僕と車椅子

牛屋鈴子

僕と車椅子

 病院の青空は、いつもより深く感じる。遠く。ではなく、深く。まるで深海から水面を見上げるように、あるいは、水面から深海を覗くように、あの空を深く感じるのだ。


 境界線を感じる。と言い換えてもいいかもしれない。海と空に水面という境界線があるように。空と、空ではないどこかを区切る境界線があるように感じる。


 病院という、良くも悪くも世俗から切り離された空間に居るから、そう感じるのかもしれない。


「葉くん、また遠い目してる」


 僕が押す車椅子に乗っている未希が、僕に振り返りそう言った。


「ああ、ごめん」


 視線を空から未希に落として、謝る。折角のデート中に、彼女以外を見て物思いにふけるなんて、彼氏失格だろうか。


「別に怒ってないよ。葉くんのそういう目、好きだもん」


 未希が朗らかに笑う。僕はストレートな言葉に、少しだけ体を強張らせた。


「で、も。私が写ってる目の方が嬉しいかな」


 未希が次はいたずらっぽく笑い、僕を見つめる。その柔らかく笑んだ瞳には、僕の顔が映っている。きっと僕の瞳にも、未希が映っている事だろう。


「分かった。今から君だけを見ているよ」


「車椅子は安全運転でお願いしたいなぁ」


「分かった。君と前だけを見るよ」


「何かのドラマの台詞みたいだぁ」


 彼女と軽くお喋りしながら、病院の敷地で車椅子を押す。


 僕の彼女は、生まれつき足が動かない。


 だからこうして、週に二、三度、僕が外に連れ出してあげている。残念ながら、デートの場所はほとんど病院の敷地内だけれど。


「こうやって車椅子を押してくれるだけで十分だよ。結構大きい病院だから、植物とかいっぱいあって、四季の変化が楽しいし」


 未希が道に沿って植えられた木に目を向ける。銀杏木の鮮やかな黄色が目に映る。季節は秋。だから余計に空を深く感じるのだろうかと、また一瞬だけ物思いにふけりそうになった。


「それに……ちょっと止めて?」


 道の端に、車椅子を停める。景色の流れが止まった事を確認して、未希が言いかけた言葉を言い直す。


「それに、葉くんが傍に居てくれるだけで私、幸せだから」


 未希が、車椅子のハンドルを握る僕の手の甲に、こてんと軽く頭を乗せた。両手を添えて、愛おしそうに僕の手の甲を見つめた。


 体の中のエネルギーが、手の甲に集まっていく感覚がする。彼女の傍で、彼女の助けになっている時間が、僕は一番幸せだった。


「……僕も、こうやって未希と一緒に居る時が、一番幸せだな」


 僕がそう言うと、未希の顔色が変わった。僕の言葉に照れたのか、自分の言葉に時間差で照れたのか、もしくはその両方か。未希は銀杏木の横で紅葉のように顔を真っ赤にしていた。……僕も同じ様な顔をしているだろうけれど。


「あ、後、腕も疲れないしね。そこも感謝してるよ。葉くん」


 未希が顔の熱を振り払うように、腕を上げ、僕に見えるようにぷらぷらさせる。僕が未希の車椅子を代わりに押すようになってから、その腕は少しずつ細くなってきていた。


 それが健康上、良い事なのか悪い事なのかは知らないけれど、それは未希が僕の事を頼ってくれている証で、僕はそれが誇らしかった。


「ほ、ほら、車椅子押して?」


 未希の言葉を受け、車椅子を発進させようとした所で、後ろから声を掛けられた。


「あっ、未希さん?こんな所にいたんですか、探したよ」


 僕らに声を掛けたのは、見知らぬ白衣の男だった。この病院の関係者だろうか。しかし、今まで一度も見かけたことがなかった。それはここに入院している未希も同じだったようだ。


