崩落

4−1

 日暮れに着いた里は、ユイダよりも規模の小さな農業中心の集落だった。

 あまり起伏の無い平地には、牧草か、あるいは生育中の麦らしき短い草が育っている。どこまでも緑の畑が続く平地を街道が貫いており、大山は写真でしか見たことのない北海道を連想した。たまにある樹木も果樹園のように整備されており、民家はぽつぽつと離れて建っている。

 それでも里の中心部には食堂や宿がいくつかあり、大山は荷馬車の停められる宿を探した。野営地が近いためか、青シャワル亭のような個室の宿は一軒も無い。聞けば、北に半日ほど行けば大きなごうがあるらしく、商売人や役人はそちらまで足を伸ばすのだとか。

 こちらにとっても、田舎の寂れた宿は好都合だ。この里に、警邏の駐屯地は置かれていない。

 大山が決めた宿は、平屋に三つの大部屋と井戸があるだけの、簡素な建物だった。ごろ寝の部屋しかない安宿より少しだけ上等で、小さな個室も用意されている。大山はすぐに空いていた個室を確保して、そこに荷物とラガ少年を押し込んだ。彼にも、ゆっくりと考える時間が必要だろう。

 四人とも同じ部屋だが、代金は人数分をきっちりと取られる。ひとりで一銅三半、日本円にして二千四百円だ。鍵のかかる個室と考えれば安いが、これでも宿にひとつだけの高級な部屋という扱いらしい。食事も出ない安宿の現実を知って、大山はますます託された大金を重たく感じた。

 シーニャは、これほどの大金をどうやって用意したのだろう。火の呪術士が、自分の想像よりも高給取りだと良いのだが。

「そんじゃ、まずは地図を見ながら説明するな」

 荷馬車にあぐらをかいて座った細田が、一冊の本を開いた。大山は、宿に置いてきた貴重品を意識から切り離し、友人の手元に注目する。二人は里の中心部から離れた田舎道で、荷馬車を飛ばす実験を始めようとしていた。

 デニスには、馬を売って来るよう言ってある。なにやら泣き言をぼやいていたが、素直に紫馬しばを引いて行ったので任せていいだろう。むしろ、このまま売上金を持ち逃げして欲しい。

 すでに日は暮れて、畑ばかりの周囲に人影はない。いちばん近い民家も、五百メートルは離れているだろうか。朝から薄曇りだった空は晴れて、紫がかった夜空に星がまたたいている。細くたなびく雲がわずかに映す夕焼けの色も、すぐに消えてしまうだろう。

「これが、ドウリャの全体図。面白い形をしてるだろ」

 田舎の真っ暗な夜でも、細田の灯す火で本がきちんと見えた。そこには歪な地形が三つ、不格好に繋がった全国図が描かれている。

 ドウリャは、独立した島を無理に繋げたような形の国だった。国土は三つの塊に別れており、ひとつが北に、二つが南の左右にある。ほぼ三角形に並ぶ陸地の中央は空白で、薄い青色で塗られていた。

「面白いというか、変な形だな……ここは、もう海なのか」

 大山が陸地に囲まれた空白に指を置くと、細田は頷いて地図をこちら向きに変えてくれる。ドウリャ国は、国土のほとんどを海岸線で囲まれていた。海に浮かぶ島国は千切れかけた半島のようで、なんとなく東南アジアの群島を連想してしまう。

 だが細田の予想では、この一国だけでも南北が日本列島と等しい距離であるらしい。本当に、そこまで大きな国なのだろうか、と大山は訝しんだ。

「そう。ドウリャって国は、大陸の南端にあるんだよ。北の細い陸地に繋がっているのがジョード国で、それ以外に国境を接している国は無い」

「へえ……確か、魔族と揉める前の戦争は、五百年も昔の侵略戦争なんだっけ? こんな風に大陸と離れているから、戦争があまり起こらなかったんだな」

「お、ちゃんと覚えてるな。じゃあ進めるぞ」

 細田が本のページをめくると、北にあった陸地の拡大図、さらにその一部を拡大した地図にと描写が続く。墨書きの線に色を塗った手書き地図だというのに、地球で販売している地図帳のような詳細さだ。

