3.



 お店を出て大通りを走って行く。おじさんの点けた火があたたかく通りを照らしている。でももうすぐそれも要らなくなっちゃう時間だ。急がなきゃ。大通りの真ん中すぎで右に曲がる。薄暗い路地は大通りから追いやられた闇が漂っている。一瞬、足が止まった。いつもここで、少しだけ躊躇ってしまう。家はこの先。ふっと息を吐いて、もう一度走りだそうとしたとき、路地の隅から手が伸びてきた。

 ――え? と思う間もなく、ぐんっと勢い良く引っ張られる。

「ひゃぅ」

 おかしな声が出た。そのままその場でひっくり返ってしまう。おしりが痛い。

 びっくりして見上げると、知らない男の人がいた。……誰?

 あんまり身なりは綺麗じゃない。おじさんみたいな火を灯すひとじゃない。どっちかっていうと逆かな。夜の人。追いやられた闇のほう。あたしとおんなじ。ぎらぎらした目が、ちょっと怖い。

 昔の知り合いかな、と思ったけど見覚えがやっぱりなくて、あたしは見上げたまま口を開いた。

「だれ?」

「おいおい、随分だなぁ。今夜ずっと見てやってたってぇのに」

「……?」

 じっと顔を見る。よく、わかんない。顔に特徴もあんまりないし。

「おいおい、本気かよ。踊り子さんよ」

「……あ、今日のお客さん?」

 そっか。見てくれてた人なんだ。全然、顔なんて覚えてないんだけど。

 お客さんの顔ってほとんどわかんない。不思議だけど、皆同じに思えてしまう。ひとりだけ覚えてるのがおじさんだ。おじさん、ときどきお店に来てくれてたから。

「そーだよ。いくら?」

「えと」

 あ、やばいな。って、わかった。こういうの、はじめてじゃない。踊り子は夜のお仕事。だからかな、踊り子じゃない夜のお仕事まで、あたしに求めてくる人がときどきいる。

 にげなきゃ。

 昔はそういうの、仕方ないかなって思ってた。でも、今は嫌。だって踊り子は皆に見られるお仕事だから。汚くなった体、見られたくなんてないから。

 じり、と後ろにさがる。ゆっくり、ゆっくり。

「おいおい、逃げンの?」

 腕をつかまれた。――ダメッ!

 ぶんっ! 勢い良く振りほどく。よかった、振りほどけた。踵を返し走りだした。路地の向こう、闇の向こうに、おじさんの火がある。火のもとをたどっていけば、ママたちがいる。

「逃がすかよ!」

「っ……!」

 痛い。気がついたら、地面に倒れていた。倒された。後ろに乗っかられている。どうしよう。重い。怖い。

 怖い。

 肩を掴まれた。押さえられた。動けない。動けない。足の間、足が割り込んでくる。嫌だ。嫌だ!

 顔を上げる。おじさんの火が見える。あそこは、光があるのに。あたっているのに。おじさんの火が追いやった闇は、こんなに暗くて、怖くて、どうして――

 たすけて。声が、出ない。どうしよう、どうしたらいいんだっけ。声って、どうしたら出るんだっけ。喉が震えるだけで音にならない。でも、でも!

「おじ……さん!」


「――メイッ!」


 声が、した。

 びっくりした。同時に、がつっと背中の上で衝撃があって、重みがなくなった。今度は、誰かに引っ張りあげられる。硬い体にぶつかった。紺色の……制服。

「おじ……」

 声は制服の中に消えた。おじさんが、あたしをぎゅっと抱きしめたから。

 カチャ、という音がした。点火棒の飾りがなる音だ。ひゅ、とおじさんの喉が鳴る。

「目、潰されたくなかったら、消えろ」

 低い声。おじさんの、おじさんらしくない声だった。路地の空気に、ビリビリと背中がしびれる。すこしの間、誰も動かなかった。

 大通りから砂埃といっしょに風が流れこんでくる。それを合図にしたみたいに、背中側で気配が揺れた。遠ざかる。闇の向こうへ。

「……はぁああああ」

 大きなため息が聞こえた。顔を上げる。泣きそうな顔のおじさんがそこにいた。

「……おじさん……」

「やあ、メイ。大丈夫?」

「……こわかった」

「うん。おじさんもだ。点灯棒があって良かった。……メイを助けられて良かった」

 ぎゅうっと、抱きしめられる。

 ……あったかい。

 思った瞬間、何かがぱちんって音をたてた。それからあたし、わんわん泣いた。

 おじさんに抱きしめられたまま、わんわん、泣いた。



 どれくらいそうしていただろう。いつのまにかあたしとおじさんは、路地の壁にもたれて座っていた。座ったまま、おじさんはずっとその場であたしを抱きしめてくれていたみたいだ。

