4−2

「え、なに。どうしたの」

 宿に帰り着くと、ちょうど戻ったらしいデニスが、慌てた顔で駆け寄ってきた。

 馬は連れていない。きちんと役目を果たしたようだな、と大山がぼんやり思っていると、デニスは真剣な目で大山と細田を交互に見る。大山がおぶっている細田は、ぐったりと力の抜けた四肢を投げ出して、半ば意識を失っているような状態だ。

 大山が細田を発見した時、彼は畑でうつ伏せに倒れていた。暗くて良く見えなかったが、頭と左腕の二ヶ所から血が出ている。彼は自力で起き上がれず、受け答えも鈍かった。他にも、見えない箇所のどこを負傷していても不思議ではない。

 早く手当をしてやりたいが、ここは救急車も呼べない異世界のど田舎だ。宿の人間に聞けば、医者の居所もわかるだろうか。

「ちょっと実験に失敗しただけだ。怪我をしているから、医者に診せないと」

「実験って……なんだかわからないけど、ずいぶん派手にやらかしたんだな」

 ひとまず、部屋に寝かせた方がいいだろう。大山が宿に入ろうとすると、デニスが先回りして扉を開けてくれた。さらに受付で鍵を受け取り、部屋まで先導してくれる。背中の細田を見て、受付にいた男が何か言いたそうに口を開いたが、大山は軽く頭を下げて黙殺した。

 この安宿は、個室と大部屋が受付を挟んで左右に別れている。おかげで、他の客とは顔を合わせずに済んだ。高い金を払うだけの価値はあるな、と大山は苦笑する。

 部屋で細田を床に下ろし、寝床代わりの毛布を広げていると、ラガが腰を上げて近寄って来た。明かりはすでに点いており、外よりも少しだけ空気が温かい。

「あの……おじさん、どうしたの」

「怪我をしているんだ。ラガ君、ちょっとお願いしていいかな」

 答えたのはデニスだ。彼は荷物を勝手に解くと、雑貨屋で買った野営用の鍋を引っ張り出す。

「これに、お湯を貰って来て欲しいんだ。この宿は火を使えないから、どこかの店に頼まなきゃいけないけど。無理なら、井戸で水を汲むんでもいい」

「う、うん。わかった」

 床に寝かされた血だらけの細田と、デニスの真剣な声に圧倒されてか、ラガは素直に鍋を受け取った。だがそこに、微かな声がして全員が動きを止める。

「……い」

 大山は、毛布を整える手を止めて細田を振り返った。いまのは、こいつの声か?

