る つ ぼ
詩真
第1話
「実はここ、出るっていう噂があるの」
新しい職場で働き出した初日、先輩のAさんからそう聞かされました。
私は思わず売上金を数える手を止め、顔を上げました。
先輩は店内の隅にある階段を指差しました。
閉店後の店内は、レジ周りを残して電気が消されています。
広い売り場は薄暗くなっていました。
階段は非常灯の灯りに照らされ、緑色に染まっています。
深い沼に入って水面を見上げたら、同じような光景が広がるかもしれません。
Aさんによると、その階段は折り返し形式になっており、上りきった先には内側から施錠された扉があるそうです。
階段の手前には鎖を張ったポールが置かれていて、人の立ち入りを禁じているとのことでした。
「階段から半分だけ顔を出して、レジをじっと見ている男の人がいたんだって。
それで、スタッフが注意しようと思ったらしいの。
男の人を追いかけて階段を上ったのに、男の人はどこにもいなくて。
仕方ないからレジに戻ったら、また男の人が同じ位置からこっちを見てたんだって」
そのスタッフが階段にいる男性を目撃したのは、一度だけではなかったそうです。
私は階段から視線を逸らし、売上金を数える作業に戻りました。
今にも男性が現れるのではないかという恐怖に苛まれたからではありません。
小さい頃から暗闇を恐れる性質があったからです。
「売り場に来ないってことは、階段に住む地縛霊ですかね?」
私はふざけながらAさんにそう尋ねてみました。
明るい場所を見て恐怖心を払拭することに成功したからです。
Aさんは首を傾げ、数秒間考えこみました。
「売り場で男の人を見たって言う別のスタッフがいるんだけど……ほら、階段の男の人と同一人物かは分からないじゃない?」
「売り場にいるなら、それは幽霊じゃなくてただのお客さんじゃないんですか?」
「瞬間移動できるお客さんなんているわけないじゃない」
どういうことか尋ねると、Aさんはまたスタッフの体験談を語ってくれました。
閉店後、出入り口の扉を施錠する前に、店内に客が残っていないか確認して回ります。
そのとき、大量に商品が積まれた棚の向こう側に、男性の姿を発見したスタッフがいたそうです。
商品と商品の隙間から、ぼんやりとした顔を覗かせていたとのことでした。
出て行って欲しいことをやんわりと伝えると、その男性は顔を引っこめたそうです。
ですが、なかなかこちらに出てきません。
スタッフは棚の向こう側に回りましたが、そこには誰もいない通路があるだけでした。
他のスタッフと協力し店内を捜索しましたが、男性はどこにもいません。
自分が気がつかない間に出て行ったのかもしれない。
そう思ったスタッフは、唯一の出入り口に立つ施錠係に声をかけたそうです。
しかし、返ってきた答えは「誰も通ってませんよ」
私は教わった通り精算表に数字を書きこみながら、Aさんの話が真実か考えました。
虚言癖のある友人に踊らされた過去があるからか、怪しい話はまず疑ってかかる節が私にはありました。
他のスタッフと親しくなったら、Aさんのことを話して真偽を確かめてみよう。
内心ではそう思いながらも、Aさんに話を合わせました。
「この店、怖いですね」
「夜に出るみたいだから、遅番は何かしら体験すると思うわ」
「早番希望にすれば良かった!」
それからしばらく経ち、仕事に慣れた頃です。
私はスタッフルームのパソコンの前に立ち、商品の発注をしていました。
すると、スタッフルームの横にある倉庫からAさんが走って出てきたのです。
そして、私に倉庫へ入っていくスタッフはいなかったかと聞くのです。
私は誰も入っていないことを伝えました。
「倉庫で作業をしていたら、女の人の声で名前を呼ばれたの。
振り返っても誰もいないから気のせいかと思ったんだけど……それが三回くらい続いたから……」
結局、私は真偽を確認できませんでした。
他の先輩たちは親しい間柄で固まっていて、私が入る隙間がなかったのです。
挨拶と業務連絡以外は口を利いてはいけないような雰囲気がありました。