「あの、誰ですか?」


 未希が白衣の男に問う。


「私は枝切という医者です。あなたの足を、治しに来た」


 白衣の男は、そう言った。


「ああ、もうこんな時間だ。また明日、詳しくお話します。あなたの家族も呼んであるので、明日は予定を開けておいてくださいね」


 白衣の男、枝切と名乗るその男は、腕時計を確認した後、早足でこの場を去った。


「治す……?私の足、治るの?」


 未希が、唐突な事に戸惑ったような声を出した。喜色を多分に含んだ声だった。


「……そう言ってたね」


 もう十七年間も動いたことのない自分の足を、未希がさすり、期待に満ちた目で見つめた。


「動く……」


 彼女が、その動かない足に何を見ているか、夢想しているか。きっと彼氏の僕じゃなくても、誰でも分かっただろう。


「本当かどうか、まだわかんないけどね」


 唐突に現れて、そのままどこかへ行ったあの白衣の男の素性が知れない。疑わしくて、信じられない。


「……そっか」


 未希が僕の言葉に肩を落とす。少し、突き放すような言い方になってしまったと、反省する。


 彼氏として、真っ先に未希を祝ってあげるべきなんだろうけれど、できなかった。


 何故か、彼女が自分で立っている所を、全く想像できなかったのだ。



・・・・・・



 小学生の頃、未希に初めて会った時の事を思い出した。


 未希は、滅多に小学校に来ない女の子だった。


 半年に一度か二度だけ、特別学級へ来ていたらしいが、僕はそんな未希の姿を見かけた事はなかった。そんな少女が在籍していたかどうかも知らなかったと思う。


 僕が六年生になった頃、『未希ちゃんのお見舞いに行こう』という催しが、僕のクラスで開催された。


 僕は、何でそんな事をするんだろうと思っていた。


 このクラスの大半、もしくは全員がその未希という少女を知らないはずで、その未希という少女も僕らを知らないはずだ。


 自分の下に、知らない人間が数十人来て、喋らなければいけないなんて、僕がその未希という少女なら、ひたすら嫌だ。


 しかし、僕の考えに反して、その催しの中で未希は、笑顔だった。


 病院の広場の大きな木陰で、他の女子と髪型をいじりあったりしていて、楽しそうに遊んでいた。


『皆がお見舞いに来てくれて、嬉しい。お父さんもお母さんも、あんまり来てくれないから』


 そう言って、笑顔だった。


 僕はその時、特に未希とは話さず遠巻きに見ているだけだったけれど、それならこの催しにも意味があったんだなと思った。


 そして皆、満足そうにその催しを終えた。ただ、未希だけが、別れ際に寂しそうな顔を見せていた。


 それ以来誰かがもう一度お見舞いに行ったり、未希が登校してきたという話は聞かなかった。僕も、すぐに彼女の存在を忘れた。


 それから半年ほど経って、小学校最後の日に卒業アルバムを配られた時、クラスの女子が、集合写真の丸縁に写る未希を懐かしんでいた。それを見て、少し、ほんの少しだけ胸が苦しくなったのを覚えている。


 もう彼女らの間では、未希という少女は過去の人間になっていたのだ。


 一番仲良くしていた彼女らでさえ、ああなのだ。この半年間に、未希の下を訪れた人間がどれだけ居たのだろうかと、他の皆から区切られた丸縁の中の未希を見ながら思った。


 もしかすると未希は、ずっと一人ぼっちだったのではないだろうか。



・・・・・・



 次の日、僕はいつも通り未希の病室を訪ねていた。


「何か現実感がないなぁ」


 未希が病室のベッドで、手をぱたぱたさせた。


「急だったからね」


 未希に付いている医者や看護師によると、昨日の枝切という男は、世界のあらゆる難病を治して回っているドクターで、枝切が言っていた事、つまり、未希の足が治るというのは本当らしい。病院にとっても色々急な事だったらしく、連絡が遅れたそうだ。


