出しっ放しになった小壺を、箱に戻さず、じっと眺めていた。

 眺めているうちに、その表面の気泡痕が、ふつふつと、ふたたび沸騰しはじめるような気配があった。

「ごめんください」

 と、突然声がして、私は勢いよく振り向いた。

「あら、驚かせちゃってごめんなさい」

 と、その女は笑顔で軽く頭を下げた。今時珍しい和服姿、堅苦しい印象もなく軽快で、空模様に似合わぬ出で立ちである。

 私は、

「いえいえ、私もお客なんですが、なんにも音がしなかったので驚いてしまって」

 と言って向き直った。

 女は狭い店内にすいと目を走らせている。

「……ご主人はどこかしら」

「今、奥です。もうすぐ戻られると思います」

 私が奥のほうを一瞬見て、それから再び女のほうに向き直ると、女はじっと、ガラス机の上の小壷をみつめていた。

「この壺は」

 と、女は言った。

 その瞬間、女の姿が、一瞬前とまるで別物のように、鈍く、重たくなったように感じて、私は一瞬返答に困った。

 人骨だよと軽口を叩く余裕も無く、私は、

「これは、ウチの店で買い手が見つかったものなんですよ。その受け取りに参りました」

 と、言った。

「これ、私に譲っては貰えませんか」

 と、言った女の目を、私は見れなかった。

「いや、そう言われても」

「お金ならいくらでも差し上げます」

「お金の問題ではないのですよ、これは商売の話なのですから」

「お金の話と商売の話、何が違いますか」

「そうではなくて……」

 と、主人が戻って来る。

「どうしたの。どなたかな、そこの美人は」

「私は客です。その壺を、売っていただきたい」

 するどく容赦ない物言いに、温和な主人の顔もさすがに少し歪んだように見えた。

「いきなりその言い草は……それに、その壷は彼の店へ取引をお願いしたもんですから、ちょっと難しいなあ」

「どうしても、だめですか」

「何か、理由でもあるんですか?」

 と、私は疑問をそのまま口にした。「見知った物なんですか?」

 女は一瞬ためらった後、

「私は、主人の骨で作られた壺を探しているのです」

 と、言った。


 蒐泉洞の目録の中にあるこの壺を買いたいと言ったのは、とある財閥の令嬢であった。

 彼女の趣味を知っていた社長が、折をみて目録を見せた途端、異様な勢いで食いついた。その場で買い置き希望の念書を書いてしまい、丁度、市会の一週間前だということで、上京ついでに手に入れることを約束していたのだ。

「なぜそこまで、この壺が欲しいのですか」と、私は気まぐれに尋ねてみたが、

「この、冷たく湧き上がってくるような雰囲気。まるで、人の魂の入れ物のように見えませんか」

 と答えた。そのことを社長に言うと、

「まったく気味の悪い女だが、金払いは良いし、変な取り巻きもいない。俺らは商売人だからな。欲しいと言われれば手助けはするさ」

 と、彼は静かに笑っていた。

 しかし、その時の令嬢の瞳が驚くほど透明で、酔狂以上の冷たい意思を感じたのだった。


「なぜ、この壷が、ご主人の骨だと」

 私が聞くと、女は首を少し斜めに倒すように目を伏せ、また目を見開いた。

「私が、作らせたものだからです。信州松本にいる民芸愛好家に頼んで、秩父石切場の職人を紹介してもらいました。……快く引き受けてもらうことができました。出来上がったものを大事に仕舞っていたのですが」

「なくしてしまわれた、と」

「はい。噴火の際の動乱で、どうしても家を離れねばならなくなりまして。避難場所へ持っていかなければいかないものを、どうしたものか、家へ置いて行ってしまったのです」

「ちょっと待って下さい。では、その壺が東京になどあるはずが」

「……私の家は、富士の北東、吉田にありました」

 私は思わずアッと声をあげた。合計4回の大噴火のうち、2回目の溶岩流がなだれ込んだのが、富士吉田一帯である。

「それではますますおかしいですな。その壺ごと融けてなくなっているはずじゃあありませんか」

 と、主人が嘲るように横槍を入れた。

「いえ、そんなことはありません。私が作らせたものを、私が見紛うはずがありません」

 と、女は断言した。

「いや、さすがにね……そんな芝居に騙される道具屋じゃないさ、僕は」

 主人がぽん、と女の肩を叩いた。

「骨は魂を守るものです。これには夫の魂が、入っているんです。夫の魂を欲しい者が、きっと欲しがります。その前に、私が手に入れなければならない……」

 女はそう言うと、うつろな目で私のほうを見、そして矢庭に接吻した。

「ウワッ」と、私は思わず顔を離した。

 我々が戸惑っている隙に、女はスルリと小壺を奪い、開いたままになっていた引き戸から蛇の如く逃げて行った。

「待てッ。おい、追いかけてくれッ」

 主人に言われるまでもなく、私はその影を追って外へ出た。

 人通りの少ない路地のどちらを見ても女の姿はない。ただ、少し先の石畳の上に、粉々に砕けた壺の残骸だけがごく小さな山のようになって積もっている。

 霧雨が、その小山をゆっくりと湿していった。

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