ただ、噂話は嫌でも耳に入ってきました。
その結果、この店が昔から幽霊が出ると言われていること、怪奇現象に巻きこまれたスタッフが何人かいることを知りました。
私は特に怯えることはありませんでした。
だって、私自身はこの店でありふれた日常を過ごし続けていたのですから。
自分で体験しないと信じられない。
そんな気持ちが奥底にあったのかもしれません。
そして、その気持ちを生きた人間ではない者たちに勘づかれたのかもしれません。
私はその日、いつものようにレジに入っていました。
大量の商品をレジ台の上に置いたのは、女児を連れた若い母親でした。
二人の視線に晒されながら、私は黙々と商品を機械で読み取っていきます。
しばらくして、女児が後ろを向き、誰かに向かって手を振りました。
母親は訝し気に女児に問いかけました。
「ねえ、誰に向かって手を振っているの?」
「そこにいる女の子だよ」
改装中の空いた棚でした。その前にも周囲にも人影はありません。
「変なこと言うの止めなさい」
母親は眉間に皺を寄せました。
女児はまた手を振ります。
母親はその手を叩きました。
「止めなさいって言ってるでしょう!」
女の子も負けじと声を張り上げました。
「ママ、なんで叩くの!」
「貴方が女の子がいるなんて嘘つくからよ!」
「嘘じゃないよ、なんでママには見えないの!」
この店にやって来る客は、土地柄のせいか言動の荒さが目立つ者が多かったです。
いつの間にかレジに並ぶ客の列は長くなっていました。
いつもなら、私のすぐ後ろにあるもう一台のレジを開けろと怒鳴る者が現れます。
しかし、今は違いました。
皆、黙っているのです。
気まずそうに親子から視線を逸らしているのです。
頭上から流れてくる軽快な音楽は、この場を包みこむ重々しい空気と不釣り合いでした。
私が恐る恐る会計金額を伝えると、母親は急いで支払いを済ませました。
商品が入った大袋を手に取り、足早にレジの前から去っていきます。
しかし、女児はその場から動こうとしません。
そして、母親の背中に向かって声を上げました。
「ママ、お家に一緒に行きたいって!」
振り返った母親の顔は歪んでいました。
「いい加減にしなさい! その子は絶対に家に入れないから!」
耳をつんざくような金切り声です。
女児は母親に腕を掴まれ、引き摺られるようにして退店しました。
言い争う声が聞こえなくなるのと同時に、張り詰めていた空気が緩やかになったのを感じました。
私の身体もまたいつものように軽々と動くようになりました。
このような経験をしても、私はどこか他人事でした。
空想癖のある子供に遭遇しただけだと思ったからです。
ですが、次は違いました。
その日も私はいつものようにレジに入っていました。
店内の客の数は少なく、ただただレジ前に並ぶ商品棚を眺めていました。
すると、その棚の横から親子が姿を現しました。
あのときと同じような若い母親と女児の組み合わせで、楽しそうに会話を交わしながらこちらへ歩いてきました。
私は欠伸を噛み殺し、親子の到着を待ちます。
すると、女児の足が急に止まりました。
「どうしたの?」
母親が尋ねましたが、女児は引き攣った顔でこちらを見つめるばかりです。
やがて、妙なことを言い出しました。
「嫌だ。レジに行きたくない。怖い」
母親と共に私も首を傾げました。
私は無地のTシャツにエプロンという地味な格好です。
隙のない濃い化粧をしているわけでもありません。
威圧感を与える要素はないはずです。
それなのに怖いとは一体どういうことなのでしょう。
やがて、母親は女児の背中を押しながらレジにやってきました。
私は母親から買い物かごを受け取り、バーコードの読み取り音を定期的に響かせました。
その作業を続けながら、さりげなく女児を見下ろしました。
女児は俯いたまま「怖い」とうわ言のように呟いています。
母親は腰を屈め、女児に温かみのある声をかけました。
「どうしたの、何も怖くないでしょう」
「怖いよ」
「このエプロンのお姉さん?」
