第9話12月25日

 ジェイスは扇子を見てとても喜んでくれた。どこで買ったのだと驚いていたので、日本から取り寄せたと言った。姉に頼んだとは言わなかった。ジェイスのプレゼントは何と指輪だった。「ラヴ&ラック」(愛と幸運)という文字が刻まれているシルバーりングだ。それは僕の人指し指にちょうど良かった。僕がそれを嵌めた手をうっとりと眺めていると、ジェイスは後ろから僕を抱きしめた。するとジェイスの指にも同じ指輪が嵌められていた。「お揃いなんだ。毎日嵌めておいてくれよ」

耳元でジェイスが囁く。何だか照れ臭くてちょっと幸せで、顔がにやけた。

 バスルームを出ると部屋の明かりは消され、テーブルの上に三本の蝋燭が灯されていた。ジェイスはバスローブのままベッドに腰掛けていた。僕が髪を拭きながら出てくると、ジェイスはゆっくりとテーブルの方へ歩いてゆき、ワインの注いであるグラスを手に取った。僕がその場で立ち尽くしていると、ジェイスは僕の方へ歩いてきた。僕の頭に乗っているタオルを片手で取りあげると、それを近くの椅子の上に掛けた。そしてワインを一口口に含み、僕にそれを口移しで飲ませた。

 口移しで何かを飲まされたのなんて初めてだ。しかもアルコールにはまだ全然慣れていない。一口で胸までカーッと熱くなり、ワインの甘い香りにクラクラした。ジェイスは無言のまま自分も一口ワインを飲むと、もう一度僕にキスをした。そしてキスをしたまま僕を抱き上げ、ベッドへ連れていった。この歳になって誰かに抱き上げられるなんて思ってもみなかった。しかし既に酔ってしまったのかボーッとして力が抜けてしまっている僕は、されるままに体を任せていた。

「優輝、アイシテル。オマエハ、オレノモノダ」

ジェイスは上手な日本語でそう言った。

「ジェイスったら…そんな言葉ばっかり覚えて…」

僕はジェイスの愛撫で既に呼吸を乱しつつ、そう言った。

「だってさ、やっぱり母国語で言われた方が嬉しいだろ」

そうだろうか。日本語を話すジェイスは可愛いくて好きだけれど、でもそれは本当のジェイスではないような気がする。少なくともいつものジェイスではない。心を込めて言われれば、それが何語であろうと関係ないような気がした。

「違う、かな…いつものジェイスの言葉で…言って欲しい…よ」

「そう?」

「う…ん」

「じゃあさ、優輝が日本語で、愛してるって言ってみて」

「え?」

ジェイスは愛撫を止めて僕の目を見つめた。僕はその時思った。日本語で言う方が恥ずかしいし、照れ臭い。相手がたとえ日本語が分からなくても恥ずかしいのではないだろうか。つまり、日本語で言う方が本物だ。本当に心がこもっているのだ。僕はじっとジェイスの目を見つめて言った。もちろん日本語で。

「ジェイス、好きだよ。愛してる」

ジェイスは一瞬置いた後、ふっと微笑んだ。

「本当だ。母国語で聞くより、母国語で言ってもらった方が嬉しいんだな」

その後はもう、僕達に言葉はいらなかった。何も言わなくてもこんなに愛を感じることができる。お互いが嬉しそうにしていれば嬉しいし、悲しんでいれば慰めたい。それは言葉で伝えなくても自然と伝わる。僕達二人なら。

 翌日、僕達はジェイスの実家、ラルフィーの家に行った。ラルフィーの家はやはりニューヨークにあり、確かにここから大学に通えないことはない。ジェイスが寮に入ったのは、やっぱり家を出たかったからなのだろう。ラルフィーの家は思っていた以上に豪邸で、使用人も何人か住み込みで働いていた。つまり、別にラルフィーとジェイスが二人きりで暮らしていたわけではなかったのだ。そうか、だからジェイスがアパートで一人暮らしをする方が、ラルフィーにとっては好都合だったのだ。それでアパートを貸し与えようとしたわけだ。

