黒いスイミー
@nanahirasara
第1話
ねえスイミー、置いていかないでよ、君になりたいよ。ねえスイミー、その浮いた個性でどこへ向かうんだ。ねえスイミー、僕はスイマーだ。没個性の中で、溺れもがいてるんだ。
ぱちん。
私は、誰もいない教室の明かりを付けて席について、ちらりと時計に目をやる。おはよう、というように親しげにチクタク言う時計は7時30分を指そうとしている。朝会が9時から始まることを考えたら、早すぎる登校だ。机にリュックを置いて、よいしょ、と席から立ち上がる。クリーム色のカーテンを端から丁寧に開けて、タイで止めていく。それから、窓を開けて換気をする。涼しい風が、髪を撫でていく。
私、小金崎 千春。富士見美術高校の一年。小さい頃から絵ばっかり描いてきた。仲のいい友達もこれといっていなかったから、暇さえあれば絵を描いてた。絵以外、私が出来ることなんて何も無い。それでも絵が好きだから、それで良かった。それでいいと、ずっと思ってきた。
「チハルー! おはよ! 」
ガラリとドアを開けて飛び込んできたのは、茶色く染められた短髪に金色のピアスがよく映える女の子。私の机に、バンと両手をついて、ニカッと笑う。福原 蓮華。私の大事な友達。彼女の絵は、決して整ってはないけれど、伝えたいことを伝えるために描かれた、正しい使い方をされた絵だから、好きだ。
「おはよう。」
「ねえねえ、どうだった? ! 入賞、してた? 」
入賞。先月の絵画コンクールの話だ。学年で先生に選ばれた二人だけが出品できる、名誉のあるコンクールだった。残念ながら蓮華は選ばれず、私と誰かもう一人が選ばれたらしい。
「まだ見てない。一緒に行こうか? 」
「いくいく! 早く行かないと人がいっぱい来ちゃうよ! 」
急かされて、二人で飛び出すように廊下に出る。二つ階段を降った廊下の突き当たり、大きなポスターが貼られた掲示板に結果が出ているはずだ。
「ねえ、チハルってほんとすごいよね。尊敬する。」
九月の、まだ少しむしむしする空気。廊下に落ちる、白い光。唐突に、蓮華の快活な声が真剣味を帯びる。
「やだ、何急に。褒めてもなんにもでないよ。」
冗談めかして言うと、蓮華が儚げに笑う。
「あたしさ、ほら、あんまり絵うまくないし。チハルと一緒にいたら、なんか、恥ずかしいなって思う時、あるんだよ。」
知っていた。前から蓮華は、私と並んで絵を描くのを恥ずかしい、と言っていたから。
「でもさ、チハル、優しいから。あたしの絵
、ちゃんと見てくれるじゃん? あたし最近自分でもうまくなったと思うんだよ。」
蓮華のピアスが、九月の光を反射して光る。瞳が、悲しげに伏せられる。
長いまつげが、憂う様に目を覆う。
「チハルはさ、ここを卒業したらすごいアーティストになるんだよ。みんな言ってる。」
私は、描きたいものを、自分の好きに描いているだけ。ほんとにただ、ただそれだけ。それがたまたま世の中に評価されるだけ。今まで何度も蓮華にそう言ってきた。それがとても幸せな事はよくわかっているし、自分でも自分の絵が大好きだ。
「ほら、だからさ。あたしなんかと一緒にいてくれてありがとね。」
蓮華とは、何度も喧嘩してきた。私が褒められて、蓮華に悔しい思いも沢山させた。だからこそ、今はこんなにお互いを認めあえる。
「……なに言ってんの。それ、私のセリフ。」
そう言うと、蓮華がくくくっと笑う。視界に、大きな掲示板とポスターが映る。
「あ、あれだよね。」
二人で駆け寄る。
大きなポスターがたくさん貼られた中から目当てのポスターを探すのには、時間はあまりかからなかった。
「1位、柳本 夏月……? あ、2位、小金崎 千春!」
1位、じゃない。
「2位?」
一番の次。誰かより、劣っている。誰かより、下?
