幸色

 「恋愛は人を変える」なんて言うけど、俺はそれを身を持って知ることとなった。あんなに大人びていた姉貴がしょうと付き合い始めてから少しずつ変わっていったから。


 多分、姉貴は大人になろうと急ぎすぎたんだと思う。俺が小学生の頃には兄貴はしょっちゅう体調を崩していて。親父もお袋も忙しかったってのもあって、姉貴はある意味俺の保護者になっていた。


 そんな日々で遊ぶことを忘れていたんだろうな。翔と付き合い始めてから感情豊かになって、目に見えて明るくなって、時折子供みたいにはしゃぐようになった。いい変化だけどまだ慣れない。


 俺にとっては久々の休日の土曜日。でも姉貴は今日、翔と一緒にお出かけだ。なんだかんだ言って月に一回は一緒に出かけてるんだよな、あの二人。俺と晴人はるとが心配してたのがアホらしく思えるくらい上手くいってる。


あきら、姉貴は?」


 リビングでぼんやりとそんなことを考えていたら兄貴に話しかけられた。高校生になったあたりから健康になった兄貴は今じゃ立派な社会人。姉貴より一つ下だけど兄貴の大学は四年制だから、兄貴の方が就職するのは早かった。


 スーツ姿の兄貴ばっかり見てたからかな。部屋着姿の兄貴にすごい違和感を感じる。寝癖だってついたままだし、多分今起きたばっかりだな。


「姉貴なら翔とお出かけだよ」

「デートかよ。しょうがねぇ、今日の夕食は俺が担当するか。彰、ちょっと買い物に付き合え」


 どうやら夕飯のことを相談したかったらしい。デートだと知るなり姉貴に夕飯を任せるのをやめた。そのことを姉貴にメールしながら俺を買い物に誘うといそいそと着替えに向かう。


 ということは、今日はお袋も親父も帰りが遅いってことだ。帰りが遅くなる時は兄貴か姉貴にメモを残していくから。兄貴と二人きりなんてかなり久々だな。


「姉貴、変わったと思わねぇ?」


 スーパーで夕飯に必要なものを選んでいる時のこと。突然兄貴がそう聞いてきた。姉貴が変わったと思っていたのが俺だけじゃなくて少し安心する。


 でも正直、兄貴も変わったと思う。昔は喘息で頻繁に病院に行ったり急に倒れたりで大変だったのに今じゃ立派な社会人だ。昔の兄貴を知る俺からしたら今の兄貴も変わった、いろいろと。


「別に変わったのが嫌なんじゃないぞ。むしろ嬉しいくらいだ。ただ、驚いてる。姉貴、あんなに明るくなれたんだなって」

「わかる。姉貴が翔の前で明るくなるのは昔からだけど、付き合ったら翔の前じゃなくても明るくなるなんて……」

「ってかお前、姉貴の彼氏の知り合い?」

「知り合いってか幼馴染み。小学校の時からずっと同じクラスだったし」


 あれ、兄貴、知らないんだ。そういや翔と晴人が遊びに来た時っていつも兄貴いなかったな。体調崩して病院だったり、学校でいなかったり。だから俺と翔と晴人が幼馴染みってことも、姉貴が俺達三人と遊んでたことも知らないのか。


「あれ、兄貴が姉貴と翔のこと知ったのはいつ?」

「小五辺りからちょくちょく話は聞いてたな。ただ、噂の翔が彰の幼馴染みってのが初耳だっただけ。そりゃ姉貴の彼氏のことを呼び捨てにして親しげに話すわけだよな」


 いやいや、色々とおかしいよ、兄貴。兄貴が小五って言ったら俺とか翔とか小三だ。その頃の兄貴は喘息とかでわりと頻繁に病院に通ってて翔との接点が無いはず。俺も話してないし。


「あれ、知らねぇの? 姉貴が俺にしてくれる話、大半が翔の話だったんだぜ」

「はぁ?」

惚気のろけてるのは今始まったことじゃねぇってこと」


 さらっと兄貴が告げたのは俺にとってはかなり衝撃的な事実。俺の知る限り、姉貴が惚気け始めたのは翔と付き合ってからだ。つまり姉貴が大学四年生で俺が大学一年生の時。


 でも兄貴の言ってることが事実だとしたら、姉貴は小学生の時から翔に片思いしていたことになる。俺が姉貴の恋に気付いたのは中学二年生の時なのに。姉貴が何を話していたのか知りたくて兄貴に話を促してみた。




 最初に翔の話をしたのは姉貴が小学五年生の頃だったらしい。なんでも「彰の友達に面白い子がいたよ」といきなり話し始めたとか。その日をきっかけに、兄貴は姉貴から翔の話をちらほらと聞かされるようになった。


「姉貴が中学生になった頃だっけ。翔とか晴人がよそよそしくなったって悲しんでたな。彰もちょっとよそよそしくなったって言ってたし」


 確かその時って姉貴が翔と晴人のことを「君付け」しなくなった辺りだよな。同じ校舎に通わなくなって、翔も晴人も姉貴との距離に迷ってたっけ。


 呼び方に迷った二人は姉貴のことを「ゆかりねえ」って呼ばなくなった。晴人は「ゆかりさん」って呼ぶようになって、翔はなぜか「あんた」って呼ぶようになって。晴人は敬語で話すようになったし翔は中途半端な敬語を使うようになった。


