秘めた記憶

 翌週、俺がいつもの通りに病院に到着すると階段を上がったところで彼女の主治医が待ち伏せしていた。

 左手に持っていたカルテに書き込んでいた手を止め、俺に気が知った仲であるように軽く手を上げた。主治医はそのまま黙って近づいてきて、無言で肩を組んできた。

「少し大人の話をしようか」

「大人の定義とはなんですか」

「私的には金銭的に自立している者、といいたいところだが、言い換えよう、『男同士の話』だ」

 その枠組みには漏れなく入っていたため、俺は促される主治医に連れられて再び階段を上らされる。

 連れられた先は一階上の休憩室だった。ちょうど休憩中なんだ、と換気扇のスイッチを入れて懐から煙草を取り出した。

「医者なのに煙草吸うんですか」

「さっきの答えに追加しようか。大人とは割り切れないものなのだよ」

 四角い眼鏡のレンズに炎が宿り、ライターとともに覆っていた手を下ろす。灰色の煙を長い吐息と合わせて吐き出して気持ちよさそうに煙を吐き出す。

「彼女の容態はどうかね?」

「それは見舞いに来ているこっちが言いたい台詞ですが」

「友人としての目線から彼女は元気といえるかね?」

 主治医は脈絡もなく言い換えてくる。

 容態をただの見舞い人に伺うのもどうなのか、と思いながらも考えたことを口にした。

「元気、ですね。俺からしたら未だに退院ができないのが信用ならないくらいです」

「だろうね」

 主治医は俺の話を聞きながら煙草を吹かしていたが、まだ半分も減ってない状態で棚の上に置かれた灰皿に火を押しつけ始めた。

「私もあまり時間がないのでね」主治医は一歩近寄って俺の正面に立った。「彼女の身体は既に完治している。抜糸も済ませているしね。後は精神的なものだ」

 とはいっても私は専門分野ではないが、と言い置き、

「記憶障害があると伝えていたのは覚えているよね。どうもあれは言葉や場所がキーになっているらしい。そしてそのことは君が一番知っているのではないか。特に、自分の名前に関してすら彼女は優先順位を放棄しているんだ。これは半端なことではないはずだ」

 主治医が並べ立ててくる言葉に俺は身をすくませた。

「何かあったんだろう?」

 突きつけられた言葉は、それでも俺のどこかで待ち望んでいたようだった。問い質されることを恐れていながら、秘め続けるのには疲れていたのだ。

 俺はただ沈黙していた。甘美な誘惑にも似た誘いはしかし、吐き出した途端にこれ以上歩を進めることができなくなるのが分かっていた。だからこそ、

「喧嘩しただけですよ。ついカッとなって。だから、こんなことになるなんて思わなかったんです。……謝っても、謝りきれなくて」

 申し訳なさそうに笑って言った。少しだけ、本心を滲ませて。

 主治医は細い目を更に細めて、俺の言葉を反芻するようにその場で突っ立っていた。

「君は……」

 主治医は俺を探るように視線を巡らしていたが、やがてなにも言わずに俺の側をすり抜けていった。

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