「すごいね、柳本君。」
蓮華の声が遠く感じる。誰かに負けたという事実を、認められない。理解できない。提出した絵には、絶対の自信があった。だって、評価されやすいテーマを選んだのに。だって今まで描いたものの中で一番時間をかけて描いたのに。なのに?
「あ、柳本君、知ってる? ほら、A組のさぁ、すっごくよくしゃべる人!」
私より上手いって、一体何を描いたの。賄賂でも、したんじゃないの。
素直に、すごいと褒められればいいのに。どうしてもそれが出来なかった。私は、私に絶対の自信があったから。
「ねえ、チハル! だいじょぶ?」
はっ、と意識を取り戻す。
「ごめんごめん、ちょっとぼーっとした。……柳本君、すごいね。」
心から思えずに、胸の奥がもやもやする。
柳本君。名前は聞いたことがある気がする。いっつもおしゃべりしてて、よく先生に怒られてる人だ。絵が、そんなに上手いなんて。知らなかった。
「うちの学校の人が、上位両方取ってるなんて! すごいねー!」
蓮華の明るい声が、無性に気に障る。
「ごめん、私ちょっと美術室に忘れ物してた。取りに行くから先に教室帰ってて。」
蓮華の顔も見ずに、階段を駆け上がる。なんだか、すごく嫌な気分だった。私には、絵しかないのに。誰かに負けたことなんか、なかったのに。ずっと、描き続けて来たのに。先生に怒られてるような男の子に、あっけなく負けた。絵に勝ち負けなんかないのはよくわかってるけど、それでもどうしても事実を受け入れられない。
「あぁ、もう!」
美術室の前で蹲る。
私がいつも褒められていた座に、誰かが座るんだ。そう思うとどうしても悔しくて、悔しくて涙が出た。評価されるような絵を描いたことが、急にバカらしく思えて。なによ、なんでみんなで私のこと褒めたの。私が調子に乗って、叩きつけられるのを見たかったの。
「やだ、やだぁ……こんなの、やだ……。」
ホントは下手だってバカにしてたの。先生も、蓮華も。大ッ嫌い。こんなことで泣くなんて、子供みたいだと思うのに。泣き止まなくちゃと思えば思うほど涙が溢れた。
誰かに見られる前に、美術室に入ってしまおう。薄汚れた引き扉を開ける。ひくっ、とか、えぐっ、とかいいながら、ぐちゃぐちゃの顔で。瞳に飛び込むのは、朝の白い光が広い窓から斜めに差し込む美術室。優しく私を慰めてくれようとする。
ほうっ、と息をつけば美術室の油絵具の匂い。みんな臭い臭いと言って嫌うけど、わたしはこの匂いが好きだ。私のいるべき場所はここ。そんな匂いがする。けれど、そこを居場所にするのに私はふさわしいのかと言われたら。今の私は何か答えることが出来るだろうか。
絵の具でカラフルに汚れている机。
そこに座って、教室を見回す。
小さなカンバスに描かれた薔薇。丁寧に彫られた手の彫刻。空を描いた、水彩画。そのどれもが朝日を受けて、がらんとした美術室の住人らしく胸を張っている。ふと、私の描いた絵が黒板に見本として貼られているのに気づく。私の絵だけ、申し訳なさそうに住人たちからあぶれている気がした。なにが見本よ。柳本くんのを、貼ればよかったのに。そう思ってしまう自分の弱いこと、醜いこと。どうしようもなく自分の弱さから目をそらした先に、唐突に、まるでそこだけ、世界から切り取られたようにその絵はあった。
光が剣のように差し込む美術室の、窓際の一際明るい一角に佇む、少女。心の底から楽しそうに笑いながら、両手を広げて走り回る少女。彼女がいるのは、大きなカンバスの中。繊細なタッチの水彩。こげ茶色で描かれた主線が、とても良く水彩に合っていて。才能、と言う二文字の漢字が私の頭の中でくるくる回った。ああ、これが柳本くんの絵だ。そう直感的に思った。デッサンの力量も、色彩のセンスも、緻密さも、何一つ勝てないと悟った。なんの才能もない、からっぽの私の中に静かに満ちていく、柳本くんの眩しく輝く才能が痛い。謙遜もせず、褒められず、まるで舗装された道から生えるたんぽぽのようなその才能が痛い。痛い。私に足りないものは何?生まれ持った才能?それとも謙虚な心?もう、わからない。なにもかもがたりない気すらした。絵なんて、もうやめよう。私には足りないものが多すぎる。そう思った。そう他人に思わせてしまうほど柳本くんはまごうことない天才だった。
「あぁ、チハル!おかえり!わすれもの、あった?」
がらりと引き戸を開けて入った教室は、もう幾人かの生徒で賑わっていて、その喧騒が私の荒れてしまった心を落ち着けた。
「うん、あったあった!ごめんねー!」
いつも通りいつも通り。こんな恥ずかしい負の感情を悟らせてはいけない。
「あれー?チハル、なんか目腫れてない?」
「そ、そんなことないよ!?ゴミでも入ったのかなー!」
蓮華は、ふぅん……と不審そうに私の顔をのぞき込んでからまぁいっか、と呟いた。
「ところでさあ、1限から4限まで自由表現の特別授業でしょ、今日。」
自由表現。うちの学校の特色とも言える教科で、名前の通り、好きな絵を、好きな画材で、好きなように描いていい。私の、一番嫌いな教科だった。
「あ、ああ……そうだね。」
いつもは2時間のこの教科は、今日に限って、こんな日に限って。特別授業なのだった。
「チハル、どこ座る?」
「えー、どこでもいいけど……。」
私と蓮華は、木漏れ日の差し込む窓際に椅子とキャンパスをならべて置く。
なんにも描く気にならなかった。
退学とかって、出来るのかな。お母さんになんて説明しよう。
そんなことばかり、考えていた。
楽しそうに何を描こうか悩んでいる蓮華が、心底羨ましかった。きっと私なんかよりずっとずっと素敵な絵を描くようになるんだろうな、と考えて、少し悔しくなる。
きっとどこかで、私は無意識のうちに蓮華を見下していたんだ、とおもった。自分より絵が下手だから。一緒にいると、優越感に浸れるから。
きっと、そんな下らないことをしているうちに私は見下してた人に追い抜かされて一人ぼっちになるんだ。
「ねぇ、チハル……。」
思わずびくっと肩がはねてしまう。
「ご、ごめん、ビックリさせて!私、ちょっと体調悪くて……。」
お腹痛いから保健室行ってくるね、と青い顔をして言う蓮華の目を見ることが出来なかった。やましい、ってこういう時に使う言葉なんだなあとぼおっと考えていた。
「うん、分かった。先生に言っとくね。」
蓮華には申し訳ないけど、一人になれてよかった。一緒にいたら八つ当たりしてしまいそうだったから。それでも、蓮華がふらふらと青い顔をして歩く様子が心配で、目で追いかける。
ふと横を見ると、柳本君がカンバスを置いている。木漏れ日を浴びる横顔。すらり、と通った鼻筋。憂いを帯びる瞳。女の子のように桜色をした唇。普段廊下で騒ぐ柳本君とは別人のようだった。冷たく張り詰めた瞳が、すつとこちらに向けられる。
ひゅっ、と喉が鳴る。柳本くんの瞳に、すべて見られて軽蔑されている気がする。九月の生ぬるい空気が急に冷え込んで、首元から背中へ一筋、つっと冷や汗が伝う。おちつけ、おちつけ。そう思えば思うほどに、心臓が耳元で大きく、早い音を立てる。深呼吸しようと思うのに、息が吸えない。なにも怖いことなんかないのに。私が勝手に怯えてるだけなのに。まって、まって、私を置いていかないで。溺れるように苦しくなる。見下してごめんなさい。許して。ひとりにしないで。
とん、と肩に手が置かれる。手の主に目を向けたいのに、身体が思うように動かない。
「大丈夫。過呼吸、おれもよくなるから。はい、息吸ってー。吐いてー。」
低いテノール。何処かで聞いたことのある声だった。大きくて節ばったペンだこのある手が、背中をぽんぽんと優しく叩く。ふっと呼吸が楽になって、眠気が襲ってくる。
「そのまま寝ていいよ。運んどくから。おやすみ。」
私はその言葉に甘えて、半ば気を失うように眠りについた。
