記憶障害

 週に一、二度彼女を見舞いにこの病院にやってくる。二度訪れれば俺の急な訪問に彼女は喜ぶ。だが、回を増していると慣れに繋がるために思いついたときにしかやらないことにしていた。

 無機質な廊下。均一性しかない人工的な建物。今まで機会がなかったが、何度か訪れていて病院に対してそのような感慨を抱いた。

 ここにいる人は表情に光が宿らない。病院というのはそんな場所なのかもしれない。寄る辺をなくした者も、家族を待つ者も含まれるが、ここにいる限りそれは一時的な夢想にすぎない。病状が多種多様であれ、ここでは等しく患者として扱われる。数字の一、二と変わらない個人。そして彼女もそれは同じだった。

 彼女は親元を離れて一人で暮らしていた。

 特殊な事情があるのかと予想して、誰も過去に触れようとはしなかった。周囲の心配をよそに彼女はあらゆることをひとりでこなした。

 俺が出会ったのは彼女がまだ高校生の頃だった。境遇を知った俺の家族は実の親のように振る舞っていた。俺もいつか張り詰めた糸が切れるような予感を感じていたため、良く彼女と会って話をした。

 そのまま俺がいる大学に進学してきたのは今年のことだ。そして同じ学部を専攻し、同じサークルに入ってきた。話が合うというにはウマが合うといったふうで、前よりも会う機会が増えた。

 そんなときのことだった。

 彼女は救急車で病院に運び込まれ、治療を受けていた。手術は数時間続いたが無事に終わった。

 翌朝、俺の連絡で駆けつけた両親とともに、彼女の病状について説明を受けた。医者の男は愛想良く振る舞いながらも、彼女の病状の説明に入った途端に、レンズの奥に浮かんでいた目が細められた。

「時系列記憶の混乱、短期的な記憶障害。つまり、彼女は新しいこと、昔のことの記憶に混濁が生じています。日常生活自体には影響はないですが。短期的な記憶障害、というのは……端的に言えばここ最近のことを忘れているというのが一番適切でしょうか」

 一〇分ほどの説明が終わり、入院はするが命に別状はないとして俺たちは胸を撫で下ろした。医者の男に軽く礼をして立ち去ろうとしたとき、俺だけがその医者に呼び止められた。

「ご両親にはそう言いましたが、もうひとつ重大なことがあるんです。これは副産物のようなものですがね」

 医者から告げられた言葉は罪悪感に打ちひしがれていた俺をさらに打ちのめすものだった。

「さっきも言いましたが、彼女はここ最近のことを忘れているらしい。このことを君がどう解釈するかは自由です。ですが、彼女は限られている者以外の他人を受け入れようとしないみたいですね。……たとえば、君のように」

 解釈、という言葉を聞いてこの医者は事の次第を知っているのではないかと俺は身構えた。俺のそんな所作をどう思ったのか、医者は片眉を持ち上げるような仕種をした。

「とにかく、ですね。たまにはあの子の様子を見に来て下さい。そうしてあげるのがあの子のためにもなりますから」

 正直なところ、あの医者が言っていることが全て真実だとは思っていない。だからといって無視を決め込むことはできなかった。元より定期的に様子を見に行くつもりでもあった。

 そんな俺の心配も杞憂だったのかもしれない。彼女の外傷が治っていくにつれ、病院も家の近くの市立病院に移された。今彼女が入院している病院はそちらのほうだ。

 定期的に病院に通っていると、廊下を歩いている途中で掲げられた名札の名前が消えているのを見かけることがある。開け放たれたドアの隙間から部屋の様子を伺うと、そこには人気が消えていた。順調に回復して退院したのか、それとも。

 そこまで考えて俺は思いついたように足を止めた。

(ああ、そうか)

 普段は気にすることもない現象が、病院内では不意に現実として訪れる。それが訪れることは必然のはずなのに、あえてそれを捉えて考えようとすることを忌避して遠ざける。俺は静かにひとりごちる。

(人って、死ぬんだな)

 呟くとすとん、と型にはまったような感じがした。

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