蜘蛛のおんがえし?

RomeoAlpha

第1話

 俺は、蜘蛛が好きだ。

 他人からは理解されないことも多いが、俺には彼らを好むちゃんとした理由がある。

 汗をかきやすい体質のせいか、人一倍蚊に刺されやすい俺は、ゴキブリよりも蚊の方が大嫌いだった。

 ある日、庭の片隅に張ってある蜘蛛の巣に、蚊が捕らわれている姿をたまたま見つけた。それは、俺が蜘蛛に対して一方的な親近感を抱くには十分な理由だった。

 それからというもの、俺は、家の中に蜘蛛が侵入してきても、そっと外に逃がしてやるか、邪魔にならない部屋の片隅に巣を張るくらいは許してやるようにしていた。

 部屋の中に蜘蛛の巣が張ってあるなんて光景は、一般的な感覚だと、掃除がされていないとか、不衛生だと思われるのだろうが、そんなことはどうでもいい。俺にとっては、眠ろうと布団の中に入った後で、耳元で囁くような蚊の飛翔音を聞かされるよりは、蜘蛛の巣が張られた部屋の方が、はるかにましなのだから。


 そんな俺が、一匹の蜘蛛と出会ったのは、梅雨の合間のある晴れた日のことだった。

 蚊は、普段は草の汁などを吸っているが、タマゴを産むときだけ、たんぱく質を補給するために血を吸うのだという話を聞いてから。俺は、なるべくこまめに庭の雑草を抜くようにしていた。連中の餌が減れば、その分、俺が蚊に刺される可能性も低くなるというものだ。

 小さな雑草も見逃すまいと、玉砂利を撒いた庭の地面をしらみつぶしにながめていると、何やら黒い物体があることに気がついた。

 蟻だ。

 かなりの数の蟻が、蜘蛛の死骸にたかっている。

 息絶えた蜘蛛が、蟻たちの食料として解体されている。そう理解したのだが。

 蜘蛛の脚が、微かに震えている。

 どうやら、この蜘蛛はまだ生きているらしい。

 俺の中では、蟻よりも蜘蛛の方がランクが上だ。蟻が蚊を退治してくれるという話を聞いた後ならば、順位に多少の変動があるかもしれないが、今のところ、蟻が蚊の天敵であるという話は聞いたことがない。

 俺は、迷わず蜘蛛の味方をすることにした。

 強く息を吹きかけたり、蜘蛛を傷つけないよう細心の注意を払いながら、軽く指で払いのけるなどして、哀れな蜘蛛にたかる蟻どもを、必死になって追い払ってやった。

 見れば見るほど哀れな姿だった。

 手遅れだったのか、脚は七本しかない。左の前から二本目にあったはずの足は、あの蟻どもに奪われてしまったのだろうか。

 弱々しいその蜘蛛をそっと手のひらに乗せてみるが、普段なら俺が近づけば脱兎のごとく逃げ出すはずの蜘蛛は、ほとんど動かずに、俺の手の中で震え続けている。

 本来なら、そのまま逃がしてやればいいのだが。

 このまま庭のどこかに逃がしてやったところで、また、蟻どもの餌食になるかもしれない。

 そう考えた俺は、蜘蛛を部屋の中に連れて入ると、机の上にそっと置いた。今は無理かもしれないが、体力が回復すれば、自然と外へ逃げ出すだろう。そう考えたのだ。


 次の日の朝。

 あの七本脚の蜘蛛は、部屋の天井の片隅に巣を張っていた。

 脚を一本失ったせいなのか、ちょっといびつな形の蜘蛛の巣だったが、その巣の片隅に、早速捕まった間抜けな蚊がいる。

 俺は、思わず苦笑していた。

 この際だ。しばらくの間は、この蜘蛛に部屋の一部を貸してやろう。

 まあ、この蜘蛛が満足できるほど、多くの餌がこの部屋の中にくることは無いだろうが、ある程度の食事を終えれば、外に出られるだけの体力もつくはずだ。

 俺は、脚を一本失っても、たくましく生きようとする蜘蛛の姿をしばし眺めると、そのまま仕事へと出かけた。


 その日から、俺と蜘蛛との奇妙な共同生活が始まったのだが、それは夏の盛りも過ぎようとしている今も続いている。

 エアコンを贅沢に使っているおかげで、窓はほぼ常時締め切っているし、たとえ窓を開けたとしても、そこには網戸があるので、蚊や小型の昆虫などは入ってこれない。

 入ってこれないはずなのだが、不思議と、あの蜘蛛の巣には蚊がぴたりと張り付いていることが多かった。他にも、生ゴミの処理はしっかりしているはずなのに、どこからともなく発生したらしい小バエや、さほど大きくは無い蛾などが捕らえられていたりするのだが、いったい、奴らはどこからこの家の中に侵入してくるのだろうか。

