桂馨訪美

跳世ひつじ

桂馨訪美

 その知らせは人づてに聞いた。妹とは会っていない。

 懐中時計を取り出す。銀色の鈍い輝きと重みは僕の身の上には相応しからぬもので、その居心地の悪さから僕はこの時計を碇と呼んでいた。妹はそれを面白がって、外灘の呪いだと笑った。が、笑いごとではないと僕は思う。今の状況と同じくらいに。懐中時計を隠しへと仕舞う。L氏との約束の時間は過ぎていた。それもこれも、Z夫人の無駄話に長々とつかまってしまい、なかなか茶館を出られなかったからだ。夫人は僕を見かけるたび、一時間か二時間はゆうに隣の椅子に縛り付けて、夫のZ氏への痛罵を僕の耳へと吹き込む。高級な茶を何杯も干すたび、僕は厠に行きたいという思いを募らせるのだが、夫人の手前、そういった中座は許されなかった。彼女は僕の見た目を「かわいい坊や」と称し、厠へ行きたいなどと言えば、「あら、ついていってあげますからね」とでも言い出しそうな風なのだ。緊張から解放されたのは単に夫人の用事の時間が迫っていたからだ。つまり観劇の時間が。いつもの僕ならば、一も二もなくついていったろう。芝居を観るのなら厠へ行くのは後回しにしたってよかった。けれど今日はそうもいかない。右手に下げた重い手土産がそれを思い出させた。

 立派な化粧箱に詰められている、老舗の月餅。二段になった箱の下段には、月餅ではないものがぎっしりと敷き詰められている。それはこの都市のありとあらゆる夫人から少しずつ与えられたもので、僕の稼ぎで、魔薬に変わるはずの金だった。僕はそれを羞じるように月餅で覆い隠して、しかもひとに渡そうというのだから、正気じゃない。

 そう、こんなことは正気じゃなかった。L氏も妹も僕もみな正気じゃない。

妹のことは大切だ。それぞれ離ればなれに故郷を出て、この街で再会したとき、僕は底辺に落ちかけのぼろぼろで、妹はそんな僕を繋ぎ留め飯を食らわせ、掬い上げた。その妹が馬鹿をやった。次に僕が助けてやらなければ、野鶏の妹を救う人間なんていない。彼女は愛らしく美しいが、あまりにもたくさん悪辣なことをやりすぎた。身内でも目を背けたくなるようなこともあった。だが僕は彼女とはなみではない関係であり、つまり肉親なのだ。そのために僕は立派な月餅をもってお役人であるところのL氏となんとか約束を取りつけたというわけだった。それもまた、なみのことではなかったが、もう済んだことだ。なにより僕と懇意のたくさんの女性、先のZ夫人も大いに力を貸してくれた。

 湿った石畳を踏む白い革靴はフランス製の高級品だ。本来こんな道を歩くことは想定していないだろうやわな靴だ。この街の石畳はぐずぐずに蕩けていて、フランス製の靴底など、すぐに食らい尽くされてしまいそうだった。なるべく地面に靴底をつける時間を短くし、かつ約束の場所へと急ぐためにも、僕はせっせと足を動かした。

 いずれ失うものならば、月餅にも金にも阿片にも変わりはない。だが妹はそういうわけにもいかない。めったやたらと顔を合わせることは無くても、血がつながっているということは大変なことだ。妹と僕は同腹だし、小さな頃はとても仲が良かったのだから。


 妓館へとたどり着くと、不思議なほど静かで、どこか奇妙だった。いまの僕のように怪訝な顔をして妓館の敷居を跨ぐおとこもいないだろう。

(……早く来すぎてしまったろうか、それともL氏はわざわざ人払いを?)

 首を傾げながらも門をくぐるが、出迎えの女がひとりもいない。いつも玄関の椅子にどっぷりと身を沈めているはずの女将のすがたさえ見えず、僕はさすがに訝しんだ。手に下げた月餅の包みがやたらと重く感じられる。隠しの懐中時計も、あるいはフランス製の靴も、斜めに乗せた洒落た帽子も同じだ。首ががっくりと垂れそうになり、僕はぼんやりとあたりを見回す。応接間の引き戸が開け放たれていた。

 足を向け、ゆっくりと踏み込む。するとそこには、女中には見えないひとりの少女が長椅子の端に小さく座っていた。

「きみ……」

 僕は一瞬、言葉を失った。彼女はどう見ても僕らと同じ人間ではない。富貴な商館の娘だろう。異人の娘は白い手に煙管をもって、器用に匙で阿片をつめると、しきりに火を点けて吸い込み、かつん、と盆に煙管を返す。幾度も繰り返される手慣れた仕草にぞっとして、僕は同時に自分がずいぶん長い間その娘を不躾に眺めていたことに思い至り、戸惑った。

