探偵の大切なパートナー

十一

探偵の仕事

 私が依頼人の家を出ると、ギンモクセイの生垣の前の路地に若い男が立っていた。

 大きな男の人だった。肩幅が広くて肉づきもよく身長が高くてもひょろりとした印象はない。チノパンにポロシャツというラフな装いでも佇まいは厳めしさがあった。彼は私のいる門戸のほうに鋭い視線を投げかけている。

 警戒して足を止める。両脇の生垣に点々と咲いた白い花弁から強い香りが漂ってくる。


「お前か! お前がッ」

 昼過ぎの閑静な住宅街に相応しくない剣呑な声。

 彼は息を荒くして、けれど緩慢な歩調でこっちへと近づいてきた。一メートルくらい距離を置いて正面から私をにらみつける。

「お前がサクラちゃんを連れ去ったのか」

 押し殺した声に恨みがましさが滲んでいた。


 人聞きが悪い。拐かしたのはそっちなのに。

 サクラは、きれいな黒い毛の六歳の女の子だ。つぶらな目はいかにも利発そうだけど、従順な性格がかえって男の嗜虐心をくすぐったのかもしれない。


 事件は公園で発生した。依頼人の女性はベンチに腰掛けて休憩をしていた。芝生の上で楽しそうに駆け回っているサクラに気を配ってはいたけど、ひとりで遊んでいるのに任せていた。それがいけなかった。


 気づけばサクラはいなくなっていた。慌てて周囲を見回した彼女が目にしたのは、公園前の道路に停車したバンの後部座席にサクラを押しこむ男の姿だった。彼女が走り出したときには、男はもう運転席に乗りこんでいた。あっという間に走り去ってしまって、車のナンバーさえ彼女は捉えられなかった。


 私は彼女から依頼を受けて捜査に乗り出した。白昼堂々の犯行だったので目撃証言こそあったけど、犯人に繋がる有力な情報はなかった。手際も良く遺留品さえなかったのは、依頼人の行動を調査して入念に準備していたからだろう。

 身代金を目的としない計画的な拉致。犯人の行方は全くわからなかった。


 いったん事務所へ戻ろうとしたその途上でサクラは見つかった。犯人の隙をついて監禁場所から脱出して自力で家に帰ろうとしていたらしい。幸い暴行を受けた様子はなかった。保護というよりも、帰路に同伴する形でサクラを送り届けた。


 犯人はサクラの逃走を知ってこの家にやって来たのだろう。もしかすると、戻ってきたところを狙って再び攫うつもりだったのかもしれないけど、タイミングの悪いことに私はすでにサクラを引き渡したていた。


 厄介な事態になってしまった。

 探偵の仕事は基本的に地味なものだ。証拠とも呼べないわずかな痕跡を頼りにあちこち歩き回っても結果に結びつくとは限らない。徒労に終わるかもしれない捜査を続ける根気が探偵には必要だった。悪臭の立ちこめた路地を、埃っぽい地面に鼻先をこすりつけんばかりにして這いずり回ったことだってある。

 そんな地味な仕事でも、ときにはこうして面倒事が舞いこんで来るのだ。


「お前が……お前のせいで!」

 男は目を千葉しらせてさらに声を張り上げた。

 良くない兆候だった。なで肩の猫背で姿勢は悪くて、肌も真っ白でとても運動をしているようには見えない。けれど、大柄な彼と私とでは体格が違い過ぎる。取り乱して襲い掛かられたらと想像するだけで恐ろしい。サクラが帰路を急ぐので着いてきてしまったけど、こんなことなら事務所に寄って蛍も連れてくればよかった。


「ぼくのサクラちゃんを返せ!」

 腕を振り上げた男が、距離を一挙に詰め殴りかかって来た。

 喉を低く鳴らして、咄嗟にアスファルトを蹴って飛びかかる。勢いをつけた突撃で肩から男の胸にぶつかったけど、二倍以上ある体重差はどうにもできなかった。組み伏せることはできなくて、体勢をわずかに崩しただけだった。

 足をもつれさせるようにして左に流れた男。けれど、すぐに立ち直りそのままサイドから回りこもうとする。バックを取るつもりか、それとも死角から攻めるつもりか。どちらにしてもその荒い呼吸音では不意などつけるはずもない。


