第五話
「どうして、どの部屋もベランダに洗濯機が置いてあるの?」
当時僕が住んでいた都営浅草線の中延駅近くにある古い3階建てアパートに初めて訪ねて来た交際中の女性が、建物の前まで来て真っ先に僕に聞いたのが、その事だった。
そう言われるまでは別に珍しい事とは思わず、そこに蛇口と排水溝があるから当然の様にそうしていただけなのだが、今まで住んできたアパートの間取りを思い返してみると、洗濯機を設置する場所は地域によって2種類に分かれていた。
僕が東京で暮らした事がある地域は、住んだ順に世田谷区、練馬区、大田区、品川区だが、世田谷区の経堂で住んでいたアパートは風呂無し、トイレ共同の古くて狭いアパートで、洗濯機を置く場所も無かった。
練馬区では2ヵ所に住んだが、どちらも台所に水回りが集められていて、洗濯機用の水道や排水溝も流し台のすぐ隣に設置されていた。その為、洗い終わった物はベランダまで運んで干していたのだが、その後で住んだ大田区や品川区では、洗濯機はベランダや玄関先など屋外に設置する様に設計されていたので、洗った物はその場で干す事が出来た。
その様なレイアウトに馴染んでいなかった彼女は、電化製品が屋外で雨曝しになっている事に対して不安を感じたらしい。しかし、これに慣れている僕は、そもそも水を使う洗濯機が雨ごときで壊れる筈は無いし、ベランダにしろ玄関先にしろ、屋根や軒が掛かっていて、いつも雨曝しになっている訳ではないので、全く問題があるとは思っていない。むしろ、洗濯物を洗ってその場で物干し竿に掛けていけるのが、この上なく便利だと思っているのである。
しかし、ベランダに洗濯機を置くことに関しては、幾つか気を付けなければならない事がある。コンセントに雨がかからない様になっているかを良く確認するのは勿論だが、ベランダという場所は大抵の場合、水はけの為に床が幾分傾けて作られているので、洗濯機の足の長さをそれぞれ慎重に調節して、本体が確実に平らになる様に設置しなければならない。さもないと、何年か経ったある日の洗濯中、町中に轟く様な大音響と共に軸が大破する可能性がある事は、僕自身が実際に経験済みである。
中延に住み始めた当時は、後に振り返ってみると「IT景気」と呼ばれた時期であった。それまではほんの一部の研究対象だった物が世界規模に広がっていき、一般の人々にとっても身近な実用品として普及していく段階では、まだ競争が少ない市場で大きな利益を得るチャンスがあったのは当然であろう。しかし、そこに投資が過剰に集中し、やがて「景気」は「バブル」へと変化して行ったのである。
そんな世相とは直接関わる機会も無く暮らしていた僕はその頃、五反田で1日18時間も拘束される仕事に就いていた。今考えても、その当時は何を思って日々生活していたのか、あまり良く思い出せない様な状態だったのだが、そうかと言って、忘れてしまいたい様な嫌な事ばかりだった訳ではなく、今でも懐かしさと共に時々思い出す幾つかの事柄がある。
その頃の事で特に印象に残っているのは、食生活である。
朝起きるとすぐに顔を洗って着替えをし、朝食は時間が無いので摂らずに出勤して、昼は毎日同じラーメン屋でラーメンライス、夜は牛丼チェーンの松屋で豚めしを食べるというパターンを、数か月に渡ってほぼ毎日繰り返していた。
その当時は、今日は何を食べようかという思考すらも放棄して、ただただ毎日同じ物を食べ続ける方が気が楽だという様な精神状態だったのだが、しかし、ラーメンライスも豚めしも、かなり気に入っていたのは事実である。
松屋で初めて食事をしたのは、その「豚めし」の販売が開始された頃だった。
2003年にアメリカでBSEが発生し、アメリカ産牛肉が輸入差し止めになるという騒ぎに発展すると、日本の牛丼チェーンはアメリカに代わる輸入元を探すか、牛肉を使わないメニューを開発するかという選択に迫られた。
当時、最大大手の吉野家の社長がアメリカ産牛肉にこだわって輸入解禁を訴え、「食の安全」の観点などから各方面で批判されたのを憶えているが、牛丼には脂身が多く甘みのあるアメリカ産牛肉が不可欠で、赤身の多いオーストラリア産では美味しい牛丼は作れないという考えには、個人的には納得できるものがあった。
また、そのアメリカ産牛肉をアメリカ人は日常的に食べているのだし、それを日本人が食べる事にどれほどのリスクがあるのだろうか、といった疑問も持っていた。