「ゆ……なら、俺、が」

「おい。大人しく寝てろ」

 目も開けないまま、細田が右手を持ち上げる。大山はその腕を取って、彼の腹の上に戻した。

「お前、自分の状態をわかってないだろ。大怪我してるんだぞ。いまは魔法なんか使わなくていい」

「いや……あんまり痛くない。寒いけど」

「嘘つけ。痛くないなら、単に神経がぶっ飛んでんだ」

「そうかな……でも、お湯くらい出せるぞ」

 ふざけた事を言う細田を無視して、毛布の上に寝かせ直してやる。抱き上げた体は体重の割にずしりと重く、首にすら力が入っていなかった。

 まったく。なにがあって、こいつは畑になんか落ちていたんだ。

 適当に毛布で包んでやると、細田は薄っすらと瞼を開けた。視線がぼんやりと宙をさまよってから、時間をかけて大山を捉える。

 意識が混濁しているのか、それとも眼鏡が無いからか。細田は何度かまばたきすると、微かに首を傾けて言う。

「なんで、お湯が要るんだ?」

「こりゃあ、だいぶ不味いな」

 横から細田の顔を覗き込んで、デニスが眉をしかめた。

「なあ、お兄さん……ええと。ヤマ君だっけ? このお兄さんがお湯をくれるなら、その方が手っ取り早いんだけど」

 大山が振り向くと、デニスは宥めるように肩を叩いてくる。

「大丈夫だから。俺がなんとかする」

「なんとか……? あんたは医者なのか」

 口にしてから、大山は思い出す。この男は確か、暴行を受けていた奥様を治療するために、藩主の屋敷に呼ばれたんだったか。

「医者じゃないけど、陣使いだからね。こういう治療はお手の物だ。ラガ君、鍋をそこに置いて。えーと……こっちのお兄さんは、なんて名前だっけ」

「ダダ、だよ」

「そうだ、ダダ君。水を出せるのは知ってたけど、お湯まで? そっちは、火神ひのかみの領分だろう」

「ひのかみ……なんてのは、知らない」

 細田は床に置かれた鍋を横目に見ると、なんの身振りも無しに湯を生み出した。そこに無い物が一瞬で出現する光景に、ラガが怯えたように後ずさる。

「湯なんてのは、水分子が熱運動しているだけで……わざわざ、別に考える必要は……」

「うーん、言ってる意味はわからないけど、口が利けるのはいい傾向かな。意識があるうちに済ませよう」

 デニスは細田の毛布を剥がして、さらに上着の紐も解く。

「ヤマ君、手伝ってくれ。服が邪魔だ」

「そっちこそ、意味がわからないけどな。任せていいのか」

「ああ。君たちには、今後も世話になりたいからね」

 大山は細田の服を脱がせて、下履き一枚にした。デニスは湯で絞った手ぬぐいを使い、細田の額から順に血を拭っていく。彼はそうしながら、傷のある箇所を指先で確認しているようだった。

「この部屋、寒いからな……窓を開けたくないんだけど」

「窓を開ける必要があるのか?」

「壁越しだと、精霊キィザの通りが悪いんだ。こんなに大掛かりな治療じゃ、精霊キィザはいくらあっても足りない」

「キィザ……精霊、ね」

 大山は荷物の散乱した部屋を見回して、しばし考える。精霊と呼ばれている世界の力は、両替商でも目にした光る粒の事だ。あの時は壁を通り抜けて少女に集まったが、言われてみれば、森の中で見た風に舞う精霊よりも数は少なかった。

「精霊を集めればいいんだな?」

 窓を開けて、裸に剥かれている細田を寒風に晒したくはない。

 そっと第二の視覚を開いて、大山は部屋をぐるりと見渡した。光る小さな粒は薄く拡散しており、とらえどころのない動きで宙を舞っている。その密度は両替商の小部屋で見た時と同じくらいだろうか。床に置かれた鍋には、細田によって集められた精霊が、ひときわ輝く塊を形成していた。

 大山は、鍋の中で水のふりをしている精霊をじっと見つめる。空気中の精霊はそこそこあるが、これを全部集めても、鍋にいっぱいの水を作れるとは思えない。細田はいったい、この精霊をどこから掻き集めたのだろう。

 、どうやって精霊を集めているんだ?

 青シャワル亭の部屋で、自分はデニスとラガを閉じ込めるために壁を作った。窓も、扉も開けていない。ただ念じただけで、あの壁は自分の思う通りに出現したのだ。

 ゆっくりと右手を上げて、試しにライオットシールド型の盾を作ってみる。何度も構築しては消したため、その盾の形は大山の脳裏にしっかりと焼き付いていた。瞬時に形成された黒い盾が、横たわる細田の傍らに出現する。

「精霊は、動いていない……」

「えっ、なにこれ」

 ラガの上ずった声が聞こえても、大山は反応できなかった。燐眼を通した視界で、空気中の精霊は微動だにしなかったのだ。ところが目の前には、光り輝く精霊の濃密な塊が、自分の想像した通りの盾を形作っている。

 いちど作った物質は、消すのも簡単だ。大山は目を凝らしたまま、盾を消失させてみた。

 黒い盾は消えた。同じ場所に、光り輝く精霊を残したまま。

『便利ではあるけど、使い終わったら世界の力に還元しなきゃならない』

 細田の言葉が思い出される。

 盾の形をしていた精霊は、ゆるやかに崩れて空気中に拡散しつつあった。重さの無い光の粒が、近くに座っているラガの体を霧のように包み込む。彼の呼吸に合わせて、精霊がくるくると渦を巻いた。

 この精霊は、んだ?

