あの夜わたしはオーロラを見た
大黒 歴史
あの夜わたしはオーロラを見た
電車の中でいつもの通りすし詰めにされている。
この路線では痴漢が多いと聞くのだが、あれは嘘だと私は思っている。こんな状態で本当の痴漢を判別するのは至難の業だ。
メイクはとれても体は減るもんじゃない。多少はボディタッチの犠牲になろうと、顔面だけでも死守できれば上出来だ。
もう今の会社に勤め始めて、大学に通った年数と同じになる。高校や中学よりも、こちらの方がもう長い。しかしこれまでのどの4年間よりも、一瞬で過ぎ去ってしまったように感じる。
何か嫌なことがあるわけではない。話題のブラック企業ではないし、居心地だって悪くない。休みもちゃんと取れて、会おうと思えば友達にも会える。最近音沙汰がないが、一応彼氏もいる。
何が悪いわけでもなく、不満もない。けれど時間の流れにただ流されて、自分のコントローラーを誰かに奪われてしまったような感覚が、ふとした時によぎるようになったのは、社会人になってからのことだ。
朝は6時半に起きて7時半に家を出る。
7時46分発の電車に乗るために、行列のできる4号車に並ぶ。
私はいかにも体育会上がりの若い男の後ろに位置を取るのだが、彼はいつも眉間に皺をよせ、闘争心をむき出しにしている。
しばらくすると、顔も頭もくたびれた様子の中年男性が私の後ろに陣取る。その目が開いているのを私は見たことがない。
目の前に止まる列車の、ぷしゅーっという音がゴングの代わり。そこから約30分間の戦いが始まる。
がっちり体系きっちりスーツの若い男を背にしつつ、態勢を整える。
少々荒めの呼吸と季節を問わずジメッとした感覚を受けながら、前方でコクリコクリと上下する中年の頭の匂いと格闘を続ける。
ポジションがとれるといつも、右前方に可愛らしく小柄な女性の後ろ姿がある。
少し長めのきれいな黒髪と、いつも私の好みに合わせてくるファッションに癒される。
私がファッション好きで目に入るということもあるかもしれないけれど、こんなに可愛らしい女性がいるのに目も向けられていないのは、何かが間違っている。車内がすし詰め状態であるからだけでなく、そんな状態でいながら全員がスマホに夢中になっているのだ。イヤホンをつける人に限っては、この空間の音さえも遮断してしまう。
この異常な空間からの現実逃避として、彼らはそうした異世界に行くことを選び、私は彼女にそれを求めていた。
今日はあまりいい位置をとれなかったが、彼女の足元を視界にとらえることはできた。ダークブラウンとえんじ色の間のような色合いが、灰色の世界の中で一つだけ際立っていた。
最寄り駅についてからはベルトコンベアーに並べられているかのように、流れの中を改札口までテンポよく進む。
脇にある窓口では、ぼそぼそと聞こえづらい声で話す若い駅員と、よれよれになったネルシャツを着た高齢の男性がやりあっていた。そこから聞こえるやたらと大きな声に反応すらせず、その横をペースも乱さずに通り抜けていく私達は、改札とどちらが機械であるのか見分けがつかない。
改札を出てすぐにベンチの多い広場が目に入る。天気のいい日はこの辺りで生活をしている男性がひなたぼっこをしていることが多い。
白髪交じりで伸び放題になった髪の毛と髭。私たちのような機械的な生活からは解放されているはずの彼も、浅黒い肌に刻まれる表情は同じように険しい。どちらも良いことばかりなんてことはないのだと、天気のいい日は教えられている。
帰りの時間が遅くなると、彼はこのベンチに戻ってきているのだが、その様子から醸し出される一日の疲れは、やはり改札を抜けていく私達と変わらないようだ。
駅前のコンビニに寄る。忙しいときはお昼もここで調達する。
いつものように陳列棚の前まで伸びた列に並んだあと、ふくよかな体で金髪の、エクステ女王のレジへ向かう。
何が気に食わないのか知らないが、いつでも機嫌が悪い。割と長く勤めているはずなのだが、いつまでたってももたもたとしたレジ打ちは変わらない。
うなだれた姿勢でゆっくりと商品が詰められていくうち、隣のレジでは私が並んでから3人目が支払いをしていた。
職場につくと、朝なのに疲れきった顔でうつむく守衛さんの脇を通り、部署のフロアに入る。朝のどんよりとした空気に迎えられ、この時間はほとんどだれも喋らない。始業の時間まで作業の音だけが聞こえている。
