逃げの悪役令嬢と逆行転生の俺

 彼女に何故か高みから見下ろされているようだ、と感じたのはこれでもう何度目だろうか。





 俺は同じ人生を繰り返している。


 これが二度目の俺――セドリック・スペードとしての人生だ。


 一応は都貴族スペード侯爵家の生まれだが、これと言った目立つ特技も特徴もないどこにでもいそうな男だ。一族のほとんどが金髪だから、田舎に行けば一目置かれる光り輝くこの髪も家族が揃うと埋もれてしまう。顔立ちは美人な母親に似て悪くはないはずなんだが、幼少のみぎりより親兄弟が金ピカーッとスポットライトか後光しか射さない類いの人間だったせいか、俺は彼らの反動を一身に受けたような覇気のない凡庸な雰囲気しか持たない人間に育った。


 だからこそ前世の俺は、社交界じゃ面倒なく過ごせていた。


 女性たちは花に吸い寄せられる蝶のように兄弟の方に寄ってったからさ。俺の前を姿が見えてないみたいに素通りだよ素通り。悲しいのを通り越して清々しささえ覚えたよ。別にミスディレクションしてたわけでもないのにさ。


 まあそんなある意味平穏な人生を送っていた一度目の俺は、このまま実家からの援助で何かの店でも構えて独立してのんびり生きていくんだろうと楽観していた。何しろ貴族の嫡男じゃなかったし、家を継ぐ長兄をサポートできる有能さも持ち合わせていなかったからな。


 悪女の断罪とそれに伴う処刑騒動に巻き込まれて殺されるとも知らずにな。


 俺は小さいながらも王都郊外に農場を持ち、更には腕のいいパティシエを雇って王都で菓子店を営んでいた。

 店で使用するミルクは自分とこの農場で朝一に搾った新鮮な物で、価格だって品質だって良心的だった。菓子店が多く競争相手の多い王都でも常連客に恵まれ順調だったんだ。


 なのに、悪女の協力者として断頭台に連座させられた。


 WHY!? 俺は身に覚えがないんだが!? 悪女に協力? そもそも俺は自慢じゃないが社交界に悪女だろうと女性の知り合いはいないんだ。仮に話し掛けられても全部親兄弟の知人友人で間接的に俺の事も知ってるってだけだ。


 取り調べの尋問官から詳しく聞かされた罪状によれば、どうやら俺の店で売られていたスイーツが原因だった。


 俺の店のスイーツを食べた令嬢が毒殺されかけたんだとか。


 その令嬢は王太子の恋人で、故に彼が激怒して加担した人間を全て処断しろとの厳命が下りたらしい。

 はあ? 断じて毒なんて入れてない。そんな指示だってしてないし、悪女からされてもない。関係者なんかじゃなーーーーい!

 店で買った後に勝手に毒を入れて差し入れよーってしたのにまで責任を持てるかって話だよ。


 だがしかし俺の訴えは聞き届けてもらえなかった。


 これでも貴族の息子で、有力貴族の友人たちや実家って盾があったはずなのに、尋問官が物凄くクソで存在感の薄い俺は取るに足らない庶民と思われてろくろく連絡もしてもらえないうちに断頭台の露と消えた。