はた、と目を覚ますと、チャイムが鳴り終わるところだった。何時間目のチャイムだろう。保健室らしい、真っ白い、消毒液の匂いのするベットに横たわっていた。しゅんしゅんと加湿器の音が耳に心地いい。先生はいないようで保健室の電気は消されていて、窓から差し込む昼の光が部屋を満たしている。右側のカーテンの向こうから、泣き声が聞こえる。保健室にはそういう子も来るだろうな、なんておもいつつ、気づかれないようにそっとベットから出ようとすると、その声に混じって蓮華の声が聞こえた。
どうして、どうして私ばっかり。こんなに努力してるのに。こんなに辛いのに、上手くならないの。なんでよ。私、何かした?頑張ったって頑張ったって、報われないじゃない。もうやだ。もうやだぁ……。
普段あんなに明るくて、大人びて、落ち着いた蓮華とは思えなかった。けれど、その自我の強そうな凛とした声は、かすれていたけれど確かに彼女の声だった。カーテン越しの日の光で白んだ保健室の壁が、私と蓮華の間に距離を作る。仄暗い誰もいない保健室は、まるで蓮華を包み込むサナギのように周りの音や光を吸い込んで、とっぷりと悲しみや辛さで満たしていく。
声をーーーーー少なくとも、今は、掛けない方が良いよね。
音を立てないようにそっと引き戸を引いて、私は保健室を後にした。とりあえず美術室に戻ろうかな。外の光の加減から見て、まだ時間は10時くらいの様だった。グラウンドでテニスをする男子の声が聞こえる。日の差し込む廊下はぽかぽかとオレンジ色の陽気で私を包み込む。ああ、今行ったら授業中で気まずいかな。あっ、保険室の先生に何も言わずに出てきちゃったけどだいじょうぶかな。戻ったら助けてくれた人にお礼を言わないと。誰だったんだろう。なんて、とりとめもないことを考えながら階段を上る。
目立ちたくなくて、美術室の引き戸にそっと手をかける。どうせ些細な音でもみんな振り返るのは分かりきっているけれど、それでも少しでもその瞳の数を減らしたかった。そっと右へ扉を押し上げると、かすかにカラカラという音が静かな教室に響く。さっ、と数人の生徒がこちらを不躾に見つめてはキャンバスに視線を戻していく。二つ並んで窓際で光を浴びる真っ白なキャンパス。私と蓮華のキャンパスはまだ真っ白だった。静かに足をそちらへすすめる。周りを見渡しても、まだ構図を決めかねている人もいて、今からでも十分間に合いそうだ。右側の白いキャンパスの前に置かれた、デッサン用の低い椅子に腰掛ける。
「大丈夫だった?」
唐突に掛けられる聞き覚えのある囁き声に、驚いて椅子から落ちそうになる。ぱっと声の主の方を見る。高校生男子特有の、不釣り合いなほどの高身長と痩せて締まった体。白い肌。ごつごつした器用そうな指の一本一本。薄い唇と細めの瞳。柳本くんだった。
「あ……。」
なんと返事をしたらいいのかよく分からない。大丈夫、と返してしまえば済むけれど、なんだかそれで終わらせたくはないような気がした。
「……ありがとう。」
ぶっきらぼうに、呟く。
「柳本くん……だったんだ、さっき助けてくれたの。助かった。ありがとう。」
柳本くんは細い瞳をより一層細い三日月形にすると、小さな紙切れを手渡してきた。手と、手が触れる。ペンだこのある、硬い指先。その感触だけで、彼の絵を描いてきた時間をしっかりと感じて、思わずさっと紙切れを彼の手から引き抜いた。絵に対して誠実に向き合ってきた人なんだな、と思ってから、彼に"負けた"ことをまた思い出す。思い出しすぎないうちに、慌てて受け取った紙を開く。
『小金崎さんでしょ?』
小さくて神経質そうなカクカクした字。その下にちいさく、うん、とだけ書いて手渡す。柳本くんはにこにこしてうなづいてから、またカリカリと何かを紙に書いて渡してくる。こんどは丁寧に四つ折りにされていた。