 そう言えば、いろいろあって忘れていたけれど、ジェイスはラルフィーに乱暴されたんだっけ。あれ以来、何もなかったと思うのだが、ジェイスは自分で何とかしたのだろうか。それとも、ラルフィーの仕事が忙しくて来られなかっただけだろうか。何だか心配になって来た。僕が見ていない隙にラルフィーがジェイスに何かしていたら…そして今日、これからそういうことが起きはしないだろうか。

 クリスマスイヴは仕事が休みなのかラルフィーが自ら僕達を迎えてくれた。広い家で客室もたくさんあり、僕とジェイスは一部屋ずつ割り当てられた。

「夜は優輝の部屋で寝ようかな」

とジェイスはわざとラルフィーに聞こえるように言っていた。ラルフィーは何も言わなかったけれど、何だかヒヤヒヤした。

 用意されたディナーはかなり高級品だった。見たこともないような料理がたくさん並ぶ。さすがにアメリカ人はよく食べるなとほとほと感心させられた。食後のコーヒーが出された後、僕達三人は応接セットのソファーに腰掛け、話をしようということになった。

 僕が長椅子に腰掛けるとラルフィーは早速僕の隣に腰掛け、必要以上に寄り添ってきた。実はジェイスは今、トイレに立っているのだ。僕はなんとなく反対側へよけてしまった。

「優輝、普段の生活はどうだい?ジェイスに可愛がってもらっているかい?」

「ええ、まあ」

僕がジリジリとあまり分からないように遠ざかろうと努力しているのに、ラルフィーはさっと僕の肩に手を置いて顔を覗き込んできた。僕はその顔を見て不覚にもドキッとしてしまった。ラルフィーはやはりジェイスに似ている。

 早く帰ってきて、ジェイス。そう願ってはみたものの、トイレは遠いのか思いの外遅い。ラルフィーはニヤニヤしながら僕の顎に指を当てて上向かせ、僕の顔をまじまじと見ている。多分ラルフィーはこれ以上何もする気はないのだろうけれど、こんな、今にもキスをしそうな格好でじっとしていられると、ドキドキを通り越して冷や汗をかいてしまう。

「あっ、何してるんだよ、ラルフィー」

ジェイスが戻ってきてくれた。ジェイスは走り寄ってくると、ラルフィーから僕を思い切り引き剥がし、立ったまましっかりと抱きしめた。

「何の積もりだよ」

ジェイスは怒ってラルフィーを怒鳴りつけた。

「まさか、優輝を狙ってるのか」

「そうだとしたら?」

「優輝には手を出すな。指一本触れさせないぜ」

「フフフフ」

ラルフィーは可笑しそうに笑った。そして目をギラッとさせたかと思うと、真顔でジェイスを見据えた。

「お前に愛されてる体だからな、ちょっと気になるんだよ。その子は」

「なっ」

ジェイスは僕を突然放してそっぽを向いた。僕も恥ずかしくなったけれど、からかわれたのではないことは分かる。ラルフィーは真剣だ。ラルフィーはジェイスを愛しているのだ。僕に対して嫉妬している。いや、もうそれもとっ越して、愛する人のものは全て共有したいと思っているのかも知れない。ジェイスはラルフィーをどう思っているのだろう。大好きな兄さんだったのだから、本当は嫌いではないのではないか。ただ、血の繋がった叔父だから、そしてまだ何も知らないときに突然愛されて驚いて、そしてとまどっているから避けているだけなのではないだろうか。本当は、ジェイスもラルフィーを愛しているのではないだろうか。

 ラルフィーはまた何事も無かったように他のソファーに座り直し、僕とジェイスを長椅子に座らせ、紅茶を使用人に持って来させた。「君の髪はとても艶のあるいい色だね。ちょっと触ってもいいかな」

使用人がちょうど紅茶を運んできた時、ラルフィーはそう言って僕の髪に手を伸ばした。「サラサラだな。触り心地がいいね」

ラルフィーはニッコリ笑った。ラルフィーには今まであまり良いイメージは無かったけれど、ちゃんと話してみるととても感じの良い人だ。

 しかし僕はこの時、ひどく鋭い視線に射られたような気がした。ラルフィーが僕の髪に触れたとき、一瞬僕へ向けられた恨みのこもった視線は、紅茶を運んで来た使用人から発せられたものだった。何だろう。気のせいだろうか。場合によっては日本人嫌いのアメリカ人ということもあるかも知れない。しかしそれにしてはかなりの思いが込められていたような気がする。