 悲しきかな、最期は誰にも会えなかった。

 酷くない? 酷いよな。酷過ぎる、冤罪死とか。

 そんな俺を天も憐れに思ったのかもしれない。


 こうして人生をやり直すチャンスを与えられた。


 悪女の悪事に運悪く巻き込まれなければ、王都に店を出さなければ、悲惨の二字は訪れなかったはずだ。


 そうだ、そもそも悪女が悪事を働かなければいいんだよ。


 もう無駄に死ぬのはごめんだ。

 故に今世の俺は行動に移す決意を胸に固めた。


 悪女を見張ろうと。


 幸い、現在の俺はまだ実家の庇護下にいて独立して事業を起こしてはない17歳。


 今夜も王宮の舞踏会じゃドレスを着た花たちに素通りされる壁の無名画家の絵のような存在だ。


 誰に邪魔されず動ける。


 そして見つけたらさりげなく彼女が起こすだろう悪行を止める。悪い芽は育たないうちに摘み取っておこうって魂胆だ。


 理由は知らないが折角与えられた第二の人生をあれよあれよって転落と恨みつらみや絶望まみれで終わらせたくない。


 幸い、俺は前世で起きた出来事を大まかに覚えている。


 毎回気が進まないのに連れ出されていた社交界じゃ、かなり暇だったから人間観察だけはできていたものな。

 悪女が誰かも把握済みだ。

 彼女は何と家同士が決めた王太子の形ばかりの婚約者で、王太子がマジ惚れする令嬢に嫉妬するんだよ。


 その令嬢こそが俺の死ぬ原因となった前世で毒殺されかけた王太子の恋人ってわけだ。


 嫉妬に駆られた悪女の行動は、初めのうちは単なる嫌がらせだったのが段々と命の危険を孕むレベルにまでエスカレートする。


 今夜の王宮舞踏会でも、そんな悪女――ジゼル・ジョーカー公爵令嬢(16)がやらかすんだ。


 男爵令嬢(16)を階段から突き落とそうとする。


 前世ではそこを王太子(18)が危機一髪と助けて二人はそこからどうやらそれまでの親しい友人としての感情じゃなく、恋愛感情へと発展させていくんだ。吊り橋効果が本物になったのさ。

 今語ったように二人は既に友人で一部からは二人はデキてるって誤解される程の仲の良さだったから、ジゼル・ジョーカーが先走って勘違いするのも頷ける。婚約者なんだし人の男に色目使うんじゃないわよーって腹を立てたんだな。

 一方二人は俺が家を出て店をやってそれが軌道に乗ってそして捕まるまでのこの先何年と友達以上恋人未満を続ける。


 厳密に言えば二人がやっと婚約した直後に件の毒殺未遂が起きるんだよ。


 そう、二人は世にも稀なる超絶スローペースカップルだったりした。たぶん今回も同じだろうな。


 ま、それはいいとして、焦点はジゼル・ジョーカーだ。


 実は俺は今夜まで頑として社交界には顔を出さなかった。


 前世と同じ行動を避けていれば死なないだろうって勝手に思ってたんだ。


 だが浅はかだった。


 つい先日、前世と同じ日に飼い犬の一匹が死んだ。


 狩猟に駆り出されて誤って撃たれて死ぬはずだったから行かせなかったら、同日のうちに馬車に轢かれて死んでしまった。

 あの犬を誤って撃って殺してしまった親戚の乗った馬車だった。一人だけ体調不良で途中で戻ってきたんだそうだ。

 恐ろしくなった。

 予定調和のような愛犬の死。

 その日ずっと俺が抱き締めていたなら結果は違っていたかもしれない。受け身に過ぎたから駄目だったのかもしれない。後の祭りだが。

 俺の命運と重なって見えたのは否定しない。

 もう俺は不条理に死にたくない。ただ避けて隠れて垣根の外で進んでいく物事だからと無視していても、ひょんな場所にあった隙間から死神に垣間見られて捕まってしまうかもしれないんだ。


 幸か不幸か、前世の出来事を改変するのは可能だと、社交界を遠ざけていられた事実と飼い犬を狩りには行かせなかった点から学んだ。


 だったら大きく俺の運命だって改変してやる。


 立ち向かっていくしかない。


 それが悪女ジゼルを見張る理由。


 彼女が人の道を外さないように俺が軌道修正してやる。


 駄目元で誘った王宮舞踏会に俺が参加を快諾したのを意外そうにしていた親兄弟たちからはさっさと一人離れ、頃合いを見て前世で突き落とし事件の起こった時間帯に事件現場の階段へと急ぐ。


 途中誰かに「やあ、君がもしかして話に聞いていたスペード家の――」とか何とか話しかけられたが、急いでいた俺は完全無視して駆けた。


 やや距離があったから聞こえなかったふりを通したんだ。そしたら背後で焦った兄貴の声がした。


「こここらっ何て不敬をっ、おいっ、セディ!」


 不敬? 誰か王太子とかだったんだろうか。なんてまさかな。彼はもう事件現場付近にいるだろう。結局振り返っている心の余裕がなかったから誰かは見なかった。


 その階段付近は会場装飾の一環なのかカーテンやらレースやらが無駄にべらべら垂れ下がっている場所で死角が多く、前世のジゼルはそこを上手く利用した。令嬢を突き落とした直後にカーテンに隠れて逃げてしまえば犯行は目撃されないって計算ずくだったんだ。

 ま、それも断罪される時には王太子に暴かれたがな。悪い事はできないな。


 ってそれは最早前世だからいいとして、見上げた階段上には何ともう落とされる男爵令嬢の姿が見えて内心焦った。あの端の位置じゃいつ後ろから押されてもおかしくない。


 俺の目が、令嬢がふら付いたのを捉えた。


 なっ!? マジかよいつの間に突き飛ばされたんだ!?


 悲鳴を忘れたように落下する令嬢の細い体。


 王太子は……――はあああいねえええっ!?


 んでっ、いないんだっ、よっ……!


 階段下にいる人間で令嬢の危機に気付いているのは俺だけらしく、床を蹴って両手を突き出して令嬢を受け止める。

 腕に衝撃が結構きたが抱き締めて二人で転がって力の大半をいなして何とか事なきを得た。体にはあちこちに青あざができるだろうが動けない程じゃない。だから手早く令嬢を離して身を起こした。彼女の方は俺が庇ったから多分平気だろう。

 普通ならこんなハプニング呆然として暫く動けないが、如何せん俺は普通じゃない。


 事前にわかっていたのに防げなかった不甲斐なさと残酷なジゼルへの非難さえ込めて急いで階段上を睨んだ。


 今ならギリギリさぞかし悪辣だろう悪女の表情を見られると思ったからだ。

 だが、


「んなっ!?」


 俺の予想は大きく引っくり返った。


「誰もいないだとおおおーーーーっ!?」


 そう、そこにはこの一瞬じゃ完全に隠れて逃げるなんて芸当はできるわけがないのに、悪女ジゼルの姿がなかったんだ。

 加えて階段のカーテンもレースも揺れてさえいない。ジゼルがそれらの裏を通って逃げたなら揺れていたはずだ。つまり、何者もそれらには触れていない。


 ――そこに誰もいなかった証左だ。


 この俺だけは犯人の目撃者になったはずなのに、どうやってこんな短時間に姿を消した?


 と、呆然として見上げていた俺の耳に微かな声が届く。


「あ、あの助けて頂いてありがとうございました」

「いやいや、怪我がないなら良かったよ。……ところで、誰かに突き落とされたんだよな?」

「え? いいえいいえ滅相もありませんそんな恐ろしい事。私がドジで躓いてしまってそれで落っこちたんです」

「……へ? あ、へー、そ、そうなんだー…………ってマジに!?」

「はい」

「あ、そー、じゃあこれからは気を付けなよー」


 自損事故(未遂)。

 一体どういう事だと頭が回転しなくなり、俺は令嬢に不格好な微苦笑を向けるしかできない。俺の顔を見つめた彼女は「はい、気を付けます」と感謝と共に恐縮したように俯いた。


 この時になってようやく俺は視界の中にとうとう望む人物を見つけた。


 ――悪女ジゼル・ジョーカー公爵令嬢を。


 悪女は何故か階段からは最も遠い扉を開けて会場を出ていくところだった。あの先は確か中庭へと通じる廊下がある。


 はっと息を呑んだ俺の様子を怪訝に思ったのか、助けた男爵令嬢セシリア・ハートは顔を上げて心配そうにした。


「あ、あの、このお礼は必ず――」

「あ、ごめん、俺もう行くよ。体を大事になー!」


 未来の王妃になるだろう高貴な体だからな。


「えっ、あのっ」


 何か言われたが俺の意識はとっくにジゼル・ジョーカーに向いていた。

 何事かと遅れてざわつく出席者たちの合間を縫って彼女の消えた扉へと急ぐ。


「セディ! おいセディ! 呼んでいるのが聞こえないのかっ――セドリック!」


 途中、人垣の向こうから兄貴の強引な声に呼び止められたが、俺は足を止めなかった。その兄の隣にいる人物を流し見て不覚にも目を見開いてしまったが。

 今世では初めてだが前世では何度か対面して顔は知っていた相手だ。声は覚えていなかったからさっきはついぞわからなかったんだ。


 と、言うか、何っで王太子が兄貴とそこにいるんだよ?


 本来いるべき場所にいないで何をやっている!


 そんな詰りにも似た思考が過る。

 いやしかし最優先はやっぱり悪女だ。

 そんなわけで俺はまた兄貴をシカトして会場から廊下へと出た。


「廊下にはいない、か。ならもう庭に下りたかな」


 走りっ放しで少し汗ばんだ喉元に王宮庭園の夜風は心地よかった。

 建物の近くには姿は見えず、生垣や石像の陰なんかも丁寧に捜したが見つからない。本当にジゼルが庭に出たのか自分の判断を疑わしくさえ思い始めた頃、微かな水音が聞こえてそちらに足を向けた。


「あっちは王宮の池があったよな」


 まさか、溺れてるんじゃないだろうな?

 ヒヤリとして急げばバシャバシャとした水音が確実に近くなる。まさかが現実に!?

 駆け付けた池からは尚も激しく水音と水飛沫が上がっていて、俺は愕然とした。


「何やってるんだよあんたーーーーっっ!!」


 ジゼル・ジョーカーは堂々王宮池で――釣りをしていた。


 池の大きな鯉が憐れにも一本釣りされてバシャバシャと水面で左右にもがいている。しかし抵抗虚しくジゼルの手元に運ばれて、釣り針を外されて再び池に戻された。ボッチャンと頗る良い音がした。


「あ、何だキャッチ・アンド・リリース……っていやいやいや、何この状況? 大体どこから釣竿を?」

「ああこれ? 時間潰す必要があるから前以てそこの茂みに隠しておいたの」

「へえ……」


 訊いておいてあれだがそういう事じゃない。

 どこに舞踏会中に抜け出して池で釣りをおっ始めるお嬢様がいるんだよ。


「あんたは――」

「失礼な男ね」


 彼女はもう不要とばかりに高そうな釣竿を芝の上に落とした。顔色一つ変えずに俺の方に歩いてくる。わお、この落ち着き様は本当に俺の一個下なのか? ……ってそういえば。


 俺は前世はともかく今世では彼女と面識がなかったのを思い出した。


 ストーカーと勘違いされて騒がれたらアウトだよ。まずい。しかもこっちは侯爵令息で向こうは公爵令嬢。俺は嫡男ではないが向こうは一人娘だから嫡子。次期女公爵だ。彼女の方が明らかに格上。不敬の謗りは正しい。


「公爵令嬢たるわたくしをあんた呼ばわりですし、唐突に現れて自己紹介もなく、しかも見るにあなたわたくしを捜して追いかけてきたようね。一体何のつもり?」


 ううぅやっぱりかああぁーっ。どうする俺?

 この場を無難にやり過ごせる方法を誰か教えてっ。


「もっ申し訳ありません!」


 深く腰を折って頭を下げる。そのまま暫し顔を上げないでいると、溜息が聞こえた。


「厄介事はごめんだし、あなたの非礼は忘れてあげるわ。その代わりにここにいるわたくしの事も他言しないで頂戴。誰かが捜していても知らないふりをしてなさい。いいわね?」

「わかりました。でもまたどうして?」


 キッと睨まれた。あーこの愚かな好奇心めがっ。自分で口を軽く叩いた。


「申し訳ありません無用な詮索でした」

「……は、いいわ、そうあなたにカリカリしても仕方ないものね。あなたも言うなれば被害者なんだし」

「はい? 被害者? 何の?」

「小説の」

「ええと……?」


 彼女は俺の様子をジーッと見つめた。あたかも何かの兆候を見定めるみたいに。しかし俺はその視線の意味がわからない。ややあって彼女は「ま、そりゃそうよねー」と砕けた調子で言ってついと目を逸らした。


「とにかく、わたくしに構わないで。折角舞踏会からこっそり抜け出してきたのに連れ戻されたら堪らないわよ。……脳みそわたあめ王太子の顔見てるのはうんざりなのよ。さっさと婚約解消したいところだわ。死にたくないもの」


 後半部分は隠れた愚痴なんだろうが、しっかり聞こえた。

 よもや俺が聞こえているはずはないと安心しているのか、どこか憤慨の気配を孕んだ彼女は俺をすがめた目で眺めて駄犬にでもするようにシッシッと手を払った。

 な……何というぞんざいな扱い。

 そうは言っても俺はすごすごと引き下がるしかない。悪女の不興をこれ以上買いたくないからさ。そんな去り際の俺の背中にジゼルの小さな独り言がまた届く。


「何だ、社交界で全然見ないと思ったら普通にピンピンしてるんじゃない。今度はあなたも長生きできると良いわね。セドリック・スペード」


 危うく足を止めそうになった。


 今度は長生き? あなたも?