 もっとも、密閉されているはずの室内に、これらの昆虫たちが侵入してきてくれるからこそ、この蜘蛛も飢えずになんとかやっていけているのだろうが。

 まあ、おかげで、今年の夏は蚊の羽音で目が覚めたり、刺された後のかゆみにいらだつこともほとんどなかった。

 何しろ、例年なら蚊取り線香や虫よけスプレーの出番は途切れることがないはずなのに、今年は使った記憶がほとんどない。しかも、それでも、蚊に悩まされた記憶は無きにひとしいのだ。

 それもこれも、みな、あの七本脚の蜘蛛のおかげだ。彼だか彼女だかわからないが、とにかく、感謝しなければ。


 ある日の夜。

 翌日が休みということもあり、目覚まし時計にたたき起こされることもなく、自分のペースで眠れることに感謝しながら、いつものように布団に入った。

 だが、途中で、目が覚めてしまった。

 最近久しくなかったことだけに、ちょっとした驚きを感じつつ、俺は、耳を澄まして部屋の様子をうかがった。

 部屋の中に、あの憎たらしい蚊でもいるのだろうと思ったからだ。

 だが、何も聞こえない。

 何も聞こえないが。

 何か、おかしい。

 違和感があるというか。

 人の気配のようにも感じる。

 となると、部屋の主人が就寝中なのをいいことに、泥棒が室内を物色でもしているのだろうか。

 今度は薄目を開けて、室内の様子を目視で確認する。

 窓は全面梨地のガラスだから、外から中を見ることができないのをいいことに、レースのカーテンを閉めるだけの生活を続けていたおかげで、こんなときは、室内の照明がすべて消えていても、外の街燈や月明かりを頼りにできる。

 静かに周囲をうかがうと、俺のすぐ側に、人の姿がある。

 不十分な照明のうえに、薄目を開けての確認だから、像ははっきりととらえられないのだが、曲線を多く含んだシルエットから判断すると、どうやら相手は女性らしい。

 しかも、全身が肌色のようだから、もしかすると、全裸。

 一気に目が覚めた。

 がばっと跳ね起きると、その人影と十分な距離を置くように、壁側に後ずさりながら、俺は叫んだ。

「だ、誰だ!」

 不審者に驚く俺だが、叫ばれた相手のほうも驚いたようだ。びくんと身体を跳ね上げると、あちらも同じように後ずさりしている。

「あ、あの、その……。あ、怪しいものではありません!」

 両手をぶんぶんと振って否定の意を表しているようだが、こんな夜中に人の家に侵入してきた全裸の女性が、怪しくないわけがない。

 だが。

 彼女が振っている腕に、何か、違和感が。

 寝ぼけ眼ながらもじっと彼女の姿を見てみると、甲殻類のような堅そうな外見をした腕が、三本もあることに気がついた。右に二本、左に一本だ。

「う、あ?」

 理解できない事態に、思わず変な声が漏れた俺に、彼女は必死になって説明をしようとしていた。

「ご納得もご理解もしていただけないとは思いますが、まずは、私の話を聞いていただけませんか?」

 声や態度から伝わってくるあまりの必死さに、俺は、思わずこくりとうなずいてしまった。


 彼女の説明は、こうだ。

 自分は、俺が蟻から助けてやった、あの七本脚の蜘蛛で。

 激しい風雨に晒されない安全な住処や、毎日の食事を提供してもらって、とても感謝しているのだが。

 もうひとつだけお願いしたいことがあると。

 それが。

「あなたの子種をいただきたいのです」

 ということだそうだ。

 ティッシュで包んでゴミ箱に捨てるくらいなら、私の中にくださいと。

 ――なんだって?

 スルーしかけたが、何か、とんでもないことを言っているような。

 子種?

 呆然と話を聞いている俺に、彼女はさらに説明を続ける。

「命を助けていただき、その後の生活の面倒までも見ていただいている恩人にお願いすることではないことは、十分に理解しています。でも……」

 彼女の表情は苦しげだ。

「外に出れば、また、他の生物に襲われてしまうかもしれませんし、それに、意中の男性を見つけられるかもわかりませし、それに……」

 そこまで言うと、うつむいて言いよどんでいた彼女は、ついと顔をあげると、俺の方にぐいっと近づいてきて。

「それに、私、子供を産むなら、あなたのような優しい方の子供を産みたいんです!」

 その一言で、理解した。

 そうだ、これは夢だ。

 夢なんだ。

 そうでなければ、説明がつかない。

 全裸の女性が、俺の子種――つまり、精液――を欲しがるなんて。ありえないだろう。

 それにしても、酷い夢だ。

 彼女いない歴が人生と同じで、先日めでたく魔法使いになれる資格を得たからといって。こんな、生活を共にしている蜘蛛の擬人化娘とイチャイチャする夢だなんて。一体、俺という男は、どれだけ欲求不満なのか……。

