少女たちと一つの問題 2
結論を出すことを急かされないという安心はあったものの、それでもこのたった一枚の紙きれはずっしりと重かった。質の悪い紙のざらざらが、心まできつく擦っているような気がする。「私が私以外でもありえた」という可能性の衝撃が一日じゅう尾を引いていた。金槌でがつんとやられて、それがずきずきと痛むような感覚だった。どこか、今の、今までの私が否定されたような気がした。ずっと私は私だけのものだと思っていた。私が私じゃないだなんて、そんな変なことなんかあるのだろうか。けれども先生がそう言うのだ。先生が言うのだからきっと正しいのだろう。そのことには想像もつかないほど難解な根拠があるのかもしれない。あの先生の黒い瞳のように、そこの見えない、深遠な……。すっかり消沈していても、新しい学年、新しいクラス、新しい顔ぶれと、ものごとに新しく改まる季節に高揚してこの道を歩いた昨日と同じように陽は暮れてゆく。ほんの一週間前には満開だった桜の木は、いまやほとんど花を散らしてしまっている。柔らかい緑の中にチラチラと揺れる赤い萼が不気味である。小さな若葉を揺らす程の風でどこまでも飛んでいってしまいそうな紙に気を塞がれてしまっていた、青暗い帰路であった。バイバイ、とランドセルが二つ、私のそばを駆け抜けていった。彼らも彼らではなかったのかもしれないというのだろうか。
玄関は真っ暗だった。が、不用心にも鍵は開いていた。リビングまで行ってもしんと寂しく真っ暗である。今日はお父さんが先に帰ってきたのだな。二階に上がってみると、案の定、書斎の戸の隙間からはまぶしいほど光が漏れている。玄関の鍵のことをお父さんにいま注意してやろうとも思ったが、書斎に近づくのはなんとなく嫌だった。私はお父さんのこの部屋があまり好きではなかった。小さい頃は入っただけで怒られた記憶が「好きではない」の土台を作り、その土台の上に古い本のいやな黴臭さが乗っかっており、その頂点には、本棚から溢れ出て狭い部屋のあちこちに背高く積み重なった本の圧迫感が来る。私を押し潰してしまうかのような、たまらない苦しさ。……一枚の紙にさえこれほどまでに重さを感じてしまうのだから、きっとここにある本なんかは私を跡形もなくぺしゃんこにしてしまうのだろう。そうしてすっかり「好きではない」の山ができてしまったのである。私は書斎の戸から漏れる光を、離れたところからすこし眺めて、そのまま階段を降りていった。制服から部屋着に着替えて、パチンとリビングの明かりをつけて寝転がった。ゆっくり目を瞑ると、真っ暗なところから、今日の記憶が声になって頭の中で響いてくる。心地よくうるさい教室、あまり流暢ではない英語、源氏物語……。人の声を聴くのはなんとなく好きだった。こうして目を瞑って真っ暗な世界にいても、友達の声、先生の声を思い出していると、今朝の青く清々しい陽気の中にいるような感じがして、ゆるりと安心できる。その日一日の間に聴いた、聞こえてきたいくつもの声が蘇ってくる。優しい波の音のように少しずつ寄せてくる。
やがて、記憶の声はすうっと小さくなっていった。あぁ、もう眠ってしまうな、と思った瞬間である。「あなたはあなた以外でもありえた」。突如、山井先生がぴしっと語りかけてくる声が蘇ってきた。足元が揺すれた。学校全体がグラグラして、今にも崩壊しそうなくらいに傾いた。教室は夕暮れの道のように薄暗い。先生の姿は幽かにしか見えない。きちんと席についた生徒たちの誰の顔もはっきりとしない。みんな同じ姿をしているように見えた。誰もがぼんやりしていて、教室の薄暗さの中に溶けていってしまいそうなくらいであった。それどころか自分の手足すら朧げで、はっきり見分けられなかった。チャイムが鳴った。それでも誰も身動き一つ取らなかった。先生も教壇に立ったままである。教室はどんどん暗くなっていった。私は不気味なこの場から逃げ出したかった。それなのに私の足は、自分の身体ではないかのように動かず、立てなかった。教室にいる誰もがみな、この闇の中に溶け込んで一つになっていくようであった。何も見えず、何も聞こえない闇の中にいた。助けてほしいのに誰もいない。誰かの声が聞きたかった。私をこの暗闇から救い出してほしかった。私の名前を呼んでほしかった。
