黄昏花火

さいこ

第1話

「そいつ、来ねぇな」


 ふわふわと飛ぶ蚊を仕留め損ねた彼は、不機嫌そうに言った。

 乱暴に首筋をかく仕草で、少しサイズの大きい甚平の袖が揺れる。兄貴のお下がりだ、と彼は言っていた。


「いいの、別に期待してなかったし」


 私はそう言って下駄のつま先をもてあそんだ。小さな石を蹴飛ばしてやると、つんつんと石段を跳ねて落ちていった。


「じゃあ、もう待つのやめちまえばいいじゃん」

「……でも、もう少し待つの」


 呆れたような彼の声に返した言葉は、思いの外強くて自分で驚いてしまう。

 やり切れない思いが糸くずのように縺れてダマになって、我ながら幼稚な心に絡まった。


 はあ、と小さく息をついた私を見て、彼は更に乱暴にばりばりと頭をかいた。


「……まあ、勝手にすればいいんじゃね」


 腰に手を当てた彼に倣って、向こうの景色を見やれば、青々とした夏蔦のフレームに切り取られた家々が、傾きかけた日に照らされている。


 この時期の日暮れはあっという間に訪れる。直に空はオレンジとネイビーのグラデーションに染められていき、やがて宵闇が街を浸すだろう。その頃には、この辺りにも人が溢れているはずだ。

 石段に座るとちょうど正面に花火が見えるこの位置は、知る人ぞ知る穴場スポットとして有名なのだ。そういう訳で、この小さな街のどこから来るのかというくらい、この石段は今日だけ賑わう。


 お婆ちゃんに着付けてもらった浴衣の袖から腕時計を出してみると、もう手紙に綴った約束の時間を三十分も過ぎていた。


「……今年もまた一人か」


 小さく漏らすと、耳ざとい彼がこっちを見た。


「俺がいるじゃん。彼氏出来るまでは一緒に花火来てやるって」

「……あんたはノーカンでしょ」

「まあ、そうだな……」


 軽く突き返してやると、彼はいつになく弱々しいリアクションをした。それがちょっぴり意外で、何となく動揺してしまう。


「ま、あれだね。ホントに一人よりはマシかな」

「……そうだな」


 慌てて発したフォローは空回りして、気まずい雰囲気の中をヒグラシの声が泳いでいる。

 こういう時に限って、何故だか辺りに人影はなく、話を変えようにも話題が見当たらない。


 壊してしまいたい沈黙。首筋を降りる汗の雫の感触がした。


 何か話題を見つけねば。最近面白い事はあっただろうか。


「大体よ」


 突然おどけた声を出した彼は、ぼうっとしていた私の前にひらりと歩み出て嫌味っぽい笑みを浮かべた。


「お前アプローチ下手すぎだろ。ほとんど喋ったこともない先輩にいきなり手紙で花火のお誘いとか不器用にも程があるって」

「ちょっ、うるさいっての! だって同じ高校って接点しかないのに、何話したらいいかなんて分かんないでしょ!」

「共通の友達あたるとか、周りから味方につけるとか、色々あんだろうがよ」


 ケラケラと笑う彼の顔に、ホッとする気持ちを隠してムッと頬を膨らませてみる。

 むくれる私を見た彼の顔も、少しだけ安心したように見えた。


 彼が私をからかって、私がそれに怒ってみせる。いつものパターンだ。すると面白がった彼は決まって、もっと意地悪言ってくる。


「ホントに不器用なヤツだよな。冗談抜きで結婚が心配だわ」

「そういうあんたはホントに失礼なヤツ! 女の子にそんな事言って……デリカシーってもんがないよね」

「女の子……? はて、女の子がどこにいると……?」


 もう何年も前から続けてきたやり取りは、ベテランの漫才のようで。

 いい加減飽きても良さそうなのに、そこには認め難い心地良さがあった。


「だいたいあんただって……」


 何度目かのやり取りで私が言いかけたところで、街に音質の悪いアナウンスが響いた。いつの間にか花火が上がる時間になっていたようだ。


 気づけば空は濃紺色に満ちていて、そこら中に人が溢れている。

 走り回る子供たちの声や漂うビールの匂いは、さっきからそこにあったはずなのに、今更存在感を出してきたようだ。


「おっ、上がるぞ!」


 誰かの声でそこにいる全員が空へと視線を集めた。


 ひゅるると笛のような音と共に一条の光が濃紺の空を裂いて昇ると、一時の間を置いて見事な光の円が咲く。


 余りの美しさに観客は息をのみ、時が止まったかのようにその一瞬が脳に焼き付いた。


 遅れてやってきた和太鼓のような大きな音が五臓六腑を震わせて、その衝動に忘れていた声が漏れる。


 その間にも続けざまに立ち上っていた蕾は、弾けるように咲いている。


 青いもの、赤いもの。綺麗な円、つぶれた円。数多もの花々が宵闇のキャンパスを華やかに彩り、ふわふわと煙だけを残して消えていく。


「綺麗だな」


 始まってどのくらい経った頃だろう。ぼそりと言った彼は、上を向いたままだった。


「うん。ずっと見てたいな」

「……分かってねえな。ドンと上がって、儚く消えるのが花火の醍醐味だろ。いつか終わるから綺麗なんだよ」

「……うん、そうだね」


 どん、と一際大きな音が轟いた。少し間が空いて、辺りから拍手と歓声がおこり、何度目かの放送が流れる。よく聞こえないが、時間的には次の演目が最後だろう。


 ざらついたアナウンスが終わると、再び空に火がゆらゆらと登る。大人しくなる観衆は、惜しむように花火の眩さに目を細めているのだろう。


 大きく開いた円はさらに弾けて小さな火花を飛ばした。


「来年はいい加減彼氏作ってこいよ」

「分かってるって」


 どどんと小さな朝顔が咲いた。


「いつまでもお前のお供なんてゴメンだからな」

「余計なお世話だし」


 ばっと弾けて小さなハートになった。


「っていうか、彼氏できたらちゃんと報告に来いよ」

「はいはい」


 ざあっと枝垂れ桜のような光の滝になった。


「あとは、なんだ」


 今までで一番大きく、高く、火球が登っていく。


「元気でな」

「……うん」


 最後の返事は、フィナーレを飾る大輪が開く音に掻き消された。


 十分にその余韻が夜に染み込むと、割れんばかりの喝采と誰かの指笛の音が響く。小さな街を歓喜と興奮、そこにほんの少しの寂しさが支配している。


 喧騒の中、私はそっと彼のいた辺りを向いた。


 今年も、もうそこに彼はいなかった。


 憎まれ口を叩く彼の最後の言葉が寂しそうに聞こえたのは、私の気のせいだろうか。


「彼氏ができるまでは一緒に花火を観に行くだなんて下らない約束、いつまで律儀に守るつもりなのさ」


 不自然に空いた隣に向かって呟いた私の小さな声は、熱に浮かされる周りの人たちには聞こえまい。

 雫となって溢れそうになった寂しさは、祭りのあとのせいにして飲み込んだ。


「いい加減、忘れちゃえばいいのにね」


 いいよ。彼氏が出来たら花でも持って報告しに行ってあげる。


 でも――先輩への手紙、結局渡さなかったのは絶対に教えてやらないから。


 私はふっと口角を上げた。その表情は、彼のあのイタズラっぽい笑みに似ているのだろう。


 きっと来年も、一人ふたりで花火を観る。

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黄昏花火 さいこ @saico

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