第3話 闇に沈む鋼の雷、君に名を与えよう


 ……海。

 当てもなく泳いでいる。陸地は見えない。どこから泳ぎ始めたかわからない。行きたい場所があったのかもわからない。ただ、泳いでいる。

 不意に響く雷鳴。嵐。海はどんどん暗くなっていく。どんどん黒くなっていく。どんどん赤くなっていく。

 私の脚が止まる。私の腕が止まる。もはや、私の視界は泡と暗闇しか映さない。

 意識は深く、海の底に沈んでいく――



――――


 ゆっくりと目を開く。

 もう一度目を閉じたくなるほどの白い光。深い海の底から、海流に乗ってどこかへ流れ着いた……というわけではなさそうだ。

「夢。か」

 小さく独りごちた。言葉にすると、コトダマ師としてでなくてもあれが夢だったと安心する。海に沈む夢。鮮やかなものだったような気がするが、夢だと認識することで少しずつ、精彩を欠いてゆく。

「起きたか、トワ」

 不意にベッドの脇から声がした。懐かしく、珍しい声だ。

「……カキシマか。ここは、どこだ」

「病院だ。ベッドが空いていてよかった」

 立ち上がって枕元に近づいてくる黒いシルエットの偉丈夫。カキシマ・タンゾウ。古い友人であり、私をこの町に呼び寄せた張本人である。2m近い長身とスーツ越しにもわかる強靭な筋肉、後ろに撫でつけた黒髪に太くたくましい口ヒゲと、見る者を威圧する要素を集めた男だ。そんな風貌でありながら……いや、そんな風貌を活かして、政治家として今は国政に携わっている。はずだが。

「お前、こんなところで何してる。今は議会も開いているだろう」

 起き上がろうとするが、どこかが痛んで起きる力が出ない。仕方なく寝転がったまま質問する。

「そりゃこっちのセリフだ。安楽椅子探偵アームドチェア・ディテクティブがようやく出て来たと思ったら、今度は病院のベッドで引きこもりか。笑い話にしちゃ上出来だが、仕事中には見えねぇな」

 まったくだ。いくら公務員と言えども勤務時間中に病院にいるようでは仕事にならない。命名学者に有給休暇はあるだろうか。

「ついでに言うなら、議会は一昨日から自主欠席だ。今回という今回は向こうさんが折れるまで根競べだな」

「自由なものだな、この国の政治家は。たしかあちらも先日欠席していただろう」

 本当にこいつらが政治を動かしているのか、疑問でならない。

「だが、最初の質問に答えていないぞカキシマ。議会を休んだからと言って病院に来る理由はあるまい。見舞いに来たなどと殊勝なことを言われても気持ち悪いのだが」

「ぬかせ、誰がお前なんぞ見舞いに来るか。……と言ったんだが、めちゃくちゃ叱られてな。お前が回復するまではまともに帰れん。恨むぞ」

 なるほど。カキシマ家はそういえばかかあ天下だったか。奥さんとはカキシマ以上に会っていないが、以前見た時はたしかに気の強そうな人だった。

「そりゃあ、悪かったな」

「ああ。それともう一つ理由があってな。ここの病院を知った経緯でもあるんだが」

「なんだ?」

「ヒゴっつったか。誰だあいつは」

「あぁ……」

 おおよそ察した。つまり、ヒゴ君が呼びに行ったのか。しかし、この様子だとカキシマと知り合いでもなさそうだが。

「家に戻ったらうちの嫁と随分親しげに話しててよ。何してんだって話しかけたらあれよあれよとここまで送り届けられちまった。わけがわからん」

「本人はどうした」

「花ぁ買ってくるってよ」

 人に見舞いに来させておいて自分はその後で行くとは、ずいぶん豪胆なものだ。最近うちの事務所に入り浸っている学生だ、と説明すると、そうか、とカキシマは興味のない様子だった。

