3−5

 宿の長女であるジャイナが接触して来たのは、翌日の朝食になってからだった。

「そうですか。なら、朝市に行ってみたらどうです?」

 ジャイナは茶を注ぎながら、前置きなしに喋り出す。そうですか、の意味は不明だが、これが合図だと思っていいだろう。彼女の妹は、朝市に出掛けろと言っていた。

「……へえ。朝市ですか。いいですね、覗いてみたいです」

 一瞬の間を置いて、大山は動揺を表に出さないよう、頬に力を入れて笑顔を作る。茶碗を受け取ってジャイナを見上げると、彼女は満足げに頷いて返した。

「本当は、花芽月はなめづき初市はついちがお勧めなんですけどね。北からいらした方には、珍しい品物も多いと思いますよ」

 言いながら、ジャイナは細田の前にも茶碗を置く。友人は相変わらず、こういう場面ではだんまりだ。

「私も買い出しがありますから、ご一緒にいかがですか」

「よろしいんですか? では、お言葉に甘えて」

「はい。私は先に出ますので、七の鐘までに街道までお越しくださいね」

 熱い茶の残ったポットを置くと、ジャイナはするりと背を向けて台所に戻る。その堂々とした態度に、大山はつい視線で彼女を追いかけてしまいそうになった。

「ねえ、コル。あんた、今日はマダさんところに出るんでしょう?」

 台所で朝食を準備していたコルは、姉から声をかけられて返事をしたようだ。ここからでは、彼の言葉までは聞き取れない。

 耳をそばだてていると、ジャイナが一方的に弟をやり込めるのが聞こえてきた。

「なら、ついでにお使いして来て。伯父さんとこ、ひとり辞めちゃったから忙しいんだって……ほら、そこ焦げてる。それ、あんたが食べなよ……どうせ午後から暇なんだから、ひとっ走り行ってきてよ……鍋見てなくていいの? じゃ、頼んだからね」

 すたすたと戻って来たジャイナは、甘マルームの乗った皿を置いて、大山にパチンと片目をつむって見せた。こちらが呆然としていると、返事も待たずに背を向け、他の客のテーブルにも朝食を運んで行く。

「あれが、姉という生き物か……次女ちゃんが可愛く見えて来たな」

 弟のコルに拒否権は無いのか。大山は身震いして、ほかほかと湯気を立てる薄パンを手に取った。

 細田も茶をすすりながら、げんなり顔で首を振る。

「恐ろしいな。俺は、女きょうだいが居なくて良かった」

 甘マルームとは、薄焼きパンに果物や木の実を挟んだもので、ラダーが焚き火で焼いていたものに近い。この辺りでは朝食に良く食べられるそうだが、昨日は茹でた芋とスープだったので、大山も初めて食べるパンだ。

 他にもこの国には、デニスたちに用意してやったような甘パンがある。こちらは発酵させたパン生地に、蜂蜜や乾燥果実などを練り込んで焼いたものだ。大山もひとつ食べてみたが、干しイチジクと酸味のあるジャムが入っていて、なかなか美味かった。

「砂糖だ。どっかでサトウキビでも栽培してるのか?」

 二つ折りになっている薄パンを開いて、細田が具材を指でつつく。大山も見てみれば、半ば溶けかかった薄茶色の粉が、焼き目の付いた林檎らしい果物にたっぷりとまぶされていた。荒く砕かれている粒は、形からしてクルミだろうか。

「美味いぞ。めちゃくちゃ甘いけど」

 大山はパンを開くなどという無作法はせず、そのまま温かいうちにかぶりつく。林檎は薄切りにして干したものらしく、それ自体も爽やかな酸味と、甘みが凝縮されていた。歯ごたえのあるパンと、しなっとした林檎に、時々カリカリとするクルミの食感の違いが楽しい。これにチーズでもあれば、デザート・ピザとして地球でも売れる味だ。