「きみ、どうしてここにいるんだい。その、こんなところに」

 間違っても、異人の小奇麗な娘が来るところではない。ここは接待や、歓楽や、宴……僕らの国の人間のあらゆる堕落と楽しみの場所だ。彼女がいるに相応しい場所は、僕らが入ることを禁じられた、できたての公園の中だろう。小さな毛の長い犬でも連れて、和やかに喋りながらそぞろ歩いているほうがよっぽど当たり前だろう。

 少女は長い睫毛をゆるりと上げて、僕を見た。

「おかけになって」

 高い声が、僕らの言葉でそう命じた。僕は息を呑んだ。娘の眸は真っ直ぐに見るのが初めての、青色をしていた。貴族連中が愛でる磁器の青よりもっと青い。そして生きている青色だった。帽子をさっと胸に抱くと、僕は恐れながら娘に近づいた。娘が長椅子の隣を叩く。やはり座れと命じている。

「あの……L氏との待ち合わせなのです。姑娘、L氏をご存知ないですか?」

 座ることはできなかった。娘の纏う奇妙な威圧感に怖気づいていたというのもある。それと、不吉な予感が胸にどんよりと渦巻き、はやくここを離れろと警鐘を鳴らしてもいた。だが、フランス製の靴はしきりに跪きたがり、この娘はフランス人かしらと僕は途方に暮れた。

 娘はちょっと面白がるような顔つきで僕を見ていた。つんと澄ましているが、その眸に浮かぶ幼い好奇は年相応だ。かといって肩の力は抜けなかった。

 「奥に居りましたわ」 娘がちょっと手を上げて示す。僕はこれ幸いと踵を返した。「失礼」。そして房を離れた途端、心臓がいやらしいほどはやく打った。かつかつと靴を鳴らして歩く。奥、というのはこの妓館でいちばんの売れっ娘の房だろう。なるほどL氏ならば彼女と寝ていたって不思議ではない。そしてそこで待っているために、この妓館のほかの女たちを引っ込めたのだろうか。

(……そんなことがあるかい)

 だが、行くしかない。戻れば娘がいる。あそこには戻れない。

 僕は最奥の房の戸の前でちょっとためらった。だが約束は約束だ。僕の妹の首がかかっている。この月餅をもってしてなんとかL氏を懐柔しないと、僕はきっと唯一の肉親を亡くすことになるだろう。それはどんなに耐え難いことか……想像もしたくない。僕は妹を愛している。

 戸にかけた手をひどくのろく動かし、――僕は素っ頓狂な悲鳴を上げた。 思い切り戸を閉めて、その場に尻餅をつく。

 這うようにして房から遠ざかる。その道々、ぶるぶると瘧のように震える手で、あらゆる房の扉をあけ放った。二度目の戸ですでに嘔吐した。Z夫人と飲んだ茶が、薄く嫌なにおいになって広がる。この都市に満ち満ちる汚水のいち構成物……それはL氏や妓女の死体、僕の吐瀉物、どれも同じだ。と思ったが、とにかくおそろしくて変な思想に取り憑かれたのだと思う。僕には少しばかり頽廃的すぎた。おそろしかったのだ。

 廊下でがたがたと震えていると、不意にきゃん、と高い声がして僕は飛び上がった。

 犬がいた。小さな犬だ。耳が大きく、毛が飛び出ている。胡蝶犬だった。高い犬だ。そして僕は必然的にさっきの娘の優雅な仕草と阿片の煙を思い出した。阿片を呑まねば現実に帰れない。毒は僕の脳髄にまで回ったらしい。こんな悪夢に気をちがって死んでいく友人も、恋人も、数え切れぬほど見てきた。

(とうとう僕にもやきが回ったか)

 泣きたくなった。こんなところで死ぬのだ。後生大事に月餅は抱えたままだ。僕が死ねば阿片代に代わることはおろか、妹を救うこともなく、どこかの誰かがひっそりと持ち去るであろう高級な月餅……嗚呼、せめて誰か、この旨い月餅を味わってくれ……いったい誰が賄賂を月餅に隠して渡そうなどと、はじめに考え着いたのだろう。こんなことはあまりにも滑稽で、あまりにも憐れだった。僕は自分の身の上を呪って、しくしくと泣いた。