「あら、トワ先生。お目覚めですか」

 病室の外から若い女の声がした。見れば看護師のようだが、あいにく病院の知り合いはおらず、名前はわからない。ほっそりとした手足と引き締まった顔立ちに銀縁のメガネときつい印象だが、温かな声が見た目の印象を和らげる。

「えぇ、おかげさまで」

 カルテを探す看護師に適当に相槌を返すと、カキシマが少し楽しげな顔になった。

「せっかくの見舞いだ。りんごでも剥いてやろう」

 ナイフ借りてくるわ、と病室を出て若いナースに声をかける大男は、傍目にはナンパのように見える。クチタビ婆さんが言っていた噂の政治家はこいつかもしれない。ただ噂の真相がどうあれ、さっき見たはずの夢がもう朧なのは、なんだかんだで彼との会話のおかげなのだろう。旧友とは、ありがたいものだ。



「で、だ」

 どっかりと椅子に座り、カキシマが大きな手で器用にりんごを剥きながら話しかけてくる。ヒゴ君はまだ来ていない。

「今度は俺が訊く番だろ。とりあえず、何があったか話せ」

「あぁ。と言っても私も経緯くらいしか覚えていないが……」

 かいつまんで覚えていることを話す。クチタビ婆さんから走る宝石の噂を聞いたこと。山で見たことのない動物と出会ったこと。そいつを無力化したあと胸から流れる血に気づいて倒れたこと。

「そういえばあの動物はどうなった」

「まだ名前をつけてないのか?俺は知らん。お前を見つけたのはさっき言ってたヒゴとやらだ。ついでに言うなら三日前のことだとよ」

 私は三日も意識を失っていたのか。さすがに何もしていないということはないだろうが、“猫”についてはあとでヒゴ君に確認しておこう。

「剥けたぞ。ほれ」

「すまん、いただこう」

 八等分したりんごを一切れ渡してくる。起き上がれはしないが腕が動くのは幸いだった。食事の介護をしてもらうのは、自分の無力さを痛感する。

「その倒れた時の事、もっと詳しく覚えてないのか?」

 自分でもりんごを食べながらカキシマは質問を重ねてくる。倒れたときのこと……

「いや、わからない。ショックの所為だろうが、記憶が曖昧なんだ」

「そうか。そりゃ、困ったな」

 膝に頬杖をついて口ヒゲをいじるカキシマ。こいつが口ヒゲをいじるのは困っている時か苛立っている時だ。

「話が見えん。お前は何に困っている?」

「トワよぅ。俺がこの町に戻ってきたのは一昨日なんだ。お前が寝ている間に俺が何もしてないと思うか?」

「思わんな。また、警察にちょっかいをかけていると見た」

「さすがトワ先生、ご明察」

 カキシマは警察OBだ。今でも事件についてのご意見番のようなところがあり、それと同時に自分でも捜査に首を突っ込みたがる。

「さっきカルテも見たし、警察側の資料にも目は通したんだがな。今回の件で注目されてるのは、凶器なんだ」

 既往症もなく、怪我をしそうなものも現場周辺にないのに突然胸から血を噴いた。必然、怪我の原因は「誰かに攻撃された」という流れになる。流れにはなるが。

「だがなぁ。お前がなぜこんなけがをしたのか、誰もわからんのだ」

「何?カルテにはなんとあったんだ?」

 もう一切れりんごを食べながら、つまらなさそうにカキシマは言う。

「胸部下方外傷あり、原因不明、ってな」

 医者の診断上で原因は特定できなかった、ということか。

「とはいえここの医者は優秀だ。昔入院したときだってずいぶん世話になった。彼らに外傷が見えていて原因を判断できないってことは、まず考えられないんだ」

 ものはわかっているのに理由がわからない……

「む。まさか」

「そのまさかだ。お前を攻撃したモノの名前が誰もわからん。名無しなんだよ」

 なるほど、私の記憶に頼りたいのはそういうことか。今まで誰も見たことがない凶器など、探しようがない。そして警察とて、存在するかもわからない凶器を探し続けるわけにもいかない。もしこれが私の狂言ならば凶器は存在しないのだから。そうなれば、捜査は打ち切りだ。

