終幕 忘れたものの記録
最後のページになってしまったが。私は結局、何かを忘れてしまった。
――――
あれから一週間が経った。バスガス爆発事件、カキシマ議員暗殺未遂事件、という仰々しい名前が相変わらず新聞の紙面に踊っている。数か月前の“火”の時とは異なり、今回のことは正しく人々の間に普及した。人々がこの件を話題とし、事件として認識していることに私は安堵する。やはり事件には名前が必要だ。なお、幸いにも私が紙面に出ることはなく、ニノマキが週刊誌に送った『公務員夜の病院で謎の美女と密会』はボツになったと見える。
それはそれとして、変わったことが一つ。
「トワ先生。今日も新しいものが来ましたよ」
「あぁ。今、確認する」
新しい奴が、我が事務所に入り浸るようになった……というより、させた。
執務室にいる私に廊下から声をかけるのは、ベルタ・クラ。忘れる力によってこの地に、世界に混乱を招こうとした、忘れる力によって自らを見失ってしまった、哀れなる凶悪犯罪者。ベルタ・クラの名によって自身を定義し、凶行の理由を失った彼女を、私はひとまず養女として迎えることにした。新しい名前で定義された時点で記憶を取り戻す可能性は極限まで低くなり、戻る場所も思い出せなくなったからだ。
顔かたちから家族を見つけられれば“猫”のとき同様本来の名前を戻して帰すこともできるだろうが、名づけの手順の都合上、ベルタの名はニノマキが聞いてしまっている。これ以上誰かがベルタという名を知ってしまえば改名は難しい。カキシマ経由で警察には火災の犠牲者として探させているが、一度目に名を失った時点で家族にも忘れられているはずだ。本来の名を手に入れられる可能性は低いだろう。クチタビ婆さんにもそろそろ嗅ぎ付けられそうで、名前が固着してしまう日は近いだろう。
どうあれ、あのとき私がつけられる名前はクラの名でしかなかった。少なくとも私の家系にベルタという名の女はいない。新しい名前で、新しい歴史を始めることができるだろう。
今は全体的に家事をしてくれている。名前の固着が起きるまで外に出せないので、人目につかないよう部屋の掃除や料理、虎の世話をしてもらっている。
ガオウと名付けた虎の出所もベルタの記憶とともに封印された。カキシマはもううちで預かることは決定したような言いぐさで、「ペットにすんのはいいが、散歩には出すんじゃねぇぞ」と言い放った。なぜか人馴れしたこの虎は、今日も檻の中からのんびりとテレビを見ている。もう、テレビを見ていない、とは言えないくらい、テレビに夢中だった。できることならこいつの出所は知りたかった。
彼女の生活については幸いこの数か月でこの町の様々な情報が入ってきたこともあり、困らせてはいない、と思う。女ものの服を扱う店や食材を買う商店なども場所がわかってきた。料理が得意なのは彼女の“才能”だったのか、食材を買っておかないと幸か不幸かそのおかげで、最近は「飯にしよう」と思ってから外出の支度をするのでは遅い、という認識が付き始めた。行きつけていた惣菜屋や食堂は、ベルタの名が知れてしまうまではお預けだ。いずれ外に出せるようになったら、一緒に行くとしよう。
いやまったく、仕事ではなく生活に気を揉むことになろうとは。
ベルタの忘れさせる力は事騙しによって鳴りを潜めた。自身を見失うこともないだろうし、今後このような事件を起こすこともない。だが一方で、彼女を操っていた黒幕のこともわからなくなった。残念ながら犯罪者たる“名無しのナース”は世界から消失し、新聞の紙面も警察の捜査が続いている、と締めくくられている。警察は今回の件に触れることもできていない。黒幕にせよ実行犯にせよ捜査は難航し、いずれ迷宮入りするだろう。
黒幕の目的がカキシマであったことを考えると順当に考えれば政敵であろうが、こうまで特殊な人材を引き出せる者となると難しい。そもそも私は政界に明るくないし、ベルタは私の処分も指示されたようなことを言っていた。私を邪魔者と理解しているなら、私の目に触れないよう振る舞っている可能性が高い。私がそういう立場なら、他の誰かを経由する。その誰かがベルタを……“名無しのナース”を作り出したのだろう。ならば、彼女が最初に名前を失ったのが彼女の能力によるものとは限らず、同じことが繰り返される可能性もあるか。
「だが、どうあれ今回の件は済んだ」
そう。ひとまずは終わったことだ。次がいつであれ、今は少し休まなければなるまい。体内の銃弾を取り除く手術は今度頼みに行こう。ベルタの名が普及してしまったら、
「先生?大丈夫ですか?」
いつまで経っても部屋から出てこない私を心配してか業を煮やしてか、ベルタがもう一度呼びに来た。
「すまない、少し考え事をしていた。新しいものとはなんだ」
「ニノマキさんが写真を持ってきてくださいました。見たこともない生き物だとか」
「またピンボケの手ぶれ写真じゃないだろうな……」
裏口に訪れるニノマキの対応だけはベルタに任せてしまっているが、仲良くやっているらしい。自分にはわからない女性としてのふるまいを覚え直すきっかけになってくれればと頼んでみたことだが、果たしてニノマキのふるまいに女性的な部分があるかはよくわからない。
「それと、カキシマさんの写真だそうです。元気に退院される様子ですね。よかったです、無事に退院できて」
……ナースだった記憶も、暗殺者だった記憶も彼女にはない。カキシマについては私が新聞記事と関連して少し教えたことだ。彼女の記憶がどのようになっているか、正確に知る手段はなかった。生活に必要な知識はある、料理が得意だ、女性らしいふるまいも覚えている。だが、どこでどうやってそうした知識を得たのか、どう育ってきたのかはわからない。
「ああ。あとで電話でもしておこう。ベルタの件も、少し話しておくよ」
いつまでも秘密の家事手伝いというわけにはいかないし、いずれ命名学者の助手として役所に提出しようと考えていた。そのためには、カキシマの手を借りるのが手っ取り早いだろう。少し、命名学者としての業務実績を増やしておく必要があるかもしれないな。
……ただ、こうした全ては結局のところなりゆきに過ぎない。行き場を失った少女の面倒を見るほどの甲斐性は私にはなかった。訪れるものはまばら、金は政府から雀の涙、使う場所もなし。こんな場所で二人暮らしをすることになるなどと想像もしなかった。
きっとかつての私なら、一人になる彼女を見過ごすこともできたのだ。
そんな私に。
何か、きっかけをもたらしたのは誰だったか。
日々、つまらんものを押し付けに来たのは誰だったか。
銃弾に倒れた私を介抱してくれたのは、いったい誰だったか?
記憶は曖昧だ。
こんなことにならないために手記を残していたのに、どうやらその名前が書いてあっただろう部分は失われたらしい。
実体を見なければ、私の命名も意味を為さない。
となれば、これはもう、忘れてしまったことなのだろう。
なぜ忘れたかなどわからない。
本当に忘れたものは思い出せない。
この半年間、私の横に誰かがいたらしいという曖昧さを記録し。
この手記は、ここで終える。
命名学者トワの手記 ナガレ=メイズ @nagare_maze
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