結話〜さよならの意味

 俺と雫は電車に乗って、バスに乗り換えて、そして歩いた。合計すると四時間以上掛かったが、思ったよりは近かったんだなと思い知る。小学生の時に抱いた距離感と比べたら、決別の後の距離もまた、ちっぽけだったのかもしれない。


 ここは、離れていった後に律が生きてきた場所。そして、律が眠っている墓のある場所だ。証拠になるかは知らないが、昨日の夜会った律と、同じ制服を着ている学生の姿がちらほらとあった。


「ここが、律の……」


 隣で雫が小さく呟く。目前の寺を羅生門だとでも思っているのか、恐怖と決意が入り混じった顔で見つめていた。


「ああ。そうだ」


 とはいえ俺にも、ここが羅生門ちっくな場所に見えるわけだが。


「行こう」


 足を踏み入れる。参道を踏むと同時に身体が重くなった。隣で震えながら歩いている雫に「もう少しゆっくり歩いてくれ」と言いそうになる程、足が進まない。


 少し前を歩く雫は白い息を吐いているというのに、俺は冷や汗をかいていた。律に任せろと言った手前、根を上げるわけにはいかない。だが、苦手なものは苦手なのだ。


 自らの身体に鞭を打つような心持ちでなんとか進み、寺の裏手に回る。小さな墓地が見えた。墓地まで小さいのか。何もかもが小さいな、俺の周りにあるものは。


 桶に水を入れ、杓を用意する。雫が鞄からタオルを取り出したところで、雫の動きが止まった。


 きっと、怖くなったのだろう。別れが。さよならが。


 だから変わりに俺が先行して、名前を探す。河野江ノ墓と書かれた石はすぐに見つかった。裏を確認する。享年二十三年河野江律。一番下に書かれた、目的の名前。ここが目的の場所で間違いないようだ。


「洗ってやってくれ」


 俺が言うと、雫は「うん」と頷き、杓で掬った桶の水を墓石の頭から掛けた。


「上から掛けるなよ。中の人がびっくりしちゃうだろ」


「え、あ、ごごごめん」


 慌ててタオルを手に取って、墓石の天辺を拭く。が、それは今更だ。中の人は今頃びっくりたまげていることだろう。お盆でも無い時期に、なんでこいつが? みたいなやつが墓参りに来たのだから。


 その後も俺がそれっぽい指示を出して、雫がそれに従う形で墓石を綺麗にした。磨きすぎだろ、と、思わず笑ってしまう程、持ってきた新品のタオルが、繊維の切れる音を立て始める程、ごしごしと洗う。


 俺が今日の朝、突然墓参りに行こうと提案して、表情を暗くした雫にあーだこーだと文句を言って、なんとか連れ出したのだ。雫にさよならを言う覚悟は伴っていないだろう。だからこそ、こうやって必要以上に墓石を磨いて、時間稼ぎなんてしているのだろう。


 けれど、律が俺の眼の前に現れ、行動を起こしたという事は、きっともう潮時なのだ。さよならを言えるようにならなければならないのだ。


 俺が、言わせなければならないのだ。


 律のため。雫のため。


 そして、俺のためにも。


 墓石を磨き続ける雫。その背中をずっと眺めていた。せめて気が済むまでやらせてやろうと思っていたら、二十分近くそうしていた。雫の手はもう真っ赤で、指先はアカギレを起こしている。


 その痛みにタオルを落としたところでようやく、雫は手を止めた。


「……もういいのか」


 問うと、小さな頭が小さく頷く。


 そして沈黙。風が木の枝を揺らす音だけが響く。いや、もしかしたらこれは、ただ枯葉が飛んでいくだけの小さな音かもしれない。


「律。小学校の時はね、楽しかったよ。一緒に遊んでくれて、ありがとう」


 偉いな、と思った。もしかしたらこれも時間稼ぎなのかもしれないが、それでも、想いはちゃんと全て伝えようという気持ちが伝わってきて、心地よく感じた。


「中学校の時はね、辛かったんだ。友達が出来なくて、なかなか人と話せなかったから。律が死んじゃった時なんか、半月くらい学校休んだんだよ。一輝に怒ってもらえなかったら、多分ずっと外に出なかったと思う」


 そういう事もあったな、と、忘れていたわけではないが、懐かしく思った。俺としては正直、怒るだけで外に出てくれるとは思ってなかったのだが。


 震えた声で、雫は続けた。


「高校生の間はね、つまらなかったんだ。ずっとずっと、律も居ないし、話せる人も一輝くらい。だからつまらなかった。だけど、律から貰ったネックレスが無くなって、探し回ってたらね、見つけたんだ。話せる人。もう学校、終わっちゃうのに。また、さよならを言わなくちゃいけなくなるのに」