「俺も警察の連中と話はしてるが……このままいけばお前が勝手に転んだんじゃないかくらいの対応になる。事件性は、ない。だから、自分でなんとかするしかないんだ、この国唯一の命名学者。入院患者に言うのもなんだ、酷な話とは思っているんだがな……」

 頭をかいて申し訳なさそうにするカキシマ。これは、私の仕事なのか。

「カキシマ。私を、」



「先生!お目覚めですかーっ!」

 不意に院内に響く少年の声と足音。廊下は走らない!という怒鳴り声も聞こえてきたが、止まる様子はない。病室到達まで、あと3、2、1。

「先生!」

「ヒゴ君、もう少し声のトーンを落としてくれるか。周りに迷惑だ」

 病室の柱にぶつかるんじゃないかという勢いで少年がすっ飛んできた。手に持っている花の名前はわからないが、スピードに負けてしおれているように見える。

「入口でナースさんに先生が起きたって聞いて……僕、居ても立ってもいられなくて!本当によかった!」

 ベッドに縋りつくようにして座り込むヒゴ少年。うん、だからもう少し声をだな。

「先生三日も眠りっぱなしだし、よくわからない動物も眠りっぱなしだし、部活は忙しくなってくるしで、本当に心配だったんです!もし先生が起きなかったら、僕が命名学者の弟子として跡を継がないといけないけど、僕はまだ何も……」

「弟子ではない、継がなくていい」

 早めに釘を刺しておく。基本スポンジのように人に意見を取り入れる素直さでありながら、一度本人の意思が入ると頑固でしかたない。

「で、なんだ。あの動物のその後についてとりあえず教えてくれ」

「あぁ、先生の家で寝てますよ」

「何ィ!?」

 なぜだ!?

「警察の方に「これなんですか?」って訊かれて、「わかりません、名前がないので」って答えたら「じゃあトワ先生の管轄かぁ、おうちに運んどきますね」って」

「後で警察に文句を言っておこう……」

 というか、ヒゴ君もあの状況を見ていたのだから家に送るところで断ってほしかった。自分の意見がない部分は本当になんでも受け入れてしまうのか……。

「あー。んじゃ、俺ぁそろそろ帰るわ。またな」

 一連の流れに呆れたように溜息を吐いて、カキシマが立ち上がる。また一切れりんごを取っていく辺り、そもそも腹が減っていたのだろうか。

「わざわざ来てくれてすまなかったな。あぁいやそうだ、すまないついでに一つ頼まれてほしいんだが」

「あ?」

「明日でいいが、俺の家から動物図鑑を持ってきてくれ。調べたいことがあってな」

「スマホで……いや、名無しの件か。じゃあネットで検索ってわけにもいかねぇな。写真もないんだろ?」

「お察しの通りだ。不便なものだな、この検索社会において名前のないものとは」

 わかったよ、と言って請け負ってくれたカキシマだが、最後にかがみこんでこう耳打ちしてきた。

「改めて言っとくぞ。その体で酷な話とは承知してるが、今回の件はお前の仕事だ。解決してくれ。きっと何か、思っている以上の問題がある」



……でかくて黒い男がいなくなると、白い病室が不意に広く見える。その席に座り直したヒゴ君はカキシマが置いて行ったりんごを一切れつまんだ。

「彼は君が呼んだそうだな」

「そうとも言えますね。正確には、僕がカキシマさんの奥さんにカキシマさんを呼ぶようお願いしていたら偶然カキシマさんが現れたのでそのまま送り出した、というところです」