 顔をあげる。おじさんが、笑ってる。

「落ち着いたかい、メイ」

「……ごめんなさい」

「ん?」

「おしごと」

「……ああ」

 おじさんが苦笑した。気にしない、気にしない、とぽんぽんと頭を叩いてくれる。

 だって、おじさんがこの時間にここにいたのって、きっとお仕事だったから。朝が来るときにはもう、瓦斯灯はいらないから。火を消すのもおじさんのお仕事だから。

 だからきっと、こんな夜と朝の間におじさんは現れてくれたんだ。

 でも、お仕事は大切だ。

「……時間」

「メイは真面目だなぁ」

 おじさんは笑って、よいしょ、と立ち上がった。手を、つないだまま。

「じゃあ、付き合ってくれるかい?」

 こくんと頷く。

 それから、おじさんと街を歩いた。空はすっかり白ばんでいて、ちょっとどきどきした。おじさんは片手で点灯棒を操る。さすがに少し重そうだ。

「手、放す」

「だめ」

 おじさんはいつもと違って随分ゆっくり歩いて行く。鳥の声がする。白かった空が、おじさんが歩くのと同じはやさで水色に変わっていく。

「今日の夕方、仕事にいけるかい、メイ」

「行く」

「わかった。なら、迎えに行くよ。一本目から付き合わせることになるけどね。終わったあとも、お店いくから。勝手に帰らないように」

「……わかった」

「いい子だ」

 おじさんと歩くとほっとする。歩きながら、あたし、気が付くと話しちゃっていた。ママとマスターが家族にならないかって、言ってた話。

 おじさんは目を丸くして、それからにこっと笑った。

「いいじゃないか。学校も、行ってみたらいい」

「でも、お昼だもん」

 伝わるかな。わかんなかった。でも、おじさんは軽く肩をすくめた。

「メイ。昼が怖いかい?」

「……わかんない。でもお昼はだめだよ。あたしの時間じゃないもの」

「メイ、振り返ってごらん」

 おじさんが足を止めた。振り返る。

「……あ」

「綺麗だろ」

 大通りはもう、賑やかだった。パンの露天が準備を始めている。朝の早い配達屋さんが走って行く。きらきらの太陽の下で。

「怖くないよ。メイ。ほら、朝はこんなに綺麗だし、昼もメイに似合うとおじさんは思うな」

「……あたし、夜だもん。おじさんが火を灯して追いやった、闇のほうだよ」

「バカ」

 点灯棒を持ったまま、おじさんは軽くあたしを小突いた。

「なあメイ。おじさんはこうしてメイと歩いてる時、心がぽかぽかするんだ。きっとママもマスターもそうだったんだろう。だから、家族にしたいって言ったんだな」

 おじさんが、あたしと向き合う。少しだけ、膝をかがめて、目を合わせて。

「おじさんは点灯棒で瓦斯灯に火をつける。でもメイは、メイ自身で、おじさんやママやマスターの心に火を灯してる。それはすごいことなんだよ。メイは夜じゃない。夜を追いやる側だ。あったかい火のほうだよ。わかるかい?」

 答えられなかった。でも、おじさんの目はやさしくて、つないだ手はあったかくて、どきどきした。

「さ。あと少し」

 おじさんが笑って歩き出す。つられて歩き出して、でも、言わなきゃ、って思った。

「おじさん!」

「ん」

「あの、あのね」

 おじさんが振り返る。やさしい目。大きな鷲鼻。ちょび髭。全部全部、大好きだ。だから。

「ありがとう」

 おじさんがにっこり、笑った。

 とくん。

 胸の奥で音がした。

 あったかい火が灯る音がした。

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夜の灯しびと なつの真波 @manami_n

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