第三話 拍車をかける

 彼はそう言うと、車両の後部に向かった。莉々も後に続く。

 しばらくして、「非常口」と書かれた窓の前に到着した。博は、赤い箱のようなカバーに書いてある説明のとおりに、それを外し、中の、これまた赤いレバーを、左に倒した。

 すると、壁の一部、「非常口」と書かれた窓を含む箇所が、扉のように開いた。彼はそこから、地面に飛び降りた。後ろを向き、莉々に、「ほら、お前も」と言う。

 彼女は頷くと、非常口から飛び降りた。だが、地面に足をついた瞬間、もつれ、「わっ、とっ!」と叫び、博に抱きついた。そのまま、押し倒す・押し倒される形で、二人して転倒する。

 博の顔の、数センチ前に、莉々の顔があった。二人は三秒ほど見つめ合った後、ばっ、と慌てふためいて飛び退いた。

「すっ、すまん!」

「やっ、やめてよね!」

 謝ってから博は、ふと、なんで押し倒されたほうの俺が謝らないといけないんだろう、と思った。

「さっ、さっきのことは水に流してあげるから、はっ、早く物置小屋に向かうわよ!」顔が少しだけ赤くなっていた。

 もっとも、顔が微妙に赤いのは博も同じである。両手を前に突き出し、「待っ、待ってくれ」と言った。「闇雲に動いても、どうしようもない。幸い、前扉からバスに乗り、非常口から降りれば、壁となっているバスを通り抜けられる、ということに気づいたんだ。もはや、この迷路は迷路じゃない」

「だったら──」

「ただ、肝心の物置小屋がどこにあるのかわからないと、進むにも、どう進めばいいのかわからない」

「……なるほど、そのとおりね」莉々は腕を組み、しばらくの間、ううん、と唸った。「……高いところから、迷路全体を見渡せればいいんだけど……」

「……高いところ……そうだ!」博は彼女の両肩を掴んだ。「それだ、莉々!」

 莉々は肩を竦め、きゃっ、何すんのよ、と叫んだ。彼は、ああ、すまんすまん、と言い、手を離した。

「もう一回、バスの中に入るぞ」

 博はそう言うと、近くに停められていた、曲がり角の左側の壁になっているバスの前乗降口から、中に入った。莉々も後に続く。

 彼は、料金箱の近くに置いてあった消火器を持つと、最後部座席に移動した。そして、その後ろに位置する大きな窓に、それを叩きつけた。がしゃあん、と音がして、ガラスは割れた。

「ちょっ?!」莉々が博の服を掴んだ。「何しているのよ?!」

「手段なんか、選んでられないんだよ!」

 その後も博は、何度も消火器でガラスを殴りつけ、割り、穴を広げていった。やがて、人一人が優に通れるくらいの大きさにすると、窓の縁に残ったガラスを粉々に砕いて、消火器を外に捨てた。

「よし。屋根に上るぞ」

 博は窓の縁に足をかけ、身を外に出した。そして、半回転し、ルーフの端を両手で掴むと、そのまま懸垂の要領で体を引き上げ、屋根に載った。莉々も、同じようにして、彼の手を借りたうえで、上ることができた。

「ここからなら、畑全体を見渡せるだろ?」

 辺りに目を遣ると、迷路の広大さがよくわかった。優に、一万平米はあるだろうか。バスがあらゆるところに駐車されていて、道を形作っていた。

「あら、ここって、スタート地点のすぐ近くなのね」

 博から少しばかり離れたところで、迷路を見渡していた莉々が、そう呟いた。見ると、自分たちの目覚めた車両のある場所とは、バスを一台隔てただけだった。

 彼は、迷路の奥のほうを遠望した。しかし、物置小屋は、見えなかった。

「うーん、まだ高さが足りないか……おい、莉々」

「何よ?」

「お前を肩車させてくれ。もっと高いところから見れば、物置小屋が見えるかもしれん」

「はあ?!」莉々は大声を上げた。「あのねえ、私はスカートなのよ?! スカートの人間を肩車するつもり?!」

「仕、仕方ないだろ!」博は慌てて弁解した。「お前が俺を肩車できるわけがないんだし……このまま迷路の中を彷徨うのがいいか、それとも、一時の恥を捨てて、肩車されて物置小屋を見つけるのがいいか」

