第4話 奪うもの、貴様に名を与えよう
まるで雷が落ちたような、破裂音。
それが銃声であると今はわかる。
だが、銃声であるとわかったところで、いったい何を止められるのか?
ZGGOOOOOM!
銃声に続いてくぐもった爆発音も聞こえて来た。この町の治安はどうなってしまったのだろう。何が起きているのかは想像がつく。だが、何が起きているのかはわからない。
ヒゴ君の姿は早々に視界から消えた。10代の少年の全速力に、50になろうという男が追いつけるはずもない。加えて、体内から迸る異物感。体内にあるという金属片に銃弾という名がついたことで、違和感は増大している。足を踏み出す度、何かが染み出してくるような。
だが、それでも。
「町の南……大山道。そこを今日、この時間に通るのは……」
麓からこの町に至る大山道は平野部との交流の基幹。毎日決まった時間にバスや郵便といった配送サービスが行き来する。その交通の大動脈は、美しい並木道が続いている。
「なんという」
絶句する。今はその並木道に沿って、巨大な炎の壁が続いていた。銃声や爆発音が聞こえてきたのだ、当然状況は想像がついていたし、火の手が上がることは想像していた。だがこれほどの規模とは。
「先生……っ」
少し離れたところからヒゴ君が駆け寄ってくる。先に着いたはいいが、できることがなかったというところだろう。無論、私とて一人ではどうしようもない。
「さすがに気づいているだろうが、一応消防に連絡を。可能ならば麓からも応援を出すように要請してくれ」
「はい、わかりました!」
指示を受ければすぐに動き出す。フットワークが軽いのは確かだが、判断力がなくては仕方ないな。だが、改めて考えれば彼が来なければ火を思い出していたかはわからない。火を忘れたままでは、この状況も楽観視していただろう。触れるまでその恐怖がわからない、どうすればこれが消せるのかわからない。記憶を奪う能力を持つ者がいるなら、今回の件は、やはり同一犯か。
「銃声から5分と経たずにこの始末……爆発の原因は、銃ではない、か?」
銃声は一発だけだった。爆発の陰で撃たれていたとしてもわからないがそれは順序がおかしい。周囲を見渡せば、どうやら炎の壁ではなく燃え上がるバスなどの車両が列をなしているようだ。銃弾一発ではこうまで爆発炎上を起こすことはない。恐らく爆薬も使われたのだろう。だが、この規模で爆薬を用意したとなればこれは待ち伏せだ。そうすると……
「ばか野郎、突っ立ってんじゃねぇ!元気なら手伝え!」
不意に、バスの中から怒鳴り声が聞こえてきた。その声は私に向けられている。
「カキシマ!無事だったのか!」
「俺が無事でも市民が無事じゃねぇよ!いいから手伝え!中にいる奴らを窓から放り出す、受け止めろ!」
たしかに、バスのドアは炎に包まれ、出入りできる状態ではない。非常口も同様だ。カキシマは後方の大窓を肘打ちの一発で砕き、スーツを丸めて鋭利に残った窓ガラスの上に載せた。
「いいだろう、中に男手がいるなら少しこっちに出せ。私一人では力不足だ」
「応よ!」
バスの中から今一つ屈強でない男性陣が放り出される。一人目は無理やり受け止め、二人目以降は放り出された男性陣と協力して次々に出していく。
「よーしいいぞトワ!バスん中はもう大丈夫だ!俺も出る!」
「よし、元気な男たちは他の車両内部の確認を!女子供は離れてけがの者に処置をお願いできるか!」
指示を受けて市民が散っていく。それを満足げに見届けた後、最も大柄な男がバスの窓からのっそりと出てきた。炎の熱気で汗だくになりながらもまるで体力を失っていない政治家は、誰に受け止められるまでもなく、ひらりと飛び降りた。
そこに、3度目の銃声が響いた。
「ぐぁっ!」
地上の雷が突き刺さる。血を噴いたのは、カキシマの厚い胸板だった。
「角度、……何者だ!」
振り向けば、細いシルエットが走り去る姿が見えた。陽光と炎の光で目がくらみ、手がかりがまるでつかめない。このままでは逃げられる。だが、カキシマを放っては……
「僕が追います!先生はカキシマさんを!」
「何!?」
私の横をやはりシルエットが駆け抜けた。彼は私がまだ見たことのないスピードで影の方向へ走っていく。出会って二か月の少年が、なぜこうまで全力で私についてくるのか、私にはまだわからない。
