夕暮れの教室で

中ZU弘志

第1話

「ねぇ、一緒に死のう」

 彼女は言った。

 僕はその言葉に心臓をぎゅっと締めつけられたくらいに驚いて、慌てて彼女の目を見た。

 放課後の教室に柔い夕陽が差し込んで、彼女の髪も頰もオレンジに染めていた。


――どう答えればいいんだろう。


 彼女と僕の間には、特別な関わりは無い。ただのクラスメイトで、話す回数も一週間に一度あるか無いかくらい。普段の彼女は無口で大人しいけれど人一倍の優しさがあり芯も強い。あまりよく喋らないクラスメイトのこともよく見ていて、例えば僕が今家庭環境や男子グループからのいじめに悩んでいるなんてことも知っている。

 僕はこの放課後、教室内で奪われた携帯を探していて、彼女はそんな僕に『どうしたの?』って優しく声をかけてくれた。彼女が僕の携帯に電話をかけてくれたおかげで、バイブ音から掃除ロッカーの中に隠されていたことが特定できた。僕がバケツの中から自分の携帯を拾い上げたとき、彼女がそう言った。


「どうして、僕と?」

 僕は承諾も拒否もせず、質問を選んだ。どちらかを選べば彼女を傷つけてしまう可能性があり、それが無難に感じたからだ。

「一人で死ぬの、怖かったから」

 彼女は優しく笑いながら言う。でもいつもの笑顔と違うのは、目だけは泣きそうに見えることだ。

「いや、じゃあ、なんで君が」

「もうこんな世界置いてっちゃおう」

 彼女は突然に窓を開けて両腕を広げ、羽ばたく鳥の真似をする。無邪気そうに身を外へ乗り出す。それが今にも飛んで行ってしまいそうに見えて、僕は怖くて目を逸らした。

 開いた窓から秋の肌寒い風が入ってきては、彼女の長い髪を弄び、教室の空気をいっそう冷やして通り過ぎる。


 僕も死にたい。

 『死にたい』だなんて、僕みたいなまだ十数年しか生きていない、世の中を全く知らない若造がそう簡単に吐いていい言葉じゃないのかもしれない。『今の若者はすぐそんなことを言うから情けない』と親世代の大人には言われているかもしれない。でも、少なくとも僕は本気だった。僕は自分のこの状況なら、自殺願望を抱くことも、それを実行することも許されるんじゃないかと思っている。僕にのしかかる精神的負担、苦痛が僕の耐えられるキャパシティーを超えたのだ。いや、正確には、まだ超えていない。超えていないからまだ生きているし、限界なんて本当は存在しない可能性もある。それを言い出すと恐ろしい。人間はどこまでだって苦痛に耐えられるように出来ているんだから、いつまでだって生きなさい。もしそんなことを命令するような神だったら、進んで天国に行き一発殴ってやらなくちゃいけない。ともかく、死にたいという救いようもなくネガティブな欲望は僕の心の中に澱のように蓄積されていった。

 僕は、本気だったからこそ絶対それを口にはしなかった。もし誰かに聞かれでもしたら笑い飛ばされるのがオチだし、僕を苦しませて楽しむような人間にそんな弱音を吐いたら思うつぼだ。

 心の底から死にたいと思っていた。そして『一緒に死のう』と言う天使が現れた。

 ………そのはずなのに。

 死んで楽になるなら、今すぐにでも彼女とその辺りのビルやマンションの屋上から飛び降りるか、学校の最寄駅のホームから電車に飛び込む。明日からはもう家族の顔も、クラスメイトの顔も見なくていい。そもそも僕の明日自体が無くなってしまうのだから。

 しかし、それは逃避であって勝利ではない。嫌だから逃げる、それだけで本当にいいのだろうか。人生における勝利条件は、生きて幸せをつかむことではないのか。

 もちろんそんな勝負自体が今の僕には苦痛である。彼女もそんなことはわかっていて僕などに心中を持ちかけたのだ。

「僕らが死んで、どうにかなるのかな」

 冷え切った家族も、クラスメイトも、僕らが消えたところでまた同じ過ちを繰り返すだけなんじゃないだろうか。

「死んだら、どうにもならないけど、これ以上悪くはならないと思う」

「いや、でも、良くもならないし」

 僕は彼女になんとか思いとどまってもらおうとする。彼女が僕と同じくらい強い感情でそう言っているなら引きとめるのは難しい。

「これ以上悪くならないって言い切れるの?」

「良くならないとも言い切れないよ」

「そんなんじゃ、いつまでも死ねないよ?生きててもいいこと無いくせに」

 彼女の声は優しくとも、言葉には強烈な毒を孕んでいる。その毒が僕の胸の奥で、水の上に墨を垂らすように黒く広がっていく。僕なんかいてもいなくても同じだし、この先何十年と生きていてもいいこと無いのはわかりきっている。

