第六話

 東急大井町線・中延駅の改札を出て目の前の通りを右に行くと、すぐに第二京浜国道に突き当たる。一方通行の細い通りは、片側3車線もある広い二国との交差点を渡った向こう側にも続いていて、パチンコ屋がある通りの左側は戸越、三井住友銀行がある右側は豊町である。

 戸越と言っても、この辺りは有名な戸越銀座からはだいぶ離れている上に、この付近で一番大きな商店街は中延駅を挟んで反対側にあるので、この界隈は地元の人間以外、あまり足を踏み入れる事は無い。

 前話で、僕は便宜的に中延に住んでいたと書いたが、実際はこの細い通りの豊町側をもう少し奥に入った所にある、古いアパートに住んでいた。豊町という地名は、戸越や中延と比べて通りがあまり良くないので、住んでいる場所を聞かれると、どちらにしても中延という地名を入れないと説明がつかないのである。勿論、中延と言っても、中野?と聞き返される事が度々あったのだが。


 アメリカでの同時多発テロの発生やITバブルの崩壊などにより、21世紀の幕開けは、多くの人にとって希望に満ちたものにはならなかったし、日本でも、90年代のバブル崩壊後の不良債権処理が足枷となり、2003年の初夏まで株価は下げ続けた。

 景気の低迷が常態化し、会社からの交通費支給がカットされる様になると、僕は通勤でもプライベートでも、ほぼ自転車で行動した。

 豊町に住み始めた頃、頻繁に出掛けたのは恵比寿や渋谷方面だった。

 中延駅付近から北に伸びる「スキップロード」というアーケード付きの大きな商店街を通り抜けて荏原中延駅の前を過ぎ、荏原から小山にかけての住宅街を走り抜けて林試の森公園の前をかすめ、なだらかな坂道を下って山手通りの「目黒不動」か「羅漢寺」という交差点に出る。

 そこから山手通りを中目黒まで行くのだが、その途中にいつも行列が出来ている店があった。毎回同じ時間に通っている訳ではないにもかかわらず、少ない時でも数人、多い時には数十人にまで行列が伸びている時もあり、店がまだ開いていない時間でも、既にかなりの人数がたむろしている事が、しばしばあった。

 そして店の中からはいつも、豚肉をグツグツ煮込んでいる事を想像させる甘い脂身の香りが、熱気と共に漂い出ているのである。

 山手通りに面した店の正面の壁に掛かる煤けた黄色のテントには、「ラーメン二郎目黒店」と黒文字で印刷されていた。

 僕は雑誌など全く読まないので、その時まではラーメン二郎という店がどれほどの有名店であるのかも知らなかったのだが、いつもこんなに並んでいては入る気が起らないというのが、最初に店を知ってから暫くの間抱いていた正直な気持ちであった。

 しかしある日、仕事帰りに店の前を通ると3人しか並んでいなかったので、すぐ順番が回って来るだろうと思い、入ってみる事にしたのである。

 引き戸が開けっ放しの店内は、空間のほとんどが厨房とカウンターで占められていて、壁際の通路は人がすれ違う隙間も無く、通り側に至っては、一旦外に出ての移動を余儀なくされる。

 入口にある券売機でプラスチック製の食券を買い、列が進むのを待っていると程無くして、着席している客の背中と壁の間をすり抜けて出て来た食後の客と入れ違いで、奥に入る様に促された。

 席に着いてからも、先客にラーメンが行き渡るまで暫く間があった。その間、店内や先客の様子を伺っていると、ラーメンが提供される直前に、店主と客との間で短いやり取りがある事に気が付いた。

 初めてだとかなり分かりづらいが、このやり取りを注意深く観察しながら、この店の特徴である無料の増量サービスを、いかに自分に最適化していくかを考える事が、この店ならではの醍醐味なのだと知るのである。

 幾つかの暗黙のルールがある為、慣れないと何かと戸惑う事が多く、また、客に過剰な迎合をしないという雰囲気の為か、味の好みという面だけではなく好き嫌いが分かれる店ではあるが、その見た目や味、食感の中に、食欲だけではなく、征服欲や自己顕示欲をも駆り立てる要素を多分に備えているのは確かである。