 そうなのだ。聞き込みと称して失敗して心配されて。そんな事を繰り返していた雫はいつの間にか、何人かと定期的に話すようになっていた。これは律の功績だろう。


 ……いや、多分、これを狙っていたのだ。雫を自立させるために。


 だから、無意味にしか思えないような遠回りな方法で、俺に解決を求めてきたのだ、あいつは。雫の口から直接「さよなら」を聞けないというリスクを負ってまで、律は雫の現状のために手を尽くした。


 ……まったく、雫の兄たる俺も、お手上げの雫への愛だ。


 何度も何度もしゃっくりを上げて、それでもなんとか言葉を紡ぐ、小さな口の小さな勇士。これが、律が無理して化けて出てまで生み出した姿。


「さよならなんて、したくないよ。でも、それじゃ、駄目なんだよね。律みたいな友達と、また会うためには、しなきゃ、いけないんだよね」


 普通なら、小学生とか幼稚園のうちに思い知るべき事だったはずの事だ。だが、雫にはそれが出来なかった。さよならを言えなかった。ずっとずっとそうだった。


 けれど。


「だから、さよなら。律」


 小さな身体から発せられた、大きな想い。


「貴女をずっと、忘れないよ」


 大粒の涙を流しながら、小学校の時とは見違えた形で、雫は言う。


 雫と律のさよならは終わった。それでも余韻のように響く雫の嗚咽。俺は墓石の前でしゃがみ込んでいる彼女の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫で──


 ──ようとして、俺の手は、雫の頭をすり抜けた。


 ああ、俺も無茶してこんな場所に来てしまったから、その時が早まってしまったようだ。


 ──自分の手が、光の粒になって、消えかけていた。


 もう、雫の頭にも、肩にも、俺は触れない。


 だから俺は、言葉を発する。


「強くなったな、雫」


「…………」


 褒めてるんだから、せめて少しくらい反応したっていいだろ、とは思ったが、無理からぬ事だろう。なにせ、雫のやるべきことは、まだ残っているのだから。


「はい、これ」


 消えかけてしまっているのとは反対の手で、木彫りのネックレスを差し出す。ボロボロのミサンガみたいな紐に通された歪な彫刻。


 ゆっくりとそれを受け取った雫はしかし、それ以上の行動はしなかった。探していた物を俺が持っていたのだから、文句のひとつくらいあっても良いだろうに。


 俺は、もう何も触れなくなった手で、彼女の前髪を止める無愛想の銀色のヘアピンの、その輪郭を撫でる。


「昔はピンクだったのに、もうぼろぼろだな」


「…………」


 雫は何も答えない。


「そろそろ、変え時なんじゃないか?」


 その提案には反応があった。雫は小さく、しかし何度も、首を横に振る。


「そうか」


 俺は笑った。楽しい事があったわけじゃない。だが、嬉しい事はあった。雫の小さな、しかし確かな成長を見れたのだから。微笑ましくなるのも仕方ない事だろう。


「でも、解るよな」


 問いの形を変えたにも拘わらず、雫は同じように、首を横に振り続ける。


 言いたくないなとは俺も思う。


 でも、言わなければならない。


 俺のため。律のため。


 そして、なにより愛しい、雫のためにも。


「せっかく一歩前進出来たんだ。ネックレス探ししてた時と同じようにすれば、友達にも困らないと思う。だから、お前はもう大丈夫だ」


 もう少し、進まなければならないのだ。過去の因縁に打ち勝つためにも。


「……うん」


 雫は強くならなければならない。そして、さよならを言えるようになった。相変わらず頷きは小さいが、自分の身体を抱きしめながらではあるが、それでも、こいつは確かに成長した。


 俺もまた強くならなければならない。


 覚悟を、決めなければならない。


「雫」


 寺の空気に当てられすぎて重くなった唇に、もう少しだからと言い聞かせて、俺は続けた。




「――俺はもう、死んでるんだよ」




 木枯らしが舞う。寒さに心と身体を震わせる雫を抱きしめてやれない自分の無力を噛み締めながら、俺は告げた。


「お前の兄貴は、藍野一輝は、十年も前に死んでるんだ」


 俺も雫も目を背け続けてきた。けれど、本当ならとっくに向き合っていなければならなかった現実を、雫に告げた。




 高校生の時、俺は病気に罹った。筋肉が衰える病気で、心肺をも停止させる時までが余命と告げられていた。


 でも、両親も俺も、その事実を雫に伝える事が出来なかった。


 だって、まだ小学二年生の妹に「俺は死ぬんだ」なんて、そんな残酷な事を言う勇気が無かったから。


 じきに治ると嘘をついて、病院を抜け出して雫と遊んだりもした。雫はその嘘を信じていて、俺は、余生を大好きな妹のために使おうとうそぶいて、現実から逃げていた。


 何か残してやりたかった。雫に、思い出でも、小さくても、ささやかでも、何かを残してやりたかったんだ。


 違う。忘れて欲しくなかったのだ。


 雫の中で俺が居なかった事になるのが怖かった。


 でも、そんな嘘はいつまでもは続かない。


 俺の身体は唐突に終わりが来て──俺が本当はもう死ぬんだと伝える事が出来たのは、死ぬ、その三十分前だった。


『ごめんな、雫。さよならだ』


 嘘をついていてごめん。一緒に居てやれなくてごめん。悲しませてごめん。沢山、ごめん。


「ごめんな、雫。さよならだ」


 全ては俺のせいだ。俺の弱さが原因だった。


 どうして俺が死ななくちゃいけない!?