「良かったな、お前も食えそうな飯ばかりで」

「うん。変に辛い料理も無いし、この国の飯は信頼できるな」

 言いつつも、細田は二枚を食べたところで手を止める。さすがに異世界五日目では、彼の胃袋もそう広がっていないようだ。

 他に薄い塩味の野菜スープもいただいて、さっさと部屋に戻る。食事の礼をしたのは、おかみと長女のジャイナだけで、コルとはカウンター越しに頭を下げて終わった。

「それにしても、朝市か。買い物はもう終わってるんだけどな」

「なんか、あの兄ちゃんに知られず、逃げ出す算段でもあるのかね」

 細田にもジャイナの企みはわからないようで、二人で首を傾げながら階段を上ると、そこには宿の次女が待ち構えていた。

 次女は楽しげに笑って、鍵を閉めていたはずの客間を開く。

「おはようございます、ヤマさん、ダダさん。お荷物の準備は出来ていますか」

「おはようございます……ええと」

「あ、私はエナです。姉から、この後の事は聞いてます?」

「エナさん。昨夜はどうも。荷物はですね……」

 大山は、エナに促されるまま部屋に足を踏み入れ、その場で固まってしまった。

 二人が泊まった部屋には、いつの間にか三人の女性が待ち構えていたのだ。どれも初めて見る顔で、エナと同じくらいの年齢に見える。

 ぼけっとしていると、後ろからエナに背中を押された。

「ほらほら、入って下さい。私たちで、先に荷物を運んでおきますから」

「えっと、こちらの方々は?」

「私の友達です。朝の暇な子だけ集めたんで、お気になさらず」

 いや、どういうこと? 説明して?

 細田はふらっと部屋に入ると、少女たちを気にするでもなく戸棚を開く。そこには、昨夜のうちにまとめ直した荷物を入れていた。

 ひとつは、天幕を買った店で仕入れた、大山の新しい背嚢だ。革製で底も広く、背中の当たる部分には柔らかな詰め物が入っている。自分たちの持っていた同人誌が、A5サイズも横置きで二列に詰められる大きさだ。

 大山と細田にとって最も大切な荷物は、大量の同人誌やグッズと身分証などの入った財布に、地球から壊さず持って来た電子機器類だ。それらを全て収納したのが、この背嚢だった。他の雑貨や現地のかねは、最悪の場合に捨てても惜しくはない。

「山ちゃんは、これだけ担いどいて。俺らが軽装なら、あの兄ちゃんも怪しまないだろ」

「細田よ。お前、この状況を理解してんの?」

「このお嬢ちゃんたちが、俺たちを逃してくれるんじゃないの。面白そうだから世話になろうぜ」

「そういう事です。他のは、こちらで運んでしまっていいですか?」

「うん。お願い」

 背中で返事をする細田に、エナも頷いて動き出す。彼女に指示された少女たちは、部屋に散らばっていた旅支度を手早くまとめると、驚くべき胆力で担ぎ、次々に部屋を出て行った。大山は彼女たちの邪魔にならないよう、扉の横に逃げて見送るしかない。

「おじさんたち、がんばってね!」

「怪我しないようにねー」

「頭のおかしい藩主なんか、きゅっと締めちゃってください」

 最後の子が、にやっと歯を見せて笑うのが恐ろしい。

 ひとり残ったエナも、天幕と風呂敷包みを片手に軽々と抱えている。彼女は扉を出ると、大山に一本の鍵を手渡した。

「それじゃ、こっちの鍵は姉に返しておいてください。また後で」

 言ったきり、エナも廊下を歩いて行った。二階の廊下は客室から曲がった先にも続いているようで、少女たちはその向こうに姿を消す。

「……ええと? どういうことですかね」

「ほら、さっきの姉ちゃんが待ってるんだろ。早く行こうぜ」

「いやいや、意味がわからない」

「女は怖いねー。こりゃ、俺たちがヘマしようもんなら、マジで石を投げられるわ」

 鍵をかけとけよ、と言われたので、大山は背嚢だけ担いで部屋を出る。細田は着替えと五冊の本を入れた、小さい背嚢を背負っていた。シーニャから渡された本だけは、どうしても手放したがらなかったのだ。

