布越しに映る平穏
一週間が経ち、昼前に機械的に出かける準備を始める。
彼女が入院してから身に付いた習慣だった。
病状はどうなのだろうか。精神的な磨耗が著しいらしく、俺以外の人前ではまだぎこちない振る舞いを見せているらしい。両親も心配で様子を見に行ったが、俺から伝え聞いた通りの状態は到底見られなかったという。
特に事故当時の状況を思い浮かばせるような場所を目にすると錯乱状態を引き起こすというのが重度な障害だった。精神的なものなのでリハビリを繰り返しつつ経過を見るしかないということだった。
近くの病院に移ってから通う距離が短くなった。自分の住んでいた土地が近くにある方が精神的な治癒にも繋がるだろうと考えてのことらしい。ただ、聞く限りではその成果は現状見られなさそうだ。
彼女を見舞う気持ちはどこから来るのだろうか。
友人としてか、それとも、医者から言われたことを義務として思っているからなのか。
車を走らせること一〇分で病院までたどり着く。考え事をするには短い時間だ。答えの出ないまま、四角い枠だけで仕切られた簡素な駐車スペースに車を滑り込ませる。
外観は古さが感じられ、白く塗られた壁にところどころでひびが入っている。扉を開けると特有の薬のような臭いが漂ってくる。休日は外来の診察受付が午前中のみということもあり、身体をうずくめるようにして座っている人たちがかなりいる。
受付で見舞いの手続きを済ませ、極力この場に長居せずに奥の階段から上に上がっていく。自分ももちろんそうだが、入院生活で免疫力が低下しているであろう彼女にも病気を移したくはない。
顔なじみになった少し顔がふっくらとしている看護士の女性に軽く会釈をして通り過ぎる。パタパタと忙しそうにスリッパの音を鳴らしながらもこちらににこやかに微笑みかけてくる。以前、精神的外傷を負った患者に対してはその後のケアがとても大切だと諭された。そのときの目は力強く光を宿していて、経験から裏打ちされる迫力にたじろいだ。
『彼女さんを大切にね』
その看護士から告げられた言葉を思い出し、ふと軽いめまいのようなものを覚えて廊下の壁に左手を添える。靄がかかったような視界はすぐに晴れたが、気分は落ち込んだままだった。
気分を持ち上げ、前方に目を向けると数メートルの高さに見覚えのある名札が掲げてある。
彼女と会うのは決して苦痛ではなかった。
自分が記憶障害にあったことも楽天的に捉えており、リハビリにも精力的だ。忘れていることを思いだそうと必死で、昔の他愛もないことを思い出しては無邪気に笑顔を向けてくる。万華鏡のように表情を変え、素直に感情を見せる彼女の姿はむしろ以前より明るく見えた。それが演技なのか、記憶障害の副作用によるものなのか、判別はつかなかったが。
白い引き戸の前に立ち、取っ手に手をかける。さほどの力も要さずに戸が開け放たれる。視線を奥に投げると、ベッドの上で座っている小柄な人影が見える。
この部屋の中にほかに寝る場所はなく、彼女が占有しているのが全てだ。棚の上には人気ゲームに登場する動物のようなぬいぐるみが置かれており、窓のサッシの近くに小柄なぬいぐるみがもうひとつ。ベッドの上には枕かと見間違うまるまるとしたぬいぐるみがうつ伏せに置かれている。この大きさなら寝るのに邪魔だと思うのだが、定位置から動かされた形跡はない。
ぬいぐるみはどれもせがまれてゲームセンターで取ってきたものだ。普通に似たものを買ったほうが痛手を被らなかっただろう、と思うが後の祭りである。入院する前はぬいぐるみが好きそうな素振りは見せなかったが、意外な一面もあるものだと思った。
それとは別に思うのは、好き放題に模様替えをしても誰からも責められなかったことである。「自分の好きな空間にいたほうが落ち着くからね」と主治医は手を動かして何かを書き込みながら答えたが、単に諭すのを放棄しているだけのようにも思える。