自席のPCの電源を入れ、始業の準備と今日のスケジュールを調整していると朝ミーティングの時間。
その後はここでの作業や打ち合わせ、会議になるのだが、問い合わせが多い部署ということもあり、自分の業務だけを滞りなく進められることはまずない。電話やメール、来客対応をしているだけでいつの間にかお昼になっているということもざらだ。
周りにお店はあるのだけど、だいたいどこも混んでいて待たされる。コンビニで買ってきたサンドイッチで済ませてしまうことが多いのはそのためだ。
午後からも午前中と大体同じで、一つの業務に集中できるのは結局終業時間が近くなってから。
たいして急ぎではない仕事の場合は明日に回して帰るので、そういう日が続いていくと、毎日同じような仕事のことばかりが頭の中にある。
帰りも帰りですし詰めの餌食。
30分間のラストマッチの末、無事に駅へ帰還できると体が軽くなったようで、そこから自宅までの道のりは駆け出したくなるほど開放的になるのだが、家のドアを閉めてソファーに腰掛けると、どっとした疲れに襲われる。
テレビをつけると何もする気が起きなくなるので、夕食も簡単に買ってきたもので済ませてしまう。
帰宅後はどんなに時間が多くあっても、何ということもできずにいつの間にか時間が過ぎてしまい、カラスの水浴びのごときシャワーの後、ベッドに横たわって力尽きる。
小さいころから規則正しい生活をすることが健康だと言われてきたけれど、規則正しすぎる生活は不健康だと思う。
なんだかよく分からないうちに終わる毎日は、間違いなく生きている実感を奪っていく。
今日もいつもと同じように、一日問い合わせ対応に追われていた。
今日終えるはずの事務作業はほとんど手付かずのまま、PC上に残されている。それに対面すると、まだ何も仕事をしていないような気分になり、逆に疲れが増してくる。そんな表情をしている人が、私の周りにも何人か見受けられた。
ぱっ
通常あるはずのものが急になくなると、その違和感だけを先立って感じつつも、それがあたかも通常であるかのようにその瞬間をやり過ごしそうになる。けれどもそれは一瞬の感覚で、すぐに現実を理解しようと頭がフル回転するのだが、何が起きたのだか分からずにただ茫然としてしまう。
「わー!」
「なんだなんだ!」
「停電?」
目の前が真っ暗になってから少しの間があって、フロアの端々から声が飛び交った。
他の人も同じようにこの空間を共有できていることが分かり、正常に戻りつつあった私達の脳がそれぞれ共通した答えにたどり着くことができた。
「太陽フレアか!」
「それは通信障害でしょ?電気は関係ないんじゃ…」
「いや磁場が乱れるから、場合によっては電流にも影響があるんですよ!」
ややあって非常灯がついた。
周りが見渡せるようになってようやく我に返る。
「ああーーー!」
「どうしたんですか?」
「PCも全部消えてる。」
「そういえばそうですよね。データとか大丈夫かな。」
「そのデータがダメなんだよ!!」
普段は冷静で、いつも黙々と仕事を進める人だから、集中しているときは声をかけにくいところがあった。
彼はとある解析用のデータを作成していたらしかったが、直前までほとんど保存をしていなかったようだ。
「もー、勘弁してくれよー。」
めったに聞かれない彼の甲高い悲鳴は、なぜだかフロアを和ませた。
笑いながら肩をたたく上司と、なぐさめに飴玉を手渡している後輩。
不思議なことにそういう彼自身の表情も、どこかその状況を楽しんでいるようにも見えた。
「これ、いつ復旧するんですかね。」
「スマホで見てますけど、ネットも全然つながらないですね。」
それぞれが順を追って、窓の方に顔を向けた。唯一フロア全体を見渡すことができる課長の席が、そこにある。
「まあこれじゃ、どうしようもないだろ。」
あからさまではないにしても、ちょっとした歓声のようなものがあがる。
「できることはやっていってください。後は個々人に任せます。」
電気が消えた瞬間の感想を、席が近い同士で口々に語りあっている。
どう考えても最悪な状態なのに、そこにはいつもよりも穏やかな空気が流れていた。
切りのいい人や、何も進められない人は帰り支度をいそいそと始める。中には書類でできる仕事を進めようとする人もいる。
どうしてもいい個人の自由。そういうものが、目に見えて感じられたのは初めてかもしれない。
私はPCの作業が終わったら帰る予定だったので、そのまま帰りの支度をした。用事がないのに上司よりも早く職場を出るのは久しぶりだった。
会社の入り口では珍しく守衛さんが守衛室から出て、社員と話をしている。
「一瞬カメラも全部消えちゃいまして。」
「それでテロだと思ったんですか?」
「一瞬で目が覚めましたよ!」
「いつもずっと覚ましといて!」
守衛さんはあんな顔で笑うんだなと思った。
その脇を通り抜けていく私に向かって、彼はちょこんと会釈をした。急なことで驚いたが、なんとかこちらも小刻みに会釈を返した。
「お気をつけて!」
涼しくなり始めた季節の風が、より一層冷たく感じた。
夜というものはこんなにも暗いものだったのだと、照らしていたものが無くなって初めて気づく。かすかな灯りだけでは心もとないので、スマートフォンのライトを最大にして最寄り駅までゆっくりと歩いた。
駅の周りは明るかった。暗い海原の真ん中に、明かりの灯る島がぽつんとあるようだった。
「現在全線運転見合わせ中です!復旧の見通しはまだ立っていません。お急ぎの方は…」
拡声器を使いつつも、さらに大きな声を張り上げている駅員さんは、この気温なのに汗だくになっている。明かりを灯す電気は非常用で何とかなるようだが、列車を動かすにはまだ時間がかかるようだった。
改札口の前に丸いスペースを作るように、駅前広場に群衆が集まっている。
皆困惑した顔でこの後の帰り道を思索しているのだが、どこか楽しそうでもあるのが不思議だ。
朝の改札口のように、大きな声で騒ぎ出す人もいない。そう思うと、拡声器を持っている駅員が、あの時の駅員だったことに今気づいた。
群衆の間を縫うようにして移動しながら、色んな人に話しかけている人がいる。先ほどから駅員が伝えている内容や、付近の交通機関の状態などを簡潔に伝えては、さらに後ろの方へその声が動いていく。
それが広場のひらけた場所まできたとき、頭上から大きな声が降ってきた。
「電車はまだ動きません!バスもタクシーも信号がダメ!歩いて帰りましょう!!」
ベンチの上に立ちあがり、両手をメガホンのようにして叫んでいたのは、いつもその場所で寝そべっている男性だった。浅黒い肌や白い髪と髭はいつもの通りだが、その表情には使命感のようなものが表れていた。
事実、後からやってきた人たちは、彼の言葉を信じて駅とは反対の方向へ歩き出し始めていた。
「おじさん、ありがとね。」
若そうな女性の声を後ろから受けて、男性は驚くように後ろを向いた。
「お気をつけて!」
きっと彼はその時、良い顔をしていたのだと思う。
“仕方ない。歩くか。”
そして私も彼の案に乗ることにした。
コンビニで飲み物でも調達しようと立ち寄ったが、目の前まで言って引き返した。
店の外まで長蛇の列。店内にはほのかな明かりが灯っているが、レジは使えないのだろう。店員さんが電卓とメモらしきものに必死の形相で向き合っているのが見えた。
“あ。”
入り口側のレジを担当していたのは、いつものギャル店員だった。
“この時間も出勤してるんだ。”
帰りに寄ることがほとんどないので、夕勤もあるとは知らなかった。
それにしても彼女の電卓さばきは見事だ。袋詰めも今朝よりも格段に速いように見える。
お釣りはいいよ、というジェスチャーをしながら、レジ袋を手に取るお客さん。
列が列なので、店の入り口は開けっ放しになっていて、外まで声が聞こえてきた。
「ありがとうございます!またお越しくださいませー!」
マニュアルに沿うという方法でなければ、彼女もカリスマ店員になることができる。
“できるならなぜやらなかったのだ。”という気持ちを抑えつつ、前に進むことにした。出てきたお客さんも清々しい顔をしていたから。
月こそ出ていないが、天気がいいのがよくわかる。街灯がこれだけ落ち着くと、空はこんなにも明るいものなのだ。
この街でこれだけ多くの星が見られるとは思わなかった。
名前は知らないけれども、そこには星座があるのだろう。順序だって並ぶ星座に、線路沿いを歩き始めた私たちの列に似たようなものを感じた。
スマートフォンの明かりは、周りの人達と連れ立って同じ方向を照らすことで大きくなり、心細さが少し薄れた。
その光が私達を正しい場所へ導いてくれているような気がした。
「あ!」
親しみのあるえんじ色の靴を照らして、思わず声を上げてしまった。