偶然、か。あいつも運が悪い。それとも私の運がいいのか。

「そもそもなぜ呼ぶようお願いしに行ったんだ」

「あれ?カキシマさん、お友達ですよね?」

 いったいどこからその情報が漏れたのか。おおよそ隣の婆さんだろうという予想はついている。

「友達が見舞いに来ると嬉しいものです。僕も何度か入院したことがありますが、その度に友達が花とか果物とか持ってきてくれて。おいしかったなぁ、りんご」

 りんごを食べながら昔のりんごのことを思い出している……。

「先生はご友人少なさそうですから、どうしようかと思っていたんです。そしたらお隣のおばあさんがまた教えてくださって」

「予想はしてたが、クチタビ婆さんは本当に口が軽いな……」

 口止めしても止まらないことは経験上知っているので口止めしていないが、なんでも信じる少年となんでも伝える婆さんの組み合わせは非常によくない。どこかでどちらかを封鎖しておかないと、そのうち何か致命傷を負いそうな気がする。

 不意に、外から雨音が聴こえてきた。

「雨か。予報も見ていなかったな……」

「今夜は嵐になるそうですよ。いずれにせよまだ退院の許可は出ていませんし、先生はもう一晩病院ですけど」

「あぁ。明日にでも、ナースに掛け合ってみるよ」

「楽しみだなぁ、いや、また新しい壺を見つけたんですよ。先生になんて名前をつけてもらえるのか……」

「私は壺の鑑定人ではないし、一度として壺の名づけをしたことはない」

 何度でも訂正する。そうして無駄な話をしているうちに、面会時間は終了した。ヒゴ君は、また来ると言いおいて去って行った。部活が忙しいと言っていたのはなんだったのだろうか。

「食事は……りんごで腹いっぱいになりそうだな」

 半分近く残ったりんごを見て、笑いと溜息が同時に出てしまった。明日からは凶器の件、“猫”の件、そして凶器を用いた何者かの件と片づけなければならない仕事が多い。まったく、臨時の休暇は余計な仕事を生むものだ。



――赤い海。雷鳴。嵐。沈む体。沈む視界。

「……っ!」

 体を跳ね起こす。打ちつける水音。さざめく風音。暗い、病室。

「夢。夢、だ……」

 コトダマを用いて自己暗示をかける。赤はない。既に、傷は処置されている。今回の件は私の仕事だとカキシマは言ったが、言われなくとも解決しなくてはトラウマになりそうだ。

「予報通りとはいえ、この体にこの嵐はストレスだな……そもそも、これほどの嵐になると本当に予想されていたのか」

 この町は本来ほとんど雨が降らない。龍神の加護などと実しやかにささやく者もあるほどだ。たまに降るときもこうまで強く降ることはなかった。信仰のない自分にも、何かよくないことが起きているのかもしれないと思わせる。

 夢から跳び起きたことで、昼には起き上がれなかった体が逆に動くようになっていた。窓際まで歩いていく。カーテンを開けると、目の前が真っ白に輝いた。

「む……」

 雷だ。続いて轟音……轟音。轟音だと?

「そうだ。雷鳴だ」

 思い出した。私が倒れたとき、最後に聴いたのは雷鳴だ。いや、違う、あの日は雨ではなかった。雷鳴のような何かの音だ。瞬間的に耳を叩く、凶悪な音……

「地上の雷、か」

 少し安心した。あれほど大きな音を立てるものが凶器ならば、次に使えばすぐにわかる。あの日は私が一人になった隙を狙ったのだろう。だとすれば、次の犠牲者は恐らく現れない。犯人が相当自暴自棄にならない限りは。

「だとすれば、調査は可能だな」

 凶器の件は、やはり現場を調べるべきだろうな。体力を戻さなければならない。決意があれば、今度こそ悪夢を見ることなく眠れるだろう……!



 翌朝。嵐は夜だけだったようで、むしろ快晴だ。

「よう。随分元気そうだな」

 コートを着る私を見て、カキシマは拍子抜けしたような顔で挨拶してきた。

「私の仕事なんだろ。やるべき時にやらないと、仕事というのは問題ばかり持ち込むものだ。拙速は巧遅に勝る、というものだ」

「とりあえず医者の許可はもらっとけよ。医者だって仕事でお前の面倒見てくれたんだからな」

「手続きは私の得意分野だよ。なにせ公務員だからな」

 そうだった、と言ってカキシマが重たそうなかばんをベッドの上に置くと、中から分厚い本が出て来た。記録を取り扱うものとして、見慣れた装丁というのはそれだけで落ち着くものだと理解する。早く家に帰りたいものだ。

「ほれ、ご所望の品だ。もうちょっとわかりやすいとこに置いとけよ、探す音に反応して隣の婆さんが出て来たぞ」

「あぁ……今頃空き巣騒ぎになってるかもな」

 ことあるごとに話題に上ってしまうクチタビ婆さんはもうなんというか、筆舌に尽くしがたい。家に帰りたい気持ちがもう萎え始めた。

「ともかく、ありがとう。さてあの動物は、と」

 ネコの辺りのページをパラパラとめくる。名前がわからない以上、見た目で判断するしかないのだが……見つけた。強靭な体躯、鋭い爪牙、特徴的な縞模様。

「ん、なるほど“虎”か。そうだ、虎だった」

「わかったのか?」

「あぁ。お前、うちにいるっていう件の動物は見て来たか?」

「おう、もちろん見たぞ。寝てたけどな」

「だったら名づけを済ませられるな。――コトダマをもって名を改めよう。その動物の名は虎、虎の字によってお前をこの世に引き戻す」

 この二言でカキシマの意識の中のあの動物は、虎になった。

「ほーう。あの虎が?この町にいたってのか?」

「そうだ。山で産まれた、というのはありえない話だ……どこから運ばれて来たか、調べられるか?」

「当然だ、あんなでかいもん。だが時間はかかっちまうかもな」

「わかっている。これから私がする調査とあわせて挟撃になればそれでいい」

 身支度は終えた。許可はとるが、許可がなくても調査はしなければならない。いつまでも休んではいられん。ナースコールを押す。

「お前は何から調べるんだ?」

「もちろん現場だ。もう4日も経っている以上犯人が戻ることもないだろうが、少なくともあの場に雷鳴の痕が残っていれば……」

「雷鳴?なんか思い出したのか」

「あぁ、あの日最後に聴いたのは雷鳴のような音だった。雷ではないが、そういう音だ。それだけで調べられるなら、そっちでも調べてみてくれ」

「オーケイ、4日前に雷みたいな音が聴こえたかどうか、ね」

 伝えはしたが、あまり期待はできない。確かに大きな音だったものの、山中の音ゆえ町まで届いたかは難しいところだろう。

「失礼します。クラ様、お呼びでしょうか」

 そこに、ナースがやってきた。昨日カキシマにナンパされていた若い女性だ。カキシマはひらひらと手を振っている。お前、ほんとに訴えられても知らんぞ。

「私を担当した医師はいるか?えーと……」

 医者の名を呼ぼうとして、名前を知らないことに気づいた。昨今は個人情報がどうとかで病院でも名前情報を排除する傾向にあるらしい。目の前のナースも、名札をつけていない。検索社会はいいことばかりではないのだ。特にこういう見栄えのよい女性にとって。

「退院の許可と……それと私の傷について訊きたいことがあるんだ」

 ここの医者は優秀だとカキシマは言っていた。私の傷の状態も記録しているだろう。自分はナイフや鈍器で襲われたわけではない、だとすれば何かしらの飛び道具のはずだ。それなら、傷の方向がわかれば……

「先生なら今日はいらっしゃいません」

 いきなり計画がとん挫する。常勤ではないのか……どうしたものか。

「退院の許可は受付で行います。質問については、そうですね、可能な範囲でカルテからお答えすることはできますが」

 否定した上でてきぱきと代替案を説明してくれる。なるほど、いいナースだ。

「それなら、私の傷の詳細な状態はわかるか?」

「えと……はい。胸部外傷あり、原因不明。刺し傷、ただし周辺に火傷が見られる。胸部に対しほぼ正面から刺されたものと思われる。体内に微小な金属反応が確認できるが、傷が小さいため切開には本人の同意を求めたい……だそうです」

