第三話 〇四:三〇 卵管膨大部海戦 開始


一、 〇四:三〇 卵管膨大部海域開口部 第019831014小隊・トヨダ艦 艦橋ブリッジ


僚艦りょうかん……わずかに80……館長、これは…………」

 二分隊が受け取った通信を分析した航海長が重苦しい様子で、艦長であるトヨダに告げる。トヨダは絶句したまま、ところどころに白髪の混じるようになった顎鬚に手をやる。

「ある程度の被害は覚悟していたが……まさか、『絶対受精ライン』(※1)を割り込むとは……」

 トヨダは奥歯をぐっと噛みしめる。


 精巣の海軍本部や精巣上体尾部ドックに残されている古い文献などから、精子艦が卵子卵丘複合体と相対し受精を試みる際には、例え原理的にはそれが可能だとしても、一対一では現実的には受精が成立しないことが多いということが知られている。

 そこで、軍では"一つの卵子卵丘複合体を攻略するために、必要な最低限の精子艦の数"を、『絶対受精ライン』と呼び、その数を超える精子艦を維持するために、常に僚艦と連絡を取り合い、最大限の注意を払って航行することが求められている。


 精子艦と卵子卵丘複合体の型式や状態などによって異なるが、ヒト生殖細胞型精子巡洋戦艦とヒト生殖細胞型卵子卵丘複合体との受精における絶対受精ラインは、およそ100隻といわれている。つまり言い換えれば、大編成を組んで遠征する精子巡洋戦艦隊の達成すべき最初の目標は、卵管膨大部海域にこの絶対受精ラインである100隻を超える精子艦を無事に届けるということになる。



 ――今回はすでに現段階で最初の目標を達成できていない、のである。



 ついさっきまで談笑が聞こえていたブリッジが沈黙と緊張で包まれ、全隊員がトヨダの次の言葉を待っている。トヨダの日焼けした浅黒い頬に一筋ひとすじ冷や汗が伝い、大きく出っ張った喉仏のどぼとけがごくりと動く。

 トヨダにしても、こんな場面など想定もしていなかったのは言うまでもない。

「艦長……」

 副長でもある航海長が心配そうに声をかけてくる。

「僚艦に通信をつなげてくれ」

 トヨダはそう伝えると、官帽を一旦外し、蒸れた髪の毛を手櫛で後ろに流すと、もう一度被り、つばの位置を整える。そうしている間に、付近に錨泊している80隻の僚艦との通信がつながる。


「厳しい航海を乗り切り、ついに仇敵である卵子卵丘複合体のいる卵管膨大部海域に辿り着いた第14精子戦艦隊の勇士諸君。私は第019831014小隊艦長のY・トヨダ一等海佐である。

 本来ならば第14精子戦艦隊指揮官のステップトー海将が諸君らに次の作戦を伝えるところであるが、この卵管海域深部での海軍本部との通信は不可能であることは諸君らも知っての通りである。

 ゆえに、古き作法に則り、決戦の場である卵管膨大部海域に先着した私が皆の代表として話すこととする」


 トヨダは一呼吸おき、正面スクリーンに映る同型SPMZ艦をじっと見つめる。


「単刀直入に話そう。現在、この海域に残存している僚艦はわずかに80隻である。つまり、一つの卵子卵丘複合体を攻略する『絶対受精ライン』に達していない」


 僚艦たちとつながっているスピーカーからは悲鳴にも似た声が上がる。トヨダにもその気持ちは痛いほどわかる。


「……諸君。諸君らが考えていることは、もちろん私もわかるつもりでいる。おそらく、この巡洋戦艦数では卵子卵丘複合体を倒し、悲願である『受精』を実現するのは難しいかもしれない。

 しかし、精子艦に着任し、その覚悟を決めてから――ミトコンドリアジェネレーターに片道分の燃料を積み込み、精巣上体尾部ドックを発艦したあの時から、われわれの運命は決まっていたのだ。

 ……もう戻ることは叶わない。われわれに活路があるとすれば、それはこの卵管膨大部海域の深部だけだ」


 トヨダの声に返答はない。重苦しい沈黙が続く。


「……絶対受精ラインを割り込んでいる以上、ここからは一隻の艦も無駄にはできない。幸いこの海域では通信システムを使用できる。これからの航海、索敵、戦闘、すべてにおいて僚艦同士の連絡を密に行い、被害を最小限にとどめ、卵子卵丘複合体を発見した際には攻撃を集中し、一点突破を――」

「トヨダ! こちらは第214200002小隊マリー!! 右舷に艦が引っ張られている……走化性レーダーも反応!! 来たぞ! 卵子卵丘複合体だ!!」

 突然、トヨダ艦の右舷に展開する艦からの緊急通信が全艦に響く。

「……来たか」

 トヨダは官帽をもう一度深く被り直す。

「全艦第一種戦闘配備!! 陣形は精子艦特殊第一、『長蛇(train, ※2)』。マリー艦を先頭に各艦、続け!」

 トヨダは今度は通信を艦内に切り替えて指示を出す。

「トヨダ艦面舵、半速前進。目標はマリー艦、後方……四番手につけろ。trainで卵丘付近まで進んだのち、ミトコンドリアジェネレーターを――」

 トヨダは少ない精子艦の攻撃力を最大限に集中させるために、ウッドマウス生殖細胞型精子艦で主に用いられる精子艦を卵子卵丘複合体に対して、垂直に一列に並べる陣形を執る。この陣形であれば、例え数艦が戦域突入の際に脱落したとしても、卵子卵丘複合体の外側バリア構造である卵丘細胞層(cumulus cell)を前列の艦で破壊し、後続の艦がその突破口から、最終標的である卵子(oocyte)にたどり着くことができると考えてのことであった。



「か、艦長!! 左舷後方、数隻が反転!! 離脱していきます!!」


 通信士が叫ぶ。

「な、何を!! 緊急回線を開け!! 何をやっている!!」

 わずかな無駄も許されないこの状況で、後続の艦が離脱するわけがない。トヨダの怒号に反応するように、ノイズ混じりで反転した艦からの通信が入る。



「……と、トヨダ!! ダメだ!! ……アンコントローラブル!! 走化性レーダーが……制御不能…………もう一体……いる……この卵管膨大部に……!!」




(続く)


※1 絶対受精ライン:本文に記載しているように、精子艦は卵子卵丘複合体と最終的には1対1で受精するが、11ことがすでに知られている。実際に必要となる精子艦と卵子卵丘複合体の比率をsperm: oocyte ratio と呼び、ヒト生殖細胞型精子艦ではおよそ100隻とされているが、その数値の信ぴょう性については疑問も多い。

 ヤギ生殖細胞型精子艦の絶対受精ラインは28000隻であることが分かっており、精子艦の型式によって大きく変動する(Palomo MJ, Mogas T, Izquierdo D, Paramio MT, Zygote 2010; 18(4):345-55)。


※2 長蛇陣形(train):精子艦特有の海戦陣形の一つ。元はウッドマウス型生殖細胞型精子艦で主に用いられる陣形で、多くの精子が連なり、一本の蛇(論文中では列車 train と表現されている)のような姿で雌性生殖道を航行する。個々の精子艦では推進力が弱いため、このような陣形をとるといわれているが、その真偽については議論が必要である(Moore, H, Dvorakova K, Jenkins N, Breed W. Nature 2002; 418:174 - 177)。

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精子艦隊、堂々受精す トクロンティヌス @tokurontinus

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