上書きの名前

 飲み終わったパックのジュースを片隅にあったゴミ箱に放り投げる。窓の外に目を向けると、空が橙色に染まりかけていた。

「あ、もうこんな時間かぁ……この問題苦手なんだけどなぁ」

 彼女は、何週か前から取ってきたノートのコピーを見て講義の勉強を始めるようになった。俺たちがいる科は普通に聞いていれば難しくはないが、一ヶ月もブランクがあった彼女は少し苦戦していた。

 記憶障害ということだが、講義で聞いた内容などは覚えているようで、物によっては俺より詳しい部分があった。

 焦るのは良くない、と主治医から聞き及んでいたため「無理はするなよ」と言ってみるものの、その都度突っぱねられていた。

「みんなに置いてかれるのなんて嫌だしね」

 そう言われると俺も二の句が継げなくなるのだった。

 先ほどからノートのコピーを脇に置いて自前のノートに書き写すことを続けている。時々分からないことがあれば俺に質問し、話が脇に逸れて談笑することもある。

 所在なくはあったが、ペンを動かす音を聞きながら、座って空白の時間を過ごしているのは悪くはなかった。

 身体が固まってきたので座ったまま伸びをして背筋を伸ばす。その際にノートに目を落としたままの彼女の横顔を見遣る。窓から差し込んだ黄金色の光が彼女の茶色がかった黒髪を照らしている。病院生活で以前より伸びているようだった。すっと曲線を描いた鼻筋。その近くで目が細められており、その表情は真剣そのものといったふうだった。

 俺は遠くを眺めるような目つきでしばらくその様子を眺めていた。



 精神状態が芳しくないということで宿泊の許可をもらった。主治医からも一晩付いていて欲しいと言われたので、家に連絡を入れた。簡素な折りたたみベッドを看護士の女性からもらい、彼女の部屋に持ち込んだ。

 その夜中、急に苦しげな声を上げ始めたので俺は飛び起きてしばらくその場に付き添った。呼気を乱していた彼女の顔が痛々しげに歪んでいるのが見ていて堪えられなかった。

 俺は右手を伸ばし、眠っている彼女の頭をゆっくりと撫でた。その感触で目が覚めたのか、息を乱した彼女が薄く目を開けて、一瞬ひるんだように顔を背けた。数秒後に恐る恐るといった調子で顔の位置を戻し、俺の顔を何度も確認するように瞬きを繰り返してじっと見つめていた。

 少し呼吸も落ち着いた頃、申し訳なさそうな声音で言った。

『……ごめんね。ハルに撫でられると、ちょっと怖くなるときがあるんだ』

 その言葉に俺はびくりと手を震わせて動きを止めた。しかし、彼女に抗う様子は見られずに居心地良さそうに目を細めたままだった。視線だけで止めないで欲しいと訴えてるのがわかった。俺は最初よりかはぎこちなく、頭の輪郭を沿わせて撫でた。

『でも、安心するの。すーっと風が吹いて、霧が晴れていくような……。……ごめんね。』

 そう小さく言って、薄く笑った。

 俺は目をつぶって「大人しく寝てろ」と告げた。

 彼女は「うん」と囁くように言って目を閉じた。


 大事なことを忘れている気がする、と彼女は言っていた。徐々に思い出していくのにそれだけが欠落したように触れることができない、と気落ちした様子でうつむいていた。

 そんなときに決まって「ごめんね」とうわごとのように繰り返す。

 俺は、その表情に出くわしたときが堪らなく辛かった。


――お前に、責任はないのに。



「ねぇ、そろそろ起きてよ。もう夜だよ」

 俺は揺り起こされる振動で目を覚ました。

 見れば、彼女は眉を吊り上げて俺の目の前に立っている。あれからいつの間にか寝てしまっていたようだった。

「……もう、いつも私が寝てたら小言言うクセしてこうなんだもん。信じらんない」

「……悪い。今、何時だ?」

「六時前。もちろん夜のね」

 面会時間終了間近だった。あれから一時間近く寝てしまっていたらしい。油断していた。

「不満なら早く起こせよ」

 俺はため息をつきながら帰り支度を始めた。ゴミをまとめ、広げたノートを鞄の中に放り込む。彼女から俺のペンケースを手渡される。受け取りつつ、鞄の中へ。

「なんだかね、声かけづらかったから」うつむきがちに両手を合わせ、自信なさげな仕種で答える。「……どっか、行っちゃう気がして」

「……は……?」

 俺は目を見開いて動きを止めた。そして互いに言葉を継げないまま静寂した。

「……んなこと、あるわけねぇだろ。カネもねぇしな!」

 自分でも抱いた気持ちを振り払うように、わざと強い調子で言っておどけてみせる。数秒後に噴き出したように笑い声が聞こえる。

「あはは、そうね。変なこと言ってゴメン。それじゃ、バイバイ」

「あぁ、じゃあな」

 俺が手提げ鞄を背負い、歩いていくその後を名残惜しそうに彼女が付いてくる。出入り口の前に立って俺は背後を振り返る。眉根を下げて悲しそうに微笑む姿がそこにあった。俺が手を上げて別れを告げ、引き戸に手を掛けた。

「来週も来てくれる、よね?」

 期待と、哀願がこもった痛切な声に、俺は振り向いて黙って頷いた。

 去り際にドア越しに手を振る彼女の姿は、来たときより少し小さく見えた。俺はその姿を視線の外に追いやるようにドアをそっと閉めた。

 見上げたときに白いプラスチックで書かれた手書きの名札が目に入った。そこには「宮上悠希」と、名前の部分が上書きされていた。

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