 しかし、僕は彼女に死んでほしくないのだ。彼女にはきっと将来に幸せが待っていて、そして自らそれをつかむ能力がある。大学に進学し、就職し、結婚し、子育てをする。偏見かもしれないけど彼女にはそんな人生が似合うと思う。死ぬのは孫が生まれた後くらいでもいい。悠長に考えすぎだろうか、だけどそれまで待てば彼女は自分の人生を捨てようだなんて思わなくなるはずだ。生まれてきてよかった、みんなありがとう、って思いながらベッドの上で老衰で息を引き取る。地面に叩きつけられて潰れるのでもなく、電車に撥ねられて潰れるのでもなく、ちゃんと原型をとどめたまま、大事な家族に看取られて死んでいく。そんな最期が彼女には相応しい。自分のことになると生死の価値なんてほぼ同等なのに、彼女のことだと思うと当たり前のように死より生が善いように感じる。自分の命なんて塵と同じように風に飛ばされてしまえばいい。でも彼女の命はこの惑星よりもずっと重い。僕にとっては、それが事実だ。

 だからこそ僕は止めなきゃいけない。例え一緒に死ねるなら本望だと思ってしまった僕がいても、ここで彼女の命を絶たせてはならない。それが僕の義務であり、責任だ。

「僕は、いいことあると思う。実は今君と話せていることも嬉しいんだ」

 言葉を選びながら拙くも声にする。

「どうして?」

 こんなことになるなんて思ってもみなかったけれど、言うなら今しかない。命さえ軽々しく捨ててしまいそうな彼女に、僕が言えることは一つしかない。

 高鳴り出す心臓を抑え、彼女が一言も聞き漏らさないように大きめの声を出す。


「好きだから、君のことが」

 言った。

「え……?」

 彼女の頰は夕陽よりも鮮やかに染まる。思ったことを全部吐き出すために、僕は深めに息を吸う。

「君が好きだから、一緒に死ぬのもいいんだけど、でも死んだらそこで僕らの時間は終わりだ。どうせならもっと長い時間、君といたいんだ」

 それが僕の、ついさっき思いついた結論だった。それは思いとどまらせるための嘘ではなく、僕が密かに秘めていた恋なんてむず痒い名前の本心だ。

 ずっと見ていた。だから知っていた。彼女が優しいことも、強いことも。そしてさっき、意外と毒も吐けることを知った。

 情けないことだと思う。もう大人たちにそんなこと言われてもしょうがない。プール横で頭からゴミを被っていた僕に声をかけてくれた日から、本気で死にたいはずの僕は、毎日彼女を希望にしてこんな息苦しい場所にやってくる。長い髪、細い声、その笑顔、僕に差し伸べてくれる手。彼女の全部が好きだ。

 どんなに苦しくても、どんなに辛くても、そこに彼女がいるだけで僕は希望を抱くことができる。助けてほしかったわけじゃない。僕はもう十分彼女に救われている。だから、今度は僕が、出来たなら彼女の希望でありたい。


 彼女は僕の目を見返して、嬉しそうに笑う。それはいつもの彼女が見せる笑顔だった。

「よかった。さっきまですごく『死にたい』って顔してたから」

「え、あ、そう……」

 確かに、そんな顔をしていたのは僕のほうだった。実際そう思っていた。僕は先ほどの告白と相まって恥ずかしくなりうつむく。

 もしかしたら彼女は死にたかったわけじゃなく僕を傷つけないように励まそうとしただけだったのかもしれない。心中の相手として僕を選んでくれたことに不本意ながらも心の中で喜んだ自分を悔やむ。

 彼女は僕のそんな気持ちにはお構いなしに、にこにこと僕の目を覗き込む。

「ねぇ、本当にわたしなんかでいいの?」

「え? あ、うん」

 それはこちらのセリフだ。本当に僕なんかで……いや、なんのことだ?


「これから、一緒に生きよう」

 僕の頰をその言葉が染めた。

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