 宿の受付には、おかみのミヤが立っていた。大山から鍵を受け取ると、彼女も意味深な笑みを投げてくる。

「うちのが面倒かけてすまないね。またユイダに来るなら、は、いつでも歓迎するよ」

「はい、機会があれば寄らせていただきます」

 そつなく返したつもりだが、表情まで平静を保っていたかは自信がない。

 ミヤは宿の経営者おかみとしてではなく、歓迎すると言ったのだ。これほど厄介な構図があろうか。

 やけなって歩き出すと、細田が小走りに追ってきて言う。

「なあなあ、この話、どこまで広がってると思う?」

「知らねえよ。俺たちは一日以上も遅れてるんだぞ。ラダーたちが騒動を起こしてからなら、もう三日目だ」

「だよなあ。すんごく面白い事になったな!」

 友人は楽しそうに笑うと、薄曇りの空に右の拳を突き上げた。

「悪い都官が相手なら魔法もいっぱい使えそうだし、おばちゃんたちは俺たちの味方だ。幸先いいな!」

「いやもう、勘弁して下さい……」

 それに、まだ奥様の生家とやらが、本当に悪役だとは限らないのだ。あまり先走らないで欲しい。

「だいたい、俺たちは日本に帰るのが優先なんだぞ。現地の厄介事なんか、適当に終わらせて先を急ごう」

「あ、それなんだけどな。奥様とやらの問題も、少しは役に立ちそうだぞ」

 足早に歩いている細田が大変そうなので、大山は少し歩調を緩める。

「タズルトには、まだ新しい崩落跡があるんだ。たぶん、門の術が失敗したんだと思う」

「崩落? どっかで聞いた覚えがあるな……」

「本に書いてあったろ。最初の実験は、ワンガっていう高地の原っぱで行われたんだ。そこが失敗した時に、北から渡りの民が招かれたけど、そいつらには協力を拒否されたって」

「待て、意味がわからん。お前こそ三行で説明しろよ」

「あれえ? そこの辺り、読ませてやったじゃないか」

 細田は不思議そうな顔でこちらを見上げたあと、背負っていた背嚢を下ろして一冊の本を引っ張り出した。

「ほら、あの船に乗ってた時に……」

「いやいい。それも仕舞いなさい。もう街道に着くぞ」

「ええー」

「先は長いんだし、後でゆっくり聞いてやるから」

 どうにか本を片付けさせた所で、前からジャイナが辺りを見渡しつつ歩いて来た。彼女はこちらに気づくと、笑顔で手を振ってくる。

「お早いですね。では、行きましょうか」

「はい、よろしくお願いします」

 大山が頭を下げると、ジャイナは親しげに二の腕を小突いてきた。

「あら。お願いされるのは、あなたたちの方でしょう?」

 そうなんですよねえ。困ったことに。



 朝市は、里の中央通りと交わるハタ街道から、南に下った先の丁字路まで続いていた。細田によれば、この東に向かう街道が南ジルイワ街道で、自分たちの落下した湖の南側を通っているらしい。

 朝市は早朝から開いているため、朝食後のいま、人通りはそれほど多くない。買い物の済んでいる二人には見る物も無いのだが、先導するジャイナは、いくつかの出店にふらっと立ち寄っては挨拶する。その理由は、すぐに大山にも理解できた。

 いや、理解させられた、と言う方が正しい。

 荷車や、ひさしが付いただけの簡単な屋台を歩くうち、大山の両手には次々と荷物が増えていく。ジャイナの後を付いて行くだけで、なぜか屋台の女性たちが声をかけてくるのだ。

「あんた、タズルトまで行くんだって? なら、これも持って行きな。そうそう痛みゃしないから」

 言って、おばちゃんが謎の果物を籠ごと押し付けてくる。

「うちの実家にも声かけといたからね。なにか困った事があったら、ジーダの名を出しな。悪いようにはしないよ」

 別の老女が、腰の辺りをバンバン叩きながら布の袋を手渡してくる。

「いまのリャガ都官は、いい噂を聞かないよ。息子が出来た子だって言うから、いっそ代替わりしちまえばいいのさ」

 ため息混じりに言う中年女性は、小さな壺を大山が抱えた荷物の上に乗せてくる。それには頭を下げて、後ろに隠れる細田に持たせた。

 女性たちが好意で分けてくれる品物を断るなど、大山には恐ろしくて出来なかったのだ。とにかく作り笑顔で、適当な礼を言うのが精一杯だ。

「おい、ダダ。少しは協力しろ」

「やだ……なんか怖くなってきた」

「お前なあ。あんだけはしゃいでおいて、手のひら返すの早すぎるぞ」

「いやいや、これは無理でしょ。マジで意味がわからない」

 しかし朝市の途切れる先では、さらに驚くべき物が待ち構えていた。

「お姉ちゃん、こっちこっち」

 声に振り向けば、ひとつの屋台に隠れるようにして、エナが手招きしている。屋台には中年の夫婦がいたが、彼らもニコニコして大山たちを通してくれた。

「こっちは準備できてるよ。ここから抜けられるから急いで」

「良くやった。では、私は先に戻りますね。弟の様子を見て来ないと」

 言って、ジャイナは市の立つ街道を戻って行った。大山が礼をする暇もない。あっさりとしたものだ。

 エナに連れられて歩いたのは、林を抜ける細い道だった。途中に木製の納屋が建っており、その引き戸を拳で叩く。

「着いたよ」

 納屋の引き戸から出て来たのは、またしても知らない少女だ。見た目はエナより少し年上で、がっしりした肩に丸い体をしている。服装も袖の細い上着に太いズボンで、朝市で見かけた農家の女性たちに似ていた。