 最後に開かれたページには、海より淡い色で塗られた湖らしい空白が三つある。そのうちのひとつ、二番目に大きな湖を細田が指さす。

「これが、北島の拡大図。三角の上に位置する陸地で、いま俺たちが居るのはここ。ジルイワ湖の東まで来たとこな。湖の南側にある線が、今日通って来た南ジルイワ街道だ。この距離を荷馬車で移動するのに、朝から日暮れまでかかったのを覚えておいてくれ」

「お、おう……具体的には、何キロくらい進んだんだ」

「うーん、どのくらいだろうな? 地図に書いてある距離の単位が、いまいちわからんから……どっかで読んだけど、昔の徒歩とか馬車の旅だと、休みながらで一日に三十キロくらいが目安だっけ。この本には、移動に一日以上かかる街道には、国が野営地を置いている、って書いてあるだけなんだよ」

 小首を傾げて考え込む細田は、地図に指を置いたままだ。指し示された湖は、彼の爪より小さく描画されている。

 この湖に落下した時、琵琶湖のように大きいと感じたのを思い出して、大山にもようやくドウリャ国の広さが実感されてきた。いま目にしている拡大図は、北島と説明された陸地のほんの一部分なのだ。湖との比較で考えると、日本列島の本州が半分は入ってもおかしくない。

「今日は山ちゃんのおかげで、舗装された道路を走ったようなもんだし……時計が動いてりゃなあ。何時間くらい移動したっけ?」

「俺にもわからん。休憩は、合わせて一時間くらいだったかな」

「まあいいや。野宿なしで一気に踏破したんだから、ざっと四、五十キロは進んだと考えよう」

「お前、理系のわりに雑だなあ」

「うっせえよ。とにかく、ざっとでも距離を出さないと」

 口を尖らせて背嚢を下ろした細田が、そこからメモ用紙を取り出して一枚千切る。彼が紙を地図に当てるのを見て、大山は笑いを噛み殺した。自分の筆記用具のうち、このメモ用紙とボールペンは、いつの間にか友人の所有物になってしまったようだ。

 だが、なにかがおかしい。

 少し考えて、大山はすぐに違和感の正体に気づいた。この男は、どうして両手を使えているんだ?

「南ジルイワ街道が、罫線三本に少し足りないくらいか。だいたい二行で五十キロとして……」

「おい、ダダ。ちょっと待て」

 言いながら顔を上げた大山は、自分たちを照らす明かりを見て言葉を失った。頭のすぐ上で、白っぽく明るい小さな炎が、支えもなく宙に浮いているのだ。穂先のように整った炎は、農地を吹き抜ける風を物ともせず、わずかに揺れながら燃え立っていた。

 ぽかんと口を開けたまま火を見つめていると、細田も顔を上げて辺りを見渡す。

「……なんだよ。誰か来たか?」

「いや、そうじゃなくて。お前、これ……どうやってんだ」

 大山がそっと炎を指差しても、細田は、ああ、とつぶやくだけで下を向く。

「お前ほど器用にはいかないけど、俺も一応は魔法の発生位置を固定できるんだ。船を動かした時だって、同じ事をやってみせたろ」

「いやいや……船? なんで、空中で火が燃えるんだ。こんなの、俺の板より難しいんじゃないか」

「山ちゃんたまに、すごく抜けてるよなあ」

 呆れたようにため息をついて、細田は地図とメモ用紙を放り出す。

「この世界の魔法は、想像力が鍵だって説明したろ。どんな物を再現するか理解していれば、指の上でも、空中でも、発生させるのはどこだっていいんだ。お前の板だって、同じ理屈で宙に浮くじゃないか」

「ああ、そうか……いや、どんな感覚かはわかるけど……それが火だとびっくりするな。本当に燃えてるみたいに見えるし」

「いや、燃えてはいるぞ。飲めない水と一緒で、実際の物質じゃないけど。火が燃え続けるには燃料と酸素が必要だから、水と違って小細工しないとな」

 得意の分野について話せるのが嬉しいのか、細田の目が明るくなる。

「これはいま、世界の力……精霊で空間を囲んだ底の一点に、プロパンを発生させて、燃焼に足りるだけの酸素を供給してるんだ。プロパンなら構造が単純だから再現も楽だし、臭いもしないだろ。二酸化炭素と水は、発生した端から精霊に還元してやる。いちど安定した循環を作れば、精霊があるかぎり際限なく燃やせるから便利なんだ。量と速度を調整するのが難しかったけど、慣れればどうってことないな」

