ショート・ショート集「揺籃」
砂巾
姉妹
よく晴れた日のことである。
段々畑で、女が土を耕している。その横で、子供が果物を採っている。男達は大半が漁に出ているが、そろそろ帰ってくる頃合いだろう。
彼らの日常はのどかに、温かく過ぎ去ってゆく。――あの、鬼がやってくる夜を除いては。
この島の東にある小高い丘、その上を鳶が流れるように旋回している。丘というよりは山に近いが、獣達が棲む山とは区別して、島人は明けの丘と呼ぶ。丘の周りには朱色の柵が張り巡らされている。
石段を登ると頂上には、同じように朱い門があり、その奥には閑静な屋敷が佇んでいる。
その渡り廊下を今、袴姿の青年が早足で歩いてゆく。庭には桃の花が咲いていた。それらの花を見上げるとき、彼はいつも主人の姿を思う。
青年は一室の前で足を止め、声を掛けると男の返答が聞こえ、障子がかたりと開いた。侍女と教育係が黙礼する。
片隅にに薄紫の花びらの紋様がほどこされた障子の向こうには、十にもならないであろう少女が手習いをしていた。
少女は青年の顔を見ると破顔し、書き上げたばかりの半紙を掲げた。
「晃、見て! うまく書けたでしょう」
「慕、ですか。素敵な字ですね」
伸びやかではつらつとした書体である。
少女は誉められるとはにかんだように笑って、教育係を振り返った。
「手習いは終わりでいい?」
「よろしいでしょう。今日の字はとても良い出来でした。ですから、次のお箏の稽古は無しにいたしましょう」
教育係の言葉に、当の少女よりも晃と呼ばれた青年のほうが目を見張った。
「いいのかい」
「ええ。そのかわり、次の稽古は厳しくしてくださいと、先生に言っておきます。今日は遊んでいらっしゃいませ」
少女は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「驚いたなあ」
来た道を引き返しながら、晃は呟いた。後ろを侍女がひっそりと付き添う。
「あの師匠が稽古を休みにするとは思いませんでしたよ。いつも私が呼びに行っても、及第点でなければ書き直しさせるのに。確かに、今日の字は良い出来でしたが」
「あのね晃」
おや、と晃は思った。幼い主にしては、硬い声音の呼びかけだった。
「姉様に、お会いできないかしら」
「……二の宮様にですか。しかし昨晩のことでお疲れでしょうから」
昨晩は鬼狩りが行われた。
それでなくても二の宮はここのところ体調が優れず、伏せっておられたのに。元々線の細いお方だ。
しかし、鬼狩りでは二の宮と二の守は主力として働かねばならず、屋敷の誰もその代わりを務めることはできない。
「三の守様」黙って控えていた侍女が口を開いた。
「どうか、桜子様を姉上様とお引き合わせ願えませぬか」
うつむきぎみだった少女の瞳が期待に輝いた。味方を得たり、と丸い頬に書いてある。
「先生がお稽古を無しにされたのは、二の宮様とお会いになる時間を作るためだったのです。近頃ご気分が優れないそうですが、そんなときだからこそ、幼い妹君のお顔を見られたほうが、ご安心なさるのでは。あの方の病は、移る類のものではないと聞きますし。桜子様も、姉上様にお会いできず、淋しがっておいでです」
「晃、だめ?」
そうか。――そうだったのか。
確かに桜子は二の宮に会いたいだろう。
姉妹は仲がいい。桜子はまだ幼いし、姉のことをとても慕っている。二の宮も、下々の家族のように親密とはいかないが、素直で無邪気な桜子のことを可愛がっていた。
……あの先生、鉄面皮の冷血漢なのかと思っていたがそうでもないんだなあ。
「もしかして、あの字は」
「姉上様へのお気持ちでございます。桜子様がお書きになりたいと」
なるほど。だが、しかし。
晃は膝を折って、目線を桜子に合わせた。
「おさびしゅうございましたか」
桜子はこくんと頷いた。
「姉様にお会いしたい。お体は大丈夫かしら。きっと昨日も大変だったのでしょう? 元気づけてさしあげたいの」
「そうでしたか。分かりました。私のほうから二の守殿にお聞きしておきましょう」
「ほんとう?」
「本当ですとも。でも、もしだめでも仕方ないですよ。色々ご予定がおありかもしれませんし、二の守殿も心配症な方ですから。大事を取ってお休みをおすすめされるかもしれません」
「うん」
「そのときには、また後日にでもお会いできるかお伺いしてみます」
「晃、ありがとう」
「いいえ、私こそ気づかず申し訳ないことをしました」
桜子はふるふると首を振り、それからにっこりとした。――本当にこのお子は、その名の通り、花がほころぶように笑う。
晃は背後で控えめに微笑んでいる侍女にも声をかける。
「君も、ありがとう」
彼女は丁寧に頭を下げた。
ショート・ショート集「揺籃」 砂巾 @kin13
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