サミクラウス
ロム猫
第1話
サミクラウスというビールがある。世界で一番アルコール度数が高いのだという。ビールでは珍しく瓶内熟成をし、五年の歳月を数えた頃が飲み頃であるらしい。酒に意地汚い私も、まだこの酒には手をつけないでいる。
この酒を私にくれた男はもうこの世にはいない。かつてバンドを組み、ともに夢を追いかけていたTという男だ。彼はベースを担当し、私はドラマーとして曲をリズムから支えてきた。
Tは大学の後輩で歳は私より二つほど若かった。同じ音楽サークルに所属し入学当初から腕ききのベーシストとして認められていた。ただ性格は偏屈で、才のあるものが時おりみせる人を寄せ付けぬオーラを、Tもまた纏っていた。話をしているとたまに見下されている感じを覚える、そう同級はこぼしていた。
当時、私はといえば、がさつを絵にしたような男で、ずかずかと土足でひとのこころに入ってゆくような性格であった。思ったことをそのまま口にし、代わりに他人に対してもデリカシーを求めなかった。ひとを寄せ付けぬ孤高に対しても例外はなく、私はTが望む望まぬ関係なしに彼との距離を縮め、気がつけばサークルの中で一番気の置けない仲になっていた。後輩であるにもかかわらず、酒を飲みに行く供の選定に、真っ先に顔が思い浮かぶような、そんな存在であった。
大学三年になったころ、私は事情で大学を辞めざる得なくなり、とあるプロドラマーのローディーとしてライブに帯同しつつ、アルバイトをして生計を立てるという日々を送っていた。何となく始めたドラムスという楽器であったが、それで生計を立てたいと夢を追うまでに、私のなかで存在を大きくしていた。
学生でなくなった私は忙しさに追われ、大学の友人と遊ぶこともなくなっていた。自分で稼ぎ、なおかつ夢を追い努力を続ける。その苦しさが自分のなかに自尊心を育て、自然彼らとも疎遠になっていった。卒業という期限付きではあるものの自由気ままな彼らに対する妬みもあったと思う。
そんな生活を二年ほど過ごしたころ、ある有望なインディーズバンドがリズムセクションを探しているとの情報を得た。知人を介してオーディションを経て晴れてバンドの一員となった私は、メンバーから良いベーシストはいないかと問われた。ベースが加わればすぐにでも活動ができる。第一にTの顔を思い浮かべた。私の知る頃の彼の奏力でも充分に役割りを果たせると考えていた。
久しぶりにTに連絡を取る。メジャーに届きそうなバンドのベースに空きがある、俺もそこで叩いている、一度顔を見せに来い。そう誘った。オーディションは即決で合格となった。私は共に夢を追える喜びに心を躍らせていたが、Tのほうは少し違っていたようだった。合格はしたものの、加入に関しては考えさせて欲しい、それが彼のこころうちであった。
Tの葛藤、それは今にして振りかえれば至極当然のことであった。当時Tは卒業に差しかかり、進路を決めかねていたのだ。その頃世間では不景気による記録的な就職氷河期を囁かれており、世の中の先行きは不透明であった。探しても碌な就職先はない。いや、碌でなくても求人があればまだましである、といった具合であった。
そんな折、新卒者の肩書きを捨て、もし夢に破れるようなことになったらどうする、そんな取り返しのつかない不安にすくんでいたのだろう。Tは私とは違い、大卒者としての履歴を持つのだ。捨てるものの大きさが違う。
けれども私はTを説得した。たった一度きりの人生じゃないか。自分で自分を生かさなかったらだれがお前を生かしてくれるのだ。そのようなことを連日話したとおもう。態度を決めかねていたTも私の説得にほだされ、バンドマンとしての人生に軸足を置いた。
バンドはしばらくは順調だった。もともとネームバリューがあるところにリズム隊として新加入した形であるので当然といえば当然のことだった。ゼロからのスタートではない。しかし、伸び悩んだ。集客もある。コネも増えた。地方のライブハウスも定期的に廻った。デモCDに実績を添えてレコード会社に送り続けた。そこまでである。メジャーからのリプライがない。いたずらに歳だけが重ねられた。
何の意味を持つのかは分からない。けれどもひとは節目というものを意識する。私も御多分に洩れず三十という歳を目前に焦りを感じていた。そしてその焦りを加速させる事情がもう一つあった。女である。五年間同棲をし、私の生活とバンド活動を支えてくれていた女との事情である。
彼女は私の一つ下で結婚を焦っていた。子供が欲しい彼女は出産のリミットを自ら三十と決めていた。逆算すれば確かに身の振りを決めないといけない年齢に達している。
家庭を持つならば売れないバンドマンの妻という選択肢は無い。もっともな意見だ。彼女の実家は自営をしており、小さいながらも地元では有名な老舗企業である。三人娘の長女である彼女は結婚をして後継ぎを連れて来るという使命を負って生きてきた。結婚をするなら私としたい、けれどもバンドマンと結婚をするわけにはいかない事情がある。その葛藤の末、私にバンドを辞め家業を継いでもらうか、それとも別れるか、彼女のなかで先送りにしてきた決断を遂に突き付ける形になったのだ。夢を追うか現実をみるか、かつてTが迫られた葛藤を私も負うことになったのである。