 そして僕は、未希と二人で枝切を待っていた。


「手の先がふわふわする……足もふわふわするように、なるのかな」


 未希が昨日のように自分の足を見つめる。


「足が動くようになったら、葉くんと追いかけっこがしたいな。ドラマみたいに、波打ち際で。それに、もう葉くんに車椅子を押して貰わなくてよくなるから、もっと二人で色んな所に行けるようになるよ」


「……それは、素敵だね」


 昨日のような、突き放す言い方にはならなかったけれど、僕は未希の言葉に完璧に頷くことが出来ないでいた。


 僕は、未希の足が自由になる事に、違和感や不安とも似つかない、『何か』を感じていた。


 その『何か』を突き止めようと考えていると、病室のドアが開いた。


 病室に入って来たのは枝切ではなく、未希の父親だった。


「あ、お父さん……」


「……こんにちは」


「こんにちは」


 僕に適当に挨拶を返して、未希の父は椅子に着いた。


「お母さんは……?」


 病室に入って来たのは未希の父だけだった。未希が小さな声で尋ねる。


「私一人で良いと、病院からは聞いているが」


「……そう」


 未希の父は、母が来ない理由を答えなかった。未希もそれを察して、それ以上何も聞かなかった。未希の父が、めんどくさそうに腰の位置を直した。


 二人の間に冷たいとも言えない、空虚な何かが流れた。二人は、まるで初対面のようだった。


 未希の親は、未希に対して無関心だ。


 親として、金はきちんと工面してやっているらしい。多分、未希が働かなくても一生生きてゆけるぐらいのお金は、用意するつもりだろう。


 でも、それだけなのだ。それ以外に二人を親子たらしめている物はない。おそらく今日も、保護者としての『義務』を果たしに来ただけなんだろう。


 未だこいねがわず。それが彼女の名前なのだ。


 いつからこうなんだと未希に聞いた時、最初からだと未希は答えていた。


「こんにちはー」


 重苦しい雰囲気の病室に、気の抜けた声と共に昨日の男、枝切が現れた。


「えっと、未希さんも未希さんのお父さんも居ますね。それでは手術についての説明を始めたいんですけど……、そちらの少年は」


 枝切が僕を見る。


「未希の彼氏です。ここに居ては駄目ですか」


 彼女を、できるだけ一人にしたくなかった。


「ああ、昨日の……いえ、未希さんが良いと言うなら、特に問題はありませんよ」


「い、居て欲しいです」


 未希が僕の腕を握る。未希の父は、何も言わなかった。


「ええ、はい。では、説明を始めさせていただきます」


 枝切が様々な事を語る。手術の方法や、何故、未希が選ばれたかなど。


 しかし、その説明は専門用語が多く使われていて、僕も未希も、話の半分すら分からなかった。


「あー、まぁ、要するにですね。言いたいことは一つです」


 枝切は一拍おいて、指を一本立てた。


「あなたの足を治すための手術の準備が、後二日で完了します。あなたの足は、明後日に治る」


 未希の僕の手を握る強さが、少し上がった。鼓動の加速を、手のひら越しに感じる。


「話は終わりましたか」


 未希の父が口を開く。この場に居る事を激しく拒絶する訳ではない、ただ、用が無くなればさっさと帰りたい。そんな態度だった。


「はい。全ての説明が終わりました。特に質問がないのであれば、この場はお開きです」


「……では、失礼させてもらう」


 未希の父が病室を出ていく。あの人にとって、久しぶりに会う実の娘に、用など一つもないのだろう。


「あ……」


 未希が父の背中を見て、何か声を出す。その声は確かに届いたはずだけれど、その背中が止まる事はなかった。


「さて、未希さんは何か質問、ありますか。私も忙しいのでなるべく手短にお願いしたいのですが」


「あ、ない。です」


 未希が枝切に向き直り、細切れに答えた。


「そうですか、では」


 枝切が、昨日のように早足で病室を去った。


 二人きりになって未希の顔を覗き込むと、見たことのない、複雑な表情を浮かべていた。


「私が普通に歩ける、普通の女の子になったら、お父さんとお母さんも、私をめんどくさそうにしないかなって、思ってたんだけど……ちょっと欲張りだったかな」


 未希の背中に手を回して、優しく抱き寄せた。


 嗚咽を漏らしこそしなかった物の、僕の胸元に、確かな涙の感触が広がって行った。


「僕が、居るよ」


 未希の背中を撫でている内に、僕にもたれかかる面積が増えてきた。少し上体を伸ばして未希の顔を見ると、完全に目を閉じて眠っていた。背中に回した手を使って、ゆっくりと病室のベッドへと寝かしつける。