母親は私に気を遣ってくれたのでしょう、囁くような声で女児に尋ねました。
私は肯定されたらどうしようと不安になったのですが、女児が首を横に振ってくれたので安心しました。
しかし、次の瞬間、私の心臓はかつてないほど大きく脈打ったのです。
「違う。
エプロンのお姉さんの、すぐ後ろにいるお姉さんが怖い」
私は一人でレジに入っています。
背後は壁です。
当然、誰もいません。
女性が写っているポスターもありません。
私の左側には、レジを映す大きなモニターがありました。
思わずそれを確認しました。
そこに映っているのは親子と私の三人だけです。
女児の発言が嘘だったらどんなに良かったでしょう。
しかし、女児の表情が反応が真実だと告げていました。
女児は春先に海に入ったかのように、小刻みに身体を震わせています。
大きな目にはうっすらと水が張り、あと少しで雫が零れ落ちそうです。
とても芝居には見えません。
母親が私の背後に誰もいないことを主張しても、女児は決して認めませんでした。
首を横に振り、小声で「いる、いる」と言い続けました。
退店するまで決して顔を上げませんでした。
あのときの女児のように、子供の空想癖だとは思えませんでした。
私は勤務中ですので、当然レジから抜けることはできません。
客がレジに来ない間はひたすら雑用をして気を紛らわせました。
客がレジに来たときは安堵しました。
しばらくの間、怯えた女児の様子が何度も何度も勝手に頭の中で再現されました。
あのとき背後にいたのは誰だったのだろうと、確かめようがないことに対して悶々としていました。
ですが、それは長くは続きませんでした。
女児は記憶の彼方に追いやられました。
仕事が忙しくなり精神的に余裕がなかったこと、先輩たちが幽霊話をしなくなったことが理由だと思われます。
私はその日、品出しをしていました。
立った状態でフックに商品を掛け続けました。
客から商品の案内を頼まれることもなく、レジ応援に呼ばれることもなく、珍しく平和な日でした。
品出しが捗って心が晴々していました。
ですが、その気持ちは一瞬にして吹き飛びました。
私の髪は長く、一つにまとめて背中に垂らしています。
その毛先を、急に誰かが真下に強く引っ張ったのです。
私は尻餅をつきそうになりましたが、どうにか踏み止まりました。
毛先に鉛でも括りつけられたかのように重くなったので、犯人は背の低い子供だと咄嗟に思いました。
先日、常識外れの子供から私物を奪われそうになったばかりでした。
その経験があるからか、私は一気に頭に血が上りました。
今の子供の行動は、くすぶっていた火に油を注いだのと一緒でした。
「子供だから何しても許されると思わないでよ!」
そう叱ってやろうと思い、すぐさま後ろを向きました。
誰もいません。
首を左右に振りました。
やはり誰もいません。
私は怒り心頭のまま、売り場の近辺を走って犯人らしき子供を探しました。
子供どころか誰もおらず、店内にはゆったりとした音楽と私の足音だけが響いていました。
そこで、はっとしました。
私は、私の髪を引っ張った人間の足音を聞いていないのです。
そもそも、売り場は長い直線です。
犯人が駆け足で逃げたとしても絶対に見つけられるはずです。
隠れるような場所はどこにもありません。
私は全身の筋肉が硬直したのを感じました。
たくさんの蛍光灯が光る店内にいるはずなのに、暗所に放りこまれたときと同じような錯覚を起こしました。
強引な考えではありますが、幽霊の姿を見ても見間違い、声を聞いても聞き間違いで片づけることができるはずです。
ですが、この場合はそうはいきません。
私の皮膚にはじんわりとした痛みが残っているのですから。
触られたという確かな証拠が残っているのですから。
ここは霊のるつぼなのかもしれない。
そう思いながら、私はスタッフルームに逃げ帰りました。
終
る つ ぼ 詩真 @shimanobun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます