Never look back

ささなみ

第1話

 昨晩の名残が座卓の上に乱雑に広がっている。月の桂、金鵄正宗、玉之光。どれも祥子が飲み干したものだ。

「動かないでね」

 広縁の椅子に身を投げ出す祥子に一言告げる。親指と人差し指でピアスを押さえ、慎重にキャッチを回す。

「よし、外せた」

 安堵の声が漏れた。おとなしく身を預けていた祥子が頭を反らせて見上げてくる。

「綺麗にホールできてるよ」

 その期待に満ち満ちた表情に苦笑しながら結果を教えた。途端に祥子の顔がぱっと華やぐ。

「ほんと? 良かった! 彩佳ありがとー」

 張り詰めていた空気が一気に賑やかな色味を帯びた。祥子は嬉しそうに身を起こし、テーブルに置かれた旅館の湯呑みになみなみと日本酒を注ぐ。彩佳は苦笑しながらその様子を見守った。

「祥子はやっぱり、シンプルで大人っぽいデザインのほうが似合うね」

 言いながら、祥子の白くて薄い耳に触れる。ひんやりとして柔らかな弾力のある、ほんのり薄紅色に染まった耳朶。彩佳は時折、その薄い厚みに噛みついてみたい衝動に駆られる。

「彩佳の眼には狂いがないってことだね、さすが敏腕ジュエリー販売員」

 祥子は無邪気にはしゃいで褒めてくる。その無邪気さに心がずきずきする。心の奥深くまで刺さる、しかしもう慣れっこになってしまった痛み。彩佳は努めて明るく返そうと口を開いた。

「何言ってるの、祥子のほうがすごいのに。先月は雑誌のインタビューまで受けてたでしょう」

 彩佳は来月から、百貨店のジュエリーリフォームコーナーに異動が決まったばかりだ。ジュエリーデザイナーへの道のほんの入り口が遠くに見えるかどうかといったレベルの彩佳と、ほんの小さな記事とはいえ雑誌に単独インタビュー記事を載せてもらえる祥子とでは、誰が見たって埋めようのない差がある。

「でも結局、私はグリートにはなれないんだよ」

 今つけたばかりのピアスを指先でもてあそびながら祥子が自嘲気味に呟く。

__またその話? 彩佳は奥歯をきゅっと噛み締めた。心の奥底の黒いものがコールタールのようにねっとりと渦を巻き、熱を持って沸き立つ。

「あの男はフェルメールじゃないでしょうが。巨匠に失礼よ」

 心の内側のものを表に出さぬよう努めながら、ネイビーブルーの爪先にいじくられるがままのピアスを見つめる。あの男にもらったという真珠のイヤリングを、半ば無理やり取り上げ、代わりにと彩佳が選んだオパールのピアス。

 深い深い夜空色の爪の気の向くままに揺らされる、艶やかな白に目を眇める。あれは、あの白は__そう、どうやってもその耳に噛みつけない、私の、歯の代わりだ。


『空を見上げて歩く人が好きだったの』

 ゆうべの夜深く。座卓に置いた一升びんを右腕で抱えて、左腕に頬をのせて。赤く潤んだ目をした祥子は、呻くように、しかし静かに呟いた。

『でもそういう人って雲みたい。ころころ形変えて、好き勝手流れて、こっちは地べたに置いてけぼり』

 昏い熱を含んだ声。灯りを落とした薄暗い部屋の中で、彩佳はその着崩れた浴衣から覗く白い胸元に目を奪われていた。


 彼女のその柔くてほどよい重量のある胸を、彩佳は一度だけ触ったことがある。今回のように、傷ついた祥子と二人で旅行に出かけた先でのことだ。酔った祥子が、暑いと言って浴衣を脱ぎ捨てた。朝方冷えるからと浴衣を着せようとした彩佳に、祥子は嫌がって抱きついた。旅館のシャンプーと石鹸と、柔らかい素肌の甘い匂いがした。酔いが回っていた。止められなかった。__私じゃ駄目なの? 気付けば口にしていたそれは、ほとんど悲鳴に近かった。身を離してじっと押し黙っていた祥子は、たった一言「駄目」と言った。これで関係も壊れた、終わってしまった。そう思ったが、翌朝の祥子はいたって普段通りだった。ただ、どちらともなく、あの旅行はなかったことになっている。