「琴子!」という声がした。蛍光灯の白い光は、暗い夢から醒めた眼には眩しかった。
「琴子、起きた? ご飯よ」とお母さんがキッチンから呼びかける。まどろみに酔って頭をくらくらさせながらゆっくりと身を起こすと、正面でお父さんが文庫本を片手に座っていた。ちらっとこっちを見て、おお、おはよう、と、そのまますぐに本に目を落とす。おはよ、と短く返事した。
いま蛍光灯の明かりのもとでは手も足もはっきりと見えるし、それは私の手と足だった。手は思うように閉じたり開いたりするし、指も自在に動く。こうやっていると、私はやっぱり私でしかないと思う。私以外でもありえたなんてことがありえない。それでもまだ夢が気味悪く続いているような気がしたし、倫理の授業以来ずっとこころはぐるぐる渦巻いたままだ。気持ちが悪かった。今までに味わったことのない感覚である。何が気持ち悪いのかははっきりと分からない。分からないからいっそうもやもやと気持ち悪さが膨れ上がっていった。
夢から覚めたことを確かめるように身体のあちらを見、こちらを見していると、お父さんはいつのまにか文庫本を閉じて、じっとこちらを見ていることに気がついた。私が「何?」と問うと、お父さんは丁寧な動作で文庫本を机に置いて「どうしたんだ」と言う。この抽象的な問いに、なぜか倫理の時間のあの問題が重なった。突如、夢が、私の身体が、私が、といろいろな主語が同時に浮かんだ。きょう一日立ち込めている薄暗い、夢に見た教室のように気味の悪い感情が煙のようにむわっと膨れ上がった。ばっとぜんぶ吐き出して、気持ちを明るくしてしまいたかったが、どの主語を選んでも、今日の私の黒々とした気持ちを事細かに話すことになってしまう。自分の感情を覆い隠すことなく話してしまうのは、素肌をそのままさらけ出しているような気がして恥ずかしかった。膨れ上がった感情によって肺から押し出された空気は喉のあたりで少しつまって、ことばにならない音として口から漏れ出た。情けなく悲しかった。やり取りはそれきりになった。
カチカチと秒針が進む音ばかりが気になる。窓の外は、まだ冬を忘れきっていない寒さが、夜の空気を凝縮しているようにとろりと深い暗さをしていた。月は薄い雲に覆われてしまって、わずかに透けてくる淡い光でしかその姿を捉えられなかった。一人静かな部屋で、真っ白な空欄を前にして固まっている。私は私でしかないと思うのに、そのことを書こうと思っても、山井先生の声が蘇ってくる。さっき見た夢を思い出す。そのたびに、思考は縛められ、身体は硬直する。しばらくそうして繰り返しても、私のひととなりを表すはずの空欄は真っ白なままであった。こんな質問に答えるのなんてやめにして、プリントも引き裂いてしまいたかった。もし私が倫理なんて選択しなかったら、もし先生が山井先生じゃなかったら、もし山井先生が私たちのひととなりになんて興味がなかったら、私はいまごろこんな変な問題に悩んでもいなかったし、こんなにも不安で気持ちが悪いこともなかっただろう。明日も友達の声を聴いて、笑って、楽しく過ごしていたに違いないのに。
考えても考えても、書くべきことのかけらさえ浮かんでこない。「あなたが「個」人であるのはなぜか」という問題は、私にとって捉えどころがなさすぎた。難しい数学の問題だって、問題文を読めば何か答えへ向かうためのきっかけのようなものがあるというのに、この問題にはそうしたものが何もなかった。ただ私を突き放すだけであった。「私は私以外のものであるわけがない」という考えばかりがよぎる。けれど、それは何の答えにもなっていないような気がした。先生はそういう答えでもいいと言うが、私だったらそんな答えに点数をあげようとは思わない。とても正解があるような問題とは思えないけれども、「間違った」答えは書きたくなかった。この空欄に書くべき「答え」を誰かに教えてもらいたかった。