 いや、考えるのは後でいい。重要なのは、これを繰り返せば窓を開ける必要もなく、好きなだけ精霊を生み出せるという事実だ。

「デニス、精霊はどのくらい必要なんだ」

「ものすごく沢山だ。くそ、ここもヒビが入ってるな」

 デニスは細田に屈み込んだまま、いまは右脚を触診していた。骨ばった膝頭に指を這わせ、その内側を見透かすように目を細める。

 大山の視界では、デニスの両目が青く硬質に輝いて見えた。これが彼の話していた、他人の健康状態を見る目なのだろうか。

「いま、少し増やしてみた。お前は、精霊の量を確認できるのか?」

 真剣に作業を進める陣使いを邪魔しないよう、大山は静かに問いかける。目の前の精霊は、すでに盾の形を失っており、ぼんやりとした霞のように漂うばかりだ。

「こっちは打ち身……なんだって? 増やした?」

 顔を上げたデニスが大山を振り向き、続いて部屋の中を見渡す。彼の視線は、細田とラガの中間あたりを捉えて、ぴたりと止まった。

「なんだって、こんなに精霊キィザが……君の仕業か? どうやって」

「見えるんだな。これで足りるのか。もっと必要なら、いくらでも作ってやるぞ」

「待ってくれ。精霊キィザは、人が作れるような力じゃない。君はいったい、こいつをどこから……」

「頼むから、質問は後にしてくれ」

 大山はさらに三枚の盾を作って、すぐさま消去した。いや、世界への還元か。どこからともなく現れた精霊は、大山が想像の形状から解き放ってやると、やはり光る粒となって崩れてゆく。

「精霊は充分にある。お前さんが必要だって言ったんだぞ。いいから、早くダダを助けてやってくれ」

「そんな……ああ、わかったよ。覚えてろ、後で質問責めにしてやる」

 デニスは荒い口調で吐き捨て、細田の左脚に飛び付いた。付け根から順に指を這わせては、光る目を近づけて怪我の有無を確認する。つま先まで触診が終わると、今度は背中側だ。大山も手を貸して細田を横にしてやり、陣使いが光る眼で診察するのを見守る。

 やがて、デニスは大きく息をついて身を起こした。

「良し、把握した。ここからは一切、俺に話しかけないでくれよ。陣を描くのは、とんでもなく集中力の要る作業なんだ。冗談じゃなく、身動きもしないで欲しい」

「いいとも。俺は、あんたに任せたんだからな。ラガ、お前もちょっと離れておけ」

 大山が言うと、ラガは素直に頷いて壁際まで後ずさった。いつかのように膝を抱えて、じっとデニスを見つめている。少年の見開かれた両目は、怯えとも期待ともつかない熱を湛えていた。

 大山も少しだけ距離を取って、細田の全身を観察する。改めて見ると、友人の体は病的な細さだった。全体的に骨の形が目立ち、筋張った肉が申し訳程度に張り付いている。青白い肌のあちこちには、赤い内出血の跡が浮かび始めていた。

 骨にヒビが入っている、だって? 髪に隠れた頭の傷も、まだ血を流しているじゃないか。こんな大怪我が、本当にデニスに治せるのだろうか。

「いくぞ」

 デニスは細田の足元に立ち、顔の前で両手のひらを合わせた。青く光る両目で指先を見つめたまま、下からゆっくりと手のひらを広げていくと、表情の消えた顔で小さく呟く。

風神かぜのかみの陣」

 部屋の中を漂っていた精霊が動き出し、勢い良くデニスの両手に吸い込まれてゆく。三本の指先だけ合わさった手のひらの中で、球体となった精霊は眩しいほどの光を放ち始めた。

月神つきのかみの陣」

 デニスの両手が、ぱっと離れる。精霊の玉は宙に残され、そこから光る糸のようなものが二本、左右の人差し指に伸びた。

大地神おもとかみの陣」

 さっと右手が動き、精霊の玉から伸びる糸が空中に一本の縦線を引く。まるで、そこに見えない画板があるかのようだった。三十センチほどの線は、定規を当てたように真っ直ぐだ。

 デニスはそれきり押し黙ると、今度は左手の人差し指で、縦線に重なるように真円を描く。右手も休まず動き、円の内側に文字のようなものを綴っていた。彼の手が舞うたび、空中に何本もの線や模様、文字が描かれてゆくが、大山にはそれらが何を意味するのかわからない。

 いや、わからなくていいんだ。邪魔をしない、声をかけない。これは、細田を救うために必要な事なんだから。

 最初の縦線の、上から半分ほどまで模様が描かれた時、大山はデニスの描こうとしている陣の全体像を推測できた。これは、人体図ではないだろうか。一見、華やかな模様とも取れるため、ファンタジー作品で良くある魔法陣に似た物かと思ったが……ああ、確かに人体図だ。