 僕はこの目黒店にはその後も暫く通ったが、三田にあるという本店や他の支店には遂に行く機会が無く、そして仕事の行き先が変わると共に、目黒店にもなかなか足を向ける事が出来なくなってしまった。

 

 その頃から仕事で行く機会が多くなったのは、それまでとは反対方向に当たる大森や流通センター、大井埠頭辺りである。

 品川区の豊町、二葉、大田区の山王に掛けての住宅街を走り抜けて大森駅前に下りて行き、そこから池上通りを春日橋交差点まで南下して、環七を真東に進んで行く。平和の森公園を過ぎた辺りから、港らしい倉庫が立ち並ぶ界隈に入り、その先に大井埠頭を含む広大な埋立地が広がっている。

 東京湾に面するコンテナ埠頭には、毎日多くの外国航路のコンテナ船が接岸し、大量の貨物がガントリークレーンで荷揚げされて広大なコンテナヤードに何段にも積み上げられ、そしてそれらを輸送する為の途方もない数のトレーラーが車両待機場に列を成し、次から次へとコンテナを積んで各地に散って行った。

 当時、テレビの報道番組では評論家達が、「日経平均が1万円を割り込んだら日本は破綻する」などと力説していたが、港のこの活況を見ても彼等は同じ事を言うのだろうかと漠然と考えていたら、実際に日経平均が一万円を割っても、当然だが日本は潰れなかった。

 マスコミが好んで取り上げる識者と呼ばれる人々の言葉からは、「このまま誰も何も手を打たなければ」という前置きが恣意的に省略されている。不安要素が無ければ、彼らには言う事が無くなってしまうからだ。実際は、誰も何の対処もしないという事はあり得ないから、彼らの言った通りにはまずならないものである。


 辟易するほどの大量の物資が目の前を通り過ぎて行く光景を眺めていたこの時期のある日、仕事場に出入りしているトラックの運転手が僕に、

「ねえ、ラーメン好きだったよね。環七沿いにある "さつまっこ" って行った事ある?」

と聞いてきた。毎日の様に朝晩2回も通っている道の途上にあるラーメン屋なので当然存在は知っていたが、まだ入ったことは無かった。そう答えると、

「美味いから一度いってみ」

と言われたので、その日の帰りに早速寄ってみた。味はまあまあ好みの範ちゅうではあったが、実はそこから30mほど平和島駅寄りにある店の方が、僕は以前から気になっていた。

 この辺りは京急線の平和島駅に近い為、「平和島辺り」とひとくくりにされている界隈だが、住所地は「大森本町」や「大森東」であり、競艇場がある事で知られる平和島の最寄り駅は、一区間品川駅寄りの「大森海岸」である。

 その店の名は「大勝」といった。これは「たいしょう」ではなく「だいかつ」と読むという事を、だいぶ後になって知ったのだが、寄ってみようと思うと閉まっているという状態が続き、半ば諦めていたのである。

 通勤の通り道なので、立ち寄る為にわざわざ回り道をする必要が無いのは好都合なのだが、食べたいと思うと閉まっていて、都合が悪くて寄る事が出来ない時に限って開いていたのでは、縁が無いと思うしか無い。

 しかし、縁はあったのである。

 ある日、いつもの様に期待半分で店の前を通りかかると、入り口には営業中である事を示す、店名が染め抜かれた大きな紺色の幕が張られ、券売機が解放されていた。これ幸いと食券を買い、厨房とカウンターだけの物置の様な薄暗い店に入って席に着き、食券を出す。

 数分後に出て来たラーメンは、目黒の二郎で食べていたものと似た、太い麵の上にもやしがこんもりと盛られたものだったので、二郎に行けなくなって物足りなさを感じていた僕の胃袋を、これからはこの店が満足させてくれそうだと、大いに喜んだものである。

 その後、数回は大勝に行った記憶がある。しかし程無くすると、また幕が張られている光景を見掛ける事は無くなり、内側に掛けられた暗い色のカーテンが窓から覗いているだけの虚ろな空間となってしまったのである。