目の前の小さな体が驚くようにして振り返ると、怯えたような表情で見つめ返された。
「ど、どうかしましたか?」
声が出てしまった手前、何か返さなければいけないのだが、「いつも見てます」というわけにもいかず、しどろもどろになってしまう。
「あ、4号車の。」
「え?」
私が何か言う前に、彼女が私に反応した。
「え、どうして。」
なぜか今度は彼女が顔を赤くする番だった。互いに黙ってしまうとなんだか気まずい雰囲気になる。
どうやら彼女も私を認識してくれているようなので、観念して本当のことを話すことにした。
「あ、急にごめんなさい。いつも電車でおしゃれな人がいるなあ、って思っていて。別に盗み見てたわけじゃなかったんですけど。つい親しみのあるものを見つけて反応してしまって。」
顔を赤らめたまま、ハッとという顔をして、ようやく彼女も口を開いた。
「わ、わたしもです。そのバッグに替えたの、今月からですよね?いいなあって思ってて!」
「え?うそ。あ、ありがとうございます。でもそんなことって…。」
二人で足を止めて、苦笑いをしながら見つめ合っている。
「あ、でも私はいつも後ろ姿ばかり見ていたんですけど。」
そう。だから顔まで私の想像通りで、こんなに可愛らしいなんて何かの夢のようだった。
小動物のように儚く、守ってあげたいような気持ちにさせられ、すっかり目が離せなくなっていた。
「あ、だからあんまり直接は見ると変かなと思って。あの、窓を通して。」
「え!?じゃあなんかお互いコソコソ見合ってたってことですね。」
感じたことのないおかしな高揚感に、今度は二人でお腹を抱えて笑った。
「こんなに可愛い子がいるのに、どうして誰も見向きもしないんだろうっていつも思ってたんですよ。」
「いやいや。私こそ、なんでこんなにおしゃれな人に声もかけないんだろうって。」
「お互い、かけてないんですけどね。」
「ふふ。そうですね。なんかおかしい。」
彼女の笑い方は控えめだが、ツボにはまると止まらなくなるらしい。
ずっと苦しそうに、口もとを抑えながら笑っている。
「最近はみんなファッションなんて見なくなってきてるから、どうでもいいのかなって思い始めてたんですけど。バッグの一つでも見てくれてる人がいたって分かると、なんか嬉しいですね。」
「ほんとそう。人間よりもスマホ、ですもんね。」
そうして私達はファッション談義をしながら楽しく歩いた。
彼女が私の乗る駅の一つ前の駅から乗っていることや、私と一緒で引っ込み思案なところがあること、なんと社会人4年目で同級生だった!ことなど、二人の共通点があまりにも多いことに盛り上がっていた。
この時間が限りなく続けばいいと思うほど、全てが夢のように幸せな時間だった。
「お!あれ見ろよ!すげえ!」
そんな話に夢中になっている中、周りから大きな声が上がり始めた。
私達もようやくそれに気付き、声を上げた男性の指が差す方へ目線を動かす。
「わあ…。」
「…すごい。」
星だけが瞬く真っ暗闇の空に、いつの間にかとてつもなく大きなカーテンが現れていた。青や緑、紫色の寒色が、その境目を明確にすることなくただ自然に共存し、自らを透かすようにして背景の星空をより輝かせて見せる。
空の半分ほどを覆いつくす大きさに、見上げるとそのまま仰向けに倒されてしまいそうなほどどうしようもなく圧倒される。きれいとか、素晴らしいというのは簡単だが、それだけではない恐れのような感情も、間違いなくそこにはあった。
その圧倒的な美しさを目の前にして、私達は言葉にならない声を上げるのが精一杯だった。
光のカーテンが空に現れてから、線路沿いの列の動きは止まっていた。
列を作るそれぞれが後ろを振り返り、自分達の存在の儚さを思い知らされている。
気が付くとまばらであったはずのその列は、ところどころで固まりを作るようになっていた。私と彼女のように、今日の空間でしかなり得なかった関係が、違う場所でも生まれている。空からの淡い光に照らされるその顔は、どれもとても輝いて見えた。
どよめきでしかなかった声は、時間が経つにつれて少しずつ言葉の形を成すようになってきた。
「あんなのが降りかかってきたら、私達はひとたまりもないですね。」
「あ、そういうこと考える方なんですね。」
自分よりもいっそう弱々しい彼女に、一笑に付される。
「あ、綺麗とか、そういうのじゃないんだなと思って。」
「いやちょっと、笑いすぎじゃないですか?」
