか、積極的に関わりをもってこようとする。

 狂気の沙汰だ。あるいは自殺願望か。だがセルビアの笑顔は、そのどちらでもないようだから──測りかねている。

 答えあぐねるアーシェラにセルビアはまた問いを並べた。

「あるいは、そうだな、私は好きか?」

「ええと……ええ、はい。尊敬しています。悪魔の隣に笑顔で在る強さは……私にはありません」

 本心でもあり、建前でもあった。何故そう在れるのかと言外に問うていた。セルビアはそれに気づいてか気づかないでか、同じようにアーシェラに言葉を返した。

「そうか。私もお前を尊敬している。たった一人で未知の脅威に立ち向かう勇気を私は持たない。耐え難き苦境になお足を奮う胆力も、またそうだ」

 それは違う。私はきっと怒りに取りつかれ、壊れていただけだ。アーシェラはぐっと唇を噛んだ。

「それだけじゃない。他にもいろいろある。お前はいいやつだよ、アーシェラ。なのに当のお前は、お前のことを全くもって肯定していない」

 あぁ、とアーシェラは納得する。

 セルビアは、ただひたすらに優しいひとなのだ。悪魔だ人間だなど、そういう外面などには目を向けず、救える者すべてに手を差し伸べようとするのが彼女、なのだろう。聖人君子とはまさに彼女のことだ。

 いまやアーシェラはセルビアという稀有な女性を本当に尊敬していた。ただ悪魔の敵という仕事と立場を得るだけでなく、こんな素晴らしいひとに仕えられるということが小さな喜びになりつつあった。

 だが、それはそれとして、アーシェラにとって、その言葉は救いではなかった。ぐちゃぐちゃになった過去きずの痛みを思い出すだけだった。私がいいやつなわけがない。

 揺れる空を見上げる。

「……少なくとも、貴女が信じる私と、私が見ている私は違う……違うのです。私はこの腕を、この目を、この髪を……今すぐ炎にくべてしまいたいとさえ」

「まったく、頑固なやつめ」

 セルビアはふいと前方に視線を戻した。その目の先はどこか遠くを見通すようであった。

「だが、少しは分かるよ。腕や目はともかく、髪に関しては、私も同じ事を思っていた時期がある」

 セルビアの銀糸の髪は、光に当たっていない、本来の色と見える部分は、透明とも言えてしまえるような澄み渡った純白だ。まるで神や天使が降りてきたようなその髪に、汚点など存在できないように思えた。アーシェラの髪がどす黒い血を掻き集めて腐らせたような、あくどい色をしているだけに、その感想は半ば神聖視されてすらいた。

 何故その綺麗な髪を厭ったのか。

 疑問と共に、どこかでアーシェラは小さな理解を得たが、それは小さすぎて、舌が言葉を紡いだときには、既に忘れられてしまっていた。

「何故です?」

「他に居なかったからな。白い髪の人間など。父や母こそ綺麗だと言ってくれたが、周りの人間からは気味悪がられてばかりだった。子供時代はそれはもう荒んださ。思い出すと今のお前みたいだ、くく。だが私は今は私の髪が好きだよ」

「……何故です?」

「他に居ないからさ。特別だろう? お前の髪も大好きだ。丁度お前の色のような花があるんだ。花の中でも珍しいんだぞ、アーシェラの色は──特別なのだ。聖銀機関本部の自室で育てているから、お前にもそのうち見せてやろう」

「ありがとう、ございます」

 物事は、結局主観でしかなく。見方が変われば、世界が変わる。もしも楽観的になれたなら、惨劇を超えいま生きていることの素晴らしさについて喜びを歌えるかもしれない。それでも、それでもだ。

 アーシェラは自分を好きになることができない。過去は変えられないから。失われたものは、二度と戻ってこないから。

 セルビアは、アーシェラに悪魔の身など気にするなと、これまで通り、何も変わらず──人として、幸せに生きろと言っているのだろう。

 だが、私は悪魔でなければならないのだ。アーシェラは人間ではない。幸せなど、安寧など要らない。何も知らない顔をして、それを享受するなど許されないし、許さない。なぜなら──。

 アーシェラはこの会話を打ち切ろうと、商人ケヴィンから貰った、数枚のメモをセルビアに差し出した。

「猊下。良ければ、どうぞ。ご覧ください」

「ん、ああ! 例のメモか。うむ、見させてもらうよ」

「私には……姉がいたのです。恐らくは、とても、とても、大切だった」

 葡萄の髪飾りに手を伸ばす。──なぜなら、大切だったあのひとは、この髪飾りを着けていないから。

 それからセルビアはしばらくの間ゆっくりとメモを眺めながら、時たまアーシェラに内容についての話を振ってきた。その多くはやはりひとつ壁を置いているような感覚が拭えなかったが、姉のことだけはどうにも胸が痞える心地がする。やがて返されたメモを外套のポケットにしまい、また馬の足音だけで一行は前へ前へと向かっていく。そうこうしているうちにもうひとつ刻が過ぎ、のっぺりと冗長な丘を登り切ると、遠くに街のあるのが見えた。

 違和感を感じ、手で日を遮って目を細める。そしてアーシェラは息を呑み、ぎちりと歯を軋ませた。

「……煙が」

「どうしたアーシェラ?」

 アーシェラの目には捉えられた。

 煙の立ち上る街。崩れ落ちる建造物。砂塵の向こうの巨大な、異様なシルエット──悪魔の影。考えるより先に馬の腹を打つ。

 前方の騎士二人の間をすり抜けて独断専行するアーシェラに、セルビアは驚きの声をかけつつ馬を速めた。

「アーシェラ!?」

「悪魔ですッ! あの街は悪魔に襲われていますッ」

「な──ッ! 全員急げッ」

 他の騎士全員もアーシェラに続き、絶望に向かって馬を駆る。平穏だった旅紀行は、けたたましい蹄の雨に打ち砕かれた。

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