 最初の縦線が、体の中心線。次に描かれた真円が頭だ。いまは肩と両腕が終わり、左右対称のアラベスク模様に似た図柄が胴体を形作っている。その精密な描写が終わると、今度は右手の人差し指が、上からつる草を図案化したような自由な線を重ねてゆく。

 息を潜めてデニスの作業を見ていた大山は、男の指が人体図の下半身に到達した時、線を生み出す精霊の玉が小さくなっている事に気づいた。あの光る玉は、彼の描く陣にとってインクの役割なのだろう。この量だと、全身図を描くには足りなそうだ。

 集中力が必要だと言われたので、大山はデニスの視界に入らないよう、彼の背後に精霊の盾を構築する。続けざまに五枚を作って、すぐに形を消した。ふわりと空気に溶け込もうとする精霊は、しばらく宙を漂った後で、ゆっくりとデニスの光の玉に吸い寄せられていく。

 デニスの額の前に浮いた玉は、最初よりさらに大きく育った。これで足りるだろうか。もっと必要なのか?

 目の前で光の玉が大きさを変えても、デニスはまったく反応を示さない。ただ、息が止まりそうなほど細い呼吸を保って、両手を動かし続けるばかりだ。

 長い時間をかけて、ついに小さな人体図が完成した。光の線で描かれた模様は、デニスが手を離しても真っ平らに固定されている。

太陽神おみのかみの陣」

 デニスは左手で三本の指を立てて自分の額を押さえ、右手を握って親指を立てた。そっと伸ばされた親指が人体図に触れると、そこに円いスタンプのようなものが残される。目を凝らして見れば、円い跡はタンポポの花に似た繊細な模様だった。

 デニスの親指が人体図に何度も触れて、ポンポンと花模様を打っていく。頭に、肩に、左の肘に、腰の二ヶ所に。そして、骨にヒビが入っていると言っていた、左の膝頭にも。

しんざんいん

 パン、と音を立てて、デニスの両手が打ち合わされた。

りゅう……とおっ!」

 掛け声と共に、デニスの右手が突き出される。開いた手のひらが人体図を捉え、空中から引き剥がすようにして、細田の上に叩き落とした。残った左手がサッと降ろされ、両手の間を雷のような光が走る。

 人体図は細田の腹辺りに張り付くと、すうっと肌に吸い込まれて見えなくなった。だが次の瞬間には、体全体が内側から光を放ち始める。

 大山が人体図を見ていられたのは、そこまでだった。目を焼くような光の奔流に耐えられなくなり、たまらず燐眼を解除する。視界が転じる前に、縦三十センチほどしか無かった図柄が広がって細田の全身を包み、ぱっと消える光景を目にする。

「上手くいった……と、思う。いやあ、疲れた」

 デニスは細田から離れると、床に力なく座り込んだ。彼の顔には流れるような汗が浮かび、呼吸も全力疾走をした後のように乱れている。

「もう、服を着せてやっていいよ。このままじゃ寒いだろうしね。後は本人の回復力に任せよう」

 下を向いて疲弊した様子のデニスを見て、大山の胸に深い感謝の念が沸き起こる。横から観察していた自分にも、彼が細田の怪我を治すために、全力で挑んでくれたと理解できた。

「わかった。あんたは、少し休んでいてくれ」

 細田に近づけば、彼はいつの間にか寝息を立てていた。先ほどまで無数にあった内出血の跡も、きれいに消えている。これが陣使いの力か。とんでもないな。

 元の服は血と土に汚れていたので、大山は風呂敷包みから寝間着を取り出して、脱力している細田に着せてやった。あちこち体を動かしても、友人は目を覚まさない。このまま朝まで寝て、少しでも回復してくれれば良いのだが。

 最後に毛布をかけると、大山の体にも忘れていた痛みと疲労が戻ってくる。そう言えば、自分も怪我をしていたんだった。脚を崩して触ってみると、右の足首がパンパンに腫れている。まったく、ひどい目に遭ったもんだ。