「体内に金属……?」

 困った。自分では元気になったつもりだったが、本当にこれは動いていいのだろうか。担当医に直接確認したいところだが、待っているほど時間もない。

「いや、よし。ありがとう、退院させてもらうよ。受付で手続きをさせてくれ」

「はい、承りました」

 ナースについて受付に向かう。ヒゴ君はまだ来ていないが、退院したとわかれば自宅の方に来るだろう。そもそも、私は彼の連絡先を知らない。

「では、書類がですね……」



 思ったより書類は多かったがなんとか処理し、自宅に向かう。私が虎を眠らせたタイミングで、私の正面に誰かがいた。昨日の雨が残念だが、何か手がかりを見つけなければ動きようもない。今は正午前。カキシマは途中で

「俺は一度麓の警察に応援を頼んでみる。あんな大物、真っ当な流通経路で考えりゃあ陸路で下から来てるだろうからな」

 と言って別れた。大柄な割に頭の働く男だし、人脈も強い。頼りがいのある男だ。捜査協力でまた奥さんのところに帰れなくなるとすれば、私としては申し訳ないのだが……と、懐かしき自宅への道を歩きながら考えていると、何やらやかましい。

「あっ、先生!退院されたんですね!お待ちしてました!」

「おやトワ先生。今朝先生の家に泥棒が入ってたんだよ、あたしゃ見たよ!」

 ……素面のはずだが、頭が痛い。いや、むしろ彼らは素面ではないのではないか。やたらとテンションの高いヒゴ少年とクチタビ婆さんのコンビは、なるべくなら今は相手をしたくない。

「おかげさまで。ただ用があってすぐに出かけますので、クチタビさん、留守番をお願いできますか?」

「お、トワ先生があたしに頼み事とは珍しいね!引き受けたよ!なんだって追い返しちゃうよ!」

 愛想笑いとともに挨拶をすると、威勢のいい返事が戻ってくる。頼りになるかはともかく打てば響く、やはり気のいい婆さんではあるのだった。

「先生!僕はお供しますよ!」

「……断るのも面倒だ、ついてきなさい。ただ手がかりなしの調査ゆえ、あまり構ってはやれんぞ」

「えぇ、問題ありません!技術は自分で盗むものだと学校の先生も言ってました」

 こいつ、技術を盗みに来ていたのか……もっとも私の名づけは技術によって行われているものではないので、彼の努力は全くの無駄だ。

「とりあえず、先日の動物を見ておこう。おとなしくしているのか?」

「あ、あの動物、名前なんになったんですか?」

「虎だ」

「虎!そっか、虎でしたね!あれ?」

 虎って新種だっけ、と今更ながらに疑問を持つヒゴ少年を放置し、私は自宅に入る。意識がなかった時間を含めて四日ぶりの我が家だ。なんとなく懐かしいが、廊下の奥に大きな檻が見えて玄関の時点で落ち着かない。

「あれか……」

 虎は目を覚ましていて、私を見るなりゴゥン、と吠えた。ただ檻に食いつくような勢いではなく、寝起きの挨拶のような感じだった。

「お前はどこから来たんだ……っと」

 騒がしく吠えたてるでもないので放っておいて服装を整える。服を脱ぐと、たしかに傷跡が見えた。処置こそされているが、傷跡というのは生々しいものだ。山に登る荷物を準備し、もう一度玄関に戻った。虎はもう一度、「行ってらっしゃい」とでも言うように眠たげに吠えた。こいつ、何かあの時と様子が違うような……