 なにより動作が遅すぎる。

 私が振り向きざまに振るった杖は、見えていたかのような正確さで男の横腹を打った。昔事故で傷めた右足をかばった、ほとんど重心も移動させない腕の動きだけの攻撃だった。

 しかし回転によって加速した杖先には十分な力がこもっていた。男はうめきながら身を折ってその場に蹲った。


 思いの外あっけない。あれほど気迫を迸らせていたのに、いまでは背中を丸めてお腹を押さえたまま立ち上がる気配すらない。

「さてどうしたものでしょうか。警察に突き出すこともできるのですが」

 警察という単語に彼は肩をビクリと震わせた。自分のしでかしたことの重大さを今ごろになって認識したようだ。


 私は依頼人を呼び出して判断を仰いだ。玄関から一人現れた依頼人は事情を聞いて怯えるように自らの肩を抱いていた。けれど、あまりにも萎縮する男が哀れになったのか「もう私たちに関わらないと約束するのなら警察には通報しません」と宣言した。

「はい」壊れたおもちゃみたいに彼は何度もを首縦に振った。「こんなことは二度としません」

 しつこいほど謝罪を繰り返し彼は帰っていった。


「あの様子なら大丈夫だとは思いますが、あの人を近くで見かけるようなことがあれば迷わず警察に通報してください」

 別れ際に私は依頼人に釘を刺す。感謝の念に堪えない様子の彼女に見送られ、宅地の細かな路地をコツコツコツと小気味よい音を鳴らし歩いていく。


 大通りに出ると、グレーのランドセルを背負った女の子とすれ違った。歩道を行きかう人達の中にはちらほらと制服姿もあった。もうそんな時間になっていたのか。事件のあらましを聞いて予想したほど困難な仕事ではなかったけど、最後の最後で思わぬ誤算があった。それでだいぶ時間を取られてしまい、いつの間にか夕暮れ時だ。警戒を怠らぬまま慎重な足取りで家路を急いだ。


 探偵事務所は、郊外の一角に建つマンションの一階に居を構えている。三部屋あるうちの一部屋、リビングに当たる部分が事務所で、残り二つは居住スペース。


 営業を終えた事務所のドアを開き「ただいま」と私が声をかけると、パーティションの奥のキッチンから蛍の返事があった。肉を焼いているのか香ばしいにおいが室内を満たしていた。

 依頼の完了報告をして私はソファーに座って食事ができるのを待つ。犯人の襲撃は蛍には黙っていた。


 蛍はこの探偵事務所で事務をしている。報告書の作成や経理をおもに担当しているけど、依頼の内容によっては彼女自身が捜査にあたることもある。もう長い付き合いだ。私が事故に逢い休業を余儀なくされたとき面倒をみてくれたのも彼女だ。リハビリのサポートをして、私の探偵としての復帰に一助してくれたのは感謝している。けれど、こうして夕飯を作ってくれたりと家族同然のつき合いではあっても、あくまでもビジネスパートナーだ。それ以上の関係ではないはずだ。


「お風呂もらっていこうかな」

 夕食後にくつろいでいると、洗い物を終えた蛍がキッチンから出て来て私の隣に腰かけた。


「どうせなら泊まっていきなよ。部屋空いているんだしさ」

「今日はやめとこっかな。帰ってスーツ着替えたいし。ご飯作ってたらシャツに油飛んじゃって」

「前から、替えのスーツを一着くらいこっちに置いておけばって言ってるのに」

「パジャマはあるからいいかなって。それよりも!」勤務中の雰囲気からは想像できない、子供じみたはしゃいだ声を蛍があげる。「ゆうちゃん、一緒にお風呂入ろうよ」


 思わず鼻を鳴らす。リハビリ中の入浴介助は仕方なかったけど、もう手助けがなくても私は一人で身体くらい洗える。蛍はちょっとこのあたり緩すぎる。いくら長いつきあいだとは言っても二人の関係は探偵とそれを補助する助手だ。その垣根をやすやすと越えてくるのは止めてもらいたい。


「一人で入れるから」

「いいじゃん。気にするような間柄でもないでしょ」

「そっちが気にしなくてもこっちは気になるんだよ」


 蛍は渋る私の手を引いて強引に立たせてそのままバスルームへと連行していく。まったく。蛍はこういう性格だという諦念もあったけど、やはりべたべたとした距離感には抵抗を覚えてしまう。