「ごめんね、後は任せていい?」

「わかった。エナちゃんは仕事に戻って」

「うん。そっちも気をつけてね」

 エナが背を向ける前に、大山はやっと別れの挨拶が言えた。

「ありがとうございます。なんのお礼も出来ませんが、みなさんに宜しくお伝えください」

「こちらこそ。私も面白かったです」

 にこっと笑って、エナは細田に向き直った。

「ひとつだけ注意してください。昨夜ゆうべ、ジョードから来たらしい男が、例の女の人と馬車について探っていたそうなんです」

「へえ。それは、ジョード人らしい女についてか? それとも、実際に名前を出してかな」

「ラダーさんと、御者をしていたハンダさんだけは、名前を言っていたそうです。あと、お仲間がハンダさんの実家にも寄ったとか」

「ハンダの実家って、どの辺りか知ってるかい」

 いつになく優しげな口調の細田の問いに、エナは力強く頷いた。片手で、さっと北の方角を示す。

「ミダ湖の近くにある、シャリの里です。ご存知ですか? ここから十日ほどかかるんですけど」

「知っていますよ。ありがとう、いい話を聞けた」

「いいえ。がんばって下さいね」

 ニヤッと笑う細田を見て、エナも悪い顔をする。大山は、またしても置いてけぼりだ。早く地図を見せて欲しい。

 エナが小道を去って行くと、納屋から一台の荷馬車が出て来た。先ほどの少女が御者台に座って、荷馬車が道に出た所で手綱を引く。

「さあ、乗ってください。ここから街道まで、ほんの少しですから」

「これは、俺たちの荷馬車ですよね」

 驚いて荷台を見れば、大山たちの荷物だけではなく、デニスのおっさんとラガ少年まで乗っている。二人は少し青い顔で、大人しく横並びに座っていた。

 御者台の少女は、ええ、と頷いてチラッと背後を見る。

「ついでに、戸を閉めてくれると嬉しいんですけど」

「わかりました。ダダ、お前は乗せてもらえ」

「りょーかい」

 細田が荷台に乗ると、デニスは肩をすくめて小さくなった。ラガはしきりに目をしばたたいて、あらぬ方を向いている。

 はてさて。この二人に、なにがあったのかな?

 大山は納屋の戸を閉めると、御者台の少女に声をかけた。

「出して下さい。俺は走りますんで」



「すごい、すごい! これ、面白い術ですね」

 手綱を握る少女が、ごきげんな声を上げる。

 荷馬車を引く紫馬しばは、蹄鉄の打たれた蹄をポクポクと鳴らして、軽快に小道を進んでいた。荷車の車輪もよく回り、簡素な木組みの台がほとんど揺れていない。

「こうして走れば、馬も楽ですからね」

 大山は荷馬車と並走しながら、荒れた小道に防護壁の舗装路を敷き続けていた。いや、もう防護壁とは役割が違うだろうか。暗い茶色のゴムチップ風路面は適度な弾力があるので、大山の革靴でも走りやすい。

 元は一般の歩道やランニングコース、商業施設の歩行者用通路などに使用されていたゴムチップ舗装だが、昨今は一般家庭にも浸透してきた。細かい手作業で施工されるのが面白く、暇な時には良く見学させてもらったものだ。

「なにこれ。陸上トラックみたいなやつか?」

 荷台から声をかけてくる細田に、走りながら答えてやる。

「いや、あっちはゴムチップとウレタンが重なってるやつ。これはほら、街中まちなかの歩道なんかで、赤茶とか緑のデコボコした舗装がしてあるだろ。ああいうやつだよ」

 適当な説明だが、もちろん大山が地面に乗せているのは適当な構造ではない。三層の防護壁は、下層が土や小石の凹凸を和らげるためのゴム層、中間に固く平らなアスファルト・コンクリートを入れ、その上にゴムチップ舗装を施してあるのだ。原料は精霊だが素材に相応しい重量もあるため、四人を乗せた荷車が走っても、まったくたわまず耐えている。

