猫の舌
紅墻麗奈
第1話
夕暮れ前の教室。傾きかけた橙の光が窓からさしこみ、さらさらとこぼれる彼女の 長い髪が陽に透けていた。
わたしのあしもと、椅子の前に跪いて彼女は、わたしのほつれたスカートの裾を丁寧に縫っている。
一週間ほど前に利き腕を怪我してしまい、縫い物のひとつもできない、そんなわたしの世話を焼くのが楽しいようだが、彼女は困っている人の役に立つことで快感を覚えるような殊勝な質ではなく、単にわたしがされるが儘に世話にならなければならないこの状況が、うれしくてたまらないだけなのだろう。
スカートを縫い終えて彼女は背後に回りわたしの髪に触れた。髪にさわるのが好きなのだと彼女はいつも言う。長い指がするするとわたしの髪を弄ぶ、その感覚はわたしも嫌いではなかった。
それからしばらくぼんやりと窓の外の沈んでゆく夕日を眺めていたが、彼女の髪とわたしの髪とがひとつ束にされて編み込まれていることに気づき、問いかけた。
「なにしてるの」
「あなたの髪を結っているの」
平然とそう答える彼女の指は、また一束わたしの髪を取り、自分の髪と合わせて、細かく丁寧に丁寧に複雑な形に編み込んでゆく。
器用だこと、そう思いながらわたしはもう一度尋ねた。
「なにをしているの」
今度は答えず、結い合わせた髪を彼女はどこからか取り出した細い紐できつく括った。自由になる片方の手だけではとてもほどけないほど固く結んで、彼女が笑う。
「あなたはいつも逃げるから」
「だから?」
「あなたひとりではほどけないように結んだの」
「それで?」
「あなた、私に頼まないと、自由になれないわ」
「……けが人に、卑怯なことするのね」
「だって、いつもあなたの方が卑怯だもの」
うれしそうに、勝ち誇った顔をしながらわたしを見下ろす彼女は何ともいとおしい。
「わたしをそんなに、思い通りにしたかったの」
机の上に出しっぱなしの裁縫箱の中から、大きな裁ち鋏を探し出して掴む。そんなわたしを見て焦りの滲む声をあげ彼女はあとずさった。
「なに、」
一心同体と言わんばかりに結われた髪が引っ張られる。
刃物を持つわたしがそんなにこわいのかしら、そう思うと可笑しくなって、ふふと声が洩れる。逃げようとしても、彼女自身が編み込んだ髪の所為で彼女はわたしから離れられない。頼まねば自由になれないのは誰なのだか。
頬がふれるほどに彼女に近づくと、利き手ではない左手に鋏を持ち、きつく丁寧に編み込まれた髪を真ん中からざくりと切り落とした。
「きゃあ……!」
馬鹿な子。
怯えが混じる彼女の声を聞いてわたしは満足し、煩い悲鳴をあげた彼女のやわらかな唇をふさぐ。
「んっ、や……」
くぐもった声を漏らす唇を舌でこじ開け割り入って存分に蹂躙してから解放してやると、涙をうかべ彼女はわたしを見つめていた。
「まるでわたしがいじめたみたい。逆でしょ」
笑いながら見下ろすと、あ、と彼女がちいさく声をあげた。
「血が……」
彼女の指がわたしの頬にふれて、わたしも気がついた。頬が切れているのか。道理で痛いと思った。
「舐めて」
そう言うと彼女が観念したように目を伏せる。
頬を擽る猫の舌が這うようなくすぐったさに、わたしは笑った。
猫の舌 紅墻麗奈 @reinasakura
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