 そんな想いは、死の寸前には無かった。


 俺なんか居なければ、雫はこんな悲しい想いをせずに済んだのに。そんな風に思ってしまっていた。


 だから死ぬ間際に、何度も俺は言った。


『ごめん、ごめんな、雫』


『嫌だよ……かずきぃ……やだよぉお』


 そう泣き崩れて俺の手を握る雫が、愛しかった。


「俺もお前も、もう、進まなきゃいけないんだ」


 当時の俺は、身代わりとしてピンクのヘアピンを雫に授けた。当時高校生だった俺だが、病気に罹っていたせいで、ろくなプレゼントは用意出来なかったのだ。


 それでも雫は、そのヘアピンを今でもしている。色が剥がれ落ちて、無愛想な鉄が顔を出している状態で尚も、その髪を留めてくれている。忘れないでいてくれている。プレゼントした張本人からすれば、嬉しい限りだ。


 でも、俺が求めていた言葉を、俺が恐れていた言葉をまだ、雫はちゃんと言っていない。


 俺が聞きたくない言葉。でも、聞かなきゃ前に進めない言葉。


「……いやだ……」


 雫は自分の身体を抱きながら、震えながら、弱々しく俯く。


 本当に小さいやつだ。まるで小動物みたいに小さくて、だからこそ愛らしい。ずっと一緒に居たいと、本気でそう思うくらいに。


 けれど、こいつはもう子供じゃない。十年前とは違う。成長している。成長出来ていないのは俺だって同じだ。俺だけとも言えるかもしれない。俺もこいつと別れたくない。さよならなんてしたくない。


 でも、だけどだ。


 自分勝手な事だなんて解っている。なにもこんなタイミングで、律とさよならしたばかりのこんな時に言わなくても、とは思うかもしれない。けれど、俺とてもう十年もこの世界に留まり続けたんだ。執行猶予はもう無い。あっていいわけがない。


 嘘を吐いた罰とか、そういうのじゃなくて。


 ──俺が雫を、過去に縛り付けている。


 ──その事実を、その罪を、精算しなければならない。


 なによりも、俺だって律と同じなんだ。さよならを言っただけでは、自分だけでは、割り切れない。


「だ、だから……さ、」


 なんて情けない兄貴だろう。涙腺が緩んで、嗚咽が邪魔して、まともに言葉になりゃしない。


 涙など。この身体には無いというのに。


 進め。進め。じゃなきゃ雫も進めない。


 そう言い聞かせ、何度も言い聞かせて……


「さよならだ。雫」


 十年前と同じ台詞を言った。違うのは、十年前は病室で言った台詞を、こんな場所でしているという点と、あと、雫の年齢か。


 頑張れ、と、震える背中に想いを乗せた。言葉に出さなかったのは、言葉がなんの保証にもならないからだ。


 強くなれ。それが、俺に託された、お前と律との約束だだろう。言葉には出さず、そんな祈りを視線に乗せる。祈りなど、なんの力にもなりはしないというのに。


 風が吹いた。いつか、記憶の隅で霞んでしまっていた別離を、助長するかのように。


 雫が立ち上がる。その姿は震えていた。


 雫がこちらを見る。その顔は涙でぐちゃくちゃだった。


「か……かず……かずき……」


 雫が口を開く。その声は霞んでいた。


「……さようなら。一輝」


 カスカスの声で、嗚咽と共に、俺が恐れていた言葉を、雫は言った。


 十年。


 このたった一言のために俺は、この魂を繫ぎ止めてきた。


「今……今までずっと……見守っててくれて……あ、ありがとうっ!」


 かみ締めて押し殺した悲鳴のような声で、俺が求めていた言葉を、雫は言った。


 雫の姿が滲む。墓地も、墓地を囲う木々も、全てが水の中にあるかのような感覚。俺の罪を、俺の弱さを、雫はそんな風に感じてくれていたのかと思うと、何もかもがこれで良かったかのように思えた。


 十年。このたった一言のために俺は、雫の傍に居たんだ。そういうことにしておこう。


 だからもう、思い残す事は無くなった。


 そんな強がりを、冥土の土産に持っていこう。旗代わりに掲げて行こう。


「ああ」


 これでやっと、ちゃんと死ねる。


「……どういたしまして」


 七年越しにはなっちまったが、律との約束も果たした。


 何度も何度も、震えた声でさよならを繰り返す雫。そんな情景を最後に、俺が見る世界は、不可視の光に包まれて消えた。

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さよなら 根谷つかさ @tukasa26

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