「ふーん。お前、器用だな」

 感心したように地面を見下ろす細田の反対側では、デニスも荷台の縁から身を乗り出していた。先ほどまでの緊張はすでに薄れたようで、その切り替えの早さには驚かされる。

 一方のラガは、まだ怯えた風情で膝を抱えていた。こちらは回復に時間がかかりそうだ。

「これなら街道でも、だいぶ速く走れそうだ。疲れたりはしないのか?」

「疲れはしないな。少し集中力が要るけど」

「あ、そろそろ着きますよ。街道からは、みなさんにお任せしますね」

 御者台の少女が言うのに、大山は地面から顔を上げた。いつの間にか林の木々もまばらになり、二十メートルほど先に広い土の道が見えている。そこまで舗装路を敷くと、後は短いスロープだけ付けておいた。

 荷馬車はゆっくりと速度を落として、馬が歩みを止めるのに少し遅れて停車する。ここまで付き合ってくれた少女は、御者台の横から滑り下りて大山に頭を下げた。

「すごく楽しかったです。いい土産話が出来ました」

「いえ、この事は、あまり噂にしないで頂けたら……」

「なに言ってるんですか。もう遅いですよ!」

 ぽんと大山の二の腕を叩いて、少女が明るく笑う。

「うちの兄が、明日にはヤータヴァイ郷に着きますから。もしそちらに寄るなら、宿はニイタ亭にして下さいね。伯母も喜びます」

「はあ……ニイタ亭ですね、わかりました」

「それに、渡り人に親切にすると、いい事があるって言いますし。どんな話が聞けるか、いまから楽しみにしておきますね」

 少女はまた頭を下げて、小道を走り去って行った。

「いや……渡り人って、なに?」

 呆然と少女を見送る大山に、荷台を下りてきたデニスが視線を合わせないまま言う。

「渡り人ってのは、俺や君たちみたいに、地球から来た人間の事だよ。悪いね、ちょっと尋問を受けてしまったもんで」

「情報の漏洩元は、あんたかよ」

「だって、目が覚めたら里の女性たちに囲まれてたんだよ! 本当に怖くてさあ。だいたい、俺たちをほっぽり出したのは君たちだろう」

 そそくさと横を通るデニスは、御者台に上ると手綱を手に取った。彼は御者が出来るのだろうか。

「それより、昼には野営地で休憩できるよう、先を急いだ方がいいって。ね? 出発しましょう、そうしましょう」

「おいこら、おっさん」

「さっきの平らなやつ出してよ。あれ便利だねー」

 大山が睨んでも、デニスはそっぽを向いたままだ。横から服を引っ張られたので振り向くと、細田が首を横に振っていた。

「おっさんを吊るすのは後でいい。それと、予定変更だ。飛龍は止めて、カンジャ街道を真っ直ぐルワン湖まで行こう」

「どういう意味だ? 空を飛ばなくても間に合うのか」

 御者台のデニスが、吊るすってなに? と騒いでいるが、そちらは無視しておく。細田は難しい顔で、膝に本を開いていた。

「さっき、宿の嬢ちゃんがシャリの里って言ってたろ。東北東にある里で、そこから南下すれば、一日でホウロ山の麓なんだ」

「ホウロ山ってのは……ええと、ラダーさんたちが向かっている里が、そっちにあるんだっけ?」

「そう。ヤータヴァイ郷の、シキの里な。ホウロ山ってのは、ものすごく高い山で、まともに越える道も無いから飛龍を使うんだけど。その辺にまで追っ手が向かってるなら、今さら同じルートで行っても意味がない」

「確かになあ。俺たちは、あの人たちより二日は遅れているし」

「だから、ここからは休み無しで行くぞ。山ちゃん、空を飛んでくれ」

「はあ?」

 思わず間抜けな声を上げてしまったが、細田は真剣な顔で本を睨んでいた。覗き込めば、かなり詳細に描かれた地図だ。

「あのな。先行しているのは、あの女たちだけじゃないんだ。この情報伝達の早さは、ちょっと異常だぞ。しかも、伝言ゲームにありがちなブレが無い。女の噂話と思って油断してると、痛い目に遭いそうだ」

「ああ……確かに」

 大山は、これまでに聞いた話を思い出しながら、しばし考え込んだ。あまりに展開が早かったので、ただ流されるまま里を後にしてしまったが、いくつか不自然な会話があったはずだ。