 そんな状態が、その後どれくらい続いたかはよく憶えていない。

 環七と第一京浜が交差する大森東交差点は、横断歩道がコの字型になっている。と言うのは、環七の南側には横断歩道が無いのである。その為、仕事帰りに流通センターからここを通過して春日橋交差点に向かう場合、北側を通らなければ先に進めない。僕は環七の南側にある大勝に寄るつもりが無い時は、出発地点からずっと北側の歩道を自転車で走って来ていたので、店に変化があっても気付かなかった可能性はある。

 そこにラーメン屋があったという事さえ忘れそうになっていたある日の仕事帰り、変化を感じさせる何物かを感じ取ったのだろうか、ふと自転車を停め、環七を行き交う長いコンテナを積んだトレーラーの短い車間を透かして、なんとか通りの向うを覗いてみると、店が開いている様に見えたのである。

 逸る気持ちを抑えながら大森東交差点の手前にある旧東海道との環七美原通り交差点まで行き、環七を横断してからは、立ち漕ぎで店の前まで自転車を走らせた。

 目線より少し上に当たる位置に掛かった黄色いテントには、「大勝」ではなく、「ラーメン髭」と印刷されている。やはり店が代わったのだ。

 券売機は大勝から引き継がれたもので、一度も食べる機会が無かった謎のメニューである「鶏ラーメン」も、引き続き売り切れを示すランプが付いたままだった。

 「チャーシューメン」の食券を買って中に入ってみると、これまた以前と変わらず、店内は油汚れで黒ずんだままで、新しい店を始めるにあたり、先ず店をピカピカに磨き上げようなどという気は全く無かったらしい。

そんな店主は、店名通りにちょび髭を生やした小太りで寡黙な男で、僕がカウンターの棚に置いた薄い紙の食券を一瞥して調理に取り掛かり、作業を終えて丼を持ち上げる直前、

「ニンニクは?」

とぶっきらぼうに聞き、要らないと伝えると、そのまま食券のある場所に丼を乗せた。中身の重量を伝える様に、ラジオの音声だけの店内に、その音が鈍く響いた。

 こんもりと盛り上がったもやしの麓に、角煮の様な豚バラ肉の塊が4切れ並べられていて、縁に少しだけ濃い茶色のスープが覗いている。外見から、前にあった大勝やラーメン二郎と同じ系統のラーメンである事はすぐに分かったが、それ以上に、太くてゴワゴワした硬い麺や塊肉のただならぬ旨さが、僕の知覚に歓喜と呼んで良い程の強烈な印象を残したのである。

 その時以来、髭のラーメンの虜になった僕は、一週間に少なくとも一回は仕事の後に寄った。時には二日続けて、或いは週に三回という事もあった。

 店は京急線の平和島駅から少し歩く距離にあり、付近には前出の「さつまっこ」と、その間にもう1軒、開いているのを1度も見る事が無かったラーメン屋があった記憶があるが、まとまった商店街は旧東海道の界隈までで、そこから流通センター寄りは、それ程人通りの多い地域ではない。出来たばかりのラーメン屋を訪れる者もあまりおらず、僕が食べている間に誰も入って来なかったという事はザラにあった。

 ラーメン二郎の様に、いつも並ばなければ食べられないのも気が重いが、こんなに客が来ないのでは、折角気に入ったこの店も続けられるのかどうか心配になってくる。それ程いつも静かな店内で、ラジオと環七を通るトレーラーの音だけが響いていた。

 初めて髭に行ってから数ヶ月が経ったある日、同じ仕事場にいるラーメン好きの同僚が僕に、

「お前が通ってるっていってた髭さ、昨日初めて行って食って来たんだけど、その時〇〇が来てて、ちょうど店から出て来るところだったんだよ」

と言った。良く聞き取れなかったその名前は、文脈から察すると有名なラーメン愛好家か、飲食関係の評論家らしいニュアンスだったが、テレビや雑誌の話題に疎い僕は知るはずも無かったし、特に関心も無かったので記憶には残らなかった。しかし、著名人が髭に食べに来たという事を知り、これによって、何だか自分までもが認められたような、誇らしい気持ちになったのは嘘ではない。