 だが、痛いのも疲れているのも、生きていればこそだ。おそらく細田の大怪我は自業自得なのだろうが、大山には友人を責められなかった。この男は、異世界への召喚に巻き込まれてからこちら、日本へ帰るために努力し、知恵を絞り続けている。

 邪魔をしたのは自分だ。余計な荷物を背負って、先を焦らせたのも自分だ。細田が無茶をする性格だからと、あれこれ援助してやっているつもりでいたが、実際はこいつの意見に頼り切っていただけじゃないか。

 そろそろ意識を切り替えろ。本腰を入れて、日本に帰る手段を探すんだ。

「デニス、本当にありがとう……報酬を弾まないとな」

「そうしてくれると嬉しいね。ところで、さっきの精霊キィザだけど。あれは何かの術なのか? 俺は大陸中を旅して来たが、あんなのは……」

「馬を売ったかねは、お前が持っていていいぞ。陣使いの報酬ってのは、それじゃ足りないのかね。なんなら、俺の全財産をやってもいい」

「いや、そこまでは……じゃなくて、質問を無視しないで?」

 うるさい奴だな。

 大山が歯を剥いて笑いかけると、デニスは素直に口を閉じた。

「安心したら腹が減ったな。まだ、なにか食い物が残ってたっけ」

「あの……ヤマ、さん。ごめんなさい」

 その声に振り向くと、ラガが落ち着かない様子で上目遣いにこちらを見ている。

「僕、荷物には触ってないんだけど……お腹が空いて。パンポヤを二つと、カパイを食べました。でも、まだ残ってます」

「ああ、そうか。夕飯の事を忘れてたな」

 まだ食べ盛りの少年を放置して、日暮れからずっと馬鹿な事をしていたのだ。さすがに、勝手に飯を食べたくらいでは、大山も少年を責められない。

「気にするな。で、どれがなんだって? 俺には、里でもらった品物が良くわからないんだよ」

 朝市で押し付けられた籠や袋は、ラガの座る壁際にきちんと並んでいた。パンはわかる。昼にも食べた手のひらサイズの丸パンで、ひき肉と野菜の炒め物が入っていた。これは保存が利かないらしく、残ったものを三人で食べてしまう事にする。

 荷物から小鍋とカップを総動員して、ラガが新しく汲んできた井戸水を飲みながら食事にした。現地の生水は初めて飲んだが、なかなか美味い。少し鉱物っぽい舌触りがするので、あの巨大な山から下りてきた硬水なのだろう。

「カパイはこれ。ちょうど今頃が旬なんだ。甘酸っぱくて美味しいよ」

 すっかり気を許した態度で、ラガが市場で貰った食品を説明してくれる。

 布の袋にぎっしりと詰まったカパイは、握りこぶし大の柑橘類だった。皮が固いので、小刀で切れ目を入れてから剥く。現地の二人に習って薄皮ごと食べてみると、ほろ苦さと爽やかな酸味が口いっぱいに広がった。果肉の粒が大きく、甘みも充分にある。ハッサクに近いかも知れない。

「籠に入っているのが赤梨カンナで、こっちの袋はだね。小豆ミシと、ひよこ豆クーシレンズ豆ココシだ。この壺が塩と胡椒で、瓶は蜂蜜。燻製肉は、たぶん野豚だと思う。これだけあったら、当分はご飯に困らないよ」

「この袋、豆が入っていたのか。道理で重いと思った。赤梨ってのは、普通の梨とは違うのか?」

「普通のナナ……は、夏から秋に採れるやつだよね? 赤梨カンナは、山で採れる木の実だよ。梨みたいな味だから赤梨って名前だけど、たぶん違う種類なんだと思う」

「へえ。色々あるんだな」

 ラガの言う名詞は、現地の発音に重なるようにして、脳内で日本語に翻訳される。大山が赤梨あかなしと発音しても同様で、ラガにはカンナと聞こえているようだ。この翻訳機能は便利な反面、現地の言葉を覚えるには向いていないな、と大山は思う。もっとも、言葉を覚えるほど長居をするつもりは無いが。