「宿で話をしたのは、一昨日おとといの夜だよな。コルが変な動きをしていたのが昨日……」

「その前から、宿の女たちは動いていたんだろう。俺たちがのんきに寝ている間に、なにがどこまで伝わったかな?」

「ジョードって国の藩主が、この国のお嬢様に無体を働いていたのと……そのお嬢様が、実家を目指して逃げている」

「それを追いかけるつもりで、得体の知れない魔法使いが二人、コブ付きでタズルトへ向かう。しかも今朝になって、このおっさんが、俺たちが渡り人だって漏らしてるしな」

 細田の言葉に、デニスがびくりと肩を揺らした。本当に、どこかに吊るして捨てて行きたい。

「さっきの、ハンダのおっさんの実家どうこうもおかしい。シャリの里は、ここから十日の距離だぞ。よその国から来て聞き込みをしている人間が、仲間の動向なんか漏らすもんか。尋問ってのは、どんなだったんだ。おい、おっさん」

「え、俺?」

 ぎょっとして振り向いたデニスが、うつむいたままの細田を見て、それから大山を見上げてくる。だから、どうしていちいち俺を見るんだよ。

「当たり前だろ。キリキリ吐け」

「いや、それがおかしいんだ。なんか、おっかなそうな婆ちゃんが、こう、手を振ったらね?」

 デニスは顔の前に両手を上げて、ふわふわと動かす。

「頭がぼーっとして、なんでも話したい気分になったんだよ。あれ、なんの術だろ。ラガ君なんかちびっちゃうし、もう怖いのなんのって」

「なんでそれバラすんだよ! 内緒にして、って言ったのに!」

 いきなり復活したラガが、顔を真っ赤にしてデニスに噛み付く。

「それに僕、あんな……あんなの聞いてない!」

「そりゃあ、聞かれなかったしー?」

「おっさん、ハウス」

 大山がピシャリと言えば、二人のお荷物は素直に黙ってくれた。細田は、背後の騒ぎもよそに地図を見たまま続ける。

「参ったな。民間にも呪術士が居るのはわかってたけど……この様子だと、俺の想像より多いぞ。いったい、この国の情勢はどうなってんだ。あの兄ちゃんの態度だと、道会や道士ってのは、そこまで民間人に対して影響力が無いのか?」

「そういうのは、本にも書いてないのか」

「無い。ここにあるのは地図と道会の詳細に、あのばあさんが書いた備忘録みたいなノートだけだ。その内容だって、魔族の国と揉めてからの裏話だとか、門の術や崩落についてばかりなんだ」

 ようやく顔を上げた細田は、じっと虚空を見つめてから、不気味な笑みを浮かべた。

「崩落の跡地か。タズルトでなにがあった? 闇の呪術士だった都官の娘が、どうして他国に嫁がされたんだ。ひょっとすると、全部が裏で繋がっているのかも知れない」

「おう、ダダさんよ。難しいお話は後にして、さっきの空を飛ぶとか言うのを説明してくれませんかね」

「あ、そうか。悪い。こっちは、あの女たちより先行する必要があるんだよ」

 ひとり言から目覚めた細田が、地図をパタンと閉じる。

「あいつらが素直に馬車を使ったとして、ざっと計算すると明日にでも飛龍に乗れる。そうなったら、明後日にはタズルトに到着だ。陸路でちんたら追いかけても間に合わないだろ」

「だからって、この大荷物で空は飛べないぞ。俺は龍じゃないんだから」

「山ちゃんの魔法は、板を宙に浮かせておけるじゃないか」

 細田の顔は、悪巧みをしている子供のようだった。

「そこに推力があれば、こんな箱くらい飛ぶのは簡単だろ?」



 その日は結局、街道を荷馬車で走り通した。

 街道には多くの人や馬車が行き交っていたが、それらの好奇の視線に晒されながらも、大山は舗装路を敷いて荷馬車を援助する。土が剥き出しの悪路を走るから、馬も疲れてしまうのだ。アスファルトよりも柔らかなゴムチップ舗装の道は、一頭立ての荷馬車でもすいすいと走れた。