「おう……なるほど、わからん」

 大山は慌てて片手を上げ、細田の発言を遮る。理科の授業など、自分にとっては遠い昔のおとぎ話だ。どうにか理解できたのは、細田の使っている魔法が実際の化学に基づいた、おそろしく繊細な代物だという事だけだった。

 自分の使う魔法は、これまでに見たり触ったりした物質をなんとなくで再現しているに過ぎない。それでも実用に耐えるのだから、細田も適当に考えればいいじゃないか、と思う。

「俺に、難しい理屈を解説する必要は無いぞ。無駄だから」

「まあな。それより、精霊そのものの方が面白いんだ。これ、この透明な囲いな」

 細田は、宙に浮いている炎を指でつついた。だが、その少し伸びかけた爪は、炎よりも手前で何かにぶつかり、コツコツと音を立てる。

「俺も作ってみて驚いたんだけどな。精霊だけを圧縮した物質は、電磁波を素通しするくせに、熱伝導率が空気より低いらしいんだよ。もしも熱が全く伝導しないなら、固体の真空か? もう、言葉からしておかしいだろ。夢みたいな物質だよな。地球に持って帰りたいわ」

「いや、だから……」

「もうちょっと聞けって。普通のランプならガラスが火の熱を伝導するから、その熱が周りの空気にも伝達して来る。火の点いたランプに手を近づけたら、触る前から温かく感じるよな」

「ああ……そうだな」

「なのに、こいつは触っても熱くない。俺の作る偽物の火は、ちゃんと熱を発するし、可燃物に近づければ燃やせるんだ。なのに、この違いはなんだ? 火を再現するのに、火傷の心配が無いのは助かるけどさ。ものすごく不思議だろ。精霊って、なんなんだろうな」

「さて、なんなんでしょうね」

 大山の適当な返事に気を悪くしたのか、細田はむっとした顔で地図を広げ直した。

「いいけどさ。お前も、少しは考えといてくれよ……そんじゃ、タズルトまでの距離だ。あの女たちの向かったホウロ街道は、山ん中で行き止まりになるから、俺たちはこっちのカンジャ街道を使う」

 大山も気を取り直して、友人が指で辿る線を追った。自分たちの通り過ぎて来た湖の東に、ホウロ山と説明された巨大な山がある。カンジャ街道は、その山の南側をぐるっと迂回して陸地を横断し、南東にある海岸の都市まで続いていた。

「道が真っ直ぐじゃないし、この地図じゃ高低差もよくわからないんだよな。川を越える場所もあるから、線の長さだけで距離を出すのは難しいけど……」

 メモ用紙の罫線を使って、細田が街道を測る。

「十行か……長くても十一行か。一行が二十五キロメートルなら、二百七十五キロ。冬場って、日の出から日の入りまで何時間くらいだ?」

「さあな。この星が、地球と同じ二十四時間で自転しているとは限らないし」

「おお、山ちゃんさすが。そうなんだよな、考え出すとキリがない。まあ、明日ぶっ通しで移動できるのが、せいぜい八時間としよう」

 八時間は見積もりが甘くないか、と大山は思う。それほどの時間を材木の床に乗ったままで、休憩も無しに移動するのは無理だ。自分はともかく、体力の無い細田やラガ少年は、途中で確実にへたばるだろう。

「時速三十四キロ以上で進めば、明日中にタズルトまで着ける。原付より、ちょっと速いくらいか……あれ、意外と簡単だな」

「いや、お前さんは運転免許を持ってないでしょうが。思い付きで、適当な事を言うんじゃありません。原付バイクの時速三十キロってのは、制限速度だぞ。その速さで、ずっと走れるわけじゃないんだから」