「まぁよし。行こう」



「完全な日中にこの山に登るのは久しぶりだ」

「そうですね。ことあるごとに夜までかかってますから」

 ヒゴ少年が来てから三度目の登山である。体力に気を遣って以前よりもさらにゆっくりと登っているが、ひとまず体調の問題はなさそうだ。

「あのときは確か、町から500m付近だったな」

 登山道はしっかりとした木組みだが、落ちた枯れ葉と今朝の雨で滑りやすい。道を外れれば泥濘も多い。ただ、日が差しているおかげで状態の悪い地面は見えているのが救いだ。

「先生は今回何をお探しなんですか?」

「言ったろう。手がかりはない。強いて言うなら、何かを探しに来たのだ」

 うーん、と腕を組んで困るヒゴ少年。私は君が思うより行き当たりばったりだぞ。

「とはいえヒントはあるんだ。たしかこの辺りのはず……」

 町から500m、登山道から外れ、足跡を見出し、引きずった跡を見出し、草の凹みがあり。そして虎と出会い、左へ数m逃げて、倒れ込み、眠らせ……

「この木、か」

 見つけた。私があのときいた場所。即ち、現場だ。

「あれ、ここ、僕が先生を見つけた場所ですね。うん、木の枝ぶりが特徴的だから間違いない。先生はここで、こう、うつ伏せに倒れてたんです」

 そういえば第一発見者はヒゴ君だった。最初から彼に訊いていれば早かったかもしれない……

「向きは君が今ジェスチャーした方向で合っているか?」

「え?あぁ、忠実に再現しましょうか!」

「いや、いい。向きさえわかれば充分だ」

 ぬかるんだ地面をものともせず倒れこもうとする彼を制しつつ、自分の傷を見直す。ほぼ正面から、体内に金属片を撃ち込まれた。いったいどんな凶器なのかは想像もつかないが、少なくとも座り込んだ私の胸に当たるということは、金属片はまっすぐ飛んできたと考えられる。

「なら、まっすぐ探すだけだ」

 方角で言えば、山頂方向。整備された道ではないが、登れないほどではない。



 ……そうしてまっすぐに歩いていく。周辺にも何かないかと警戒しながら歩いているので、足元の悪さと相俟って時間ばかりが過ぎていく。

「先生……枯れ葉の中で枯れ葉を探してる気分です……何をお探しなのか教えてください……名前をください……」

 普段であれば私よりよほど体力のある彼が弱っているのは、目的が見えないためだろう。終わりのない作業に延々と従事できるほど精神的な落ち着きはないようだ。

「名前はわからない。違和感を探すだけだ」

 もしかしたら、名前さえあればもうヒゴ君は見つけていたのかもしれない。私と彼の間にある知識の差、経験の差が、何が違和感なのかという判断の範囲を歪めてしまう。を、私は探している。ないかもしれないもの、文字通りのないものねだりだ。だが、あると信じなければそこにはありえない。ないと思って諦めれば、そこにそれはないのだ。

 そして諦め悪く信じ続けて、ようやく、そのときが来る。

「これだ。ヒゴ君、見つけたぞ」

「え!?マジですか!」

 見つけてしまえば何のことはない。落とし物を拾うような感覚であって、そこにはなんのドラマもなかった。だが、ようやくだ。

 それは不思議な形の物体だった。重みと光沢、硬さから考えて金属製。一部は筒状になっており、細い可動部がいくつかある。底面のスイッチ状のものを押すと、中から何か部品が出て来た。部品に空いた穴の中も空洞である。