 とは言え、昼を含めて三度の休憩はしっかりと取る。これは主に馬と、座りっぱなしの三人のための休息だ。大山は魔法を使いながら走っているので、あまり疲れていない。

 朝市でもらった品物には大量のパンもあり、大山たちはありがたく腹を満たす。三度目の休憩では、馬も荷馬車から開放してやった。細田のおかげで水にも困らないため、桶で水を与えた後は、慣れているらしいデニスに任せておく。

 デニスに引かれた紫馬は、せっせと草を食んでは、数歩だけ前に進むのを繰り返している。好きに歩かせているように見えて、きちんと野営地を一周するのだから驚きだ。

「あのおっさんが、馬の世話まで出来るのは意外だったな。案外、連れて歩いても役に立ちそうだ」

 大山が感心して口にすると、細田はぐったりと地面に寝転んだまま返した。

「陣使いってのは、生涯のほとんどを旅で終えるらしいからな。そこのガキよりは、よっぽど世話がない」

 すっかり大人しくなっているラガは、細田に悪態をつかれても反論しなかった。こちらの声は聞こえているだろうに、馬車の荷台から下りもせず、じっと膝を抱えている。

「この馬、まだ若いんだな。回復が早くて助かるよ」

 野営地をひと巡りして来たデニスが、馬車に紫馬を繋ぎ直す。紫馬が、とことこと後ろ向きに歩くのは面白い見ものだった。デニスにも良く懐いているようなので、売るのが少し可哀想になる。

 いや、この旅に馬は必要ないんだ。ついでに言えば、おっさんと少年も必要ない。

 大山は、用事の終わったらしいデニスが座るのを待って、気になっていた事を尋ねてみた。

「なあ、あのガキンチョはどうしたんだ。いきなり人が変わってるぞ」

「あれねー。ほら、俺たちが尋問されたって言ったでしょ? その時に、奥様の事も聞いちゃったから」

「おい。まさか、誰も教えていなかったのか?」

 驚いてラガを見れば、少年は忙しなくまばたきして大山を見た後、くるりと背を向ける。彼の目は、縁が赤くなっていた。

「なのに、こんな所まで連れて来たのかよ」

「ラガ君は、ラダーちゃんの養い子だからね。あのまま屋敷にいたら、真っ先に首を刎ねられてたよ」

「だったら、余計に話しておくべきだろうが」

「知らないよ。俺は、よそ様の教育方針には、口を出さない事にしてるんだ」

 肩をすくめるデニスに、細田が笑って返す。

「賢明だな。何も知らない子供なら、その辺に捨てて置いても安全だ」

「そうやって変に気を回すから、子供が曲がって育つんだろうが。おい、ガキ……ラガ。聞いてるんだろ。こっち向け」

 大山が声をかけると、ラガはもそもそと座り直して、横目にこちらを見た。顔を隠したいらしいが、少年が泣いている事など、この場の全員が気づいている。

「どんな話を聞いたかは知らないが、このおっさんが、ただ巻き込まれただけの部外者だってのは理解したんだろ? なにか言うことは無いのか」

 少し待つが、ラガは黙ったままだ。小さく笑って、デニスが空気を混ぜるように片手を振る。

「いいって。俺も、ラガ君で遊ぶのが面白かったんだから」

「適当な事を言うんじゃない。子供は額面通りに受け取るぞ」

「俺自身が、そうやって育てられたからねー」

「道理で、性根が曲がってるわけだ」

「それより、この先の事を教えてくれ」

 デニスは軽く身を乗り出すと、寝転んだままの細田を見る。

「君たちは、あの一行を追いかけるつもりなんだろ? どう考えたって、間に合いそうにないけど……追い付いた時、まだラダーたちが無事だったとして……その後はどうするつもりなんだ」

「さあねえ。その辺りは、ダダに訊いてもらわないと」

「めんどくせー。いちいち説明しなきゃわからないのか?」

 言いながらも細田は足を振り上げ、勢いを付けて身を起こした。曲がった眼鏡を直してから、大山にだけ視線を向ける。

「いや、わからないか。俺の説明が足りてないもんな。山ちゃんよ。俺は最初から、あのガヤンっていう爺さんを疑ってるんだ」

「ああ……そうだな。って、待てよ。だ?」

「全部だ。あいつの話は、最初から最後までデタラメだと思っていい。ま、本当の話も混じってるけど」

 最初から、だって? 大山は頭が混乱して、ただ細田を見返すしかない。

「確信したのは、ユイダに着いてからだけどな。この国が、三十年も魔族の国と戦争をしてる? どこがだよ。平和そのものじゃないか。神のお告げがあった? そう信じたいだけだ。自分でも疑いかけている神の存在を証明するために、あの爺さんは躍起になって門の術を完成させた。そう考えると、ひとつの謎に説明がつきそうなんだ」