「そうかあ? でも、車よりはゆっくりで大丈夫なんだろ」

「現実を見ろよ。こんな木で出来た箱を宙に浮かせて、時速三十キロなんて速さで移動させるつもりか? 自転車だって、そんな速さじゃ怖くて曲がれないんだ。上手くいったとしても、ちょっと操作を間違えたら大事故になる」

 大山が、自分たちの座っている荷台を叩いてみせると、細田も首を巡らせて荷馬車を観察する。小さな精霊ランプに照らされた表情が、徐々に暗く沈んできた。

「だいいち、どうやって空中を移動させるんだ。水に浮かべたボートを動かすのとは、わけが違うだろう」

「山ちゃんが、夢の無い事ばかり言う……」

「あ、いや。実験には付き合うけどな。失敗した時の事も考えておこう、って言ってるんだ」

「そうだよ。まだ失敗したわけじゃないのに」

 細田はしかめ面のまま、荷馬車の後部に座り直した。

「よし、やるぞ。山ちゃん、これ浮かせて」

「あのなあ……わかった。ちょっと待ってろ」

 友人が、言い出したら聞かない性格なのは良く知っている。大山も、この実験が終わるまでは説得を諦める事にした。

 大山は事前に、荷馬車を防護壁の上に乗せている。車輪が回ると怖いので、蓋の無い箱型の鋼板でがっちりと固定しておいたのだ。車輪が外に出ているため、荷台と防護壁に隙間が出来てしまうが、これなら少し樹木にぶつかった程度では壊れないだろう。

 たぶん。壊れないといいなあ。

「浮かせる……鉄板の時と同じでいいんだよな」

 ウサギ肉を焼いた時には、最初から空中に鉄板を置くように想像した。だが今回は、地面に置いた板の上に荷馬車を乗せてから、四方を壁で固定してあるのだ。この状態から宙に持ち上げるなど、果たして可能だろうか。

 大山は、湖で筏を作った時の事を思い出す。あの板は自分の体を中心に展開させた後でも、押し出す感覚で水面に浮かべる事が出来た。横移動も縦移動も、理屈は同じだ。

 上に引っ張り上げる。なにも難しい事ではない。自分が乗っかっているから感覚が掴めないだけで、この箱がエレベーターのように引き上げられる状態を想像すれば……。

「うおっ」

 いきなりぐらついた箱は、荷馬車を乗せたまま真っ直ぐに浮き上がった。

 頭より上にあった精霊ランプが荷台に叩き付けられ、慌てた顔の細田が手を振るが間に合わない。荷台の底板に穴が空き、大山の構築している箱にも衝撃が走った。直後にランプが消えて、ぞっとするような暗闇が押し寄せる。

「えっ、なんだこれ」

 目が利かなかったのは数秒で、大山はすぐにぼやけた視力を取り戻した。無残に割れた荷台から顔を上げると、周囲はどこまでも濃紺の空だ。木々の向こうに先だけ見えていた山が、ゆっくりと全容を明らかにし、やがて見下ろす角度になる。それでも箱の上昇は止まらず、腹の底がざわつくほどの速度で、ぐんぐんと高度を上げていた。

 火を消した勢いで荷台に伏せた細田が、四つ這いのまま怒鳴ってくる。

「おい、やりすぎだ! こんなに高くしなくていいって!」

「わかってる! ちょっと待て、ああ、そうか……」

 エレベーターなどと想像したのが間違いだった。

 終点の無い屋外で、箱はどこまでも空を目指し続ける。頭上から吹き付ける風は、すでに身の縮むような冷たさだった。ここで無理に上昇を止めて、万が一にも浮力を失ったら……俺たちは、箱ごと地面に落下する。

 自分たちを支えているのは、ただの鋼板もどきと材木の床だ。それらが地面に叩き付けられて粉々になり、哀れにもぺしゃんこになった男が二人。

 大山は慌てて頭を振り、不穏な想像を打ち消した。

「落ち着け、落ち着け……ゆっくり止めて、それから」

 いちど上げた物を下ろせない道理はない。エレベーターの籠が目的の階で止まるように、そっと箱を吊り下げてやればいい。

 だが大山の体は恐怖に震えて、頭も上手く働かなかった。止まれと念じた途端に、腹を突き上げるような衝撃が走り、一瞬の浮遊感の後で荷馬車の床に投げ出される。

 痛みは後から来た。感覚がおかしくなり、横になった体のどちらが下かもわからない。吐き気を堪えながら手を伸ばすと、指の先が荷馬車の枠に当たった。そこでようやく目を開けた大山は、擦りむいた手のひらを庇いながら身を起こす。