 豆はどれも翻訳通り、大山の知っている種類と同じように見えた。小豆だけ黒っぽい斑点が入っているが、乾燥した豆には違いない。煮れば食べられるだろう。

「赤梨は小さいけど、作ってる梨より美味いぞ。大陸でも西側でしか採れないから、ジョードに来るとこれが楽しみでなあ」

 言って、デニスが赤茶色をしたクルミ大の果物を手に取る。だが彼は、軽く香りを嗅いだだけで籠に戻した。

「腹も膨れたし、もう寝るわ。その辺の毛布、借りていいか?」

「ああ、好きに使ってくれ。ラガも寝ておけよ。こいつが目を覚ますまで、宿から動けないけどな」

 大山が細田を視線で示すと、ラガは寝ている男をじっと見つめてから、こくりと頷いた。

 二人が毛布や敷物で寝床を整え終えてから、大山は壁の燭台を消して歩く。足首は感覚が鈍いものの、もう引きずるほどの痛みは無かった。窓の木戸を閉める前に、しばらくガラス越しに星のまたたく空を見上げる。

 この世界に来てから、大山は月を見ていない。地球でも月の見えない夜はあるが、新月にしては長いように思う。この惑星には衛星が無いのだろうか。それとも、地球の月とは公転の周期が違うのか。

 うーん、理科をもう少し真面目に習っておくんだったな。

 星空をぼんやり眺めていると、背後で少年のささやき声がした。

「あの……デニスさん、ごめんなさい」

 返事は聞こえないが、デニスが軽く鼻を鳴らすのがわかった。ラガもそれ以上は何も言わず、しばらくすると寝息を立て始める。

 どうやら現地の二人は、一応の和解を果たしたらしい。

 大山は、これなら両者をまとめて放り出せるな、と冷静に考えていた。



「この世界の魔法は大雑把過ぎて、俺みたいな頭でっかちには使いこなせない。もう、こっちの分野は山ちゃんに任せた」

 むっつりと下を向いたまま、細田が情けない事を言う。

 翌朝になって、友人はケロリとした顔で目を覚ました。ひとしきり腹が減ったと騒いでから、大山とデニスに昨晩の様子を説明され、後はこの通りだ。まだ寝床に座ったまま、赤梨をシャクシャクと齧りつつ不機嫌そうに続ける。

「だいたい、俺の専門は分析化学なんだ。試料と機械に囲まれて、せこせこ測定したり同定してりゃあ飯が食えるんだ。機械工学なんてクソ食らえだ。死にかけてまでやってられるか」

「うーん、何があったか知らないけど、ずいぶんご機嫌斜めだね」

 デニスは力なく笑うと、財布だけ持って扉に向かう。

「ちょっと、足りない物を買ってくるねー。ついでに、血になりそうな食いもんでも見て来るよ」

「あ、僕も行く」

 慌ててデニスを追ったラガは、部屋の戸口で一度だけ振り向くと、大山にぺこりと頭を下げた。

「その、元気になって良かったです、ね?」

「気を使ってくれて、ありがとな。しばらく気晴らしをして来ていいぞ」

 大山もおざなりに手を振って、逃げ出す二人を見送る。改めて細田に向き直ると、友人はしょんぼりとうつむいていた。

「元気出せよ、ダダ。いちど失敗したくらいで、そんな落ち込むなって」

「落ち込んじゃいない。考えてんだ」

「ええー」

 素直じゃないね、どうも。

「じゃあ質問するけど。昨日のあれ、なんだったんだ。いきなり荷馬車が爆発したんだぞ」

「俺もびっくりした」

「いやいや。何をしたら、ああなるのか訊いてるんだよ」

「お前が、船とは違うとか言うからだろうが」

 下からじろりと睨み上げられて、大山は苦笑するしかない。

 昨夜の荷馬車が吹き飛ばされた爆発は、確実に細田の仕業だ。しかも自分までぶっ飛んで頭から畑に突っ込み、骨が折れるほどの怪我をした。説明も無しに終わらされては、今後の対処が出来ないではないか。

「推力には色々あるだろ。プロペラとか、ジェットエンジンだとか。俺はそういう理屈なら知っていても、実際の仕組みは平面図でしか見たことが無い」

「ああ……そうだな。俺だって、魔法でスクリューを作れって言われたら困るわ」

「船の時は簡単だったんだ。船尾にガスボンベでも固定して、水中に気体を噴出すれば、その力で船体を押せるのはわかってたからな。

「理屈で、ね。理論上は、そうだね」

「実際に、船は進んだだろうが。あれだって大変だったんだぞ。精霊の容器に液化水素ガスを入れて、ノズルから少しずつ出るように調整したんだ。山ちゃんの船が変な具合に固化してるから、容器が安定しなくてグラグラするし」