「あの、今の人は…」

どうも気になって、僕はラルフィーに尋ねてみた。

「あの子?ダニエルだよ。まだ若いんだ。十五歳かな。ちょっとジェイスの子供の頃に似てるんだ。可愛いいだろう」

「ラルフィー、まさかダニエルに手を出してんじゃないだろうな」

ラルフィーはジェイスにそう言われると、アハハハと笑った。そうか、そうなのか。つまりダニエルはラルフィーが好きなのだ。だからさっきラルフィーが僕に触れたとき、やきもちを焼いたのだ。それにしてもあの表情、かなり本気なのだろう。そういえば、この家の使用人はみんな男だ。しかも美形ぞろい。ラルフィーの趣味で集めたのではないだろうか。何だかそう考えると恐ろしい。手を出してるって、ダニエルだけではないのかも。

 僕はラルフィーとジェイスのことを知っているけれど、ダニエルは多分知らないのだろう。ラルフィーがジェイスを本気で愛しているということを知っていれば、ちょっと髪に触れたくらいで僕に嫉妬したりはしないだろうからだ。そしていつもはダニエルか誰かがラルフィーに可愛がられているのだろうが、恐らくジェイスがこの家にいる間は、ラルフィーは他の男には目も呉れないのではないかと思われる。血の繋がっているジェイスのことを疑わず、嫉妬の目を僕に向けるのは当然かも知れない。

 ラルフィーと別れると、僕はジェイスの部屋へ行った。やはり広い。昔の写真だとか何かのメダルだとかが飾ってある。それについてのジェイスの話をいろいろ聞いていたらすっかり遅くなってしまった。

「今夜はどうする?優輝」

「どうって?」

「ここで寝るか?客室は狭いだろ」

「そういえば、ジェイスのベッドは僕達の家に運んじゃったよね、これは?」

「多分昨日までに他の部屋から運んどいてくれたんだろうな」

「へえ。使用人がいると便利だね」

「使用人は男に限るよ。男に出来ないことはないからな。特に住人が男ばっかりだとね」「ふうん」

そうなのか?でも男ばかりだと殺風景ではないだろうか。煌めくばかりの美男子ばかりなら充分華やかなのかな。

「で、どうする?今夜は」

「うん。ここで寝る」

いつも二人で寝ているから、どうも独りで寝るのは淋しい。この癖はまずいかも知れない。

「ベッドが狭いから、しっかり抱き合って寝ないと落っこちるぞ」

ジェイスがいたずらっぽく笑った。あっ、そうか、「どうする?」って、そういうことか。

「あの、今日はもうだいぶ遅いし、二人きりじゃないんだからさ、その、やめようよ」

「明日はゆっくり寝ていられるぜ。それに、遅い方がいいんだよ、みんな寝ちゃっただろうからね」

ジェイスはパチッとウィンクした。うーん。確かに、お正月過ぎまでの滞在中に、一度もしないというのは無理かも知れない。

「でも、昨夜したばっかりなのに…」

「場所が変わるといいらしいぜ」

ということで結局やってしまった。本当に場所が変わるとなんとなく興奮するみたいだ。いつもより乱れてしまった。もしかしてラルフィーに聞かれてしまうかも知れないと思うと、声が余計に出てしまう。

「今夜の優輝は特に可愛いいよ」

と終わってから言われてしまった。恥ずかしい。


 僕はどうも素直過ぎる。翌朝なんとなくラルフィーと顔が合わせづらかった。平然としていれば分かるはずがないのに、見られただけで昨夜のことを知られてしまいそうで恥ずかしかった。ジェイスは逆にそんな僕を面白がって、周りに聞こえないように、

「昨夜は良かったな」

「また今夜も来いよ」

とか言ってくるので、その度に赤くなってしまった。

 今日は十二月二十五日。昨日とは違ってなんとなく厳粛な感じのする朝だった。この家はキリスト教徒ではないようで、お祈りなんかもしない。なんとなく不思議だと思っていたが、それもそのはず、この家は(多分)みんな揃って同性愛者なのだから、キリスト教徒ではいられないのだ。キリスト教から見れば罪人だもんなあ。というわけで教会へも行かず、みんな家にいた。日本だったら街へ出てショッピングとか、行楽地へ行ったりするのだが、さすがにここではそうではないらしい。