 ところがその直後から、僕にとっては望ましくない方向に事態が動き出したのである。

 それはまず、客の急激な増加となって現れた。僕が行くのは、いつも夕方5時の開店時間前後だったので、最初から行列に並ばなければならなくなる事は無かったが、店内に僕以外の客が誰もいないという、かつての様なのんびりとした状況では無くなり、食べ終えて外に出ると待ち客が並んでいるのが普通になってしまった。

 しかし、その辺りまではまだ、これで店の経営が上手く軌道に乗り、潰れる心配が無くなったと喜んでいられたのだが、ある日、仕事が立て込んでしまい、いつもより遅い時間に店に着くと、ちょうど僕の前の客で材料切れの為に入店が締め切られてしまったのである。

 すまなそうに券売機にカバーをかける店主に、「また今度」と声を掛けて店の前から離れたのだが、その日は自転車のペダルの重さが身に染みる家路となった。

 それからも、少し遅くなると既に店仕舞いした後という状態が続き、たまに食べられたとしても肉の残りが少なくなってしまっていて、チャーシューメンが出来ないというのが常態化してしまった。

 それでも何とかラーメンにありつく事が出来た時には、店主に近況を聞いてみるのだが、とにかく急に客数が増えてしまい、当人が一番困惑している様子であった。

 この店主は、いくら客が増えても作る量を増やすつもりなど全く無いので、客が増えれば増えるだけ、店仕舞いする時間が早くなって行くのである。しかしその事は、食べられなかった時には恨めしくもあったが、結果的に店の味を保つ要因となったのは間違い無い。


 そんな、髭で食べられずに落胆して帰って来た時に、よく夕飯を食べに行った店があった。二国から戸越と豊町の間の道に少し入った所の豊町側にあった「らーめん浜ちゃん」という、典型的な町の食堂である。

 僕が豊町に住み始めた後に出来た、木造りの内装が明るく綺麗な店で、ラーメンに関しては、店主自ら2種類の麺を手打ちで作る程のこだわり様であった。スープもコクがあって美味く、また脂身の少ない豚ロースの大きなチャーシューも特徴的で、町の食堂らしからぬ美味いラーメンを出していたのである。

 客層は、昼はいつも現場作業員風のグループ客で賑わい、夜は近所の住民が居酒屋代わりに使っているといった雰囲気で、ラーメン好きが遥々遠方から食べに来る様な店では全くなかったが、僕はここのラーメンがとても気に入り、店が出来た当初から髭に通い出す前までは、頻繁に食事をしに来ていた。

 特に、仕事帰りに寄ってモツ煮込みを肴にビールを飲み、タンメンを食べる事が多かった。タンメンに限って言えば、僕は未だにこの店以上に美味いものを食べたことが無いと断言できる。

 塩ラーメンに炒め野菜が乗ったこの食べ物は、普通のラーメンとは違った魅力に溢れている。豚肉と野菜を炒め、そこにラーメンのスープを流し込む為、茹でた野菜をただ乗せるのとは違い、炒める事によって素材から引き出された香りや甘味に加え、フライパンにこびり付いたものが旨味となってスープに溶け込み、更に香ばしさに溢れた絶妙な味を生み出すのである。

 休日には、時間を見計らってすぐ近くの「松の湯」という銭湯に行き、温泉やサウナで時間を掛けてゆっくりと身体の水分を搾り出してから開店直後の浜ちゃんに駆け込み、先ず瓶ビールを冷えたグラスで一口グイッといく。厨房で店主がタンメンを作る音を聞いて進捗状況を頭で思い描きながら、アルコール類を注文した客が一人前だけ食べられる貴重なモツ煮込みを摘まみ、頃合い良く出て来たタンメンをゆっくりと楽しむというのが、僕にとっては近所で出来る最高のフルコースであった。

 店内には六人掛け程度のテーブルが3脚あり、混んでくると相席になるのだが、僕が行く時間帯は、どちらにしても町内のおじさん連中の夕食時にはかち合わなかったので相席になる事はまず無く、それどころか他の客がいる事すらもあまり無かった。たまに他の客がいると、ほとんどが煙草を吸うのであまりいい気分ではなかったが、地元の小さな食堂では、それもいた仕方無い。


 豊町にはちょうど10年間住み、練馬の中村橋と共に、東京では一番長く暮らした町となった。その間、通ったと言えるほど食べに行った店は、この章に書いた3軒と前章の1軒、他にあと数件だけである。1~2度行っただけの店ならもうあと何軒か記憶には残っているが、この4軒は、それまでに行った全ての店の中でも、思い入れという点ではずば抜けている。

 特に髭に関しては、開店してから暫くの間の閑散としていた時期から、開店待ちの行列ができるような繁盛店に成長するまでの過程をつぶさに見られたという点で、特に感慨深いものがある。

 幾つかの場所を転々としながら、自分の故郷よりも長く住んだ東京を離れる事になり、引っ越しの前に最後の髭のラーメンを食べに行った時は、店の厨房で使っている洗剤を大森駅前のドラッグストアの店頭に出ている分だけ買い占めて持って行き、帰り際に渡した。チャーシューメンが出来なかった時でも、内緒で肉を少し多めに入れてくれたお礼のつもりであった。

 そして、またいつか必ず食べに来るから、店を続けていてくれと伝えて別れた。


 その後すぐに名古屋に引っ越した僕は、ちょうど2年後に東京に行く機会があり、案外と早く約束を果たす事が出来た。

 品川駅から京急線の羽田空港行きに乗って平和島駅で降り、開店時間の30分程前に店に近付いて行くと、店の外には誰もおらず、窓には内側からカーテンが掛けられていて少し不安にさせられたが、前まで行ってみると、カーテンの上から室内の灯りが漏れている。

 その昔、テレビの取材を受けておきながら、放送日の翌日にわざと臨時休業した店主の事である。実際に店が開くまでは、何が起こるか分からない。取り敢えず、店内からは灯りと共に、豚肉が煮える熱気と甘い匂いが漏れ出ている。

 そのまま並んでいると、開店時間の少し前に店主が券売機を稼働させる為に現れた。風貌は全く変わっていない。そして、僕を見るなり

「お、久しぶり」

と言ってくれた。こちらも挨拶を返しながら「チャーシューメン」の食券を買い、店に入りながら何気なく後ろを振り向いてみると、僕の背後にはいつの間にか、横長の店の間口よりも長い行列が出来ていた。

 店内は全く変わっていない。薄暗い照明、油で黒ずんだ厨房や床、ラジカセから流れるNACK5の音楽とDJの声、要領が分からずに一度も登録する事が無かったメルマガのアドレスが書かれた貼紙。

 2年程度ではそれほど変わるものではないとは理解しながらも、やはり懐かしいという感慨をこみ上げさせるのに十分な、この店らしい変化の無さである。

 初めて来ていきなり大盛りを注文する客に対して、不信感をあからさまに顔に出す店主だが、そんな店主と客との興味深い攻防も、数々思い出された。

 全く幸運なことに、僕は初めてこの店に来た時から、チャーシューメンの普通盛りしか注文しなかった。もっとも後半は、チャーシューメンも注文出来ない事が多くなってしまったが、もしも最初に大盛りを注文して断られていたら、その後、良好な関係を築いて通い続けられていたかどうかは自信が無い。仮に受け付けられていたとしても、間違い無く食べ切れる量ではなかったが。

 久しぶりに食べた髭のチャーシューメンは、麺の食感やスープの油っこさなど、だいぶ変化の跡が見られたが、やはりこの店のラーメンそのものであり、夢中で食べていたあの頃の記憶を引き出すには十分なものがあった。

 かつて、ゴリ押しで大盛りを注文しておきながら、普通盛りの分量も食べられなかった客に対して舌打ちをした、この店主の醸し出す雰囲気も含めた店全体の佇まいも、何らそれを阻害しない。