「……と、まった、か?」

 荒い呼吸を整えつつ、ゆっくりと視線を横に動かす。どっと吹き出した汗は、すぐに凍るような風で冷やされた。

 遠くを見れば、薄雲の流れる夜空の先が、暗い平面に切り取られている。あれは水平線だろうか。ゆるやかに湾曲した海など、大山は飛行機の窓からしか見た事がない。眼下に広がる陸地は滲んだ水彩画のようにぼやけており、星明かりだけでは、複雑に入り組んだ海岸線がどうにか判別できる程度だ。

 あの宗教施設から飛び降りた時でも、ここまでの高度は無かった。自分は、とんでもない高さまで箱を浮かせてしまったらしい。

 防護壁の箱は、まだきちんと自分の知覚に繋がっている。いきなり落ちたりはしない。いや、落ちるなんて考えるのは止めよう。後は下ろすだけだ。大丈夫、だいじょうぶ。

 荷台に視線を戻すと、細田が亀の子のように丸くなって震えていた。

「山ちゃん、下ろして……はやく」

「おう。ただ、早くはだめだ。ゆっくりな」

「なんでもいいから、地面に下ろせって」

 大山は深呼吸をしながら体の力を抜き、箱を静かに下ろすよう努めた。このエレベーターには、吊るすための滑車もロープも無い。ただ、自分の感覚だけが頼りだ。

 目をつむる訳にはいかないので、大山は目の前にある山を見据え、箱がゆっくりと下がるよう念じ続けた。あれが、話に聞くホウロ山だろうか。ゴツゴツとした山頂には雪が残り、山肌の半分以上は草木も生えていない。奥へと長く続く稜線は、ちょっとした山脈ほどもあった。

 越える道が存在しない、か。確かに、あんな山を越えるには飛行機が必要だろうな。

 ぼうっとしたまま景色を眺めているうちに、ホウロ山はゆっくりと角度を変え、さらに低い山で見えなくなった。吹く風が暖かくなり、湿った緑の匂いが混じり始める。これは畑の匂いだ。もう、地面が近いのだろう。

 腰を上げようとすると膝が笑って、ぺたんと荷台に座り込んでしまう。だが、おかげで緊張が解けたのか、再び膝を立てた時には、大山もだいぶ落ち着きを取り戻していた。

「ああ……もうそろそろだな」

 荷台から身を乗り出せば、すでに家屋の二階から見下ろす程度の高さだ。位置も元の道からずれていないので、さらに速度を落として箱が宙に浮くよう調整する。今度は上手くいって、防護壁の箱は荷馬車を乗せたまま、地面から五十センチほどの高さにふわりと停止した。

 浮いている。落ちていない。良くやった、自分。

「おう、ダダ。ごめんな。ちゃんと下りられたぞ」

「ほんとに……?」

「大丈夫、ちゃんと地面が見えるって。ついでに、箱を浮かせておく感覚も掴めたから、次は失敗はしないと思う」

「マジか……良かった」

 のろのろと顔を上げた細田は、用心深く荷台を這って進む。彼は顔だけ出して地面を見下ろすと、ようやく安堵したのかその場にへなへなと崩れ落ちた。

「もう、心臓に悪いって……今度こそお終いかと思ったぞ」

「俺もだ。いやあ、この魔法ってやつはとんでもないな」

「そりゃあ俺たちは、誰かに使い方を習ったわけじゃないからな。加減を間違ったら、こんな事になるのか」

 ぶるっと身を震わせて、細田が床に座り直す。改めて火を点してくれたが、彼の顔は青白い明かりよりも色を失って見えた。

 ずいぶんと具合の悪そうな細田の様子に、これで諦めるかな、と思ったが、それは大山の勘違いだったらしい。

「よし、実験を続けよう」

 きっぱりと言って、ずれた眼鏡の奥から力強い目でこちらを見上げる友人に、どっと疲れが押し寄せる。

「おーい。もう止めておいた方がいいって」

「これ、浮いてるのは、この場所に固定してるのか? それとも、外から力を加えれば動かせるのか」

「ああ……いや、どうかな。横に、って意味だろ?」

 大山は膝立ちになると、首を巡らせて自分の構築している箱を観察した。荷馬車と二人の体重を乗せていながら、自分の体としては重さをまったく感じない。ただ、箱を持ち上げているな、という感覚があるだけだ。