 軽い自己嫌悪に陥っている俺に、彼女は遠慮がちに声をかけてくる。

「……駄目。ですよね?」

 全体が真っ黒で白目の部分はないのだが、ちょっと上目づかいな感じでこちらを見ている蜘蛛娘を見ていると。

 無性に、愛おしくなった。

 どうせ、俺の妄想の産物なんだ。美味しく、いただいてしまおう。




 それからと言うもの、二人で獣のように愛し合った。

 蜘蛛を獣というのは違う気もするが、とにかく、本能のおもむくまま、互いを単なるオスとメスとして求め、むさぼりあったのだ。

 彼女の汗と、秘部からあふれる愛の証と、唾液とが混ざり合った香りが、俺の鼻孔を満たし、俺の汗と、彼女の奥に放った精液の匂いが、蜘蛛娘を狂わせる。

 彼女の身体の構造上、バックから犯すことは難しいのだが、正常位と騎乗位については幾度も試した。おかげで、俺のタンクはほぼ空の状態だ。蜘蛛娘の方もこれだけ連続の性交というのは想定外だったのか、体力を使い果たして眠ってしまっている。

 俺はと言えば全身汗まみれだし、彼女の方も肌がしっとりと湿っている。無論、愛し合った結果、汗以外のいろいろな液体が混ざっているのも事実だ。

 夏の熱帯夜ともなれば、そんなべたつく肌と肌とが触れ合うことは、ただ不快でしかないはずなのに。そんな二人の肌が密着していること自体が、今では喜びとなっている。

 不思議なものだ。

 俺は、自分の腕の中ですやすやと寝息をたてている蜘蛛娘を見ながら、次第に意識は不明確となり、そして、眠りに落ちた。


 朝。

 当然のように蜘蛛娘は姿を消していた。まあ、俺の妄想のなせる業であったのだから、それは仕方のないことだ。

 ただ、ベッドがやたらと湿っぽいのが気になる。俺の寝汗だけでこうなったのだとしたら、昨日は相当蒸し暑かったに違いない。

 あの蜘蛛娘のモデルになった七本脚の蜘蛛は、いつものように巣の中心にその姿を見せていた。

 顔を近づけてみる。

 これまでも、こんな風に顔を近づけても驚いて逃げたりはしなかったので、それが一層可愛らしさを感じさせる原因ともなっていたのだが、今日も同じように逃げずにいる。

 なんとなく、目があったように見えるのは、きっと気のせいなのだろう。

 俺は、蜘蛛に「いってきます」と挨拶すると、仕事へと向かった。


 そろそろ冬になろうかというある日、仕事から家に帰ると、あの七本脚の蜘蛛が死んでいた。

 仕方がない。

 あの娘は、冬を越せないのだから。

 だが、あの娘は、自分が生きた証を残していた。

 卵。

 俺の妄想に登場しただけに、糸やら紙くずやらでしっかりと覆われたその卵が、自分とあの蜘蛛との間に生まれた子供たちのように思えて仕方がない。

 もしかすると、俺はちょっとした病気なのかもしれない。

 そう思ったりもしたが、どうしても、俺はその卵を潰したり捨てたりする気分にはなれなかったのだ。

 結局、俺は、七本脚の蜘蛛の死骸を拾うと、標本にするために加工した後で額に収め、彼女が巣を張っていた場所に飾っておくことにした。彼女はそんなことを望んではいないかもしれないが、こうしておけば、俺は、いつでも彼女に会えるのだから。

 卵は卵で、日常生活の中で間違って潰したりしないよう、細心の注意を払って日々を送った。

 おかげで、春先に生まれてきた蜘蛛の赤ちゃんたちを見たときは、ちょっと涙がこぼれそうになった。

 俺も相当、重症だな。


 最近、俺の家は、蜘蛛屋敷と呼ばれているらしい。

 たまたま休んだ平日の午後。下校中のガキどもが蜘蛛の巣に石を投げているところを目撃して、かなり怒ったことも影響しているようだが、何しろ、俺の家の周囲には蜘蛛たちが伸び伸びと巣を張り巡らせているのだから、まあ、そう言われるのも仕方がないだろう。

 ご近所さんは俺には直接は言わないが、陰でいろいろ噂しているそうだ。

 だが、そんな言葉もまったく気にならない。

 何しろ、あの子たちは、俺と彼女との間に生まれた子供たちの子孫なのだから。

 俺が守ってやらないで、誰が守るというのか。

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