 いや、それ以前に彼女は俺を知っていたようだ。


 いつどこでどうやって? 絶対的に会った事はないはずなんだが。


 俺みたいに前世の何かを知っているなら別として。


 正直もっと話したかったが、家同士の問題に発展したら困るからと潔く場を去った。しかも生憎とこの夜はもう俺と彼女が顔を合わせる機会は訪れなかった。彼女は最後まで会場には戻って来なかったんだ。


 改めて、何かがおかしい。前世の極悪なジゼルは王太子に執着していて、取り巻きたちを使ってセシリアをハブりまくった。ぼっちセシリアの誕生だ。だがしかしそれがかえって王太子に心配をさせて二人の接近を加速させた。普段は心優しき彼は自分が傍にいてあげようってなったに違いない。そして恋に――……と、そこはともかく今夜ジゼルは婚約者の義務として王太子とのダンスをするとさっさと彼から離れ、あまつさえ一人で釣りを楽しみ、更には俺の目から見るとジェラシーオーラがなくて別人みたいだった。


 自己啓発でもしている最中なのか、それとも悪巧みに必要な演技なのか、彼女の変化の理由を知りたい。


 その新たに加わった動機もあって、王宮舞踏会に続いて事件の舞台となるこの日の夜会に、俺は俄然張り切って顔を出した。


 ジゼルに先回りして悪行を阻止しようと目論む今夜の俺は家族と会場入りするやまたもや単独行動開始で、しれっと着替えて会場給仕のボーイを装った。


 今夜は赤ワインぶっかけ事件が起きるはずだ。


 ジゼルはわざとセシリアのドレスに赤ワインをかけるんだ。しかーしその時、ボーイに扮する俺が颯爽と間に入って代わりにワインを浴びれば無事に悪行阻止ってわけ!


 さーて、銀の丸トレーは持ったし金髪の上には黒いカツラを被って目立たない頭にしたし会場内を歩き回っていても不審がられないだろう。準備は万端だ。


「ジゼル・ジョーカーはどこにー……」


 軽食や飲み物を片手に歓談する人々へと視線を走らせていると、何とまあ「ああっ! ワインがっ!」とセシリアの悲鳴が聞こえた。


 ま、まさか、もうぶっかけられてしまったのかーっ!? ぬかったあああっ!


 くそぅっと内心悪態を付き付き急いで声の方へと走る。


「平気? セシリア?」

「はい、でもドジで折角のドレスが」


 ぶっかけ現場ではセシリアが何故か王太子から気の毒そうにされている。え、は? ぶっかけ直後の現場に彼はいなかったはずだ。後から現れはするが。いや、そもそも、ぶっ……か、け……?


 セシリアは何て?


 ドジで? ド・ジ・で?


 自分で引っ掛けたってオチ!?


 しかし、最も重大な点はそこじゃない。


 ――またまたあっ、ジゼル・ジョーカーがいねえええええっ!


 この場にいるはずの悪女の姿がない! ないんだよっ!! 確かに出席していたのに、どこに行った!?

 もしやまた釣りかと俺は慌てて踵を返す。


「あれ? 君は確かスペード家のセド――」


 後ろで王太子から声を掛けられたが、また俺は聞こえなかったふりをして駆け去った。腐っても貴族の子弟がボーイなんてしているわけもないかって見間違いだと思ってくれ。


「あー! あの人がこの前助けてくれた方です! あの時は金髪だったのですが、あれあれ? イメチェンでしょうか?」


 セシリアが声を大にした。

 おいー!


「髪の色が違うなとは思ったけどやっぱりそうだよね。彼はセドリック君だよね! 良かった人違いじゃあなかった。挨拶しないとね。おーーーーい! 待ってくれーーーー! そこのボーイのカッコをしたセドリック・スペードくーーーーん!」

「追いかけるんですね! わかりました。待って下さーーーーい恩人さーーーーん! えと、セドリック・スペード様ーーーー!」


 ぎゃーっ! フルネーム連呼とかっ、何なのあいつら、いやあのお方たち!? くっ、帰ったら家族にまた家門に泥を塗るなって白い目で見られるなこりゃ。特に王太子の友人たる兄貴なんて角生やすんじゃないのか?