 ぐっ、と莉々は呻き、そのまま黙った。しばらくして、「見つからなかったら、ビンタするからね。ほら、しゃがみなさいよ」と言った。

「はいはい、ありがとよ」

「はいは一回」

「あいあい」

 そう言って、博はしゃがみ込んだ。彼女が、肩に太腿を載せ、頭を掴む。それを確認すると、彼は莉々を落とさないよう、気をつけてゆっくりと立ち上がった。

「どうだ、莉々、見えるか?」

「うーん……」頭の上から、声が聞こえる。「さっきよりはよく見えるけれど……」

「早くしてくれよ、重くて肩が痺れる」

 博は頭部に衝撃と鈍痛を感じた。莉々が殴りつけてきたに違いなかった。

「痛っ?! 何だよ!」

「乙女にとってのNGワードを言うからよ。……あっ! 見つけたわ!」

「本当か?!」

 博はゆっくりとしゃがみ込んだ。手を脚から離すと、彼女は降りた。迷路の彼方を指差し、言う。「あっちのほうよ」

「あっちか」彼は、莉々の指差す先を見た。相変わらず、物置は見えない。「どのくらい、時間かかるかな」

 そう言って博は、スマートホンを取り出し、スリープ状態を解除した。画面には、「1:52:38」と表示されている。さすがにこれだけ余裕があれば、タイマーが零になる前に、小屋に辿り着き、金網の出入り口に戻って、脱出することができるだろう。

「じゃあ、行くか」

 博はそう言うと、屋根の縁につかまり、ぶら下がってから、飛び降りた。

「博」莉々の声が上からする。姿は見えない。「反対を向きなさい」

「えっ? 何でだよ?」

「あのねえ、私はスカートなのよ? ……パンツ、見えちゃうじゃないの」

 あっ、そうか、と博は言うと、慌てて半回転した。「ほら、向いたぞ」

 しばらくすると、「よっ」という声と、トンッ、という着地の音が聞こえた。「下りたわ。もういいわよ、こっち向いても」

 博は振り返った。「たしか、こっちの方角に進めば大丈夫なはずだ」と言い、反対側のバスの前乗降口に乗り込もうとする。

 次の瞬間、突如として、悲鳴が彼の耳をつんざいた。「ぐあああっ!」というような、呻くような声だ。

「風呂井君の声だわ」莉々が顔を青くして叫んだ。「何があったのかしら」

 その後、しばらくの間は、何も聞こえなかった。しかし、数秒経つと、また、「うぐううううっ!」というような、悲鳴がした。

「行ってみよう」博はそう言うと、通路を左へと進んだ。そちらから、響いてくるのだ。

 右に折れ、十字路を直進し、左に折れる。バスを通り抜け、直進し、バスを通り抜けた。丁字路を右に折れ、バスを通り抜ける。一度、軽ワゴンに出くわしたが、すぐさま近くの車両に乗り込んだため、事なきを得た。悲鳴は、だいたい十秒間隔で、聞こえてきた。だんだん、弱々しくなっていっているのがわかる。

 向かう途中で、巴里華が倒れているのを発見した。どうやら彼らは、軽ワゴンを初めて見た通路に戻ってきたらしい。顔は驚愕と苦痛、絶望に染まっていた。頭から流れ出した血が、辺りの土に吸われ、変色させている。博は、せめてもの弔いを、と思い、彼女をまっすぐに寝かせると、両手を胸の上で組ませ、目を閉じさせた。

 しばらく通路を直進し、さらに車両を通り抜ける。悲鳴の聞こえてくる地点とは、バスを一台隔てたところまで来た。何かのエンジン音も聞こえてくる。

「この、反対側か……」博はバスに目を遣った。

「あれっ、帝葉君に、有布さんじゃないっすか」

 そんな声が、左方から聞こえた。目を遣ると、角を曲がったらしい藤が、やってきた。

「那須高さん。あなたも来たのね」

「まあ、そうっすね。なにしろ、悲鳴が聞こえたもんっすから──」

 藤の台詞を遮り、「いぎいいいいっ!」という、由弘の絶叫が響いた。

「早く、どうなっているのか見よう」博はバスに乗り込んだ。莉々と藤も、後に続く。窓から、向こう側の通路をこっそりと眺めた。

 由弘が俯せに倒れていた。上げた顔は、涙と鼻水、涎でぐちゃぐちゃになっている。右脛の真ん中辺りが、はっきりとわかるくらいに丸く凹んでおり、その箇所と周囲は真っ赤に腫れていた。

 彼の背後には、赤色の軽セダンがいた。軽ワゴンと同じように、運転手はいない。その車は、由弘にゆっくりと近づくと、脚の窪んだ箇所に、タイヤを載せた。

「ぎやああああっ!」

 由弘は顎を全開にして絶叫し、ばん、ばん、と地面を叩いた。

 数秒後、軽セダンは離れた。同時に、彼の悲鳴も収まる。はあ、はあ、と荒く呼吸をしていた。だが、しばらくして、またタイヤを載せられ、悲鳴を上げた。

 とても、直視し続けていられる光景ではなかった。博たちは、頭を下げると、輪になってひそひそと話し合った。

「あの車、風呂井を甚振ってやがる」

「きっと、風呂井君に悲鳴を上げさせて、他のメンバーを誘き寄せようとしているのね」

「現に、自分たちも来たっすしね」

「クソっ」博は壁を殴った。「なんとかして、あいつを助けられないだろうか?」

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