2.



 化粧の時間も好き。

 白粉をはたいて、まゆずみを引く。水で溶いた化粧粉を指先でとって、目元へ置いていく。ひとつ、ふたつ。赤に青。少しだけ金色も。

 最後に、紅を引く。水はほんの少しだけで混ぜた粉は発色の良い赤色だ。それを小指の先ですくって唇をなぞる。

 髪は上のあたりだけ軽くまとめて、あとは流している。花の飾りをまとめたあたりにさして、そこからリボンを垂らす。それから、衣装を着る。

 薄い布を幾重にも重ねた胸元には、細やかな銀糸の刺繍。貝ビーズの飾りが垂れていて、それでおしまい。おなかには残った化粧道具で花を描いた。腰から先は、色鮮やかな巻きスカート。

 アクセサリをつければ、ほら、もう。

 継ぎスカートのみすぼらしいメイはどこにもいない。

「さあメイ、出番だよ!」

 舞台の向こうから、ママの声がする。はい、と返事をしてあたしはゆっくり舞台にむかった。



 指を天井に向かって伸ばす。しゃん。手首につけた鈴の音。今度は足。アンクレットが音を鳴らす。体が動き出す。波を打ち、しなやかに、強く。銘々に騒ぐ酒場の男たちの喧噪の中に、ちいさくちいさく、鈴の音が割り響く。はじめは紛れてしまって、だれの耳にも届いていない。でも、何度かの鈴の音が誰かの耳に届くと、その誰かは杯を置く。少し口をつぐむ。そんなことが繰り返されるうちに、酒場は不思議な静寂さに包まれた。

 響くのはかすかな鈴の音と、マスターの調理の音。

 その中で、あたしは舞う。

 物心ついたときには、あたしはもう一人だった。親が誰かなんてわからないし、知りたいとも思わないけどね。ただ、どうやって生きていけばいいのかは知りたかったな。そのころは本当になにもわからなくて、ただ街をうろうろしてた。残飯を漁ったり、時々間抜けな人からお金をいただいたりしていた。

 ある時広場に来ていた大道芸人の女の人が踊っているのを見て、真似してみたんだ。

 そしたらびっくりするくらい楽しくて、もう本当に、なんでこんな楽しいの誰も教えてくれなかったんだろうって悲しくなっちゃったくらい。

 それから毎日踊ってた。一人で、路地の片隅で。

 誰かに見て貰いたいとか考えたことなんてなかったけど、偶然、この店のママに拾われた。

 センスあるじゃない、なんて、そんな言葉をかけられてね。

 それからは、これがお仕事。そう、生きていく手段になった。ママとマスターはあたしを気に入ってくれて、踊って、お金を貰って、路地の奥に部屋まで借りて、ちゃんと生きている。