 ギョッとして肩越しに一瞥した俺はまだ距離があるのにかこつけて知らん振りして猛ダッシュに切り替えた。

 そのまま恐ろしい追走者たちを振り切るように会場の外へとゴールインッ。


「ジゼルは、ジゼル・ジョーカーはどこだよ!」


 泣きそうになりながら廊下をひた走った。角を曲がって一息入れた直後に、おおーーーーい、と角向こうから王太子たちの声がして、ひいっしつこいっと飛び上がった。王太子さんよ、あんたはそんなに友人の弟の俺に挨拶したいのかい? WHY!?

 にこにこのほほんとしたわたあめ殿下の笑みを思い出して背筋が薄ら寒くさえなった。あれが猫被りなら相当な食わせ者だよ。

 セシリアもそこまで恩を感じなくていいからね!? 目の前の運命の相手に集中してくれ!

 廊下をダッシュ再開してまもなく、バルコニーに通じる扉があるのに気付いた。

 よし、屋外に出て壁の陰なりの死角に隠れてやり過ごそう。

 なるべく開閉音を立てないようにしてバルコニーへと出た俺は壁の陰に身を隠してようやく安堵の溜息を吐き出した。


「あら、奇遇ね。あなたも涼みにきたの?」


 え?

 俺は後ろばかりを警戒してバルコニーの奥の方には気を付けていなかった。先客がいたなんて思いもしなかったよ。


「なっ……――ジゼル・ジョーカー!」

「今度は呼び捨て? 全く、あなたって失礼な殿方ね」


 紛れもない悪女が目の前にいる。

 目の前で涼んでい――……え、は?


「な、にをしてるんだ?」


 バルコニーには運ばせたのか椅子とテーブルが置かれ、沢山の料理の皿とボトル瓶が置かれていた。ボトル瓶に至ってはほとんどのが空で半分は床に転がっている。

 な、何事? 何でこの人は招かれたとは言え他人様の屋敷でお一人様宴会やってるんだ?

 ポカーンとしていると、彼女は全く素面な顔で短くふっと笑って俺の顎の下に指先を差し入れる。つい、と僅かに上向かせられたよ。こういう美人な女王様タイプが好きな男ならここで落ちたかもしれないが、俺は青くなった。


「セドリック・スペード、あなたはまたわたくしを捜していたの?」


 ひいーっヤバい、悪女に目を付けられたらそれこそ連座の処刑エンドは避けられない。本来なら通りかかって偶然にもって感じで悪事を阻止して、俺に注意を向けられる予定じゃなかったってのに。


「も、申し訳ありません公爵令嬢! 別に捜していたわけではありまー……すが、決して疚しい理由からではないのです。今は少々とある方から逃げていまして」


 ああ、と何故かジゼルが合点したように頷いた刹那。今閉めたばかりの扉が開かれた。


「やっと追い付いたよセドリックくん! 僕の声が聞こえてなかったみたいで悲しかったよ」

「もうこの距離なら聞こえますね!」


 王太子とセシリアが仲良く息を切らしてバルコニーに走り出てきた。

 ひいいい~~~~っ、速っ、韋駄天なのこの人たち!?


「あ……あ……」


 仰天のあまり上手く言葉が出てこないーっ。王太子がにこりと微笑む。


「あは、そう緊張しないで。君のお兄さんの友人なんだから僕の事も是非兄と思って」


 できるかーっ。


「君のお兄さんから話を聞いていて、この前もだけど話をしてみたいと思っていたんだよね」

「セドリック様、先日のお礼にうちに招待させて下さい! スペード家に直接招待のお手紙をお出ししようか面と向かってお誘いしようか迷っていたのです」


 とは当然ながらセシリアだ。


「ん? そこにいるのはジゼルかな? 君もここ来ていたんだね」

「はあい、そうなんです~」


 ……ん?

 彼女はヒラリと片手を振り振り急に酔っぱらいの体になった。ええー。

 空のワインボトルたちを見やって王太子とセシリアはジゼルの怪しげな呂律に納得したようだった。つい今し方まで思い切り素面同然だったくせにな。ジゼルは王太子を嫌っているようだから、まともに相手をしたくないに違いない。俺は馬鹿らしくて言葉もない。


「さあ行った行った~! わたくしの時間を邪魔するのはゆるさーん!」

「あー、これは駄目だねー」

「そのようですね」


 二人はジゼルが泥酔してどこかで休ませないとって思ったらしい。ここは婚約者の自分がと王太子は一つ嘆息するやジゼルを抱き上げて運ぼうとした。


「やらーっ! セドリックと行くのらーっ!」

「はいい!?」


 しかし暴挙にも彼の手を叩き払ったジゼルはあろう事か俺に抱き付いてきた。


「セドリックらセドリックらセドリックなのらーーーーっ!」


 まるで木にしがみ付いてミンミン鳴く蝉だよあんた……。

 仕方なく俺は彼女を抱き上げて運んださ。ああそうしたさ。

 どことなく不満そうにするわたあめ殿下とお花畑令嬢に見守られながら俺は問題児を休憩部屋まで運んださ。長椅子に寝かせたさ。

 そこでもう俺の精神は限界で、もうやだこの三人に関わりたくない、とそそくさと場を辞する挨拶を口に脱兎の如く帰宅する馬車へと飛び乗った。

 それでも、ジゼルの悪事を止めないとギロチンと若くして再会する羽目になるだろう。


 故に、俺は泣く泣く前世のジゼルの辿った足跡を可能な限りトレースして様々な場所に出向いた。


 当然そこにはセシリアもいる。いないと何も始まらない。場合によっては王太子もいる。こっちはいなくても別にいい。二人のスローな恋愛模様が進まなくても俺には関係ないし。


 だが、どうしてなのか、……前世で起きたどの事件の場面にも悉くジゼルは不在だった。


 ドレスの仕立て屋でも狩り場でも、城や貴族の屋敷でもボート乗りでも、セシリアが勝手にドジをやってピンチにはなったが、何一つ前世と同じ事件は起こらなかった。


 それらが絆を深めるセシリアと王太子はだから全然いい感じにはなりようがなく、何故か俺は行った先々で望まずも顔を合わせてしまう王太子とセシリアと仲良くすらなってしまった。二人は互いよりもそれぞれに俺との方が仲が良かったんだが、複雑だ。


 そんな俺たちの姿をジゼルはよく離れた場所から興味津々そうに見ているんだよな。


 子供らよって見守る笑みさえ浮かべてさ。何あれ、高みの見物か? あんた俺より一つ年下なだけなのに妙なおおらかさがあるよな。

 まあジゼル不在とは言ったが、実際はセシリアのピンチ前後にはその場から遠い場所をすたこらさっさと去っていく姿を俺は何度も目撃していた。避けるように自分は無関係ですって言わんばかりにさ。そうでなければ近くで全く別の事をやっているとか。

 因みに、セシリアのピンチは単なるドジが大半でもあった。

 知らなかったよ、彼女がドジ令嬢だったなんて。


 何にせよ、ジゼル・ジョーカーが不可解なのは変わらない。


 あたかも、先々に起きる出来事を知っているかのように避けている。


 俺の胸にはやっぱりどう考えても彼女も人生を繰り返しているんじゃないかって疑念が段々大きくなっていった。


 そしてある日ついに、俺は決意してジゼルにズバリ訊いた。

 彼女が王太子と婚約解消した日に。


 ――もしかして、あんたも人生やり直してるのか、と。


「ふふっ、そっかセドリックはやり直しの方なのね」


 彼女は何言ってるんだこいつとおかしな顔はしなかった。

 普通なら正気を疑われる発言なのに。

 それにしても、やり直しの方ってどういう意味だ? その他の方があるのか?

 まあ、彼女は何度訊いても種明かしはしてくれなかったよ。実は天使か神か何か人智を超越した存在で、人間に成り済ましているとかだろうか。


 ジゼル・ジョーカーは世界で一番底知れない。


 それでいて、興味の尽きない女性だよ。


 俺はジゼルの悪女転落を恐れ、いつも彼女の近くに陣取った。たださ、見張るつもりが彼女と一緒になって釣りをしたり屋根に上ったり、招待された邸宅の秘密部屋を見つけたりして前世からかなり脱線した時間を過ごした。


 そうやって数年が過ぎ、ついに結局ジゼルは前世でのような泣く子も黙る悪名高い女にはならず、俺は俺で実家から独立。


 まずは、と前世同様に王都郊外での農場経営に乗り出していた。


 王太子とセシリアは……まだ甘い雰囲気なんてものは微塵も醸し出していない。前世ではこの辺りの時間軸だと付き合い始めていたのに。

 まあいい。俺には関係ない。

 関係ない…………人生を生きたかったあああ!