「ええと……その、謎ってのは」

「神からお告げがあった時、どっかの巫女さんが死んじまったんだろ。ミィナだっけか。精霊の巫女ってやつだ。俺たちは二日もユイダに居て、嘘をつく必要もない現地の人間から、色んな話を聞いたよな」

 細田が指を三本立てて、ひとつを折り畳む。

「道士は居る。道会の奴らは、魔法使いの取り込みから国の運営までがっちり絡んで、郷ごとに支部を置いて国民を見張ってる。でなきゃ、街道の警邏にまで道士を使う理由が無い」

 二本目の指が倒れる。

「呪術士も居る。むしろ、こっちが正しい意味での魔法使いだ。何かしらの法則でを使えるようになった人間は、かねと地位をチラつかされて道会に取り込まれる。それが嫌なら、あの子供みたいに能力を隠すしかない」

 両替屋で働いていた、リンの事だ。大山が頷くと、細田は残りの指を強調するように左右に振った。

「なら、巫女はどこに居る? 精霊は、いまでも信仰の対象として、国民に信じられているんだろ。あの兄ちゃんも言ってたよな。精霊の祠を巡るために、徒歩で旅をする奴らがいるって。なのに、巫女の話はどこにも出なかった」

「確かに……おかしいな。いや、ちょっと待てよ」

 大山は額に手を当て、あまり役に立たない記憶を掘り起こそうとする。最初にガヤンと話した時、あの老人は何と言っていた? 大昔に南の国から侵攻を受けるまで、この辺りの住民は、小さな集落を作って暮らす民族で……それぞれに、神や精霊を祀っていた。

「なにか引っかかるな。なんだっけ。巫女と近い単語を聞いた覚えがある」

「正解を言おうか? いまは道士に取って代わられた、ガヤンしかその名を口にしていない存在だよ」

「……祈祷師」

 言った途端、細田の顔がぱっと明るくなった。

 パチパチと拍手をされて、大山は少しだけ苛立ちを覚える。馬鹿にしているつもりは無いのだろうが、細田のこういう態度が、大山は昔から好きではなかった。他の部分で気が合わなければ、とうに百回は殴っている。

「正解! いやあ、やっぱり山ちゃんと喋るのは面白いわ」

「そりゃ、どうも」

「で、だ。逆にもうひとつ、里の人間が一度も言及しなかった存在があるだろ。そっちはなーんだ」

「俺は楽しくないんですけどね。もうわかったよ、神様だろ」

「そう。つまり、神はいないんだ」

「どういう道筋を通ったら、つまり、に繋がるのかわからないけどな。そう結論付けるのは早計だぞ」

 大山が言うと、細田はきょとんとした顔で見返してきた。

「なにが?」

「お前は聞いてなかったから、知らなくて当然なんだけどな。ラダーさんは、おかしな魔法を使っていただろう?」

「うん。なんか、光って爆発する玉な。ジョードにも、呪術士みたいな奴らが居るのかね?」

「それなのに、俺の魔法を見て言ったんだ。神なき我が身にも、その力が感じられる、とかなんとか」

「うん……ううん?」

「北の国では、民間人も神を信じているみたいだな。それとも、ドウリャに神が居る、ってのが常識なのか。もう一度、考え直す必要がありそうだぞ」

「ええー。山ちゃん、もうちょっと詳しく」

「後でな。休憩は終わりだ」

 大山は立ち上がると、ぽかんと口を開けているデニスを促した。

「おっさん、馬車を頼むわ。次の里まで、日暮れまでには着きたいから」

「お、おう……なんだか君たち、難しい話をしているね」

「気にするな。そのうち、あんたたちには関係なくなるよ」

「やーまちゃーん。情報くれって。気になるだろー」

「後にしろよ。早く人里に着かないと、馬も売れないんだから」

「えっ。なに、君たち馬を売っちゃうの? なんで? こんなに可愛くていい子なのに!」

「可愛いけど、邪魔なんだって。おっさんは黙ってろよ。なあ、山ちゃーん」

 くそう、ものすごく面倒くさい。

 大山は胸いっぱいに息を吸うと、騒がしい二人に大声で命令した。

「お前らうるさいぞ! 出発だ!」

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