「そういえば、使用人の人たちは家に帰らないの?」

「ここに残ってるのはみんな身寄りの無い人とか、家に帰りたくない人だよ。家に帰った使用人も何人かいるんじゃないかな」

僕とジェイスは家の近くの散歩に出かけた。僕にとっては初めて来た外国の街、ジェイスにとっては久し振りに訪れる故郷だ。二人でのんびりと歩いていると、幸せな気分に満たされてくる。さすがに手をつないで歩くというわけには行かないが、腕が微かに触れ合っているというのも何とも言えない気分だ。こういう幸せがあるなんて、今まで夢にも思わなかった。

 公園にさしかかり、二人はベンチに並んで腰を下した。足元には雪が積もっている。昨日今日と晴れているのでベンチの上は乾いていた。そういえば、ホワイトクリスマスが理想かと思っていたけれど、クリスマスには星が見えた方が理想ではないだろうか。キリストの生誕劇をやったことがあるが、あれに確か赤い星が出てくる。クリスマスツリーのてっぺんに星を付けたりもするし。そういえばホワイトクリスマスというのは雪が積もっていればそう言うのだろうか。それとも降っていなければ言わないのだろうか。そんなことをごちゃごちゃと考えている間、僕と同様ジェイスも黙って座っていた。時々前を通る人はいるが、いたって静かである。

「優輝」

「何?」

「考え事って日本語でしてるのか?」

「うん」

「じゃあ、たとえ心を覗くことが出来ても、何を考えてるのか分からないんだな」

「ああ、そうだね」

「でも、今お前、雪とクリスマスツリーのこと考えてただろ」

「えっ、どうして?」

「なんとなく。見てる方向とかで分かった」

「……」

絶句するほど驚いた。ジェイスは僕が隣でボーッと考え事をしている間、鋭い目で僕を観察していたのだ。しかしそんなジェイスを「かっこいい」と思ってしまう辺り、かなり惚れてるかな、と思わざるをえない。ジェイスは見た目の美しさを裏切ることなく頭が切れて賢い。恐らくラルフィーもそうなのだろう。あの若さであんな豪邸を持っているのだから、仕事が成功しているに違いない。

「優輝とデートするのは楽しいけど、外だとキスも出来なくてつまんないな」

ジェイスが隣でボヤく。さすがのジェイスも、この聖なる日にお日様の下で罪を犯す気にはなれないらしい。いつもなら手ぐらい握ってしまうのに、今日は二人の間に友達らしい間隔まで空けて座っている。クリスマスはやはり特別な日なのだ。何だか可笑しくて、フフッと笑ってしまった。

「さて、帰ろうか」

「うん」

僕達はまた並んで歩き出した。ただの散歩でも、恋人同士なら楽しいものだ。ゆっくり歩いて帰り、ラルフィーの家に着いたのはもう夕方だった。

 夕食を済ませた後、僕はジェイスの部屋にあったマンガを借りて読んだ。子供用なのかも知れなが、はっきり言って僕にはちょうど良い。ジェイスはテレビを見ていて、僕はその隣でマンガを読んでいた。ジェイスは僕の肩を抱いていた。

 そのうちラルフィーがジェイスを呼びに来た。何か仕事のことで話があるとか言っていた。二人が部屋を出てしまったので、僕はテレビを消して独りでマンガを読んでいた。

 何か物音がした。僕は普通より少し耳が良い。遠くで何かが落ちて壊れたような音がした。部屋の扉を開けて耳を澄ましてみたが、廊下はとても静かで何の音もしなかった。しかしなんとなく気になるので、廊下へ出て歩いていくと、ある部屋の前にあの十五歳の少年、ダニエルが立っていた。ドアを背にして立ち、うつむいて両手を拳に握り、わなわなと震えていた。どうしてなのだろう。

