Episode5: 周回遅れになったバトン

 凍り付いた湖面には、見せつけるかのように幾種類もの星々が映し出されている。その美しさを、大自然の驚異的な神秘を、俺とコハクに焼き付けておくのが彼らの義務であるといわんばかりに。

 コハクはそっと湖面に手を触れ、表面の氷を徐々に溶かしていった。シュワシュワと微かな音がして、次第にもとの湖の状態にまで戻っていく。その光景を見た俺は、あらためてコハクという女の子がどこか別の星からやってきたのではないか、と思わざるを得なかった。それでも、そんな俺の疑問や驚きなど一切意識せず、コハクはただ黙々と湖と向き合っているのだった。

 湖面の氷がすべて溶け切ったとき、俺は切り出した。

「なあ、コハク。せっかくだからさ、この場所に何か思い出を残したいんだけど、付き合ってもらえるか?」

「……思い出を?」コハクは銀白色の長髪をかきわけながら言った。

「そう、思い出を半永久的に残すんだ。これを見てよ」

 俺がそう言って制服のズボンのポケットから取り出したのは、高校の購買で買ったコーヒー牛乳の瓶二本(きちんと洗っておいたものだ)と、スケジュール手帳のメモ用のページを破った紙が二枚。

「こんなに綺麗な湖に対しては少し申し訳ないけれど。この紙にさ、今までの人生で抱えてきた後悔をひたすら綴って、瓶に詰めて投げ入れるんだ」

「どうして後悔を綴るの?」

「なんというか、これまでの膿とかを全部吐き出して。それで、一切合切真っ白になった状態でコハクと関わっていきたい、って。俺がそう思ったんだ。ごめんな、俺のエゴみたいに聞こえるよな」

「ううん。素敵な提案だと思ったよ。あたしにだって、後悔してることのひとつやふたつくらいあるし。その感情的汚物を放流できる、いい機会かもしれないしね」

 俺がコハクにボールペンを渡すと、彼女はさらさらと紙に書き記していった。コハクの抱えている後悔とは一体何だろうか? 俺は必死に想像してみるが、いまいち掴めない。いつも飄々としている彼女が、憂いを残すようなこととはどのような事象なんだろう。ポーカーフェイスのコハクの心の内は、やっぱり俺には到底計り知れない。

 俺自身も紙に後悔を書き記した。友人と喧嘩したような些細なものから、アスラと別れてしまったという俺にとっては記録的豪雨だった後悔。それらをひとつひとつ掘り起こすこの作業は、なんだか自分自身のこれまでの人生を自己採点しているようで、神経の奥がかゆかった。

 その後悔だけを綴った紙切れを折り畳んで瓶に詰め、俺とコハクは同時に湖へ投げ入れた。ずぽん、と仏さまが欠伸をしたような音が周囲に響く。

「この瓶はこのあとどうなるの?」コハクは瓶が沈んでいったその先を覗き込むように、そう訊ねてきた。

 俺は湖面にできた波紋を眺め、そっと答える。

「きっと何世紀先かの人類が発見して、歴史的遺物やらになってるかもな」

 波紋はまだその広がりを見せつけていた。

 

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せめて彼女が消えてしまう前に 文部 蘭 @Dr-human

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