「だが。なぜ、こんなところにある?」

 距離で言えば、私の倒れた位置から50mもない。ここまで時間がかかったのは周囲を全て確認していたからでしかない。近すぎるような気もするし、そもそも……

「先生、これはなんですか?」

 いや、考えるのはあとか。名づけができればその時点で選択肢は増える。

「そうだな。まずは山を下りよう。現物がある以上、先に資料を漁って過去に名づけが為されていないか確認できる」

「あ、名づけって本来そういう手順を踏むんですね。僕、先生が適当につけてるだけだと思ってました」

「……そういうこともあるが、最近の件が異常なのだ」

 名前があるはずのものに、名前がなくなっている。だから、まず元の名前があったかどうかを確認するという手順が必要になる。

「でも、今は便利ですよね。現物があれば画像検索もできますから」

「電波が届けばな」

 いずれにせよ、山を下りなければ。虎と同じように、流通経路を見つけなければならない。これを撃っていた本人が見つからない以上、私の打つ手はどうしても後手に回る。見えない敵というのは、なんとも恐ろしい。



 山道入口、または出口。町と山の境界で、電波はすぐに戻ってきた。

「銃か。金属を充たすと書いて、銃」

 写真を撮れば、画像検索ですぐに調べられる。名前がなくともその見た目自体で調べられるとは、便利なものだ。火の件のときはヒゴ君が現物を見なかった。虎のときはクチタビ婆さんが写真を撮らなかった。一連の異常の中で、ようやくまともに調べられている。だが、その今回が最も危険なものだ。

「名づけをしよう。ヒゴ君、ちゃんと聞いていてくれよ」

「はい、一言一句聞き漏らしません!」

「そこまで気合は要らんが――コトダマをもって君に名を戻そう。人を傷つける武装、人に害為す脅威。銃の字をもって君を定義する」

 銃、とぽつりと言ったヒゴ君は、急に身震いした。それはそうだろう。これは火とは違う。虎とも違う。あるだけで人を傷つけるものではない、意思を持って敵対するものでもない。これは、だ。そんなものが身近な山に落ちていた。そして、実際に人を傷つけた。

「名づけは終了だ。あとは流通経路を調べて使用者を探し出す……」

「どうしてこんなものが、あの山にあったんでしょう」

 もう一度小さな声でヒゴ君が呟いた。

「それは誰かが持ち込んだからだ。銃は人工物、山から生えてくるものではない」

「そんなことはわかってます。なぜ、こんなものが、です」

 なぜ。なぜ、と来たか。そういえば私も山の中で最初に感じた疑問はだった。誰かが持ち込んだ、ならばなぜその誰かは持ち込んだのか。そしてもう一つ、なぜその誰かはこの凶器をあそこに置きっぱなしにしていたのか?

「ありえません。この国じゃあ銃が見つかるだけでも罪に問われかねないのに、実際に使った凶器を置き忘れていくなんて、うっかりどころじゃないですよ」

「そうだな。山の中とはいえ、私以外の人間があの雷鳴のような音を聴いていれば探しに来る可能性だって……」

 いや。今何か引っかかった。

「ヒゴ君。今なんと言った?」

「え?うっかりどころじゃない、って」

「その前だ」

「えーっと。凶器を置き忘れていく?」

「そうだ。いや、まさかとは思う。まさかとは思うのだが!」

 まさか、忘れたのか。銃を撃った本人が、その後でがなんなのかわからなくなり、それで捨てていった?バカな。そんなことはありえない。忘却とは、そこまで万能で即効性のあるものではない。だが、説明がつく。

「銃を撃って私が倒れた時点で“銃”という名前を世界から奪えば、誰も私を撃ったものがわからなくなる。私が死んでいれば、銃の歴史と私はそのまま世界から消える。犯人も何もない、凶器はのだから」

 だが、あちらの誤算は私が生き延びてしまったこと。そして、忘れたあとで銃を捨ててしまったことだ。これで完全に足がついた。

「犯人も銃を思い出したはずだ。もしかしたら現場に戻るかもしれない、もう一度山に登って――」

 


 そこに。地上の雷はまた雷鳴を轟かせる。

「バカな!もう一挺あったというのか!?」

 今度は私に向けられたものではない。改めて聴けば、地上の雷と呼ぶには随分と冷え切った音だった。

「先生!」

 悲痛な声が走り出す。

 落雷の方角は町の南、麓へ通じる――

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