 幼少期に親から愛情を注がれなかった人間は、体を丸めて、赤子のように眠るという。


 足が動かず伸ばされたままの彼女のそれは、まるで何かに祈るようだった。


 僕は、未希がそんな悲しい姿で眠っている事が忌々しくて、胸で交差する彼女の手を解いた。


 未希の瞼に口付けした後、面会時間が過ぎるまで、ずっと彼女と手を繋いでいた。



・・・・・・



 この病院に、僕の母が骨折で入院していた事がある。


「ほら、もうこんなに歩けるわよ」


 母が、松葉杖を使って病院の敷地内を歩く。もう明日で退院できるという日だった。


 母との会話を適当に流し、別れを告げる。


「それじゃあね、また明日」


 明日は病院の前で母を迎えるだけだ。もうしばらくはこの病院には来ないだろうなと思いながら、敷地内を歩く。


 そして、あの広場に差し掛かった時、僕は未希を思い出した。


 あの楽しそうな顔と、寂しそうな顔を。今、彼女はどちらの顔をしているんだろうか。


 僕は広場の前に立ち止まって、彼女の病室の場所を思い出そうとしていた。


 その時、けたたましい警報が鳴り響いた。何の警報であるかを聞く前に、とにかく緊急で、病棟に危険が迫っているということを理解した。


 気付けば、僕は思い出した病室へ走っていた。


 全力で階段を駆け、廊下を蹴とばした。


「た、助け」


 途中、松葉杖を持った女性に助けを求められた。


「あんたは自分で歩けるだろ!」


 その女性は僕の母だったが、目に見える危険はない。母は十分、一人で助かるはずだ。それよりも、僕には助けなくてはいけない人が居るんだ。


 僕は見捨て、先を急いだ。


 目的の病室に、未希は居た。何かに躓いたのか、車椅子が彼女に被さるように倒れていた。歩く事はもとより、這いずる事もままならないようだった。


 僕は、彼女がそこに居てくれていた事に強く安心した後、急いでその車椅子を彼女の体の上からどけて、彼女を抱き抱えた。


「誰……?」


 未希が僕の腕の中で、呆けた声を出した。唐突に現れた僕を、実在しない動物のように思ったと、後に本人に聞いた。


「君を助けに来た」


「何で……?」


「君が、一人だったから」


 来た道を走る。その揺れで、幾筋の涙が、廊下にぽつぽつと降った。


「ありがとう……」


 これを言うと、何だか趣味が悪いと思われそうだから、未希にはまだ言っていないけれど、僕が未希を好きになった瞬間は、彼女の涙を見た時だった。



・・・・・・



 この感情はなんだろう。初めてだ、十七年生きてきて、初めて触る感情だ。


 未希の足が治ると聞いて以来、僕の心の内に、『何か』が渦巻いている。


 その『何か』は、恐怖に似ていて、期待に似ていて、嫉妬に似ていて、そのどれとも違う。『何か』。


 その『何か』を突き止めようとすると、途端に脳が動かなくなる。思考を放棄する。


 なんなんだ、これは。


 答えが出ないまま、病院への道を歩いていると、目の前にとある白衣の男が立ちふさがった。


 未希の足を治すと言った医者、枝切だ。


「……忙しいんじゃなかったのか」


「ああ、忙しいよ。これから悩める男子高校生を一人救わなくてはならないんですから」


 枝切が手のひらをあげて肩をすくめた。


「……僕を救う?」


「私は万能の医者でね。不治の足を治すこともできますし、心理学にも精通しています。どうにも昨日の君の様子が気になりまして。カウンセラーとしての血が騒いだのですよ」


 僕はこの男に、未希の彼氏として恩を感じるべきなんだろうが、何故かこいつを信用できなかった。


「……そんな顔をしないでくれたまえよ。ま、ま、参考ぐらいに受けてみてくださいよ、私のカウンセリング」


 しかし、僕のこの『何か』を知っていそう人間は、こいつしか居なかった。


 歩道の側の柵に背中を預ける。枝切はそれを見て、口を開いた。


「まずは、君と未希さんの馴初めを教えてください」


 僕は警戒せず、ただただあの時の状況を、僕の心情も含めて枝切に伝えた。


「……なるほど。ふふ、なるほど」


 枝切は、一人で納得して笑った。


「なるほどって、どういう事だ」


「いえ、分かったんですよ。つまり、君と私は一緒なんだ」


 一緒?


「君が未希さんを助けた事、私が医者をやっていること。この二つは根本が同じなんです。……メサイアコンプレックスという言葉を知っていますか」


 僕は、知らないと答えた。


「簡単に言うとですね。人を助けたい、人を助ける事で自分の価値を証明したい。そういう人間を指す言葉です。そして僕は、こういう人間をこう解釈しています。自分より弱い人が好きな、この世で最も下種な人間であると」


 僕は、頭が殴られたようだった。


 自分より弱い人が好きな、この世で最も下種な人間?


「あぁ……?」


「君は安心したと言いました。未希さんが逃げられない絶体絶命の状況に居て、安心したと。そして、一人ぼっちだから助けた。自分へ感謝する、彼女の泣き顔を好きになった。実に趣味の悪い人間ですよ、君は」


「違う」


「君が未希さんと付き合っているのは、彼女が一人だから、足が動かないからだ。君が居ないと生きていけない、弱い人間だからだ」


「違う」


 はずだ。


「……手術は中止しませんよ。私も、人を助けたいんだ。君だって、未希さんの害にはなりたくないし、なれないはずだ。そうなっては本末転倒ですからね。君はあくまで彼女の救いでありたいんだ」