「待てヒゴ君、いや、場所だけでいい!私が行くまで無茶をするな!」
彼への心配、彼への期待、両方が合わさった声は、彼に届いただろうか。私はひとまずカキシマに付き添い、彼の意識が途絶えないよう声をかけ続けるしかなかった。やがて現れた救急車たちが、人々を次から次へと病院へ搬送していく。多くの人が火傷として搬送される中で、カキシマの銃創に救急隊員は驚いていた。
「でも、大丈夫です。うちの病院の先生は優秀ですから」
「あぁ、身をもって知ってるよ。でも、銃弾は取り除いてくれた方がいいな」
「トワ先生は大丈夫ですか?退院したばかりでそんな運動をして」
「いや……やることがある。私のは、後で頼むよ」
あらかた救助の済んだ火災現場と、意識を失って救急車に運び込まれるカキシマを交互に見て、もう一度状況を考える。
「何が、起きている」
この一連の状況に名前はない。2か月前から始まったこの件について、私はまだ何かを見落としている……
数時間後。カキシマの奥さんから連絡があり、病院へ向かった。
「よう。みんな無事か」
「救急によれば、死者はゼロだそうだ。怪我は少なからずいるが、重傷者はいない」
「そりゃ、重畳」
「いや、目の前に一人か」
「そりゃ最悪……」
はっは、と笑い飛ばすカキシマだが、起き上がることはできずにいる。昨日とは一転して、今度はカキシマがベッドに寝転がったまま質問をし、私が枕元で答えるという構図になってしまった。一晩でこうも状況が変わるとは、禍福は糾える縄のごとし……いや、意味が違うか。
「今度は私がりんごを剥こうか」
「いや、昨日の今日でそうも食わねぇよ。それより、お前は犯人の姿は見てないか」
強い男だと、素直にそう思う。だが残念ながら私にも手がかりはない。
「今、ヒゴ君が追っている。場所がわかった時点で連絡してくれ、とは言ったが……あらゆる意味で期待できない。私としたことが指示不足だった」
私が行くまで無茶をするな、などと言ったが、私が彼のところへたどり着く手段は彼からの連絡以外にない。彼一人で行動している以上、一手間違えれば連絡は不可能になる。その時点で私は詰みだが。
「緊急時の対応ができねぇって点じゃ、お前もあのガキも変わんねぇてか。となりゃあ持久戦だ……あの事件の目的は俺だった」
「なに?」
「そうじゃなきゃ、わざわざあの炎の中俺を狙い撃ちには来ねぇだろう。ただの放火魔ならこうはならん」
それは、たしかにそうだ。市民を巻き込んだテロと見せて、その実目的はたった一人。だとすれば、カキシマが生きている時点であちらの目的は未達成なのだ。
「持久戦というより、囮作戦だな。カキシマがここに運ばれたことをあちらが把握していないとも思えん。今夜にでも来るんじゃないのか」
「よせ、落ち着いて眠れねぇ。怪我人は労わるもんだぜ」
自分が狙われていると知った上で落ち着いて寝る気だったようだ。
「所詮はしがない一政治家、公費で警備員を付けるのも税金の無駄ってな。一人の命を守るためにみんなから金を集めてるわけじゃあない。かといって私費で雇えるほど金持ちでもない、まったく八方ふさがりだ」
「なら、私が……」
「仕事しろ公務員、言ったはずだぞ。お前の仕事は今回の件の捜査であって、俺のボディーガードじゃない。俺のために働くな、市民のために動け」
本人にそう言われては何も言い返せない。次の言葉を考えていると、不意に、スマホが震えた。ポケットから取り出して画面を見るが、知らない番号だ。ベッドから離れて着信を受け取る。
「もしもし?」
「先生!僕です!ヒゴです!」
慌てた声が通話口から聞こえてきた。いや、期待はしていたがよく考えると私は彼に連絡先を渡していない。最初から調べていたのだろうが、それはストーカーまがいのような気もする……
「声が大きい。だが、無事だったか」
「あ、すいません。無事です。ご心配おかけしました」
「その音量ということは、犯人は見つけられなかったな」
「さすがトワ先生。いえ、申し訳ありません、取り逃がしました……」
犯人を見張っていれば大きな声は出せないだろうし、捕まえたのであればこうまで慌てた声を出す必要はない。しかし彼の脚力で捕まえ切れないとは、逃げ足の速い犯人のようだ。