部屋の中を見回していても彼女からなにも反応がないので仕切りのカーテンを開けて様子を確認する。
カーテン越しに座った影が見えていたが、側で目にすると瞼が開いていなかった。周期的に穏やかな寝息を立てている。
「おい」
俺は頭に手を置き、軽く圧力をかける。猫のようなうめき声が手のひらの下からあがる。
「ふぁひ、ふんの!?」
「昼間寝てばっかだと夜寝られねぇだろ」
寝起きで呂律が回っていない彼女はあー、うー、と頭を揺らしてから勢いよくベッドにくずおれた。ぼふっと布団が空気を吐き出す音がしたあと、反射行動のように身体を持ち上げる。昔、ペットボトルに少量の水を入れて指で弾き倒すと起き上がってくる玩具を理科の実験で作ったが、それに似た動きをしていた。
「相変わらず人の寝顔を見るのが好きなのね。変態!」
「見ようと思ってたわけじゃねぇよ。だいたい、なんでベッドの上で座って眠るなんて芸当してたんだよ」
「ん、それはねぇ……」
えーと、と間に挟むことからいずれにせよ間抜けな事態であったことは間違いない。
「たまにはちゃんとハルを出迎えようとね、努力していたわけですよ」
「ほう、それで?」
俺は手近の背の低い椅子を引きずり出して席に着いた。腕を組み、傍聴する姿勢に入る。
「ご飯を食べたら眠くなるから、座ってたらマシかなぁと思ってさ。一〇分くらい待ってたら来るって予想してたんだけど。……うん、そうだ、いつもより遅いハルが悪い! 乙女を待たせるなんて最低だ!」
彼女は指を突きつけるように俺に向けてくる。そして陳述のはずがいつの間にか責任転嫁紛れのものになっているのに俺は呆れて物も言えない。
「……前はもうちょっとマシな理由考えたよな……」
「なに? 懇願されたって許さないんだからね!」
そう言って窓の方向に顔を背ける。腕を組んでいるところからして拒絶の意思らしい。
「……あぁそうか、じゃあお邪魔だろうから俺はこの辺で帰るわ」
手荷物を持って席を立とうとすると左腕の袖を強い力で掴まれる。
「……執行猶予!」
「被告人が告ぐ、ひと思いにやってくれ」
「認めない! ほら、お菓子あげるから!」
ベッドの上から腰を浮かし、空いている左手でがさがさと袋をまさぐる音を立てた後、その手に掴まれていたのはビスケットだった。そのまま俺の口元にビスケットを持っていき、上下に軽く動かしている。しばらく意思表示を無視していたが、
「食べろ」
痺れを切らしたのか命令口調で彼女は言った。さっきから俺の立ち位置がどうなっているのか判断に苦しむ。
仕方なく差し出されたビスケットを口で受け取って咀嚼する。頬張ると小麦由来の素朴な甘さが感じられる。
彼女は満足そうに笑みを浮かべ、腕を掴んでいた右手を放した。青白くさえ見える手首の筋に、うっすらと走った縫い跡を見つけて目を逸らす。
俺の視線に気がついたのか、彼女は自分の背中で腕を隠して乾いた笑い声をあげる。
「大丈夫よ。あとちょっとしたら見えにくくなるって先生が言ってたから。ハルが責任感じることはないでしょ」
「……まぁ、な」
「事故だったんでしょ? じゃあ仕方ないわよ。私はこうやって何度も見舞いに来てくれるだけで充分だし。だからそんな辛気くさい顔しないでよ。こっちまで気が滅入っちゃう」
彼女はぱん、と俺の目の前で手を打ち鳴らす。少し驚いた俺が目を上げると、元の表情に戻った彼女が明るい声で言った。
「はい、こんな話はおしまい! ほら、何か話そうよ。先週加藤君の話聞きそびれたじゃない。あれからどうなったの?」
朗らかな顔を続ける彼女の手前、自分が気落ちしていても仕方ない。俺は軽く吐息をつくと、サークル仲間がしでかした先週の話の続きをした。
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