 ふっと僕は不安になった。あのダニエルの様子は。もしかしたら、部屋の中でラルフィーとジェイスが何か…。

 するとダニエルは何かを思い立ったのか、走ってどこかへ行ってしまった。僕はどうしようか迷ったが、とりあえずその部屋の前まで行ってみた。特に中からは何も聞こえない。ドアに耳を付けてまで聞くのもどうかと思い、またうろうろと元来た方へ歩いていくと、ダニエルがさっきの勢いのままやってきた。どうも様子がおかしい。呼吸が乱れ、思い詰めたような表情をしている。ダニエルは例の部屋のドアをバタンと勢い良く開け、自分はドアから数歩下がった。

 なんと、ダニエルは銃を手にしていた。そして部屋の中へ銃口を向け、腰を落して構えたのだ。

「ラルフィーは僕の大切な人だ!あんたなんかに、あんたなんかに」

ダニエルは肩で息をしながらそう叫んだ。銃がカチッと鳴った。

 ジェイスが危ない。

僕は咄嗟にそう思った。そして思うより速く駆け出していた。僕はダニエルが引き金を引く前に部屋の中に入った。そしてジェイスに抱きついた。

 パーン――

僕がジェイスに抱きついたと同時にかん高い銃声が響いた。耳の痛みと同時に肩の辺りに鋭い痛みが走った。僕は撃たれたのだ。


 僕は死ぬのか?

 ほらね、やっぱり幸せは長続きしないんだよ。特に僕みたいな人間にはね。

 でも、死ぬ前にこれだけ幸せを味わえただけラッキーかな。

 ジェイスが死ぬんじゃなくてよかった。僕が独り遺ったら辛すぎるもんね。ジェイスは本当に無事だったかな。目を閉じる寸前にジェイスが僕の名を呼んでいたから多分大丈夫だよね。ジェイスと一緒に死ぬのもいいけど、やっぱりあんな素晴らしい人が死んだらもったいないから。

 ジェイス、悲しんでくれるかな。悲しみ過ぎて体壊すほどだと心配だけど。でも辛いのはきっとほんの少しだから。また、新しい恋を見つけるよね。悲しいけど、仕方ないよね。

 「優輝」

呼ばれているけれどなかなか目の前の映像が飛び込んで来ない。どうしてこんなに目の前が白いのだろう。

「優輝」

やっと前が見えた。目の前は真っ白い天井だった。僕はベッドに寝ているらしい。

「優輝、気がついた?」

そう言えばさっきから呼ばれていた。ふと横を見ると母親の顔があった。あれ?何だ?母親の顔なんて久し振りだぞ。

「病院にいるのよ」

病院?僕、病気だったっけ?

…あ。アメリカに行ってたのではなかったか?それともあれは長い夢だったのか?いや、夢ではない。そうだ、僕は銃で撃たれたのだ。そうか、生きてるのか。良かった。ものすごくホッとした。僕もやはり死にたくはなかったのだ。

「僕、日本に帰ってきちゃったの?」

「ここはニューヨークよ」

「え、どうして母さんがいるの?」

「何言ってんの。息子が撃たれたって聞いて、駆け付けないわけがないでしょ」

僕の母親なら有り得ると思った。大事な仕事があったらそっちを優先させそうだ。

「…ジェイス、ジェイスは?」

ここがニューヨークならジェイスもいるはずだ。まさか、僕が助かってジェイスが死んだなんてことは…。

「フフフ、あのハンサム君なら外にいるわよ、呼んであげましょうか」

僕があんまり必死の形相をしていたからか、母さんは笑ってそう言った。さすがキャリアウーマンだけあって英語が使えるらしく、ドアの外に向かってジェイスに中に入るように言っていた。

「優輝」

ジェイスがフラフラと歩み寄ってきた。目がうるうるしている。僕はどのくらい眠っていたのだろう。ジェイスはずっと外で待っていたに違いない。母さんが日本から来たのだから、もう一日近く経っているはずだ。

「ごめん、優輝。俺を庇ってこんなことに…」ジェイスは僕の枕元にひざまずいて顔を伏せた。僕はそんなジェイスがいたたまれず、片手を出して頭を軽く撫でた。

「君が無事で良かった。…ラルフィーも大丈夫?」

「ああ。ラルフィーも優輝の安否が分かるまではここにいたんだ。感謝してるって言ってたよ。それに、優輝の気持ちの強さが分かったから、俺のことは任せるって言ってた」「ホント?諦めてくれるんだ」