「それじゃお風呂ありがとね」

 髪をドライヤーで乾かして蛍はすぐに荷物をまとめて帰り支度を始めた。

 バッグを手に玄関で私と挨拶を交わす。けれど靴を履いて出て行こうとしたところで、ふと何かを思い出したように足を止めた。

「また明日ね」

 正面から抱き着き機嫌を取るように肩から回した手で優しく頭をなでられた。正直少しうっとうしい。


 翌日は急ぎの仕事は特になかった。来客もなくて、暇を持て余した蛍が掃除をはじめ「邪魔になるから」と半ば追い出されるようにして私は事務所を出た。

 散歩がてら、秋の心地よい日差しが降り注ぐのんびりとした午前を満喫し、昼になって戻ってきたら蛍がむくれていた。


「なんで怒ってるかわかるよね」

 ソファーに座らされた私を見下ろした蛍の声音は、怒気よりも心配の色が濃い。

「いや……」

 硬い声で答えたきり言葉は続かず、私はそのまま押し黙ってしまった。


 ため息をついて幾分トーンを落とした蛍の説明によると、昨日の依頼人が菓子折りを持って改めてお礼に訪れたという。そこで一連の出来事を知ってしまったらしい。


「探偵を再開するときに、無茶はしないって約束したよね。なのになんでまた危ないことをするの」

「……あれは降りかかった火の粉を払っただけで。危険ってほどでもなかったし」

 弁明は火に油を注ぐ結果にしかならなかった。ますますヒートアップした蛍の長々とした説教がはじまり、お昼ごはんはお預けになった。


「もしも祐輔に何かあったら私……」

 粛々と頭を垂れる私を見つめ最後にぽつりと蛍が呟いた。私の身を本心から案じる彼女は、けれどその先には進もうとしない。端から見れば明らかな気持ちを相変わらずはっきりとは表現しない。心の距離を詰めながらも今一歩を踏み出せない彼女を好ましく思った。いやそうじゃないのか、ただ自分にとってそれが都合がいいだけだ。私と蛍が恋仲になるのはあまり思い浮かべたくない。


 微妙な空気を引きずったまま遅めの昼食を摂ったあとに来客があった。

「先ほど電話をした松岡ですが」

 器用なもので蛍はすぐさま仕事モードに切り替え、笑顔を浮かべて応接テーブルへとお客さんを案内した。

 主婦といった感じの地味な服装の中年女性だった。


「ペットがいなくなったとのことですが」

 お茶を出して蛍が尋ねる。

 松岡の語ったところによると、いなくなったのは元は野良だった猫。飼いだしてからも勝手気ままに外出する半野良のような生活だったけど、食事には毎日帰って来ていた。なのに昨日の晩から戻っていない。こんなことは初めてだという。


 ペット専門の探偵ではなかったけど、昨日のサクラといい近頃ペット捜索ばかりしている。事務所の方針に合致しているし自分向きの仕事なので問題はないのだけど。

 猫かと思う。あの主従関係も弁えないアホな動物は、首輪を嫌がってつけないことも多い。首輪の表に名前、裏面に飼い主の連絡先が書いてあって拾い主から連絡が入るのは期待できそうもない。


「この子なんですが」

 松岡がテーブルに置いたスマートフォンを私は見ようともしない。

「あら、かわいい黒猫ですね。八歳くらいですか」

 スマートフォンを操作しながら説明じみた台詞を蛍が吐く。


 そこでようやく松岡は私の障害について察したようで驚きの表情を浮かべた。

「もしかして、あなた目が」

「はい見えません。しかしご安心ください。仕事には差し支えありませんので」

 彼女はまだ不安がっていたけど「電話でお伝えした通り、猫ちゃんの私物がありましたら」と蛍が如才なく私の言葉を継ぐ。


 松岡はこちらを一瞥してうちに頼むと決めたようだ。一通りの手順を踏み、諸般の手続きを済ませ去っていった。


「じゃあ俺たちも行くか」

「え、今から行くの? もう夕方だよ」

「ペット探しはスピード勝負だからな。いつものように保健所に電話入れるのとチラシのほうはお願い」

「まかせて。マーカス、ゆうちゃんのこと頼んだよ」


 オレは短く一鳴きした。私の傍に寄り添い、そして守るのは蛍ではなくオレなのだ。

 私がドアを開くと、日はもう沈みかけていた。人間が赤と呼ぶ色の夕焼けはオレの目にはくすんだグレーとしてしか映らない。けれど、それでも私と共に眺める夕日は温かく見えた。

 オレはリードを握った私を先導てし、きさい探偵事務所を出発する。

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