「脚は僕の方が速かったと思うんですが、人ごみに紛れてしまったみたいで。でも、僕が追いかけた方向は町の中心方向です。少なくとも、この町からは出ていないと思います」
「そうか。恐らく計画の成否を確認しなければならないのだろう。実際、カキシマもなんとか生きている」
「あ、カキシマさん、無事だったんですね!」
なんとかじゃねぇよ、と軽口がベッドから聞こえてきたが無視する。
「とにかく戻ってきなさい。私が入院していた病院か、私の家の方に……」
「クラ様、院内での通話はご遠慮いただけますか」
突然、視界の下から声が聴こえてきた。冷たく凛とした声、そしてまず視界に入るメガネ。昨日のナース、今日も勤務日だったか。あまりに唐突かつ近距離からの声に、かなり驚かされた。
「あ、ああ。すまないヒゴ君、またこの番号にかけ直」
既に電話は切れていた。どのタイミングだったかはわからないが、私の指示を聞いて切ったのだと思いたい。スマホをポケットにしまい、改めてナースを見る。
「カキシマの担当を?」
「いえ、私は別件で通りすがっただけです。カキシマさんはナンパしてきたので好みではありません」
あいつ、本当にナンパしていやがった。ベッドの方からそりゃないぜ嬢ちゃん、と悲しげな声が聴こえてきたがやはり無視する。
「カキシマの状態については先生から聞いていたりしないか」
「それでしたらカルテをお持ちしましょう。あるいは、今日は先生がいらっしゃいますので直接お聞きになりますか」
「いや、それには及ばない。先生には私の胸の銃弾を取り除くときに世話になろう」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ナースは静かに引き下がり、一礼して廊下を歩いて行った。
ヒゴ君の電話にも手がかりはなかった。ただ、町から出ていないという以上カキシマの言う持久戦はそれほど長く待つことにはならないだろうと予想できる。可能ならば待ち伏せがいいのだろうが、あちらの準備を待つことにもなる。選択肢はない、主導権もない。この戦いはひどく、不利だ。
「失礼いたします。カルテをお持ちしました」
昨日も思ったが、仕事の早い娘だ。
「あぁ。カキシマの状態は」
「はい。救急隊員の方の要請で、体内の銃弾は除去されたそうです。銃創そのものについては処置済み、体内の各種重要器官に関しては現在のところ特に問題は見受けられず。というもの、銃弾は筋肉で止まっていたそうです」
すごいな、筋肉。
「どちらかといえば入院状態なのは火傷のためです。全身に火傷を負っていますので、その療養として。軽度ですので痕も残らないとは思いますが、10日前後は経過観察になりますね」
「10日……」
「10日ァ!?」
ベッドから大きな声が聴こえてきた。充分元気なように見えるが、病院に言われてしまうとよくないように思えてしまう。今回の件の犯人も問題だが、カキシマにとっては議会が厄介なのだ。意図的な欠席は意思表示として見られるが、入院による欠席では意思表示ではなくなってしまう。
「その他、擦過傷や切り傷のようなものもあったようですが、その辺りも火傷と合わせて治療が行われました。全般的に、問題なしです」
ナースはカルテを閉じて、別件がありますので、とその場を立ち去っていった。後ろ姿に礼を言って、私はベッドのそばに戻る。
「10日か……そりゃまずい、色々まずい」
「聞こえていたなら、安静にしていれば体には問題はないとわかったろう。ゆっくり休んだ方がいい」
「よくはねぇよ、わざわざこっちに戻ってきたのはそのためで……」
「私もそろそろ帰る。政治のことはわからん、なんとかしろ」
「そうか……そうか、気を付けて帰れよ。俺が狙われてるとは言ったが、お前だって撃たれてるんだからな」
カキシマ自身も政治に関して私を頼っているわけではない。一言私を案じはしたが、すぐに自分の中で戦略を考え始めたようだ。
ならば、私は彼が政治に集中できるようこの事件の解決に尽力しなければなるまい。友人のたっての頼みなのだから。
だが、今回の件を改めて見れば、既に状況は切迫したものになっている。自身は銃で撃たれ、町は爆破され、友人もまた殺されかけている。これはただの警察沙汰だ。犯人の像も掴めない。銃という物の名前をつけた時点で、私は命名学者として仕事を果たしてはいないか。
本当にこれは、私の仕事なのか?