 犬は僕にまとわりついて離れそうにない。もう一度きゃん、と鳴く。そして僕のスーツの裾を噛んだ。

「やめろよ……やめろよ、犬っころ!」

 フランス製。フランス製のスーツ……僕の躰はすらりとしているから見栄えがいいわ、だから草臥れた顔はおやめなさいな、とJ夫人は笑っていた。僕の髪を撫でつけて、赤く染めた爪の先で僕のうなじをそっと掻いた。 犬は離れない、僕に……応接間に戻るように言っている。そちらへ引き摺ろうとする。といっても犬は小さいから、到底僕を引き摺ることなどできずに、ただちゃかちゃかと床板を爪で滑るばかりだ。

 正気じゃないとあれほど愚痴めかせて思ったばかりだというのに。僕はなんてばかなことをしているのだろう。これでは妹に負けず劣らずの愚か者だった。いまなにが起きているのかさっぱりわからないまま、めそめそと泣いている。のろのろと躰を起こす。そう、スーツなど。どうせすでにべったりと吐瀉物で汚れている。白いスーツが台無しだった……。

 重い足取りながら僕がようやく動き出すと、犬は足元に鬱陶しくついてくる。早くしろと急かす。僕はやはり、例の応接間の前でもたついた。しかしようやく室のなかに入ると、犬は鼻を鳴らして、くるりと身を返す。そして骸が敷き詰められた房のひとつへとすがたを消した。あの犬はどうするのだろう。僕らが犬を食うように、犬も僕らを食うということか。なに、そんなこといまこの瞬間には不思議のうちにも数えられないことだ。異人の犬であろうと僕らの犬であろうと、犬はいつでも死体を食うものだろう。ときには生きた子どもを食うことだってあったろう。

「おかえりなさいませ」

 異人の娘は少しも姿勢を変えないまま。流れるような仕草で阿片を吸引する。どうしてそんなに背筋を伸ばしたまま座っていられるのだろうと思った。

「あら、矯正下着をご存知ないの?」

 と娘が笑った。僕は崩れるように椅子のひとつに座った。

「いったい何が起きているのか……僕にはさっぱりわかりかねます。レディはご存知ですか」

「あら、あら、あら……」

 僕のような男にレディと呼ばれたのが愉快だったのか、小さな貴婦人は口元に手をやってころころと笑う。その等閑な風景に頭がのぼせそうだった。

「あなたもおやりになったらいかが。ちょっとおかしいふうに見えますもの。夢に遊んでらっしゃるようですわよ」

 小さな手が煙管を差し出す。僕の手はおかしいほど震えている。阿片を詰めることができない。娘はまた笑い、あとは吸うだけにしてから改めて僕に手渡す。深々と息をすると、頭が明晰になる。晴れ渡る。そうさっき ……L氏は死んでいた。売れっ娘の妓女も死んでいた。どの房の女も死んでいた。身支度の途中のものもあった。椀がひっくり返っていた。麺も雲呑もふやけていた。躰からしみ出した排泄物や臓物とまじりあっていた。この街の縮図のようなおそろしい穢れが溢れていた。僕は死に切った死体しか見たことがなかった。僕はおそれたのだ。

 娘に煙管を返す。

「……あれは、あれらは、レディ」

「いったいどういった事情がおありなんです。僕はL氏と待ち合わせていただけなのに……どうしてあんな」

「あんなひどいことになったんです」

 僕がなんとか息を吐くと、娘はちょっと黙って微笑んだ。

その妖しい微笑みからして、この娘に覚えていた違和感にかえって納得がいく。きっと人間でないのだ。異人の見た目をした、僕の毒の産物なのだ。阿片をくれる美しく小さな娘と悪夢のような殺人の痕と、そして胡蝶犬の甲高い鳴き声、どれも現実離れしてばかばかしいほど。この妓館を一歩出たらば、なにもかもが正常になるか、それとも僕の意識が途切れてもう二度と目を覚まさぬ廃人になってしまうかだ。とするとこの月餅にも何の価値もなかった。下段の金もまったく同じだ。ほんの少し手許に残しておけば、冥府でなんとかやっていけることだろう。どうせ妹も死ぬんだから、ふたり分とっておいたっていい。どうしたってこの娘は、僕のお金を欲しがるようには見えなかった。

 卓へと置くと、いかにも重々しい音がした。月餅と金とが僕の命よりも重いことは確かだ。

「それはなんですの」

 娘の問いかけには答えず、僕は化粧箱を大仰に包んでいた紙や紐を解いた。すると表れる、上品な月餅のきちんとした並び……ひとつ手に取って、僕は娘に差し出した。

「召し上がってください。ほんの手土産だったのですが、渡す先のL氏は死んでしまったようです。僕らでちょっと月餅でも齧りましょう。ああ、召し上がったことはおありですか? ここの月餅はたいそううまいと僕らのあいだでも有名な店なんですよ」

