5.I met you in a dream
人生で初めて、と言ってもいい距離で女の子と話をした。
翡翠の樹木の硬質な足元が、ふわふわした雲みたいな頼りない心地よさで、歩いている感触がなかった。
僕は、僕らは、セヴィリーの家、というか、居住区へ行った。
あの世界はいつも新鮮な驚きと感心する完全さが混ざりあったものが存在していて、僕の胸を憧れの感情で強く束縛する。
現実で目が覚めて、憶えていることはそれだけだった。
ズラリと治療カプセルが並んだdream roomには、僕と同じく夢から覚め、その夢を辿っている顔でいっぱいだ。この中の誰が僕と夢を共有したのか、なんて、わかるはずがない。
女の子だった。それだけしか憶えていない。
(名前も聞いた気がするのに。憶えていない。…思い出せない……)
白衣を着た先生が「はい、皆さん、目が覚めたかな。おはよう」と挨拶する声に、夢に浸っていた顔が一人、また一人と現実へと還っていく。
dream roomの患者の顔に視線を巡らせていた僕は、一人と目が合って、サッと視線を俯け、女の子が誰だったのかを思い出すのを諦めた。
夢と現実は違う。
現実で夢の続きを、とはいかない。
夢では通じ合った言葉も、現実では壁に阻まれる。
僕は日本語はほんの少ししか喋れないし、わからない。
現実であの子に再会できたとして……だからなんだっていうんだ。どうにもならないし、どうにかなることでもないさ。
僕は早々に夢を共有した女の子のことを思い出すのを諦めた。それでいいと思った。その方がいいんだ、とも思った。
そう納得したのに、dream roomを出る自分の足取りはいつもより重かった。
とにかく、気分を変える必要がある。
重い足取りのまま有料スペースのパソコンエリアに行き、一台を借りて、ワークチェアにガチャンと音を立てて腰掛ける。
言語設定を英語に切り替え、見慣れた文字が並ぶホームページを無意味に閲覧していると、少し気分が落ち着いてきた。
時間が経過するほど、僕の中で夢の出来事は薄れ、ぼんやりしていた女の子の像も、今ではすっかり光の中の白へと消えかけている。
そのことに満足して、コーヒーでももらってこよう、と席を立った。
パソコン利用者に提供されるセルフサービスのコーヒーは、おいしくはないけど、ないよりはいい。
マシンに紙コップを置いてピッとボタンを押す。あたたかいカフェオレに砂糖を足そうかどうしようか迷い、とりあえず手に持って席に戻った。
途中で、すれ違った女の子。
黒い髪。少し気の強そうだと感じる目元。
僕の足は知らず止まっていた。
いや。そんなまさか。そんな偶然が?
初めてのはずなのに見知ったと感じるその顔を、そっと振り返ると、女の子も足を止めて僕の方を見ていた。目が合うと、女の子はハッとした顔で携帯端末を操作し、「イーサン?」と、僕のことを、呼んだ。
初対面だ。現実では。
でも、その言葉の響きに、憶えがある。
「イーサン、憶えてる? わたしコトリ…あ、えっと、マイネームイズコトリ」
片言でも英語で名乗った彼女に、僕は危うく持っているカフェオレを落とすところだった。
そのくらい驚いたし、全身に言いようのない電撃が走ったのだ。
僕は彼女のことを。コトリのことを忘れようと、簡単に諦めたのに。彼女は違った。僕の名前を憶えていた。僕のことを、憶えていた。
彼女は難しい顔で手元の端末を操作する。タップで入力すると、その画面を僕へと突き出した。画面には『You met me in a dream』…あなたは夢でわたしに会った、と書いてある。どうやら入力した日本語を英語へと翻訳するアプリか何かのようだ。
なるほど。その逆を使えば、僕の言葉も彼女に伝わるかもしれない。
今までその必要性も感じずにきたけど、今なら、その機能が欲しい。
「ソレ」
僕は片言で、彼女が手にしている携帯端末を指した。それから両腕でバツを作る僕にコトリが考え込む仕草をする。
僕は携帯端末を持っていない、と言いたかったんだけど、伝わったろうか。
不用意に誰かと連絡を取れる手段を、僕の親は許さなかった。だから僕には日本じゃ誰もが持っている携帯端末がない。
そのかわり、アパートの一室には固定電話があって、極たまに、親から電話がかかってくる。
コトリは端末を操作するとまた画面を突き出してきた。『Do you have a cellphone?』あなたは携帯を持っている? と書いてあるので、「I do not have」バツ、を作りながら、なるべく簡単な言葉を選んで伝えてみる。
コトリは難しい顔で一つ頷くと、僕の腕をつついた。立ち止まっていた僕らの後ろで迷惑そうな顔をしている太った日本人男性がいたので、慌てて「I'm sorry」とこぼして自分が借りているパソコンスペースに体を寄せる。と、そのままコトリも入ってきた。困惑しながらも僕は広くもないスペースのさらに奥へと身を寄せる。
コトリが床に座って端末を操作し始めたので、見下ろしているのもな、と思い、僕も床に座った。…すぐそばにワークチェアがあるのに、何をしてるんだろう。
手持ち無沙汰なので、手にしたままのカフェオレをすすっていると、コトリがまた端末をこちらに突き出してきた。『Are you Ethan?』あなたはイーサン? …そういえば、まだ名乗っていなかった気がする。
カフェオレをテーブルに置いて、僕は手を差し出した。夢で、確か、彼女がこうしてくれた気がする。
「My name is Ethan」
コトリは、口元で小さく笑う、ぎこちない笑顔で僕の手を握り返した。
まさか現実でまでコトリの手を握り、彼女と相対することになるとは思っていなかった僕の心臓は、パンク寸前だ。
こんな近い距離で、仕切られた空間内で、手を伸ばせば触れることも簡単な近さで、女の子と向かい合っている。僕の人生でそんなことがあるだなんて。
(これは、現実だ)
でも、夢じゃない。すべてが整って落ち着いたあの世界とは違う。
偶然か、必然か、神の気紛れか。
夢で出会い、曖昧だった彼女の温度を、あたたかさを、現実の僕が知った。
これは、ただ、それだけのこと。
夢の栞 アリス・アザレア @aliceazalea
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