「日本人はすごいって言ってたよ。一見弱そうに見えるのに、内に秘めた強さがあるって。いざという時に力を発揮するんだなって感心してた。ラルフィーも日本人の美少年を探すとか言ってたぜ」

「え…。君達って本当に似てるね」

「俺は優輝だけを愛してる。日本人だからとか、そういうことはもう関係ない。優輝以外の日本人だったらアメリカ人でも中国人でも同じだよ。お前だけだ」

「ジェイス、そう言ってくれて嬉しいよ」

僕の幸せはもっと大きくなるらしい。もう終わってしまうのかと思われた僕の生命、そして幸せは、まだ続いている。ふと気がつくと、僕の左の人指し指にはジェイスからもらったシルバーリングがちゃんと嵌めてあった。ラヴ&ラック。僕は日本が好きになれそうだ。ジェイスが好きになった国だから。そして僕は自分のことも好きになれそうだ。ジェイスが好きになってくれたから。

 ジェイスは家から着替えを持ってくると言って僕達のアパートへ帰っていった。忘れていたが、母さんが室内にいた。見ぬふりをして見ていたのだ。

「優輝、あんたすっかり英語が上手くなったわね。母さん負けたわ。フフ、そりゃそうね。彼と毎日話してるんですものね」

「ああ、うん、彼がルームメイトだよ」

「彼から聞いたわ。それより、今何話してたの?早口でちっとも分からなかったわ」

なんだ、分からなかったのか。良かった…。何てごまかそうか焦って損した。

「ジェイスの叔父さんが僕に感謝してるってさ」

「そりゃそうでしょうよ。それで?」

「え、ああ、それで…うん、彼は日本人を気に入ったって」

「まあ、日本人がみんな優輝みたいだなんて思って欲しくないわねえ」

「一言言ってきたら?」

僕がわざと意地悪で言うと、今度は母さんの方が意地悪く笑った。

「そう言えばあんた、ジェイス君を庇って撃たれたんだって?」

「う、うん」

「それ聞いたときは、何であんたがって頭に来たけどね、実際に彼を見たら納得したわ」「そう?」

「ええ。人のために自分の命を投げ出したなんて許せないけど、命に代えても守りたい人だったら話は別よね。あんた、ジェイス君に惚れてるでしょ」

「えっ…それは、別に、あの、変な意味じゃ…」

「何言ってるの?」

「だから、あの…。さっきの会話、分からなかったとか言って、ちゃんと分かってたんでしょ」

「いいえ。でも「アイ ラヴ ユー」くらいは分かりましたよ」

げ。そりゃそうだ。うお、恥ずかしい。しかし、この母親と来たら、嘆くどころか面白がっているではないか。普通じゃない。一体どこまで本気で考えているのだろう。僕達が恋人だったら、一緒に暮らしていることに何も感じないのだろうか。いやあ、日本も変わった。

 しかし、久し振りに母親と心が通い合ったような気がした。今まで本気で話を聞いたこともなかったし、僕の気持ちを分かってくれたこともなかったような気がする。恐らく気がするだけなのだろうが。

 僕の幸せはどんどん膨らむ。今までの分ももっともっと幸せにならなければならないのかも知れない。日本を逃げ出すような形でアメリカに来たけれども、実は僕は幸せを探しに来ていたのかも知れない。そして見つけたのだ。


 母さんが帰った後、ジェイスは毎日お見舞に来てくれた。そして毎日お見舞のキスをして帰ってゆく。日によっては面会時間の間、ずっとキスをしていたこともあった。そのキスのお陰(?)で退院も予定より早くなり、また元気に通学するようになった。またいろいろな邪魔が入るかも知れないけれど、僕はジェイスを守ってみせる。僕にはその自信ができた。ジェイスを守ることができるという自信が。でもそれはいざというときに発揮される。普段は実はジェイスに守られっぱなしだ。ジェイスも今回の事件で余計に心配症になり、必要以上に僕を守ろうとしてくれる。そしてそれはこの上もなく幸せな気分だ。


 幸せはどこにあるか分からない。身の周りになかったら、探しに行ったらどうですか。たとえば地球の裏側へ。

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留学物語~幸せは地球の裏側にある~ 夏目碧央 @Akiko-Katsuura

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