トパーズの花

物と物の輪郭が溶け合うカンバス。同じ形が大雑把に着色された人々という存在。空の色は三種類。それが、私の目で捉えられる世界のありさま。


木戸が叩かれる音で私は目を開ける。像を結ばないままの風景の中に、うっすらと人の形が混ざっている。

「おはようございます花呪師」

「おはよう」

「今は七時を回ったところです。いつもお早くていらっしゃる」

「他にすることもないですからねぇ」

ははは、と本心から笑ってみせると訪ねてきた若者も控えめに応えて笑った。しっとりと、夜更けの雨が染みこんだ朝風のような声音が心地よい若者だ。半盲の私の世話係は集落内での持ち回りであるから、私は逐一彼らの名を覚えることがない。連れだってもらわなければ人にも会えない身であるし、耳や鼻が多少目の代わりを務めるとは言っても判別できないこともあるから、中途半端にわかったふりで迷惑をかけることもないだろうと、私自身も滅多に名前を口にしない。

「どなたかがお呼びですか」

「ええ。六ッ角の姉妹の姉の方が咲いたらしくて」

「近頃の方はこっそり捨ててしまうものかと思っていましたが」

「あの子たちくらい若いとまた流行っているらしいですよ、花占い」

「面白いことですねぇ」

そんな話をしながら、青年は私が立ち上がる手助けをしてくれ、私が言うのに倣って仕事道具を検める。必要なものはそう多くない。花呪師から花呪師へ、何人もの手を渡ってきた手書きの図鑑と採集用の小瓶、いくつかの精巧な花の模型が連なったもの、それくらいだ。こと、図鑑に至っては今や私にとってはほとんど開く意味を失ってしまったが、証代わりと万一の備えと御守りを兼ねてといったところである。諸々を詰めた麻袋は私の右手にしっかりと持ち、左手は青年に引いてもらう。

「では、お願いします」

「こちらこそ」


私にも判るほど、外は快晴であった。鮮明に捉えられない光はかえってヴェールのような輝きで、温暖な風と相まって朗らかな気持ちになる。人よりも少しばかりよくきく鼻を、瑞々しい花の香りがくすぐっていった。かわるがわる私をすり抜けていく香りの数だけ、この地には恋が咲いている。芽吹く前の青々しさや、爛熟した秘め事の香り、私だけが嗅ぎ分けられるその真意を敢えて口にすることはしない。耳に届くまばらな挨拶にひとつひとつ返事をしながら、私は青年の導く道を歩く。

「それにしても、まだ仕事があるなんて有難いことですよ。骨董品のようなものですから」

「花呪師のおつとめのことですか?何をおっしゃるんです、花葬だって尊いお役目ではないですか」

「まぁ、それもそのうち、必要なくなりますよ」

高地民族の特異体質とそれに纏わる独自文化について、自らの生業とはいえ私は継承の使命や衰退への抵抗感を特に持っていない。つとめは好きだ。その一方で、人が必要としないものを形ばかり振りかざそうとしても理解は遠ざかるだけであると、よく解っているつもりだ。何はともあれ、今やるべきことは決まっている。丁度そう思った時、先導していた青年の足が止まった。六ッ角の家に着いたようである。

「ご令嬢はおいくつでしたっけ?」

「十八、九でしたかね」

「なるほど、"らしい"ことですね」

微かに甘やかでツンと刺激する柑橘の芳香に、私は少しだけ口元を綻ばせた。先導の青年ですらも「いい香りですね」と笑うほど芳醇な香りは今や家の外まで満ち満ちて、娘の想いの丈を雄弁に語っていた。噎せ返るほどの馨しさの中に私と青年は歩を進める。


繊細に形作られた飴細工のような光沢のあるイエローが控えめに輝く。均等に開いた六片の飾りは薄氷ほどに華奢ながら硬質な手触りで、下がり眉の物静かな乙女の腰骨近くにこぢんまりと収まる様は、さながら凝った意匠のブローチのようである。なかなかに趣深い表現で青年が観察結果を語ってくれた後、視力が弱いことを断った上で丹念に感触や形を確かめ、鼻をひくつかせたところで彼を手招く。

「模型を」

歴代の花呪師が見た恋の花々をそっくり模したものであるが、手早く手繰り、類似したものには慎重に指を滑らせるうち目当てのひとつに行き当たった。前例があったことにほっとする。模型には花の呼称が刻まれているから、慣れてしまえば指先で読み取ることができる。私は名前に紐づいた知識を引き寄せて頭の中に広げた図鑑を読み上げた。

「献身と執着、守護と破壊、合わせ鏡の思慕が貴女を満たしている。貴女の堅固な剣には握り手がない。あるいは貴女の柔らかな衣には解くほど強かに縛る糸がある。契の言霊ひとつで、永遠を抱くこともできる力だ。その花の馨る先に虚無が広がったなら、摂理の瓦解には気を払われよ」

古くから花呪師たちが積み重ねてきた花の知識と経験からなる解釈の言葉は予言詩めいていて、果たしてままならぬ恋心に翻弄される人々が求めるものであるのかと問われれば知る由もない。常通りにできることだけをして六ッ角の家を後にした私は、来た時よりも心持ちのんびりと青年に手を引かれて行く。まだ微かに鼻腔の奥に香りを残した花のことが、気にかかっていた。

「伝え忘れたことがありますか?」

ただでさえゆっくりとした歩調をさらに緩めて、不意に青年が問いかけてきた。いつの間にか足を止めそうになっていた私の顔を窺いみたらしく、先刻の花の見方といい、彼は思慮深く細やかな人間だと思えた。

「まぁ、いや、絶対に言わないといけないことでもないんですけれどね」

敢えて曖昧な言い方になるのは、彼が信頼できる心根の持ち主だろうと私個人が思うことと花呪師の責任とは、別物だからだ。どちらからともなく立ち止まった。

「なるように成ることを祈りましょう」

これは本心だった。誰が決めたのでもないが、咲いた想いの行く末について花呪師が望みを口にすることはタブーのように思われている。この地の人々が花呪師の語る言葉を尊んでいるがゆえでもあるから、それに相応しいよう振る舞うことを拒む理由はない。花呪師とは、まじない師であり相談役であり医師であり、その果ては観察者たれと私は思う。

心破れても散らない逆理の花を咲かせた彼女がその強い美しさを取りこんでも、あるいは自身もろとも花弁を砕いても、起こりうるすべての結末は「なるように成った」ということだ。

青年を待たせていた、と気づき、彼を促してまた歩き出した。香りづく風がじきに、鼻腔の奥から飴色の残り香を押し流す。やがて取り留めのない談話を始め、滑らかな小花の手触りも指先から薄らいでいく。輪郭を無くしはじめた心残りは、私に見える世界と同じに淡く滲み、たくさんの染みの一つになった。

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花葬の民 言端 @koppamyginco

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