 可哀想な祥子。彩佳はまだ飽きずに耳元を触りながら窓の外を眺めている祥子を見た。ジュエリーデザイナーとして地位を確立しつつある選ばれた人間なのに、彩佳がこんなにも並び立ちたいと憧れる存在なのに、恋人にしたってある程度の好条件の男を選べるはずなのに、彼女は選ばれない恋ばかりしている。自分を傷つける相手ばかり追いかけては憔悴していく。ある種の病気だ。

 彩佳のところに宝石を買いに来る客の中には、ワケありそうなカップルもわんさかいる。こちらが「ご夫婦仲良くていいですね」とでも言えば途端に俯いてしまう女と固まってしまう男、「ご夫婦だってー」と勝ち誇ったような笑みを浮かべる女とにやつく男。彩佳の中では、祥子がどうしてもその女たちと重ならないのだった。彩佳には、あの冴えない中年男の腕にぶら下がる祥子が想像できない。しかし彩佳が自由にできない彼女の美しく上気した肌を、胸を、耳を、あの男は好きなようにできるのだ。そう考えるだけで頭がくらくらしてくる。__私も病気だ。宝石もみんな病気だ。私たちは病気を生み出し、売りつけている。

「ねー彩佳、いい天気だよ」

 椅子にだらんとしなだれかかっていた祥子が、空を指差した。

「彩佳も雲みたいだよね」

 それは、どういう意味だろうか。昨晩の発言の後に聞くと、とても褒め言葉とは思えない。熱に浮かされたようにふらつく頭で思う。

「私じゃ祥子を幸せにできないの?」

 言ってしまってから、しまった、と思った。これではあの夜と同じだ。みっともなく泣きながら懇願したあの夜と。

「何言ってんの」

 鼻で笑われる。今度こそ終わった? 全身の血液が地面に落ちていくようで、知らず知らずのうちに足が震える。

「今でも幸せにしてくれてるじゃん」

 祥子は何でもないように続ける。笑う祥子の顔を、直視することができない。

「彩佳といると、楽だわ。そりゃたまにしんどいこともあるけど」

 心がひんやりする。

 ――私からしたら祥子のそういうとこ、あの男と一緒よ。

 彩佳が何をしようと何を言おうと、祥子は友だちでいてくれるだろう。それは同時に、友だちでしかいてくれない、ということだ。でもそれでも今は、祥子が自分を二人きりの旅行に誘ってくれる、この特権を捨てたくない。

「彩佳見て!雲が虹色だよ!」

 急に祥子がはしゃぐ。指差す先には、確かに虹色に煌めく雲があった。彩雲だ。

「宝石みたいな雲ね」

 彼女こそ雲みたいな人だ。ころころ形を変えて、流れるままに流れていく。

「明日はきっといい日になる。ね、何かそんな気しない?」

 ゆうべの昏い目とはうって変わった煌めく瞳が、彩佳のほうを見る。しないと言えば彼女はどんな顔をするだろう。そんな悪意が首をもたげた。その整った顔を、あの男以外のことで悲しみに曇らせるだろうか。あの男以外のことで機嫌を損ねて歪ませるだろうか。

 けれどその言葉を、彩佳は言えない。それは自分自身が一番分かっている。

「そうね、そんな気がする」

 彩佳は微笑んでみせる。明日が祥子にとっていい日になれば、それは彩佳にとってもいい日なのだ。

「きっといい日になるよ」

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