「おーい! セドリックー!」

「セドリック様ー!」


 ああ、今日も農場に来訪者だ。

 俺はちょうど牛や羊が脱走していた原因の木柵の不備を見つけて直していたところだった。

 農場入口に横付けされたここには場違いなきらびやかな馬車から降りた王太子とセシリアが俺の姿を見つけてもう手を振ってくる。何だか如何に俺にアピールするかを競争しているような振り方だなー。

 俺は修繕の手を止めて二人を待つ事にした。

 

「はああ~どうしてこうなった……。出店計画を立てるので忙しいって言ってあったのに、普通来るかあ?」


 俺の横からふふふと笑う声が上がる。


「さあてね。わたくしに言われてもねえ」

「そういうあんたも非難されてる側だからな!」

「あらそうなの? 昨日は嬉しそうに出迎えてくれたくせにね?」

「そそっそれはっ、だなっ、きっ機嫌が良かったせいだよっ」

「ふうん?」


 呑気なジゼルの声が笑みを含む。ただし、不穏な。


「……もしもセシリアにデレたら、悪役令嬢業始めちゃうから心しておいてね?」

「ええ? 悪役? 天下の公爵令嬢が役者になるのか?」


 ジゼルは急に呆れた目で片方の眉を持ち上げた。


「あの二人以上にこの男もスローなのかも」

「はあ? 何だよそれは。俺は俺の気持ちくらい自覚しているよ。あんたがよくわからない例えを使うから戸惑っただけで」

「そ?」

「でなきゃ……あんたをここに泊めたりしないだろ」


 二人には聞こえない声でぼそぼそっと言うと、ジゼルはにんまりした。わーそれ悪女の時にしていた笑い方……。


「んーふふふ、そうよね。わたくし同様にきちんとゴールを見据えてるのよね。だからこそわたくしだって既成事実をあなたと作ってもいいかしらって思ったんだものー?」

「なっボリューム落とせって! そもそも俺まだ何もしてないだろ。誤解招くからやめてっ」


 聞かれたら恥ずかしい事をよくもまああけすけと。

 しかしこれが今世のジゼル・ジョーカーって言ったらそうなんだから仕方がない。


 そして俺は何の因果か、どうしようもなくこのジゼル・ジョーカーに惚れたんだし。


 告白した俺の想いに彼女が応えてくれた時には奇跡かと思ったよ。


 恋人なのはまだ周囲には内緒だが。

 公爵令嬢ジゼルは社交界では高嶺の花。それが侯爵家のスペアの一人と付き合っているなんて大スキャンダルだ。反対されて引き離されるのが見に目える。

 それでも諦めないよ。


 この先、前世よりも早期に菓子店を創業させたら、俺はジゼルに結婚を申し込むつもりだ。


 一度経験したから出店準備は円滑に行くだろうからな。


「さてと、今日はどんなトラブルが起きるのかしらね」


 近付いてくる二人を眺めながらのジゼルの問いに答えたわけではないだろうが、柵の傍にいた羊がメエエ~~と長く鳴いた。


「縁起でもない事を言うなよ。もう前世の縛りからは解放されただろう」

「そう思う? けれどまだわたくしたちの処刑日は過ぎていないのよ?」


 草を踏んで王太子とセシリアがやってくる。ドジをやって転びかけたセシリアを王太子が慌てて手を伸ばして支えてやっていた。

 二人の恋の種はすぐそこに散らばっている……よな?


「いや、もう大丈夫だよ。俺はジゼルと幸せになるんだからさ。あんたはだって酷い事はしないし、だからこそ起きない」


 俺の幾分照れた言葉に彼女は意外そうに瞬くと、そっと耳元に唇を寄せてきた。


「なら、いっそもうデキ婚目指してみましょうか」

「はあああっ!? そんな事態になったら俺公爵に殺されるってえええ!」


 思い切り動揺する俺の真っ赤と真っ青が交互な顔をジゼルは可笑しそうに見つめる。王太子とセシリアは不思議そうに顔を見合わせていた。


 ジゼル・ジョーカーはやっぱり悪女かもしれないと、そう思ったよ。

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短編中編長編クリップ まるめぐ @marumeguro

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