贖いの言葉を
「遅い」
「悪い」
彼女の態度は一見して分かるくらいに斜めに曲がっていた。俺の顔を見ようとせず、布団を被ったまま出てこなかった。
ここで弁明を試みることもできたが、昔から彼女はそんなことを好まなかったはずだ。むしろ、喋るたびに自分が袋小路にはまっていくのは間違いなかった。
「悪かったって。急用があったんだ」
「誠意が感じられない」
彼女はにべもない返事をする。
「駅前の店でケーキ買ってきたんだけどな」
そう俺が誘ってみると「本当!?」と目を輝かせて振り返った。俺がその顔を眺めていると何かに気づいたような表情になり、再びそっぽを向いた。
「まぁ、そういうことなら許してあげなくも、ないわよ」
「現金な奴」
「う、うるさい!」
ベッドの上から飛び起きようとしていたのを俺は頭をつかんで取り押さえる。手の中で彼女のうめき声が聞こえてきた。
沸き立った想像から目を背けるように、俺は声を上げて笑った。
夕方になると彼女がうとうととし始めた。どうもこの時間になると眠くなってくるらしい。三十分くらいしたら起こして、という台詞を吐いて布団の中に引っ込んでいく。
平穏でゆっくりとした時間。その静謐さは偽りのものだと分かっていながら、今になっても手放すことができなかった。
布団から覗かせるようにして見える彼女の瞼は優しく閉じられている。伸びた前髪がその上に覆い被さっていたのを見かけ、俺は前髪を払おうと手を伸ばす。
『ハルに撫でられると、ちょっと怖くなるときがあるんだ』
以前、暗闇の中で告げられた声がフラッシュバックのように脳内で瞬いた。伸ばした腕が硬直するようにしてその場に縫い止められる。手に何かがこびりついているような感覚が拭えず、手のひらを何度も握って感触を確認した。
『ねぇ、ユウキ、私を……売るの?』
月明かりに照らされながら寂しげに微笑する彼女――小春はかすれた声で告げた。
ただ友達の中で仲がよかったというだけだった。売った、などといわれを受ける筋合いはない。そう思いながらも俺は口を開くことが出来なかった。最大の理由は、小春から言われた言葉は俺自身も少なからず感じていたことだったからだ。
自分の葛藤から目を背け、気がつけば俺は右手を突き出していた。
それに気がついた小春は驚いて身を引いた。つかみ掛かろうとした右手は勢い余って彼女の肩口に当たる。
小春の身体はぐらりと傾いていき、倒れかかった先には階段が大口を開けるようにして身を沈めていた。暗闇の中に彼女は取り込まれていき――。
そこまで考えて我に返った。俺は必死にかぶりを振って脳内に浮かんだ映像を打ち消す。あれは事故だ。小春をあんな形で貶めるつもりは最初からなかった。ただ趣味が合い、気兼ねなく話せる仲だった。付き合ってはいなかったし、知り合いに紹介するくらいと軽い気持ちだった。やましい気持ちなどなかったはずだった。だが、取引と称されて握らされた金に目が眩んだ。
打ち付けられるような痛みが胸を衝く。俺は拳を握りしめるようにしてそれに耐えていた。俯せた顔から滴った汗が頬を流れ、右腕を伝っていく。
ふと、その手にそっと乗せられた感触に気がついて俺は恐る恐る目を開けた。いつ起きたのか、心配そうに覗き込む顔は悲痛に歪んでいる。まるで苦しんでいるのが彼女の側のようにすら思えた。
「ねぇハル、大丈夫?」
その名前は今の彼女だけが呼ぶ俺の名前だった。
「なんだか、苦しそうに見えたから。具合悪いの? 先生呼ぼうか?」
その目には涙をたたえて今にもこぼれ落ちそうだった。
「……大丈夫」
それだけを絞り出すと、彼女の包んでいた両手からそっと右手を抜き出す。
「顔色悪いよ? 無理してまで来てくれたの?」
「……いや、ちょっと夢見が悪かっただけだ」
自分が反射的に言った一言に動転する。気が緩んでいたのかもしれない。連想させるようなことは禁じていたからだ。精神的に危害を与えないためと、何より、俺自身のために。
しかし、そんな俺の心配は徒労に終わったようだった。気にかけたふうもなく、彼女は目線でベッドを指す。
「ちょっと横たわったらどう? 私、寝たあとだけど、ほら」
病人である相手に体調を心配されるほど情けないこともない。俺は「今日のところは帰って寝るから」と言い聞かせた。しかし、半ば無理矢理に手を引かれ、寝かしつけられる。
正面から見る彼女の顔があのときと重ね写しのように寂しげに歪み、俺は抵抗する気力も失っていた。幻覚だと言い聞かせながらも、俺は注がれる視線から顔を背けた。
寝かされる直前に「……どっちが病人だよ」という恨み言だけを吐いたが、「体調が悪い方が看病される側なのよ」と即座に返された。俺は観念して軽くため息をついた。
「私のことはいいから。少し、休んで」
若干の後ろめたさを感じながらも、俺は目蓋を閉じる。
彼女は喋らなかった。だが気配から側でじっと俺を気にかけてくれているのが分かった。
いつもと逆の立場。寝ているのは俺で、側で付いているのは彼女。寝ていた彼女は今の俺と同じような気持ちだったのだろうか。
そうして静かに横たわっていると不思議と心地よいまどろみがやってきた。きしむような胸の痛みもすっかり消えていた。彼女がいつも眠そうにしているのはこのベッドの不可思議な力のせいかもしれない、と霞がかっていく思考で考えた。
「ねぇハル」
おぼろげに残る意識のなかで右手に触れる感触に気がついた。布団に被さっていた右手を包み込むようにして彼女が手を伸ばしてきている。
俺は薄目を開けて彼女の方向に振り向く。
視線に気付いた彼女は、俺に向けて穏やかに微笑した。
「私、あなたを信じてるからね」
柔らかな笑顔とともに投げかけられた言葉は、刃物のように胸をえぐった――。
贖いの言葉を 碧靄 @Bluemist
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