夜。自宅に戻った私は、テレビを確認している。謎のバス爆発、山道の一時閉鎖とそれに伴う流通の問題、被害者の声。被害者が一人や二人ではないため、メディア側としても扱いやすいと見える。カキシマについても触れられたが映像は病院前の生中継に留まり、病院側は入れる気はないらしい。既に面会時間も過ぎている以上、メディアが中に入ることはないだろう。被害者の一人がカキシマに助けられたと言ったことについては、さほど取り上げられなかった。
「なぁ、お前はどう思う」
なんとなく問いかけるも、答えは帰ってこない。なぜならそこにいるのは虎だからだ。テレビを見ているように見えるのは気のせいだろうが、昼間見たとき同様おとなしい。こいつについても、真犯人を捕らえれば何かわかるのだろうか。
「カキシマが麓に降りられなかった以上、流通経路からお前のルーツを探るのも無理そうだしな……」
暇そうに吠えた虎は、また前足に顔を埋めた。餌をねだる様子もないのは、諦めなのか、落ち着きなのか。
「私は、次にどう動くべきだ」
ヒゴ君は結局戻ってきていない。自宅に帰ったと考えるのが妥当だが、連絡がないのは気にかかる。心配事が複数あると、どうにも気がそぞろになって進む道が定まらない。
と、そこに玄関からチャイムが鳴った。ヒゴ君だろうか?
「こんばんわトワ先生、今日はお疲れさまだったねぇ。これね、うちで作った肉じゃがだからよかったら食べんさい。あとね、虎ちゃんにお肉買ってきたから」
「……どうも、クチタビさん」
クチタビ婆さんには悪いが、期待が外れたというのが正直な感想だ。表情に出なかったかが心配だが、それはそれとして私のエサに加えて虎のエサまで持ってきてくれるとは本当に気が利く。隣人というのは素晴らしいものだ。
「あら?ヒゴ君は一緒じゃないの?肉じゃが二人分持ってきたのに」
「えぇ。おそらく自宅に帰ったんでしょう、麓から来ている子ですから」
「そんなことないわよぉ、さっき見たし」
「なに!?」
またしても想定外の情報を持ってくる!隣人というのは本当に素晴らしいものだ!
「どこで見ました!」
「え?えーとそう、病院の方よ。あたしもカキシマ先生のお見舞いがしたかったんだけどねぇ、行ってみたら面会時間過ぎちゃってたみたいでね」
面会時間過ぎというと20時過ぎだ。今は21時を回っているので、たとえ面会時間ぎりぎりまで面会していたとしてももうこちらに来ていていい。私は日が暮れる頃に帰ったからすれ違ってすらいないはずだが、しかし、なぜそんなところにいる?