『君のことがずっと羨ましかった。 君みたいな絵が描きたくてこの学校に入ったんだ。』
文の意図がよく掴めなくて、2度読み返してから、その下に書き加える。
『どういう意味?』
と、その時無神経にガラリと大きな音を立てて先生が教室に入ってくる。慌てて紙を隠すと、黒い髪をぱちんとショートに切りそろえた美術の女の先生が教卓の前にたった。
「そろそろ疲れたでしょう。 絵を描くときは程よい息抜きも大事よ。 はい、休憩!」
パンパン、と大きく手を叩くと、一斉に教室がざわめく。
「どういう意味?」
もう1度、柳本くんに問いかける。柳本くんは少し考えるように視線を右に寄せて、それから口を開いた。
「君はね、スイミーだと思うんだ。」
スイミー。懐かしい響きだった。なんだったっけ、とすこし考えてから、児童向け絵本のタイトルだったことを思い出す。
「スイミー?」
オウム返しのように、聞き返す。
「そう。 スイミー。 知ってる?」
スイミー。赤い魚の群れの中で1匹だけ黒く生まれ落ちた魚。確か、スイミーは群れの仲間達を大きな魚から救うのだ。
「そうそう。 スイミーは、群れを大きな魚の形に並ばせて、自分が瞳になって大きな魚から群れを守るんだ。 」
柳本くんは、そこですこし唇を震わせて、目を細める。
「僕は、赤い体で生まれたから、必死にもがいてきた。 誰より努力してきたつもりだし、誰よりも絵が好きなつもりだ。」
それから、その瞳を私の方へ向けた。悲しそうな群青色をしていた。
「だけどそれでも、君の絵を見た時、負けた、と思ったんだ。 絵に勝ち負けなんかないんだろうけど、それでもそう思ったんだ。」
柳本くんの細々とした声が途絶えた途端、何故だか、視界の奥の黒板に貼られている"お手本"と書かれた私のバラのデッサンが目に入って、つっ、と胸に何かが刺さるような痛みを感じた。
「僕は、今までよりもっと何十枚も多くデッサンやポートレートを描いた。それでもいつも君の絵が先生に褒められるのが、悔しくて悔しくて、必死に描いたよ。」
はは、と笑う柳本くんの声が、ざわめいている教室にやけに響いた気がした。
だからね、と言葉を続ける柳本くんの横顔に、窓から差す木漏れ日が静かに映る。ただ、美しいな、と思った。
「だからね、コンクールで君に勝てた時は嬉しかったんだ、正直。僕の体は血と痣で黒く変色してしまっただけなんだろうけど、それでも嬉しかった。」
そこまで言って、柳本くんは諭すようにわたしを見つめた。さっきとは違う人のような、凛とした真っ直ぐな瞳だった。
「君はね、特別なんだ。 痛い思いをしなくても、生まれつき炭みたいに艶のある美しい黒い体なんだ。 痛い痣が出来れば、もっともっと、宇宙みたいに美しい黒になれるんだ。」
う、とちいさく呻いてしまう。柳本くんの真っ直ぐな瞳に打ち抜かれた私は、まるで標本箱の中の蝶みたいに、ピンで固定されたみたいに、動けなくなってしまった。私は、痛い痛い、と慣れない痛みに転げ回って、自らの黒い鱗を捨てようとしたのだった。
「僕は、君にもっと美しくなってほしい。 君ならきっと、海原の大きな魚にだって立ち向かえるはずだから。」
なんだか急にさっきまで絵を描くことを辞めたいと思っていた自分が恥ずかしくなって、柳本くんから目をそらす。同じ年に生まれた彼が、立派な大人に見えた。
天才、と言われたことが、何度あっただろうか。凡人、と後ろ指さされたことが、何度あっただろうか。小さいうちは褒められ、大きくなると次第に凡人、と貶されるようになり。褒められたくて褒められたくて、いつしか褒められるために絵を描くようになった。それが悪いことかいいことかわからないうちから私の中に巣食った「褒められたい病」はどんどん肥大化して、いつしか私は褒められるために生きていた。そんなように思う。私がそのことに気づくまでの17年間の間に、私の周りの「凡人」とよばれた人たちはそのジレンマを克服して大人になっていくのに。私はいつまでも青い春という泥沼の中で、褒められたい、認められたいと他人の顔色を伺いながらキャンバスに色を乗せていたのだ。