それに加え、牛肉に限った事ではないが、日本産の物は値段が高すぎる。外国産に比べて10倍の値段が付いていても、美味しさはせいぜい2~3倍ぐらいだろうと思っていたので、僕は輸入禁止に賛成する気にはなれなかった。
しかし、安全な日本の農畜産物を求める世論や、国内の生産者を守る立場からの政治的圧力もかなりあったのだろう。アメリカ産牛肉はその後2年間に渡り輸入禁止となり、大手牛丼チェーンは他の国から牛肉を輸入するのではなく、牛肉を豚肉に代えた商品を売り出したのである。
この様な経緯で生まれた豚丼だったが、僕はこれをかなり気に入って頻繁に食べていた。
初めは輸入牛肉の問題で窮地に立たされた牛丼チェーンを応援しようかという気持ちから、外食するなら牛丼屋に行こうというぐらいのものだったが、食べてみるとこれが実に美味い。しかも、吉野家一辺倒でそれまで入った事が無かった松屋で一度食べてみると、松屋の「豚めし」の方がより僕好みの味である事が分かった。しかも、松屋は全ての食事メニューに味噌汁が付くので、食後の腹の落ち着き具合が良かった。
早朝から深夜に及ぶ極端な長時間労働からの帰り道、夜11時過ぎに豚めしを胃袋に詰め込み、満腹感から来る眠気を逃がさない様に、急いで家に帰ってすぐに布団に入る。そして朝4時に起き、支度をして再び仕事に向うという生活パターンが続いた。
その頃、毎日昼食を摂っていたのが、五反田の高架下にあった「時代屋」という煮干しラーメの店である。
東急池上線とJRの二つの五反田駅の間を走る、都道317号線を跨ぐ鉄橋の様なその高架は、上を山手線の内回りと外回り、及び双方の複線の合計4本のレールが走っていて、幅が広く、丈が極端に低い。
高架と並行して歩道橋も設けられている上に、時代屋があった池上線側の上方には、東急ストアの4階に位置する東急五反田駅のホームが被さるように中空に掛かっている。
立体構造の底辺に位置するこの高架下に入ると、まるでトンネルの様に急に辺りが暗くなり、周辺の幾つかの古い商店や、コンクリート壁の落書きなどが、混沌としているようでいて不思議と心が和む、懐かしいような感情を沸き上がらせるのである。
その高架下の暗がりの中に、時代屋はあった。
丈の低い鉄橋が直接店に覆い被さり、天井のすぐ上を電車が走っているといった具合で、電車が通る度にカウンターだけの狭い店は、鉄骨とコンクリートが屋根裏で取っ組み合いの大喧嘩を始めたかの様な重々しい音と振動に包まれた。
普通に考えれば、そんな店は居心地が良い訳など無く、食べ物が美味しく感じられる要素など微塵も無いのだが、そんな環境下で啜っていたラーメンは不思議と僕の心や胃袋に馴染み、その味と電車の騒音や振動、僕自身の肉体と精神の疲弊が一つの塊として、今でも時々僕の心象に浮かび上がり、形を成そうとする事がある。
煮干しラーメンと言えば、東北や新潟にある、あっさりとした醤油味の透き通ったスープに背脂が浮かべられたラーメンがまず想像されるが、時代屋のラーメンはそれとは全く違い、スープは鶏ガラ出汁で、濁っていてコクがあり、それに煮干しの出汁が加えられている。
煮干しの風味が加わる事によって動物的なクセが緩和され、また、煮干しが持つ尖った雑味の様なものを鶏ガラ出汁のコクがまろやかに包み込んで、実に良いバランスが保たれていた。
そして、少しだけ浮いている背脂と共に、スープが縮れた中太麺に絡み、同時に口の中に入って来る心地良さを一啜り毎に味わう事が出来た。
よく言われる、「麺は音を立てて啜ると美味い」と言う表現は、当たってはいるが正確ではない。寧ろ、美味しく食べようとすると、音は止められないと言える。
麺を啜る時、麺自体と、麺と麺の間に絡まって口の中に入って来るスープを同時に味わうのが一番良いバランスである筈なのだが、音が出ない様に麺をいちいち箸で口に運んでいると、麺に絡んでいるスープがどんどん流れ落ちてしまい、そのバランスが崩れてしまうのである。
従って、日本人が日本国内でラーメンを食べる時は遠慮なく音を立てて食べれば良いし、外国人にもその様に勧めてみれば良い。ただし、それを無理強いする必要は無いし、日本人も海外で食べる時は周囲を憚って止めておくか、それが嫌なら海外で日本式の麺類は食べなければ良いだけの事である。