「それは、ご面倒をおかけしました」

 道理で、船が真っ直ぐに進まなかったわけだ。力技でなんとかなって、本当に良かったよ。

「で? 昨日のは何をどうしたんだ」

「空気は水みたいに密度が高くないから、ただガスを吹き出しても押せないと思ったんだ。なら飛行機かと考えても、ジェットエンジンの仕組みはともかく、細かい設計図までは知らないからな。水素と酸素は作れる。圧縮して液化した物を精霊の容器に詰め込む事も出来る。燃料はあるんだし、単純にロケットエンジン式で、混合ガスに火を付けてやればいいかと思って」

「おい」

「燃焼室とノズルが上手く固定できりゃ、後は燃焼ガスの噴出する勢いの調整だけだと思ったんだ。ただ、どこに、どうやって火を点けるのか思い出せなくてな。確かロケットエンジンは、ガストーチがどっかに付いてるんだろ」

「おーい、細田さん。さっきから、思ったとか、確かとか、適当な単語ばっかり出て来てませんかね」

「わっかんねえんだもん。しょうがねえだろ」

「しょうがない事があるか、この馬鹿が」

 ポコン、と軽く頭を叩いて、続きを促す。

「で? 結局、火は点いたのか」

「いってえなあ、もう。なんでお前は、そうやってポンポン殴るんだよ。俺の稼ぎの良い頭が、馬鹿になったらどうしてくれる」

「お前は最初から頭がおかしいんだから、今さら気にするな」

「……違いない。でな? ガストーチなんて余計なもんくっ付けるのは面倒だったから、燃焼室に直接、静電気を起こしてみたんだよ」

「……うん、わからんけど続けてみな?」

「そしたら爆発した」

 大山はもう一度、細田の頭を叩いておいた。

 自分にはロケットエンジンの仕組みすらわからないが、これだけは確信を持って言える。理系に魔法を与えてはならない。いや、細田のようなには、魔法など使わせてはいけないのだ。

「なんで叩くんだよー!」

「いいから、お前は飯を食って休んでろ。本調子じゃなくても、昼前には出発するからな」

 大山が立ち上がると、細田は不思議そうに首を傾げる。

「なんでだ? 結局、空は飛べなかったじゃないか。あいつらだって、もう飛龍に乗ってる頃だぞ。もう間に合わないだろ」

「間に合うよ。俺が間に合わせる」

 細田は目覚めてからしばらく、明らかに落ち込んでいた。自身の失敗にではなく、その結果、ラダーたちに追い付けないと考えて。

 とんだ早とちりだ。

 なんのためのコンビだ? 頭脳が失敗したら、力が解決するのは当然じゃないか。こいつが何を企んでいようとも、ラダーたちが死ぬ前には、二人揃って割り込んでみせようじゃないか。

「お前の実験は失敗でも、俺の役に立ったんだよ。昨夜ゆうべ、あの荷馬車は爆発の衝撃で、んだからな」

 胸を張って笑いかければ、細田の目が徐々に力を取り戻す。眼鏡が無いので、子供のような期待に輝く表情の変化が良くわかった。

「いちど飛ぶ感覚を覚えれば、こっちのもんだ。俺が、お前をタズルトまで運んでやる。あんな距離、それこそひとっ飛びだぞ」

「すっげえ! さすが山ちゃん!」

 笑顔になった細田の、素直な賞賛が気持ちいい。

 地頭のいいこいつは、自分に出来ない事を他人が成功させると、変に嫉妬せず開けっぴろげに喜んでくれるのだ。こういう性格の相棒だからこそ、大山も長年、一緒に同人誌を発行して来られた。

 たまに、趣味が完全に合わない事もあったが。それは仕方がないね、人間だからね。

「なんでもやってみるもんだなあ。山ちゃんは、最初からバリアとか作れたもんな。感覚の勝利だ」

「だろう。もっと褒めろ」

「脳筋魔法ってすげえな!」

「……褒めてねえだろ、それ」

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オタクたちはお家に帰りたい 三六拾八 @round36

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