 俺も「お姉ちゃん」って呼ぶのが恥ずかしくなって、気がついたら「姉貴」って呼ぶように。翔と晴人が姉貴とよそよそしくなるのにつられて、俺も姉貴との接し方に迷ったな。


「そういやお前知ってるか? 姉貴、彰と晴人の企みに気付いてたぞ。文化祭のあれ、な。文化祭の時毎回ご機嫌だったろ?」


 文化祭って聞いたら俺と晴人の悪あがきしか思いつかない。翔と姉貴を二人きりにするために、姉貴の来る時間に俺と晴人でシフトを入れた。最初の二回は本当に偶然だけど中学三年生からは俺と晴人の計画によって二人きりになった。


 文句を言わないから気付いていないかと思ってた。まぁ姉貴だし、普通に考えたらわかるか。気付いた上で嫌じゃないからそのままにしてた、と。結局気付いてなかったのは翔だけか。


「というか知ってたなら教えてよ」

「いや、姉貴が望んでなかったし。知ってるか? 姉貴、一回だけ俺の部屋に来て泣いたことあるんだぜ?」

「嘘だろ?」

「本当だって。『龍太郎りゅうたろうなら、知り合いの仲を引き裂いてまで好きな奴と付き合う?』って聞かれたんだよ」


 多分その知り合いって俺のこと、だよな。俺と翔の仲を気にして遠慮してたなんて。晴人が気にしていた通りじゃん。まさか姉貴がそんなことを気にするタイプだったとは思わなかった。


「それいつの話?」

「姉貴が高二の時だな」

「あー、翔が馬鹿やった時だ。あの時泣いて帰って来たもんな」

「お、それは初耳だな。詳しく聞かせろよ」


 俺と兄貴は姉貴の昔話に盛り上がる。途中で買い物をしていたことを思い出して慌ててお会計したけど。話は家に帰ってからも尽きることがなかった。




「ただいま! 彰、龍太郎、聞いてよ。翔の奴ったら――」


 ふいに鍵を開ける音がした。扉を開く音と同時に笑顔で楽しそうにそう話し始めたのは姉貴だ。今日のデートでよほど良いことがあったんだろう。いつにも増して上機嫌だった。


 その手には翔に買ってもらったであろう黒い小さめの紙袋。大きさから察するにストラップか何か。それを見つめる姉貴の眼差しはいつもより優しく見えて。俺も兄貴もそんな優しい目つきをする姉貴が好きだったりする。


 姉貴は笑っている方がいい、優しい目つきをしている方がいい。昔みたいな無愛想な姉貴はもう見たくないんだ。あの時の姉貴は心が縛られたみたいに窮屈きゅうくつそうだから。なんて言ったら「お前は気にしなくていいの」なんて言われそうだけど。


「彰、話聞いてる?」

「え、何?」


 ぼんやりと姉貴の変わりようについて考えていたら姉貴に顔を覗き込まれた。話を聞いていないことは事実だから誤魔化さずに話の内容を聞く。姉貴は怒ったら怖いから嘘をつくくらいなら素直に言った方がいい。


「翔に、言われたんだ。結婚前提で付き合いたいって。それで、その……母さんと父さんに挨拶したいって言われて」


 呆れたようにため息をついてから放たれたその言葉はあまりに衝撃的で、一瞬思考回路が停止した。今、結婚前提って言ったよな。聞き間違いじゃないよな。そう心の中で自問自答する。


 そうか、あの買い物袋に入っているのはストラップじゃなくて指輪なんだ。そう気付くまで数秒。そしてようやく事の重大さに気付いた。


「って嘘だろ? プロポーズ? え、あいつまだ社会出て一年くらいしか経ってないだろ!」

「彰、興奮しすぎじゃん。落ち着けっての。姉貴の年も年だし、翔なりに急いだんじゃねぇの?」


 咄嗟に俺の口から溢れたのは自分でも驚くくらい大きな声。それに気付いた兄貴がそっと俺の背中を撫でながら慰めるように話しかける。


 別に嫌じゃない。でも就職して約一年なのに結婚出来るほどの金があるか。翔がこんな思い切った行動に出る奴だなんて思わなかった。無意識じゃなくなった途端にこんなに積極的になるのかよ。


「というか親父達がいるのって日曜くらいだろ。どうすんの?」

「帰りに連絡したら来週でいいってことに……」

「いや、急過ぎるだろ」

「だから、彰も龍太郎も来週はスーツを着てほしい。翔に、きちんとした格好で会ってくれないかな?」


 姉貴が俺と兄貴に頭を下げる。頭なんて下げられなくても俺と兄貴の答えなんて決まってる。こんなに幸せそうな姉貴を傷つけるような真似、するわけない。


「当たり前だろ」

「当たり前じゃん」


 俺と兄貴の声が綺麗に重なる。姉貴が驚いて顔を上げる。よほど嬉しかったのか今にも泣きそうな顔をしていた。その次の瞬間、姉貴が俺と兄貴の身体を抱きしめる。


「龍太郎、彰……ありがとう」


 姉貴の礼を告げる声は涙声で聞き取りにくい。でも「ありがとう」って言ってることが俺にはよくわかる。きっと兄貴も同じはずだ。


 来週、翔に言ってやらなきゃな。「姉貴のことを不幸せにしたら承知しないぞ」って。黒スーツを着てくるであろう翔はきっとこう答えるはずだ。「そんなの当たり前じゃねぇか」って。


 姉貴をこんな幸せそうな表情に変えられるのは翔しかいない。姉貴が幸せになるためならなんでもしてやる。それが、俺に出来る最高の孝行だから。

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カラフルデイズ 暁烏雫月 @ciel2121

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