episode―5

 授賞式の前夜、買っておいたカフスをリビングのテーブルの上に置いておいた。

 夜勤から帰って来たら気付くだろうと、翌朝起こさずに家を出るつもりだった上智じょうちは買って貰ったスーツをクローゼットの扉に引っ掛けて眺める。


 夏が終わって夜気が秋を連れて冷ややかな足音を忍ばせる。

 使ってないと言っていた八畳程のゲストルームには、使ってないのにちゃんとベッドがあって、出窓には観葉植物も置かれていた。

 青白い月明かりが作り物みたいに分厚い葉の表面に降り注いで、その幻想的な翡翠色の光にただ呆然と眸を伏せた。

 いつか橋本安吾はしもとあんごと言う男に拾われた事すら懐かしくなる頃には、死のうとした事なんてB級コントのオチみたいにダサい思い出になっているだろう。

 一日一つ。年齢、血液型、好きな食べ物、好きな色、下らない質疑応答とどうでも良い賭けをして遊んだこの一週間でどれだけ救われただろう。

 いつまで経っても「何故死のうとしたのか」を聞こうとしない安吾は、やっぱり医者としての本分を果たす為にこんな事をしたのだろうと上智は結論付けた。

 そう思えば自分が聞かれるばかりで、安吾の事は何も知らないと言う事に気付いても知らないままの方が良い様な気がして、未だに年齢の一つも聞いた事が無い。

 何で死のうとしたのかすら思い出せなくなれば良い。

 

 早々に布団に入った上智が人の気配に気付いて目を覚ましたのは午前三時を過ぎた頃だった。


「……安吾?」

「起こしてしまいましたか?」

「おかえり……どした?」

「これ、ありがとうございます」


 安吾の右手にはカフスの箱が乗っかっている。


「……あぁ、うん。そんな物で悪いけど、世話になってるし」

「とても嬉しいです。ありがとうございます」


 パチンコの景品を放り投げる様なやり方でしか人にモノをやった事が無い上智は、かしこまって礼を言われた途端に対応に困って視線を逸らした。

 扉からベッドサイドへと近づいてきた安吾は床に座り込むと、ベッドに頭を預けて上智の左手を握る。

 上半身だけを片肘立てて起こしていた上智はその行動の意味が良く分からずに安吾の旋毛を暫く眺めていた。


「疲れたのか?」

「そうですね」

「なら、風呂に入ってベッドでちゃんと寝ろ。そんな所に座り込んだらそのまま寝ちまうだろ?」

「少しだけ。もう少しだけ、このまま……」


 顔を伏せている安吾の表情は見えない。

 また患者が亡くなったのだろうか、と言われるままただ黙って握られた手を握り返してみる。弱っている安吾を見るのは初めてかも知れない。


「明さん」

「何?」

「青い薔薇の花言葉を知っていますか?」

「え、ごめん、知らない……。何か変な意味あったんなら悪い……」

「ふ、まさか。そうじゃないです」

「じゃあ、良い言葉?」

「元々、青い薔薇を咲かせるのは不可能だと言われていて、花言葉もそのまま不可能だったんですけど、日本のある企業がそれを可能にしてしまったんです」

「へぇ……」

「それから青い薔薇の花言葉は夢かなうになりました」

「夢かなう……良いじゃん。何か前向きで」

「そうですね。だから、コレ……明日一日お貸しします。明日の貴方に、相応しいでしょう?」


 繋がれた手を取られて、掌に二つの青い薔薇が転がった。


「え……?」

「必ず返して下さいね。手渡しで」

「え、いや、ちょ……これはお前に……」

「おやすみなさい」


 どうして、気付かれてしまうのか。

 明日授賞式が終わったらその足でどこか行った事のない土地へ行って、自分の事など誰も知らない街で暮らそうと思っていた。

 十二年も一緒に暮らした恋人は、約三週間かけて自室のモノを処分し、もぬけの殻にしても気付きもしなかったのに――。


 翌日、迷ったまま安吾の自宅を出て授賞式へ向かった上智は、袖口に付けた青い薔薇を見て自分には過ぎるアクセサリーだと、鼻白んだ。

 確かに夢は叶った。

 でもそれを一緒に喜びたかった人間は、もうとうの昔に自分の事など見ていなくて、腫物に触る様な恋人の気持ちを三年もの間、ただの情だけで繋ぎ止めようと足掻いたのだ。


 集団で歩く高校生にぶつかられて少しよろめいた。


「あ、さーせん」

「いえ……」


 美形で成績も良い上智は、上級生や一部の男からはやっかまれて良く喧嘩を吹っ掛けられていた。親への反抗もあって成績が良いのにガラの悪い男子校へ進学したのも手伝って、毎日ウザい位に絡まれる。

 運動神経もそこそこ良かった上智にとって、バカが突っこんで来る程度ならやり方さえ間違えなければどうにか切り抜けられたし、喧嘩慣れして来れば負ける事など無くなっていた。


「あんたが上智利秋じょうちとしあき? 別嬪で頭良いのに喧嘩強いとか、漫画の主人公みてぇ」


 高校二年の時、同じクラスになった沖野の第一声に内心「バカか」と呟いた。

 目立つビジュアルで、いかにも悪そうなヤツは大体友達を体現している癖に、蓋を開けてみればただの良いヤツ。それが沖野博愛おきのひろいと言う男だった。

 沖野は勉強はあまり得意じゃ無かったけれど、手先が器用でその頃から美容師になる事を決めていて、しょっちゅう髪を切らせろと言われる。


「またかよ。その内、禿げるわ」

「禿げたらエクステしてやる」

「晴れがましくて嫌なんだよ、短いの」

「長いと女みたいで嫌だっつってただろうが」

「忘れた」


 沖野と一緒に時間が増える毎に、居心地の良さが浸食して来て、そのまま済崩しに十二年が過ぎた。

 一人になって思い出すのは不思議と学生の頃の事ばかりで、きっとその頃が一番楽しかったからなのだと大きな声で騒ぐ学生の背中を見て呟く。


「漫画の主人公は、こんな草臥れてねぇよ」

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