「病院の入口あたりをひょこひょこしててねぇ、周りにマスコミの人たちがいたからあんまり大声出すのも悪いかなって、声かけなかったんだけど。あれはたしかにヒゴ君だったわよ。なんか動きがせせこましかったし」
言いたいことはわかるが、彼の認識が小動物レベルなのは気のせいか。
「でも、戻ってきてないならどこ行ったのかしらねぇ。今日もバスが爆発したりで山道の方は危ないじゃない?帰れてるならいいんだけど……」
「クチタビさん、ありがとうございます。私はヒゴ君を探してきますので、虎にエサをやっておいてもらえますか」
「え!あらやだいいの?やったわ、虎にエサやりなんて動物園でもなきゃできないわよね!」
ポジティブというか好奇心旺盛というか、この婆さんの強さを改めて感じた。その強さに助けられた部分は多そうだ。今度改めてお礼をしよう。だが、今は。
「ヒゴ君。何をしているんだ」
コートを雑に羽織り、もう一度病院へ向かう――
夜の病院は、あまりに暗い。
マスコミの車両は撤収し、灯りはいつもの町のそれだけだ。ところどころにスクープを狙うカメラマンの気配を感じるが、私が来ただけではスクープにはなるまい。なるべくなら、何があろうとスクープにならないよう願いたい。
まずはヒゴ君を探そうとここに至るまでに病院の周囲をぐるりと見たが、彼の姿はなかった。既に離れたか、中にいるか。電話をしても大丈夫だろうか?今時の若者が何時ごろまで電話を受け付けているか、想像もつかない。私はもう少し人と接するべきなのかもしれないと、今更ながらに思った。
ふと、すぐそばで何かが聴こえた。扉の開く音、だ。病院の中かとも思ったが、それはもっと奥から……
「裏口、か?」
ゆっくりと裏に回ると、裏口の前に誰かが立っていた。扉に手をかけ、静かに、静かに体を動かしている。そっと近づき、声をかけた。
「おい」
「!!!?!?!」
それはカメラマンだった。ことあるごとにヒゴ君を期待してしまう自分が嫌になるが、今回の場合その期待外れの表情は別の効果を発揮したようだ。
「す、すんませんすんませんすんませんうちはただスクープが欲しくて許してつかぁさいごめんなさい……!」
声を押し殺したまま謝罪するカメラマン。どうやら若い女のようだが、こんな時間に一人で送り出すとはいったいどういう会社だ。
「許すも許さないもない。ここで何をしていた?」
「うち、みんな正面口に張ってるんで、だったら裏口いこ!って思って……あ、うち、こういうものです。写真ないと、お金になりません……」
フリージャーナリスト、ニノマキ・ミカゲ。なるほど要領を得ない喋り方だが、要するに金のために裏口に張っていて、ついにシャッターチャンスを目撃した、と。
「何を見た」
「あの、女の人が、裏口から入っていって……今さっきです、だから扉が閉まる前にちょっと細工して、えへへ」
「女が?この時間に?」
細工、というのは恐らく鍵が締まらないようにしたのだろう。それで入っていった女が行ったのを確認して開けようとしていた。
「……いいだろう。ついてこい。私もそのスクープ、興味がある」
「えぇ、どなたですか……スクープとっちゃやですよぅ……」
フリーの割に押しが弱い。私にとってはありがたい話だが、ついて来いと言われて後ろにつくようではフリージャーナリストとしてダメだと思う。まぁ、その辺りはあとで気が向いたら指摘してやるとしよう。今は、謎の女だ。
「入るぞ」
「……いるな」
床に耳をつけて足音を聞く。病院のリノリウムの床は、相当気を付けない限り足音がする。謎の女の警戒心は、薄い。そして距離は近い。
「懐中電灯はあるか」
「はい、小さいのなら……」
言われるがまま懐中電灯を差し出すニノマキ。偶然ではあるがちょうどいい相棒ができてよかった。自分で懐中電灯を持ってきていなかったのは経験を糧にできていない感じがあるが、現地調達は悪いことではない。
「足音の方向は正面だ。姿は見えないが、この病院の構造上、あちらは病室のある廊下のはずだな」
「よくご存じですね」
……フリーとはいえ取材にきたジャーナリストならばそのくらいは調べていてもいいのではないか。そもそもこいつ、面会時間より前に来ていたのか。
「そういえばお前、16歳くらいの少年を見なかったか。20時過ぎの話だ」
「え?うーん、見ていないと思いますが……その時間だと私、正面口の方でうろついてましたんで」
「そうか。いや、いい。あとで考えよう」
今考えるべきは、謎の女の正体と、その目的だ。いや、後者については一つ予想がついている。やはり、持久戦というほど長くはなかったぞ、カキシマ。
「一応言っておくが。危険な状況になったらすぐに逃げだせ。私は自分の面倒を見るので精いっぱいだ」
「き、危険なことがあるんですか?ス、スクープ……」
「生きて帰れたら、スクープになるだろうよ。たぶんな」
あちらの足音を聞きながら、少しずつ距離を詰めていく。足音が止まった位置は、やはりカキシマの病室の前だった。私たちの位置も充分に接近し、女はもう視認できる距離だ。引き戸の扉を音もなく開けた女は、病室内に入っていく。
「ニノマキくん。少し、扉の外で待て。スクープを撮るなら、近づきすぎるな」
「え、あ、は、はひ!」
声を押し殺して座り込むニノマキ。座れとは言っていないのだが、まぁいい、扉が閉じる前に突入する!