 僕の言葉を無視して、枝切は話を一方的に押し付ける。 


「大丈夫ですよ。きっと未希さんが一人ぼっちなのは変わらないでしょうし。それに、足が治れば」


 枝切は躊躇いなく言った。


「セックスができるようになります」


「……やめろ!僕らは、そんな俗な物で繋がってるんじゃない!」


「へぇ、では、それよりもっと高尚な物で繋がっていると?」


 ……僕はもう、真っ直ぐに頷く事ができなかった。


「カウンセラーとして、そして先輩としてアドバイスします。認めてしまえば、案外楽な物ですよ」


 僕は、何も言い返せなかった。



・・・・・・



 病室のドアを開ける。いつもより、何倍も重く感じられた。


「あ、葉くん」


 開けた瞬間に、未希と目が合った。ずっとドアを見て、僕を待っていたのだろう。


「今日、遅かったね。何かあったの?」


 未希が僕の顔を覗き込む。


「ああ、ちょっと課題が残ってて」


 枝切と話していたと言えなかった。言えなかった事自体が、認めてしまったようで、未希を裏切ってしまったようで、心が痛んだ。


「そっか……じゃあ、今日は散歩なしにする?」


「……いや、行こう」


 車椅子のハンドルをさする。


「今日が、最後になるだろうから」


「……うん、行こっか」


 未希を抱いて、車椅子へ座らせる。


「この抱っこも最後かぁ……名残惜しいな」


「抱っこくらい、いつでもしてあげるよ」


「本当?」


 未希が目を輝かせて、車椅子から僕を見上げた。


「……うん。君が、傍に居てくれるなら」


 僕はきっと、恐怖している。彼女がその足で、僕から離れて行く事を。


 期待している。その足が僕の傍に居てくれる事を。


 嫉妬している。その足が、僕から離れて行く先を。


「……居るよ。ずっと、葉くんの傍に」


 ああ、今までは彼女の言葉さえあれば良かったのに。今では、彼女の言葉しかない。


「ほら、行こう?」


 未希が、前へ向き直る。きっとまた顔を赤らめているのだろう。対する僕は、少し青ざめている。


 未希が乗った車椅子のハンドルを取る。その感触は、今までのそれと全く別のように感じられた。


 このハンドルは、車椅子は、彼女の弱さの象徴なのだ。


 それから外に出るまで、僕の運転はぎこちなかった。何度も車椅子を投げ出しそうになって、その度にハンドルを強く握り直した。


「葉くん?」


 車椅子が揺れて、未希が振り返った。


「どうしたの?いつもより運転が変っていうか……何処か痛いの?」


 未希が不安そうに、僕の手と顔を見比べる。


「いや、大丈夫だよ」


 痛む所なんてない。あるはずがないのだ。


「……そう?」


「うん。大丈夫、大丈夫」


 その言葉は、半ば自分に言い聞かせるようだった。


 ちぐはぐな手のひらで車椅子を押し、いつものコースを行く。


 その間までは、普通に喋れていた。


 けれど、広場に差し掛かった時、未希が話を変えた。


「いよいよ明日だね……」


 感慨深そうに、広場を見つめていた。


「……手術、怖くない?」


「怖くないよ。枝切さんが、絶対安全だって説明してくれたじゃない」


「……そうだったっけ」


 何だか、言葉がスムーズに出てこなくなってきた。多色ボールペンのペン先を、二色同時に出そうとするように、喉のしぼりに何か別の言葉が突っかかる。


「それに、この足のためだもん。早く、この広場を自由に走ってみたいなぁ」


「……数か月は、リハビリしないと走れないって、あの先生もそう言ってたと思うけど」


 また、突き放すような言い方になってしまった。それでも、未希はしょぼくれずに話を続けた。


「うん。でも、そのリハビリも楽しみなんだ。この足が、やっと私の物になってくれるんだ」


 背中越しでも、分かる。


 その瞳は、希望に満ちていて。


「僕を見てくれよ……っ!」


 未希が驚いて、僕に振り返る。きっと僕も同じ表情をしていた。僕は、今何て言った?