「まあ、いけると思うけど……」

 言った途端、箱が真横に吹っ飛んだ。

 取り残された体が倒れ、大山は頭から荷台にぶち当たる。あまりの衝撃と痛みに、思考が真っ白になった。耳でも爆発音のようなものを捉えていたが、それよりも。数秒の空白を置いて、それが自分の知覚に結び付いた防護壁の破壊される痛みだと気づく。

 なにか暴力的な力が防護壁に加わり、自分の使っている世界の力がのだ。

 ああ、これも例の感覚なのか、と思い当たる。湖に落ちた時の、ロケット型防護壁が潰された感覚。謎のカマイタチで攻撃されて、盾の防護壁が押された感触。それらの、もっと酷いものを体験したのだ。

 いったい、何が起きたんだ?

 がばりと身を起こし、大山は急いで辺りを見渡した。箱が動いている。いや、ほとんど飛んでいるような速度だ。真横に飛び続ける箱は風を巻き起こし、畑に生えた短い草を打ち据えている。

 そして、細田が居ない。

「なんで……おい、ダダ!」

 混乱のあまり荷台の隅から隅まで見回すが、大の男がそんな隙間に入り込むわけがない。穴の開いた荷台には小さな背嚢と、いまにも吹き飛びそうな地図だけが残されている。友人の作っていた明かりすら、視界のどこにも見当たらなかった。

 ふと飛び続ける箱の前方を向くと、目の前に樹木の壁が迫っている。ぶつかる、という思いが脳を駆け巡り、大山は無意識に両足を伸ばして荷台の枠に踏ん張った。

「止まれ、止まれって!」

 防護壁の箱は消えていない。ただ飛んでいるだけで、浮かせているのは自分だ。ブレーキ、いや、後ろ向きに引っ張れば……。

 体を硬直させ全力で押さえ付けると、箱は林に突っ込む直前で、つんのめるようにして止まってくれた。

「と、まった……」

 同時に、とうとう防護壁に繋がっていた感覚が途切れ、浮力を維持できなくなってしまう。五十センチの高さを落下した荷馬車は、音を立てて地面にぶつかり、わずかに跳ねてから斜めに傾いて落ち着いた。

 遅れて、ガラン、と物の落ちる音が響く。どうやら、車輪のひとつが外れたらしい。

 大山は荷台に仰向けで転がったまま、しばらく動けなかった。体のあちこちが痛い。箱を止める際にひねったのか、右の足首が感覚を失っていた。ぼうっとして空を見上げていると、次第に鈍い痛みがズキズキと骨を伝わってくる。

 なんにせよ、木に衝突しなくて良かった。大怪我もしていないし。

「ダダ……そうだ、細田!」

 友人を呼びかけて、彼が荷台から姿を消していた事を思い出す。あいつ、どこに行ったんだ。

 痛みを堪えて荷台を下りると、やはり荷馬車は壊れてしまっていた。後部にあった大きい車輪の片方が外れ、草むらに転がり落ちている。床板も穴が開いて、板の一枚は釘が抜けたのか斜めに浮いていた。後部の枠が外側から破壊されているのは、大山にも原因がわからない。さっきの爆発だろうか。

 だが、まだ箱の形をしている。物を入れて、運ぶ事は出来る。

 大山は防護壁の板を作り直すと、びっこを引きながら荷馬車を押し上げた。

 戻って、細田を探さなければ。



=====大山と細田の情報が共有されました=====


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ドウリャ国の全国図はこちら

https://twitter.com/round3618/status/922705355292991488


二人が落下した「ジルイワ湖」から「ホウロ山」を中心に、南東の「タズルト都」までの拡大地図はこちら

https://twitter.com/round3618/status/922706067640918016

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