episodeー6
怪我をしてから少し湾曲した引き摺った右足を見られるのが嫌で人前に出るのは避けていた。
だから授賞式でも写真は断った。
担当の女性編集からしつこく著者近影をせがまれて、後姿なら、と必要なのかどうなのか分からない後頭部の写真を使って貰う事で了承を得る。
「美形なのに、顔見せないとか勿体ないですよ?」
「作品に作家の顔は関係ないんで」
「ふふっ、否定はしないんですね。作家がイケメンだと、女性ファンが増えますよ。使える物は使ってナンボでしょ?」
「作品を見て欲しいから、余計な物は付けたくないです」
「そう言うストイックでカッコイイ事言い続けられる作家になって下さいね」
嫌味な女だ。でも、写真が出回るのはどうしても避けたかった。
授賞式を終えて安吾の家に帰る事に躊躇して、駅の改札を潜った所で行先の分からない迷子の様な気になってしまう。
そのまま歩き続けたら勝手に安吾の家へと足が向きそうで、近くにあったベンチに腰を下した。
でもカフスは返さないといけない。
いや、これ元々自分が勝手にやったものだし、持って逃げた所で安吾には痛くも痒くもない。
帰って来るのかどうか試されているのか、それとも、と安吾の考えている事を探っては答えのない堂々巡りを単語帳を捲る無意味な単純作業の様に繰り返して、その実何も頭には何も残らなくて。
「帰ったらまた出て行くのに勇気いるしな……」
でも、言い訳の様に昨日の疲れた安吾の顔が浮かんでくる。
もし、何か嫌な事とか悲しい事があってへこんでいるとしたら、今日自分が出て行く事で余計に追い打ちをかけるんじゃないか、とか。
沖野に出来なかった事を安吾にしてやって、自己満足したいだけなのか、とか。
こうやっていつも結論が出せないから、流されるだけの人生なのに。
「あれ? 上智さん?」
不意に呼ばれて顔を上げると、そこには大神が立っていた。
「あ、あぁ……この間はどうも」
「具合でも悪いんですか? 大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫。ちょっと疲れただけだし」
「今日が授賞式だったんですか?」
「あぁ、うん」
「あ、そのカフス。橋本先生にあげなかったんですか?」
「あ、いや……今日だけ、借りてて……」
その後の言葉が続かなかった。
「何か……訳あり……ですか?」
遠慮がちに困った様に大神に聞かれて、上智は取り繕った様に笑顔を返した。
伺う様に覗きこむ大神は、隣に腰を下して遠慮がちになれない口調で続ける。
「聞きますよ、俺で良ければ……。人に喋ると案外簡単に答えが出る事もあったりするでしょ?」
「あぁ、まぁ……何処に帰ろうかな、とね」
「橋本先生の所には戻りたくないんですか? 一緒に暮らしていると聞いてましたけど……」
「それは……仕方なくって言うか、乗りかかった舟みたいな……」
「他に帰りたい場所がある、とか……?」
「無い」
「……」
大神はキョトンとして瞼をパタパタを瞬かせる。
「え?」
「えっとじゃあ、橋本先生の所に帰らないとですね」
「あ、あぁ……えーっと、うん」
「……上智さん、橋本先生は誰かと一緒にうちの店に来るなんて初めてでした。凄く新しい橋本先生見た、って感じです」
「へぇ……それは意外だな」
「大柄なのにあんなに柔かい雰囲気で子供に優しいんですけど、橋本先生は自分の事を見せない人なんですよね。俺や店のスタッフと仲良くなっても、橋本先生の実態はよく見えない」
「確かに、安吾の事は良く分からないな」
「でも上智さんのスーツを選んで欲しいって電話があった時、この人に何かを頼まれるのは凄く嬉しいなって思っちゃったんですよね。嬉しくてつい、スケジュールを変更してまで店に入ったけど、やっぱり行って良かったなって思えました」
「そう……なの……」
「何と言うか、誰の事も頼らない秘密主義の人が頼ってくれると、ちょっと特別な感じがしませんか? 俺には、上智さんもそう言うタイプの人に見える。橋本先生はきっと上智さんに頼られたいんじゃないか? なんて勝手に思ったりします」
「ねぇ……大神君はさ、ゲイなの?」
「っ!? へっ?」
「普通、そんな思考回路になんないでしょ。俺も安吾も男だし」
「あっと……えぇっと……」
「大丈夫、言わないから。俺も同類だしね」
「すいません……」
「謝らなくて良いよ。俺も何か君に話したらちょっとスッとした」
帰ろう。沖野はベンチから立ち上がった。
カフスを返して、今度は安吾の秘密を一つずつ貰って、こんな自分に何が出来るか分からないけれど、まず一つ返してみよう。
沖野に出来なかった事ではなくて、自分が出来なかった事を出来る男になりたい。
駅を出たら思いの外足取りは軽かった。
元々、家に籠って小説ばかり書いていたせいで動かない方の右足は痩せて軽いはずなのに、時々外に出ると錆びた車輪の様にギシギシと軋んでいた。
でも今は引き摺って歩く足もいつもよりは上手く着いて来てくれる。
「た……ただいま」
「おかえりなさい、
玄関先で待ち伏せしていたかのような安吾に心底安堵した顔を見せられて、上智は胸に迫る謎の圧迫感に、戸惑う。
「……何だよ?」
「いいえ、やっぱりそのスーツにして良かったですね。良く似合ってます」
その晩、青い薔薇のカフスを安吾に返した上智は、これから一つずつ秘密を貰う対価として毎日食事を作る事を宣言した。
年齢は三十三歳、橋本総合病院の三男坊で、家族とはあまり折り合いが良くない。
好きな食べ物はモヤシ、エノキ、豆腐。味が淡泊な物が好きらしい。
一つ一つ、安吾の事を知りながら上智は間借りしたゲストルームで新しい小説を書き始める。
パソコンを貸して欲しいと頼んだら、安吾から「一番最初に作品を見せてくれるなら」と条件を出されて、上智は渋々それを了承した。
賭け出しの俳優志望の男と、小説家を目指す冴えない女。
ラストは死のうとした女と出会う医者が恋に落ちると言うハッピーエンドの話。
男を美容師にしなかったのも相手を女にしたのも、安吾に見せる事を想定したからだが、医者と言う職種を描いたのは、どこかでそれが安吾がモデルだと気付いて欲しかったのかも知れない。
男を蝶に見立てて、女を蜘蛛に見立てて、本来逆であるべきその構図は滑稽な恋愛模様を描くには丁度良かった。
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