考えれば考えるほど体が熱くなった。水を飲みにキッチンへ向かうと、お母さんがリビングでテレビを見ていた。冷蔵庫を開けた私に気がついて、お母さんは、琴子、と私を読んだ。
「何?」
「家に帰ったらリビングの電気つけておくか、玄関の鍵閉めといてよね。危ないんだから」。
「それはお父さんに言ってよ。きょう先に帰ってきたのお父さんなんだから」。
「あら。けど琴子もお父さんに似てるから、そういうこと忘れるでしょ。だって私が帰ってきたとき玄関の鍵空いてたよ」。
ああ、それはリビングで寝ちゃうとは思わなかったから、と口の中で唱えつつも、お父さんに似ていると言われてむっとした。「お父さんと一緒にしないでよ。私はお父さんとは違うんだから」。
あらそう、そうやってムキになるところが似てるのよねえ、と笑って呟きながらお母さんは再びテレビに向かった。
もう、と思いながらコップに水を注いで、ぐっと飲んだ。冷たくて全部は飲みきれず、半分くらいコップに残った。よく分からない問題に火照った体に、きんと冷たい水が染み渡って心地いい。ああ、どちらかと言えばお母さんに似ていると言われるほうが良かったかな、お母さんは家の中でも外でもピシっとしているし、お父さんはそれとは正反対で、山井先生みたいでだらしなく、よくあれで大学の先生なんて務まるな。私が今の私じゃなくて、もっと私がなりたい私だったら……。私が……。
「あ、お水飲んだんだったらコップ洗っといてね」。
お母さんが私の思考の流れの中に突然割り込んできた。何かいい具合に考えられていたような気がしたけれど、ふっと霧散した。はーい、と返事して残った水を飲み干した。水道の水も冷たくて気持ちがよかった。コップを洗って干し台の上に置いた。似たようなコップに並んで、私がさっき使ったばかりのコップが加わった。そうだ、私がなりたい私だったら……。モデルのような体型で、星のようにきれいで、頭も良くて……。そうしたらどんなによかっただろう。そう考えたとき、ふと、それまでの思考が反転したような気がした。そうか、私が私でなかったかもしれないというのは、別にネガティブな意味しか持たないわけじゃないのかもしれない。
山井先生に問われたときに、百年後のカレンダーが示す世界を思い浮かべてしまったせいかもしれない。私が私でないとか、私が産まれて来なかったらとかということを、私がいなかったら、ということと同じように考えてしまっていた。モデルのような体型で、星のようにきれいで、頭も良くて、という私は、たぶん、残念だけど、今の私ではない、けれど、そうであったことだってあり得たんだ。私は問題に対してネガティブなイメージしか抱けなかったのを、山井先生の眼のせいにした。さっきまで揺らいでいた足元が確かになったような気がした。あの空欄に立ち向かってみよう、いまなら立ち向かえる気がする。そう感じて、私はすぐさま部屋へ向かった。
部屋に戻ってきて、窓から外を眺めると、薄い雲はきれいに晴れて月はすっきりと輝いていた。私はシャープペンを手にとって、例の空欄に立ち向かった。
翌日、職員室で山井先生にプリントを手渡すと、あの眼は黒く渦巻いたままであったけれど、嬉しそうに微笑んだ。
「これで全員揃いましたね。ついさっき他の二人も提出しに来ました。君も、うん、しっかり書いていますね。ま、次回の授業を楽しみにしていてください。私も楽しく読ませていただきます」。
「次回の授業を楽しみに」ということばが少し引っかかったものの、昨日、倫理の授業が終わってからの気持ちとはうってかわって晴れ晴れとしていた。他の二人は一体どんなことを書いたのだろうか。おそらく彼女たちも、私のように一晩悩んで書いたのだろう。知ることはできないだろうけれど、というよりも、知ることはできないだろうから気になった。いつか聞いてみたいな、と思った。
このことあのこと 白井惣七 @s_shirai
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