悩みに悩んだ挙句、バンドを辞める道を選んだ。豪放磊落に見えて繊細、大胆不敵を装い臆病。ひとは時として自分の弱さを隠す為に反対の自分を演じることがある。おそらく私もその類の人間であったのだろう。人生の岐路に立ち、ほんとうの決断を迫られたとき、私は自分の本質に向き合わざるを得なかった。そしてその本質とは、かくも弱く卑怯な男だった。私は私の安寧の為に、仲間を裏切ったのである。
バンドを辞めることを告げたとき、T以外のメンバーは必死に翻意を求めた。いまさら辞められても困る。それはそうに違いなかった。Tは何も言わなかった。慰留に走らないかわりに理解を示しているようにも見えなかった。たった一度の人生。その選択はほんとうにお前を生かす為の選択なのか。何も言わないことで、そう言っているようにも思えた。ただひたすらに沈黙を守るTの目を、私は見つめ返すことができなかった。
停滞していた時間は足早に歩みを進める。バンドを辞め、髪を切り爽やかな青年を装い彼女の両親に結婚の許しを得に行った。家業を継ぐべく就職も決まり、過分な給与の提示も受けた。籍を入れ式場と日取りを決め、さて披露宴の招待を、という段になり、私はTを呼ぶべきかどうかに思い悩んだ。他のメンバーは呼ばないつもりでいたがTは別格である。バンドのメンバーである以前に古くからの友人であり、私の青春を語る上で外せない人間の一人である。ロックンローラーを地でいくような馬鹿な悪行で、ともに笑って過ごした日々がよぎる。
彼女はTを呼ぶことに難色を示した。長髪で見た目ガラの悪いTを会場にそぐわないと思ったのだろう。私もあんな別れかたをした負い目から少しだけ躊躇をした。けれどもだからこそ、もう裏切るわけにはいかなかった。反対を押し切り、私はTに招待状を送ったのである。
結論をいえば、Tは欠席の意思を示した。まだ私のことを許せないでいるのだろうか。
けれども、欠席の返信とともに包みを寄越していた。サミクラウスだ。五年後にまた飲みましょう、ただ一言だけメッセージが添えられていた。サミクラウスのラベルをみると、瓶内熟成をし、五年後が飲み頃の、ビールでは世界最高度数を誇るベルギー産である旨が書かれてある。
五年という歳月に何か意味があるのだろうか。私を許すまでにかかる時間を示しているのだろうか。あるいは区切りをつけることで死ぬほど努力をしてメジャーになるという決意を表しているのだろうか。分からなかった。いずれにせよ、五年後には分かるということだろう、そう、高を括っていた。そして、その真意を知ることは遂に叶わなかった。盃を交わすその日まで二年を残し、Tは死んだのである。
通夜に行くと大学の後輩、それからメンバーのふたりがいた。ギターはおまえのせいだとばかりに私を睨み、ボーカルはただ泣いてばかりいた。私がバンドを辞めたあと何が起きたのか、ギターは静かに語り始めた。
あのあと彼らはドラマーの急募をかけた。けれども、きちんと叩けるドラマーがフリーであることは、なかなか起こり得ないことなのだ。まして、彼らレベルのバンドを支えるのである。ツアーも廻らなければならない。上手くても、趣味でやっていますでは駄目なのだ。人選は難航した。結果、妥協に妥協を重ね、リズムくらいはキープできますよ、という程度のつまらないドラマーの加入を許してしまったのだ。彼らもまた焦っていたのだろう。
案の定、演奏の質は落ちた。評価もガタ落ちだ。私が抜けたことで下がった士気は、留まることを知らず下がりに下がっていった。
バンドに不協和音が響き始めるのにたいして時間はかからなかった。もともと、人付き合いが苦手なTは私を失ったことでバンドから孤立していった。彼の孤高ともとれる態度は、ひとによっては馬鹿にされていると捉えるのかもしれない。Tとドラマーは些細な口論から殴り合いの喧嘩に発展してバンドは崩壊をした。
そのあとのことは、大学の後輩が教えてくれた。バンドを辞め、彼は大手ラーメンチェーンの店長候補として、就職を決めた。この後輩の紹介である。仕事は劇務だった。不規則な就労時間、長時間労働。そして彼の持つまばゆいばかりの音楽の才能は、プライドを傷つける枷にしかならなかった。酒が増えた。ある日突然、無断欠勤を続けた。初めてのことだ。音信不通のTを不審に思い、大家立会いのもとTのアパートの鍵を開けると、大量の酒の空瓶のなかにTは倒れていた。死因はただの雑菌である。過剰なアルコール摂取とストレス、疲労からTの肝臓はぼろぼろで、自然界に潜むなんのことはない雑菌の毒にも、抗しきれない身体になっていた。後輩はそう伝え聞いたという。
いま、眼前には二本のサミクラウスがある。Tの葬儀を終え、親御さんの意向で形見分けに立ち会った。数本のベース、アンプ、エロDVDと大量のテキーラの空き瓶のなかに見つけた、一本のサミクラウスを持ち帰ったのである。来月で五年を迎えるその日に、Tが私と飲もうとしていた一本だろう。
ひと足先に健全な社会へ「ドロップアウト」をし、顧客に媚びへつらいぺこぺこと頭を下げる私に当時のロックンローラーの面影はない。他人に気を使い、そろそろと距離を縮める今の私は、部下や妻にはデリカシーを求める。
サミクラウスを前にし、辿る記憶を酒の肴に、私は飲むのであろう。
Tは今の私を見てどう感じるのか。
随分丸くなりましたね、そう言うのだろうか。
もう、若くないさ。
昭和の名曲のように、わたしはサミクラウスにそっとつぶやいた。
サミクラウス ロム猫 @poorpoo
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