「ねぇ、やっぱり今日の葉くん変だよ。どうしたの?……何か、嫌な事あった?」


「なかった。なかったよ!嫌な事なんて、一つもなかった!僕はいつも通りだ!」


 自分の大声を聞くのは、母を見捨てた時以来だった。


「でも……」


「僕はいつも通りだ!違うのは君だ!今までこんな事なかったのに、僕の事を忘れてしまったかのように、君は!」


 彼女の言葉を遮る。塗りつぶす。壊れたペン先から溢れる黒いインクのように、もう止まらなかった。


「わ、私、そんなつもりじゃ……」


 彼女は、がなり散らす僕に酷く怯えた表情をしていた。僕が、他でもないこの僕が彼女にそんな顔をさせたのだと思うと、僕は辛くて堪らなかった。


「……怒鳴ってごめん。今日はもう、帰るよ」


 息が整わない内に、車椅子のハンドルから手を放し、その場を去る。あれを握る資格は、もう自分にはないように思えた。


「待って!」


 未希が叫んで、僕を呼び止める。


「一人じゃ、病室に戻れないよ……葉くん」


 その涙声が辛くて、僕は振り返り、もう一度ハンドルを握った。


 彼女のお願いだけは、どうやっても断れないのだ。


 ただ、それも今日までかもしれない。彼女はもう、明日から自分で歩けるのだ。どこへでも一人で行けるのだ。僕が居なくても。


 僕らは、病室に戻るまでずっと無言だった。ただ、未希が別れ際に一言だけ口を開いた。


「……明日も、来てね」


 僕は、いつものように笑顔で答える事ができなかった。



・・・・・・



 その夜、とても恐ろしい夢を見た。


 真っ暗い空間の中を、僕が車椅子を押している夢だった。


 そこは、上も下もなく、歩けば歩くほど、体が血を闇に吸い取られるように冷たくなっていく。さらに、どこまでいっても終わりがない。


 そして、何より恐ろしいのが、その車椅子に誰も乗っていない事だった。


 僕は夢の中で、車椅子だけを大事に握りしめていた。



・・・・・・



 朝、目が覚めると、寝汗が酷かった。


 それに、酷い頭痛がした。息をすればするほど、痛みが増す頭痛だった。


 鈍痛に苛まれる頭を抱えながら、首を巡らせ、カレンダーを覗く。


 何度見ても、頭の中で確認しても、その日は約束の日、彼女の足の手術がある日だった。


 僕は立ち上がり、目一杯、息を吸い込んだ。頭の刺すような、抉るような痛みが加速していく。


 ただ、そんなぐちゃぐちゃになった頭の中でも、消えない物は、確かにあったと思う。


 顔を洗って、服を着替えて、靴紐を締めた。


 彼女の下へ行こうと思う。きっと、もう手術は始まっているだろう。手術室の横で、その終わりを待とう。