「そこを動くな!」
あえて扉を乱暴に開けて音を立てる。驚いて振り返ったその女の顔は、月光に照らし出されてようやく見えた。銀縁のメガネがきらりと輝く。ほっそりとした手足、引き締まった顔だち、その手にはナイフ。名札は、ない。
「貴様。よく考えれば、カキシマが麓に戻ることを知ることができたのは、この病院の人間くらいだった。出ていく時間帯がわかるのもな」
私の手には、かつて拾った鋼の雷、拳銃。中身がないことくらい承知している。だが、相手は中身がある可能性を捨てきれない。
「目的を言え。そして罪を認め、投降しろ。殺人未遂……バスの放火も貴様だろう」
「ええ、そう。あなたを撃ち、バスを爆破し、彼を殺そうとした、全てが私」
声は変わらず温かい。だが、ナイフを捨てる様子はない。
「いいナースだと思ったのだがな。美しく、仕事ができ、身持ちが堅い」
「お褒めに預かり恐悦至極です、クラ様。けれど、身持ちが堅いのではなく、カキシマ様が好みでなかっただけですので、そこは評価を間違えています」
「そうか。カキシマが寝ていてよかった」
カキシマのベッドとナースの距離はまだ遠い。ナイフだけならば、対処できる。銃を出されれば、状況は悪くなるが……
「そう、目標はそのカキシマ様の暗殺ですが。目的を訊かれましても、それは言ってはいけないと言われています」
黒幕がいる、ということか。この女はただの鉄砲玉。だが、いずれにせよ止めることには違いはない。銃を構えたまま女の話を聞く。話す気があるなら好都合だ。
「なぜ話すのか、という顔をしていますね。クラ様は、私の能力に気づいていらっしゃいますか?」
「……それも全て貴様か。火。虎。銃」
「そう。名前を消す力、歴史を奪う力。あなたが何を知ったところで、私はあなたを殺すか、名前を消してしまえばいい。すごいんですよ。名前を奪われた人って、空っぽになるんです。知識も技術も人脈もゼロになって、その人の才能だけが光り輝く」
暗殺に関わる全てを揉み消してしまう能力。なるほど確かに暗殺者としては適任だ。だが、今の発言ではっきりした。
「貴様の能力には条件があるな。名前を消す対象を見ていない人間にしか通じない、と見た。でなければ、殺す必要がない。何の条件もないなら、たとえバスの中だろうと名前を消すだけで済むはずだ」
「そう。本当に頭がいいのですね、命名学者様。火については実験だったのですよ。私の能力がどこまで通じるか」
おそらく、そのとき火を見ていた者は火を覚えていたのだろう。覚えている人間のいるコミュニティ内では、すぐに情報が伝播して回復してしまう。だが、私は早々に解決に動いてしまい、確認を怠った。
「案の定、あなたが現れた。元々あなたが一番邪魔だとは聞いていましたが、本当に見事に解決してしまわれた。私の能力で消した名前を、あなたは容易く戻してしまう。ご存じですか?普通、辞書を引いても検索しても、それがその何かの名前だって認識できないのですよ」
そうだ。それは私の才能なのだろう。だが、私の能力の本質はそこにはない。
「ですので、2か月かけました。虎を取り寄せました。銃を取り寄せました。爆弾を取り寄せました。あなたを殺して、カキシマ様を殺して、任務終了。あなたを殺す必要は、本当はないのですけれど。邪魔ですので……」
「そうはいかない。貴様を捕らえ、警察に突き出し、カキシマには政治に戻ってもらう。私はまた平穏な事務所でどうでもいい公務を繰り返すのだ。そう、それと虎についてだが、うちで楽しく肉を食っているぞ」
「あら、ありがとうございます。あの子の処分、どうしようかと思っていたので助かります」
行き当たりばったりな犯罪者だった。せめて最後まで責任を持ってほしい。私と女は、対峙したまま動かない。女は昼間のナース服のままで、銃を隠しているスペースはなさそうに見える。だが、たとえ銃がなくとも私とて銃は空っぽだ。現実的に言えば、ナイフvs素手であり、こちらの不利は否めない。
「そういえば、クラ様」
「なんだ」
「私、あなたはタイプですよ」
「な、っ」
場に全くそぐわない一言。そして彼女が知ってか知らずか、私はそういう冗談に弱い。動揺した瞬間を狙って、彼女は私にナイフを突き立てに走った!