時代屋でもう一つ思い出されるのは、卓上の調味料類と共に、無料の梅干しが置かれていた事である。
ラーメン自体がチャーシューも含めてご飯のおかずに十分になる味だったので、僕はいつもライス付きで注文していたのだが、それに加えて梅干しを食べる事により、こんな生活を続けて不健康を強いている自分の身体に対して、それがせめてもの罪滅ぼしになればと考えていた。いわば、免罪符的なものだったと言える。
時代屋がいつまでその場所にあったのかは、僕は知らない。
過酷な労働の日々を脱して最後に訪ねてから数年後、機会があって久しぶりに五反田のガード下に行ってみると、全く知らない店がそこにあり、随分落胆して家に帰ったのを憶えている。住んでいた中延のアパートから五反田駅までは自転車で5分もあれば行ける距離だったので、行こうと思えばいつでも行く事は出来たのだが、やはり無意識にその場所に近付くのを避けていたのかも知れない。
それ以前にも、五反田から桜田通りを北に向かう途中のどこか、高輪台辺りを自転車で通り掛かった際、時代屋の別の支店を偶然見つけて入った事がある。しかしその店の味は、五反田店には遠く及ばない、同じ名前を名乗っている店だとは到底思えない様な、全く旨味を感じないものだったと記憶している。
その店に関してはあまりにも曖昧な記憶しか無く、今となっては場所も含めて書くべき事柄はこれくらいしか見つからない。いずれにしても、あの五反田のガード下で、また同じラーメンを食べる事はもう出来ないという事実は、受け入れざるを得なかった。
そしてそれからまた数年が経ち、僕が東京を離れて名古屋に引っ越してからの事である。
夫婦で東京を訪れる機会があり、その際、品川のホテルに宿泊したので、つい懐かしさに駆られ、夕食後の遅い時間に一人で五反田まで足を延ばしてみた。その昔、僕に洗濯機の置き場所について質問した妻は、五反田での事を知らない。
ガード下のその場所には、微かな記憶に残っていたものとはまた違う名前の店があった。ラーメン屋にとって、ここは鬼門なのだろうか。
名前こそ違うが、時代屋と同じく「煮干し中華」を謳っている店だったので、そんなラーメン屋がこの場所にあるという事に感慨深いものを感じ、立ち寄ってみる事にした。
券売機が店の外にあるのは相変わらず。低い高架が店に覆い被さり、屋根や軒の代わりになっているので、機械が雨に濡れる心配が無い。ベランダや玄関先に置いた洗濯機と同じである。
店内も変わらず、カウンターだけの狭い空間である。おそらく大まかなレイアウトは変わっていないのだろうが、時代屋の頃の「町の食堂」然とした店構えから、平成のラーメン店といった雰囲気にイメージが変わっていて、当時を思い起こす事は容易ではない。それに、あの当時は昼時ばかりで、夜に食べに来た事は一度も無かったので、その影響もあるのかも知れない。
そんな事を思いながら時間を過ごしていると、ラーメンが運ばれて来た。
店に入った時から匂いはしていたのだが、やはり目の前で香る煮干しの匂いには、懐かしいと思う気持ちが沸き上がる。
しかし、時代屋には無かった現代風の気取りは、やはり隠し様が無い。当時は昔懐かしい中華そばという位置付けだった煮干しラーメンが、今では寧ろ最新のトレンドになっているのである。あの頃と全く同じものを求めても、もはや叶えられるはずも無い。
しかし、今食べているこの一杯を、もはや存在しない「あの時の味」に一瞬で変えてくれるものが、この店にはあった。ラーメンを啜り始めてから最初にそれが起こった瞬間、僕の精神は疑いなく、「あの頃」を垣間見たのである。
低い天井のすぐ向こうを、山手線の電車が通過して行く。暫し店内に響く、鉄骨とコンクリートが軋み合う音と、尻から腹に伝わって来る重い振動。そして、店の前の通りを越えた先にある五反田駅のホームに電車が滑り込んで行き、レールを軋ませながら徐々に速度を落として、やがて静かに停車する気配。
それら一連のものに包まれながら、僕はこの一杯によって、辛うじて自分の心を繫ぎ留めていた日々がかつてこの場所にあった事を、ひっそりと想ったのである。
第五話・完
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