 そして、食べている間にも途切れることの無い、窓に映る外の行列の影が、僕ごときが心を煩わせずとも、この店がこの先もずっと続いていくであろう事を、僕の背中に語りかけているようであった。

 髭には、その約1年後にも訪問する機会があり、初期の頃からメニューにありながら結局いつも見送っていた油そばを初めて食べて、また感動を新たにした。

 髭で食べたのは、その時が最後である。


 髭への最後の訪問の前日には、浜ちゃんを訪ねた。

 旅行中であるにもかかわらず、豊町に住んでいた頃の休日と同じ様に、松の湯でゆったりと温泉に浸かり、サウナで十分に汗を流す。銭湯で見掛ける爺さん達の顔ぶれも、3年程度ではそう変わらないものである。

 浜ちゃんでは、定位置だった入ってすぐのテーブルに着き、瓶ビールとモツ煮込み、タンメンを注文して、奥にあるテレビを眺めながら待った。

 すぐに出て来たビールを、良く冷えたコップに注いで一口で飲み干し、次いで出て来たモツ煮込みをつまみに杯を重ねながら、やはり厨房から聞こえて来る、タンメンを作る音に耳を傾けた。

 相変わらず、他に客のいない静かな店内で、幾つか新しいメニューが加わった壁の貼紙などを眺めていて、以前から身動きする度に開いてしまっていた出入口の自動ドアが、手動になっている事に気付いた。最初に入った時に気付かないものだろうかと自分のうかつさに呆れたが、入った時点で、元々自動ドアだった事を忘れていたのだろうと思い直した。3年間での変化と言えば、それぐらいだろうか。

 出て来たタンメンを味わいながら再び店内を見廻していると、店主も相変わらず暇そうで、調理が終わった後は奥の椅子に座り、時代劇を楽しそうに観ている。

 結局、僕がいる間に他の客は来なかったので、煙草の煙で嫌な思いをする事は無く、快適に過ごす事が出来た。

 そして帰り際、勘定を済ませながら店主に、以前近くに住んでいた者である事を告げると、

「ああ、やっぱりそう。見覚えある人だなぁど思ってらんだけど」

と言われた。青森出身の、聞き取れない程ではないが、結構訛りのあるおじいちゃんである。僕も出身は東北だが、その事をこの店主に伝えていたかどうかは忘れてしまった。

 3年経っても、薄っすらとでも僕の事を憶えてくれていたのは、地元の小さな食堂だからであろうか。この狭い界隈だけの事にせよ、自分の存在が記憶されている場所があるという発見は嬉しいものであった。


 東京から帰って数か月後のある日、インターネットのレストラン検索サイトで、浜ちゃんが既に無くなっている事を知った。浜ちゃんを知っているブロガーが書いた、浜ちゃんの跡地に出来た店についての文章を読んだ事に依ってである。

 店主の身内らしき人々がしばしば店に遊びに来ていたので、住居が近くにあるか、或いはその建物自体が住居なのではないかと勝手に想像していたのだが、今となってはそれも確かめる術は無い。

 いずれにしても、僕が傑作だと思っていたあのタンメンを食べる事はもう出来ないという現実を、その瞬間に突きつけられてしまったのである。

 銭湯で汗を流した後の火照った身体に冷えたビールを注ぎ込み、その後でゆっくり啜った熱いタンメンの味わいを、あの界隈の日常風景や、あの頃起こった様々な出来事と共に、今でもたまに思い出す。二国から路地に入った小さな界隈にかつてあった、この普通の食堂もまた、これまでに書いて来た店々と同様、僕にとってはもう会う事の叶わない、心に残る場所の一つである。


 今は当たり前のように慣れ親しんで啜っているこの一杯も、いつかは追憶の彼方に去ってしまう時が来るのだろうか。いや、それに関しては、まだまだ相当の猶予がある事を願うのみである。

 それぞれの場所に確かに存在した "あの時の自分" に思いを馳せながら、そろそろ筆を置くことにしよう。

                             

                             第六話及び全話・完

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一杯の追憶 W.D.Libaston @wdlibaston

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