 彼女の足が自由になっても、その足で僕の下へ駆け寄ってくれるだろうと、腕は変わらず僕を抱きしめるだろうと、そして僕も、そんな彼女をきっと愛せると、そう信じて待とう。


 力強く、病院へ向かう。


 そして、病院に着き、未希の手術室を探していると、看護師に声を掛けられた。


「あなた確か、未希さんの……」


「……彼氏の、葉です。未希の手術室を探しているんですが……」


 僕がそう答えると、看護師が顔色を変えて、僕の手を取った。


「一緒に来て。未希さんが……!」


 あの時のように、早足で病棟内を駆け、未希の病室を目指す。


「何が、あったんですか?」


「……見たら分かるわ」


 そう言って、看護師は僕に何も語らなかった。


 そして、未希の病室の前に辿り着く。そのドアの前に、大勢の病院関係者が群がって病室の中を見守っていた。枝切もそこで、ぶつぶつ呟きながら病室内を覗いていた。


「ああ、ああ、くそ。駄目だ。あんなになっちゃあ、いくら私でも。あれはもう。くそ、何で」


「どうした。何があった」


 僕の言葉を聞いた枝切が、呟くのをやめて無言で前を開けた。僕はそのスペースに潜り込み、病室の中を覗いた。


 未希が両の腿から夥しい量の血を流して、ベッドに倒れていた。


 その周りで、複数人の医者と看護師が、未希の手当をしている。


「……枝切っ!」


 枝切の胸倉を掴む。


「どういうことだ、これは。手術は絶対安全じゃなかったのか!」


「違う。違うんです。これは私がやったんじゃない。彼女が、未希さんが自分でやったんだ」


 ……未希が、自分でやった?


「葉くん……?」


 耳の端が、未希の消え入りそうな声を捉えた。枝切を放し、ドアに群がる人間を押しどけて未希が横たわるベッドへ駆け寄る。


 未希に似つかわしくない、血の匂いが充満していた。


「葉くん、どうにか未希さんの意識を……」


「未希、未希!」


 必死で彼女の名前を呼ぶ。未希が、薄目で僕を見つめた。


「あぁ……葉くんだ……ちゃんと、来てくれた……」


「未希……!何で、どうしてこんな事を……」


 未希が、頬に涙を流すと共に、口を動かす。


「……だって、私の足が動いたら、葉くん、車椅子、押して、くれないでしょ……?」


 そう言って、未希はゆっくり微笑んだ。


「葉くん。私の足、もう絶対、動かないよ。だから、お願い。ずっと、傍に居て……」


「……未希、未希。大好きだよ。未希、約束するよ。絶対に君の傍に居る。絶対に君から離れない。離れない……!」


 僕の眼を清らかにするのか、濁らせるのか。とにかく、涙が溢れて止まらなかった。僕の涙が未希の頬に落ちて、混ざりあった。

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