 娘は珍しそうに月餅を取り上げ、齧る。白い歯は真珠粒のようだった。

「まあ、甘いのね。不思議な香りがするのね。おいしいわ」

 にっこりと笑うそのくちびるの端に、餡がついていた。僕はいつもの癖でそれを指先に取ると、舐めた。娘はびっくりしたように目を丸くして、ほんのりと頬を染める。初心なその仕草に、僕はハッとして口を開いた。

「やあ、すみません。レディに失礼を……僕は……」「いいんです。わたくしがその……こういったことに不慣れなだけですもの。お恥ずかしいわ」

大人ぶったその口調に、気持ちが解れる。僕は自分の月餅を頬張った。

「うまいなあ、やっぱり。これを食べられなかったL氏は、とんだ不幸ものだ……」

 その手は変わらず震えていた。娘が茶を注ぎ、僕に差し出す。「お飲みになってください。それで、ちょっとなにかお話をしてくださらない?」。僕は頷き、受け取る。

「あなたの身の上話がいいわ。おもしろそうですもの」

「はあ……」

 僕はぼんやりと、特にこれといって話すこともない自分の、三十年にも満たない人生を思い返した。結局は、妹のことくらいしか話すことがないのだ。

「僕には妹がいるんです。ここらで野鶏をやっているんですがね。昔からかわいい妹で、僕はいつでも自慢でした。故郷でもそれは器量よしだなんだと評判の娘になって……やがていつの間にか、街に出るのと言って僕のもとを離れてしまった。僕と妹は離ればなれで、両親もそのあと死んでしまって……ここ数年のたくさんの災いで、家も潰れかけでしたし、頼れる親戚もいなかったんですよ。あの、太平天国だとかで、大方死んでしまったので。僕はそれを逃れるためになんとかここにやってきたというわけです。仕事もなくぼろぼろに落ちぶれた僕を助けてくれたのが他でもない……」

「妹さんだったのですわね」

「ええ、そうです。あれはとてもいい娘になっていて、僕はどきりとしましたね。肉親と再会できることほど嬉しいことはありませんよ。僕は妹を抱き締めました。そしてなんとかこの街でやっていけるようになると、妹の住まいを出ました。今ではあちこちを渡っていますが……まあ、それはいいんです。最近、人づてに妹がまずいことになっていると聞いて、それを解決できるのは、つまり……L氏だったんです。彼となんとか約束をとりつけて、今日は妹を救ってくれとお願いする予定だったのですが、それももうフイになってしまいましたからね。しかしこうして小さなレディと同席できるなんて僥倖でした。僕ももう死ぬことですし、最後に少し良い目をみたって閻魔も咎められませんよ。冥府では妹と暮らせたらそれでいいんです。冥宅を建てられなくたって、どうせお互い路上で石畳にぐずぐず溶けてく身の上でしたから。楽しいことが好きで、それで野垂れ死ぬならもう、思い残すこともないってものです。道連れがいるのはいいですね。それが妹となれば、なおさら……」

 何か苦々しいものが込み上げて、僕は言葉を切った。こういった白々しい楽天はあまりにも僕に似つかわしくなかった。僕はいつも「どうしてそんなにしょぼくれているの」とか「どうしてそんなに草臥れているの」とか、「ふてているの」とか、そういったことばかり言われてきたのだから。疲れていた。そう、とても。

 娘は何やら難しそうな顔をして、それから茶器を卓に置くと、再び煙管を手に取った。

「あなたと妹さんは、関係していたんですの?」

「そりゃ……身内ですから。同腹のきょうだいですから」

 そう、と娘は嬉しそうにした。僕は懐中時計を取り出す。Z夫人の観劇は、まだ続いているだろうか。毒が回って死ぬのなら、なに、こんなところで死ななくてもいいだろう。このスーツを着替えて、京劇でも観に行こう。僕はそう思い立つと、月餅の箱の上段を外す。下段に詰まった金を風呂敷に包むと、もとのように手に下げた。そして、月餅を娘のほうへと押しやる。

「お気に召したようでしたら、こちらも差し上げます。僕はこれから芝居でも観に行こうかと思います。失礼いたしますね、今日はお話できて光栄でした。縁があればまたお会いすることもあるでしょう。僕でなくても、妹を見かけたら、声をかけてやってください」

「残念ですわ、わたくし、あなたのことが気に入りましたのに」

「いえ……僕はジゴロのようなものです。きっとレディには相応しくありませんよ」

 ちらと目を上げると、娘の青い両目が、ぎょろりと左右違う方向へと蠢いた。

(なるほど)

 僕はぼんやりとしたまま妓館を出て、腐れた石畳を踏んだ。銅鑼の音が恋しい。

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桂馨訪美 跳世ひつじ @fried_sheepgoat

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