epilogue
毎日下らない一問一答と、どうでも良い賭けをして、日々は穏やかに過ぎて行く。
秋が終わって冬が来る頃には、たまに
「足の不自由なサンタとか子供が萎えるだけだろ」と渋った
命の期限を知りながら生きている幼い子供、光を見た事がない子供、立つ事すら出来ない子供、安吾のいる世界は自分の見ている世界とはまるで違っている事を上智は改めて知って、あの教会で安吾の前で醜態を曝した自分を酷く恥じた。
春が来る頃には新刊【蜘蛛と蝶】が発売され、安吾から「ご本を書いている先生」と言う紹介をされていた子供達から
「あんご先生にはお嫁さんがいないんだよね?」
「そうですよ」
「じゃあ、真由が大きくなったら先生のお嫁さんになってあげるね」
「それはとても嬉しいですけど、先生は結婚出来ない呪いに掛かっているので、真由ちゃんと結婚する事は出来ません」
「呪い? 悪い魔女の?」
「そうなんです。結婚すると豚になる呪いです」
「豚さんになるの……?」
「はい」
いたいけな少女のプロポーズをそんな意味不明な断り方をする安吾に、上智は心底憐みの眼差しを向けた。
帰りの車の中でその事を突っ込んでみる。
「豚って……もうちょっと何かあんだろ……」
「じゃあ、悪魔にでもなりましょうか」
「そっちの方が童話っぽくてまだマシかもな。モテる先生は大変だね」
「不特定多数の女性にモテても、好きな人が振り向いてくれないんじゃ不毛ですけどね」
「……へぇ、好きな人いるんだ?」
「それ、今日の分の質問で良いんですか?」
「え?」
「今日の質問、まだでしたよね。それで良いんです?」
「あぁ、うん……」
「います。僕の分の質問は家に帰ってからにしましょう」
この数か月一緒に暮らしていても安吾は女の影をチラつかせた事など一度もない。
もしかして自分があの家に居座ったせいで、その好きな人にも何か迷惑を掛けているんじゃないかと不安になって、上智は家に帰るまでただ黙るしかなかった。
家に着いてからの安吾からのその日の質問は「明さんに好きな人はいますか?」と言うもので、上智はそれに「分からない」と答えた。
その時初めて沖野ではなく、安吾の事を脳裏に浮かべた自分に内心一人焦る。
ストレートの安吾をこれ以上好きになる前に、やっぱりここを出て行くべきだと思い始めた上智は、いつどのタイミングで出て行こうかと考え出していた。
弱っている所に優しくして貰って気の迷いで済む内に、さっさと出て行かなければまた失恋からやり直すなんて体力は持ち合わせてない。
でもそれも、踏ん切りがつかないまま一週間が過ぎる頃、次の作品のプロットに詰まった上智は珈琲でも淹れようと部屋を出て固まった。
珍しく安吾がリビングで本を読んでいる。
休みの日は大概上智を引き摺りだして外へ出るか、疲れている時は自室にいて食事の時間になると出てくる。
リビングで本を読んでいるなんて姿は一度も見た事が無い。
邪魔しては悪いと声も掛けずにキッチンへ横切ろうとしたが、安吾は何か言いたげに上智に視線を寄越した。
「な、何……?」
「私は彼の手淫に酔ってその全てを開いた。一つ一つ節から足を捥がれる様な甘美な痛みは、滾った彼の熱によって蕩けて行き――――」
「うっわあぁあ! ばっか! 朗読してんじゃねぇよ!」
新刊【蜘蛛と蝶】の官能部分を良い声で朗読されて、まさか、という驚きの後、上智は慌てて安吾から本をもぎ取った。
「この小説家の主人公は医者に恋をしてますね」
「だ、だから何だ。って言うか、原稿読ませたろ! 何で態々買って来てんだよ!」
「内容が変更されていないか、確認を」
「されてねぇよ! って言うか、自分の部屋で読めば良いだろ!」
しかも何故そこを声に出して読みやがったんだ、と上智は安吾を睨んだ。
書くのは別に恥ずかしくはないが、声に出されると非常に恥ずかしい。
「慌てている明さんと言うのは、結構レアですね」
「聞いてんのか人の話!」
「聞いてますよ。今日の分の質問、しても良いですか?」
「は? うん、まぁ、良いけど……何?」
「明さんに好きな人はいますか?」
アンティークレザーのソファーに腰掛けたまま、上智を見上げる安吾は一週間前に聞いた事のあるその質問をまた聞いて来る。
「なっ……んで? わ、分かんないって答えたろ……?」
「今も、分からないですか?」
「え……?」
「僕はこの作品を読んだ時から、これは僕に告白してくれているのかと思っていたのですが……一向にそう言う兆しが見えないので、やはりここは本人に聞くのが一番良いかと」
「……それは、えっと」
読者のニーズを考えた末の結末だと、言えば良い。
言えばいいのだけど、安吾のジッとこちらを見る視線に射抜かれて上智は本能的に下手な嘘は通用しないと悟った。
「いる……よ」
「じゃあ、明さんからの今日の質問に答えます。何でも聞いて下さい」
「……お前の好きな人って……誰?」
怖い――。
ここで自分以外の名前が出た瞬間に、小説の中の夢は終わる。
でも、小説の中で医者に愛される小説家を描いた時点で、それが自分の願望から生まれたものだと認めざるを得なかったのに、傷つくのが嫌で自分の気持ちすら認めようとしなかった。
「僕は好きな人の名前を知らないんです」
「……え?」
「
「あ……ごめん」
「僕の好きな人の名前、教えて貰えますか?」
明さんと呼ばれる事に何の疑問も感じないほどの時間が過ぎていて、本名を教えてない事などもう掠りもしなかった。
上智にとってそれはそんなに出し惜しみする様な大層な理由があったわけでは無かったのに、敢えて自分から名乗るまで聞かないでくれた安吾が馬鹿みたいに優しいのだと気付かされる。
「お前、バカ過ぎるだろ……」
「教えてくれないのですか?」
「
ソファの横で立ち竦んでいる上智は、杖をついてない左手を取られてビクリと肩が跳ねた。
「僕の手淫に酔ってくれるのはいつですか?」
「ばっ……か……」
「結構待ちましたよ、これでも」
「分かっ……たから、ちょっと待って……」
「まだお預けですか?」
「厭らしい触り方すんなっ」
「顔が真っ赤ですよ。利秋さん」
「なっまえ……もう本当に待って。ちょっとキャパが追い付いてないから」
「可愛いですね」
どこぞの紳士の様に左手の甲にキスをされて、そこからまた熱が上がる。
また出て行こうとした事を見透かされていたのか、何でもお見通しと言わんばかりの飄々とした顔に、上智は割と本気でムカついた。
「結婚出来ない呪いってそう言う事かよ! この悪魔!」
「あぁ、それね。呪いは法に触れなければ発動しませんので事実婚なら可能です」
「何その都合のいい呪い……」
「でも事実婚よりも先に初夜でしょう」
「分かったから、そう言う事を真顔で声に出すな。それにまだ夜じゃ……」
「今から始めても、夜まで抱けば初夜です」
「淫魔かよ……こっちの身が持たん」
一日一つずつ秘密を交換して、どうでも良い賭けをして、穏やかに日々は過ぎて行く。
小説に忍ばせた暗号は書いた時点ではただの強がりでしかなかったのだけど、青い薔薇の魔法で夢は叶うかも知れない。
君以外の人と幸せになる――。
だからどうか、君も誰かと幸せで在ります様に。
蜘蛛は青い薔薇に恋をする。 篁 あれん @Allen-Takamura
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