描きたいものを描こう。少なくとも、今日この1日、この授業だけでも。
太い、無骨な黒の木炭を手に取る。不思議と、迷うことは無かった。画面にモチーフの位置を印付け、がさがさと大まかに削り出してゆく。それはまるで、キャンパスの中に埋まっているものを掘り起こしているみたいだった。乳白色のカーテンからすっと差し込む光が、キャンパスの白い目地に乱反射して美術室いっぱいに乳白色を満たしてゆく。かりかりと聴こえていた鉛筆の音が、周囲の人の気配が、感じられなくなってゆく。大まかに描けたそれに、半ば零すように水彩の絵の具を重ねる。白。黒。薄紅。青緑。重ねれば重ねるほど水彩は、私の思い描く想像に呼応してキャンバスに埋まったイメージを掘り起こす。懐かしい気がした。この感覚が。この、「絵を描く」という感覚が。とぷん、とプールに潜水したように周りのものも音も気配もかんじなくなって、目の前の1点に集中する感覚が。最後にこの感覚を感じたのはいつだっただろう。思い出せないほど、むかしだったきがする。
「できた」
小さく唇を震わせるように呟いて、私は顔を上げる。つっ、と汗が額から頬を伝っていくのを感じる。目の前のキャンパスに広がっていたのは、頬杖をついて窓の外を眺める少年のスケッチだった。サテンのように艷めく長めの黒髪。光を受けて白く浮き上がる肌と、淡青緑の影。退屈そうに窓の外を眺める群青色の瞳。風を感じる白いシャツ。少年らしい、薄くて紅色の唇。窓の外に溢れる陽の光と、それを受ける美しい少年。誰かに、似ている気がした。評価してもらえるだろうか、という一抹の不安と同時に、評価されなくてもいいと思った。もし評価されなくても、私は私のために、私の私へ対する評価のためにこの絵を描き上げたのだ。
「すごいね。やっぱり、スイミーだ。」
柳本くんが、わたしのキャンバスをのぞき込んで真面目な顔で言う。それが何だかおかしくて、くす、と笑いが零れる。柳本くんと、目が合う。
「スイミーはね、兄弟を大きな魚に食べれられて、泣きながらひとりで海をさまようんだよ。やっと会えた同じ種類の魚をなんとか助けるために、目になるの。」
もう、十年近く前だったろうか。教科書でスイミーを読んだ時、そのシーンに強いショックを受けた記憶があった。レオ・レオニのちぎった和紙のような柔らかい画風に、鋭く突き刺さるようなストーリーのアンバランスさが恐ろしかった。だけど、もしスイミーの兄弟が大きい魚に食べられなかったら、どうだっただろう。きっとスイミーは一生ただ黒い仲間はずれな魚のままだった、と思う。私は、いや、きっと私達は、みんなスイミーなんだと思う。色はもっととりどりで、緑だったりオレンジだったりするのだろうけれど。結局それを濃くて綺麗なものにしていくのは、ただの群れの魚でいないようにするのは、痛みだったり、悔しさだったり、涙だったり、悲しみだったりするのだ。
「柳本くん、私、蓮華の所へ行ってくる。私、蓮華に謝らなきゃいけない。それから、だいじょうぶだよ、って言ってあげなきゃいけない。」
柳本くんの細い目がまた、きゅっと三日月型に細められる。
「行ってらっしゃい、スイミー。赤い魚が海で堂々と泳げるようにするのが、君のお話の終わりだものね。」
まるで暗号のような、呪文のような、私を勇気づける言葉。それもまた、溺れていたスイミーの言葉なのだ。
「柳本くんもね!」
淡青緑の影が、柳本くんの整った顔を更に絵画のように描き上げている。にこり、と笑う柳本くんの頬の膨らみが、美しく光を反射していた。
黒いスイミー @nanahirasara
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