同じように周りでも言葉を交わし合いながら、もう一度空を見上げる。
スマートフォンを手にする人も中にはいたが、まだ通信が復旧していないことが分かり静かにポケットにしまうと、またゆっくりと空に目を移した。
カーテンの姿がさっきまでとはずいぶん違って見えた。
SNSでつぶやくようなことを通りすがりの人に語りかける。今日はそんなことが許されている日であるような気がした。
リツイートやいいねより、求めていたはずのものが返ってくる。そしてその応酬が人と人を結びつけている。
その光景はまるで、磁石がくっつきあうように、人と人が結び付けられているようにも見えた。磁場の乱れが通信障害の原因だというけれど、私はむしろ、こっちの通信状態の方がよっぽど好きだった。
私達はしばらくそうしていた後、名残惜しくも振り向き直し、少しずつ歩みを進めていった。
「あ!つながった!」
どこかから聞こえてきた声を皮切りに、周りが一斉にスマートフォンを取り出した。
ガサガサっという音を同時にたてるのに気付いて、私たち二人は目を見合わせて笑った。
ゆっくりと取り出して画面を見ると、電波は確かに通っていた。
「LINE、交換しませんか。」
周りはすっかりスマホに夢中な人と、まだ夜空に見とれている人と、とりとめのない会話が弾んでいる人とに分かれ始めている。
オーロラの姿はさっきよりもだいぶぼんやりとし始め、遠くの方では明かりが復旧しつつあるのが分かった。
6時半に起きて7時半に家を出る。
7時46分発の電車に乗るために、行列のできる4号車に並ぶ。
いかにも体育会上がりの若い男の後ろに位置を取り、後ろには中年男性が陣取る。いつものように若い男は眉間に皺をよせ、中年男性はくたびれた様子だ。
目の前に列車が止まり、ぷしゅーっという音を立ててドアが開く。今にもすべてが吐き出されそうなのに、吐き出されるものは何もなく、ただこちらからなだれ込むのみ。
若い男を背にしながら、態勢を整え、中年男性の頭は目の前にある。
右前方には可愛らしく小柄な女性の後ろ姿。きれいな黒髪と、私好みのファッションが気持ちを癒してくれる。
紺のジャケットにベージュのパンツ。パンプスも少し薄めのベージュで合わせている。
そんな彼女のセンスには目もくれず、手元の電子機器に夢中になっている車内の様子は、嫌になるほどいつもと変わらない。
昨日の出来事が夢だったんじゃないかと思うほどに、今日はいつも通りに進んでいく。
本当は停電なんて起こっていなくて、太陽フレアも何もなかったのかもしれない。
彼女と話したあんなに楽しかった時間も、私の夢の中の出来事に過ぎなかったのかもしれない。
その証拠に彼女はこちらを見向きもしない。
もしあれが全て夢だったのだとしても、あんなに素敵な夢はないだろう。
日常に疲れた私に、神様がプレゼントしてくれたものなのかもしれない。
だとしてもこうして、毎日彼女に癒される日々は変わらない。いつものように流れていく日々の、素敵なところを見つけることができたのもあの夢のおかげだ。
これからも日々は続いていく。それはそれで、きっといいのだ。
最寄り駅につき、開くドアに近い彼女の方からホームへ進む。それを追うようにして、私も人間のベルトコンベアーに流されていく。
周りの空気にも流されるように、ふと何気なくスマートフォンを見ると、LINEの通知がディスプレイに表示されていた。
―おはようございます。今日も頑張りましょう(*^_^*)
彼女からだった。私は目が覚める思いで反射的に返信を打ち込んでいた。前の人に額がぶつかった。
―おはようございます!今日、もしよければ一緒にお昼どうですか??
打ち込むとすぐに既読になり、スタンプがぽんっと送られてくる。
可愛らしい動物が手を挙げて、“はーい”と答えている。
やっぱり、夢じゃなくてよかった。
こんなにほころんだ顔でこの改札を通るのは初めてだった。
正面の広場ではベンチに腰掛ける男性が数人、楽しそうにおしゃべりで盛り上がっていた。
夢じゃないと分かってから、足に筋肉痛が残っていることに気づく。コンビニには寄らず会社へ向かう足取りは、それでもいつもよりはるかに軽く感じた。
あの夜わたしはオーロラを見た 大黒 歴史 @ogurorekishi
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