「くっ!」
「残念です、クラ様。私の気持ち、お受け取りいただきたいのですが。邪魔なので死んでください、という気持ち……」
寸でのところで右手首をつかむことに成功し、ナイフは止まった。押す力は、細腕に見合った弱い力でしかない。彼女の左手が私の手を解こうと動く。いや。その動きは、解くためでは、ない……?
「私は奪いますよ。だって、そうするほかにやることもありませんから。あなたがどう思うかはわかりませんけれど、これはせっかくの才能なんですもの」
しまった、彼女の能力の条件は接触か、あるいは一定の距離!離れなければ……!
「ナイフは囮か……っ」
彼女の左手が私の背に回る。右手のナイフは既に手放しており、私の手をとっていた。まるで社交ダンスのようだが、勢いのままに押し倒されかねない。
「あなたは名前を消した方がいいと思ったのです。だって、あなたの才能はきっと私の任務の役に立ちますから。まぁ、任務的にはカキシマ様と順番は前後しましたけれど、私の意思もたまには大事ですよね」
任務を優先するなら、私に向かってくるより先に、ベッドのカキシマを刺すべきだった。だが、私に対する敵意がそれを上回ったというのか。私に対する興味が、彼女の順序を変えたというのか。
ならば、それは愚策だった。
「ニノマキィ!聞こえているか!」
「は、はいぃ!?」
久しぶりの大声だ。ニノマキでなくとも、カキシマが起きてくれればそれで間に合っただろう。だが、安全策は重ねてこそ活きるものだ!扉の陰からニノマキがカメラを構えて這い出てくる。
「な、だ、誰!」
「ス、スクープっす!公務員夜の病院でナースと密会!」
ものすごく不名誉なスクープになりかねないが今は仕方なし!むしろ彼女の記憶を消してほしいくらいだが優先事項はこいつの確保!
「私を見ている人間がいる以上、貴様は私の名前を消せない。そして、今、よぅくわかった」
名前を消すと、才能だけが残る。才能を開花させることができる。
「貴様。名前がないな?」
「な、なにを」
今度はこちらが彼女の背に手を回す。決して離しはしない。私の能力に接触の必要はないが、逃げられるわけにもいかないのだ。
「自分で、自分の名前を奪ったな?」
理由はわからない。さっきから出てくる黒幕の指示か、自身の歴史を嫌がって使ったか、あるいは他の何か。だがいずれにせよ、彼女は名無しだ。ならば、私ができることはただ一つ。
「名無しの女!貴様に私が、名を与えてやろう!」
「やめ……やめて……私は!もう名前なんて!」
「黙れ!才能など知ったことか!どんな才能で活躍しようと名前がなければ貴様が歴史に残ることはない!」
暴れる少女を抑え込み、コトダマを準備する。撮影されているのがとても気に食わないが、このところそんな気に食わないことばかりだったような気がする。
「人間社会に人として生まれておきながら!名無しの道具で終わろうなどと!そんな決意を私は許さない!」
人間に名づけをするのは初めてだ。きっと色んな弊害がある。
それでも、世に名前のある人として受け入れてもらえない人間がいるのなら。
行き先を失って誰かの道具に成り下がろうとする人間がいるなら。
名前とともに自分を見失った人間がいるのなら!
「それを救うのが私の仕事だ!
我がコトダマ師としての力をもって定める――!」
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