 夜は、あたしが生きていく時間。

 目を閉じる。体が跳ねる。とびきりしなやかに、やわらかく。

 まぶたの裏に、ポウと穏やかな橙の光がともった。

 おじさんが、街灯に火を入れるとき。

 あたしの時間がはじまるんだ。



「メイ、おなか空いたでしょ」

 お客が引いた時間。空は少し、夜の気配を薄れさせる頃。マスターのお店は閉まる。

 朝までやっているお店もいっぱいあるけれど、このお店は朝まではやらない。酒場の時間は夜までよってママは言う。朝になるまえに閉めなきゃいけないもんなんだって。

 だから今日も、夜と朝の間の時間には、店にはお客がいなくなっていた。その中でママが、着替えたあたしの前に、マスターが作ってくれた料理を出してくれる。

 今日は川魚を香草で包んで蒸したものだ。一緒に野菜も蒸したみたいで、ちょっとしなってしている茄子が美味しそう。

「おう。ちゃんと食べろよ。ほら、パンもおかわりあるからな」

 でっぷり太ったマスターがにこにこしながら黒パンを置いてくれた。黒パンはちょっとだけ酸っぱくて、オリーブオイルにつけて食べるのが好き。

「いただきます」

 黒パンをちぎってオリーブオイルにつける。その上に、お魚の身をほぐして乗せた。まとめて口に放り込むと、やさしい甘みと香草の匂いが口いっぱいに広がる。

「おいしい!」

「あたりめーだ」

 マスターが鼻を鳴らす。ママが笑って、ワインを注いでくれた。

 ママはマスターと違って、すごく細くて背も高い。昔は、ママ自身が踊っていたんだって。あたしにちゃんとした踊りを教えてくれたのもママだ。

「メイ、今日もお疲れさま」

「うん、楽しかったよ!」

「そーかそーか。よかったなぁ」

 マスターがにこにこわらって、頭をなでてくれる。へへ。あたし、こうして頭をなでてもらうの好きだ。

 黒パンと、魚の香草蒸しと、ワイン。美味しいご飯を食べ終えた頃、ふと、ママが声を低くした。

「ねぇメイ」

「はい?」

 ママがちらっとマスターに目を向ける。マスターが頷いてから、ママはもう一度言葉を続けた。

「私たちの子供にならない?」

 ――子供?

 一瞬よくわからなくて、目をぱちくりさせてしまった。

「……どして?」

「学校に行かせてあげられる」

「……がっこう?」

「そ。学校よ、メイ。行きたくはない?」

 問われて、あたし、悩んじゃった。

 実はあたし、自分の年齢もよくわかんない。たぶん、十四とか五とか、そんくらいかな。もっと若いかもしれないし、上かもしれないけど。

 たしかにそれくらいだと、がっこう、いってるもんなんだろうけれど。っていうか、遅いくらいなんだろうけれど。

「うーん……」

 首を傾げてしまった。行きたいかどうか、わかんないんだ。

「あのね、ママ」

「うん」

「ごめんね、よくわからないんだ。あたし、踊るの好きだよ。お金もらって、踊って、ちゃんと生きていけるよ」

「そうね」

「学校はそれに、お昼でしょ?」

 ママが、きょとんとした。

「お昼ね、そうね。いけない? あ、もちろん、学校のある日は踊るのはお休みしていいのよ」

「えーと、お休みはヤだなぁ。そうじゃなくて、あのね、お昼はだめなの」

「ダメって、何がだ?」

 マスターが困り顔だ。これには、あたしのほうが困ってしまった。

 あたし、あんまり上手に人に何かを説明することって出来ないから。

 少しだけ俯いて、首を傾げる。どうしようか。どう言えばいいのかな。ママもマスターも、あたしが口をつぐんでいる間は何も言ってこなかった。そう言えば、はじめて逢った時もそうだったな、と思いだした。あの頃のあたしは、今よりずっと言葉がヘタクソだったけれど、でも、ママもマスターもちゃんと聞いてくれたんだっけ。

 そう気づくと、なんとなく肩の力が抜けちゃった。大丈夫かな。そのまま言っちゃっても。

 顔を上げて、あたしは口を開いた。

「あたしね、夜に踊るでしょ? だから夜なの。街灯がついてからがあたしの時間。だからね、お昼はだめなんだよ」

 わかってもらえるかどうか自信はない。でも、理屈じゃなくてそんなカンジなんだ。夜はあたしの時間。夜はあたしを否定しない。でも、昼とか朝は少し、拒絶されている気がしている。

 ふと窓を見た。いけない、もうすぐ朝になっちゃう。慌てて椅子から立ち上がる。

「ママ、あたし帰らなきゃ」

「……そうね。気をつけてね」

「うん」

 お店から出ようとした時、メイ! ってマスターに呼び止められた。振り返る。マスターはなんだか苦い顔をしていた。

「学校に行かなくても、いいからさ。俺たちメイを家族にしてぇんだ」

「かぞく……」

「そうだ。考えといてくれよ」

 どうしよう。なんて言えばいいのかな。

 わからなくて、あたしはただこくん、と頷くだけしか出来なかった。

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