第三次成長期
朱梨
第三次成長期
五年というのがミソだった。
どうやっても長続きしないのが私の悪いところだ。前の勤め先がだめで再就職したはいいが、この先続けていく自信もなく、かと言ってすぐに辞めてしまうのも癪であった。就職斡旋所でよく「三年は続けるべきですよ」と何の確信があるのだか分からない台詞を耳にする。彼等は何を根拠にそう言っているのだろうか、前もって用意した台詞を選択しているように思えて信憑性に欠ける。しかし、そう非難しても、就職しないと生きてはいけない世辞辛い世であるので、その言葉を信じるしかない。決心したのが三年目、嫌々続けてなんとか五年目。私にしてはよく保った方だろう。
そうそう。先日、何年か振りに江美子さんとばったり会った。
白く骨張った膝が覗く春めいたスカートをふわふわさせて、
「やだ。千鶴さんも辞めちゃったの。しかも、同じ五年目」手をリズム良く叩きながら、あはは、と笑っていた。
やはり、五年がミソらしい。
江美子さんとは、かれこれ十年来の付き合いである。同じ会社に新卒で同期入社し、五年後に同時に退職し、それからお互い転々と幾つかの会社を渡り歩いている。その時も、念のためキリのいい二年多くっていうのがミソでしたね、なんて言いながらお互い散々酒を飲んで、翌日には大層二日酔いに悩まされたが、それ以来電話での会話はちょくちょくしていた。電話を掛けてくるのは大抵江美子さんの方で、「ねえ、ちょっと聞いてよ」から始まるのがお決まりである。私の方から連絡を取ることは滅多になく、聞き役に徹することが多かった。
江美子さんから聞かされる話は、いつだって目覚ましいことばかりだった。いたって平穏無事なときには電話などしてこない。
その江美子さんと、旅に出るのである。
「ねえ、ちょっと聞いてよ」
初雪が降った夜だった。その日も江美子さんはいつもの様に電話を掛けてきた。
明日の会議で使う資料を見直すために、カバンいっぱいにダブルクリップに挟まれた分厚い紙束を詰め込んできたが、気怠くてやる気なんか出てくるわけがない。私の気持ちなんかを放って、気力でぱんぱんに膨らんだカバンが憎らしくなってソファーに思いっきり放った。徐に、冷蔵庫から缶ビールを1つ取り出して、プルタブを引いて気の抜ける音を立てる。若い頃は眉間に皺を寄せるほど苦かったのに、どうして、こうも美味しく感じるようになるんだろうか。数日前に作り置いたまま干涸びた切り干し大根を喉に押し込みつつ、会話を弾ませていた最中に、二人して、
「なんかやんなっちゃった」と声が揃ってしまった。江美子さんはいつも通りに、あはは、と弾み良く笑った。
やんなっちゃったからには、旅に出るしかないでしょう。
気がつくと、その日のうちに予定が完成してしまっていた。
江美子さんの荷物はやたらと多かった。一泊二日だというのに、人でも入っているのかと思う程の大型トランクに、胴体がすっぽり入ってしまいそうなリュックサック。肩には小型のショルダーバッグを提げ、左手には風呂敷包みがあった。江美子さんの身は荷物で武装されているようだ。どう見ても家出か夜逃げにしか見えない。それとも、本当に人でも入れてきてしまったんだろうか。
「いったいそんなに何を持ってきたのよ」
「うん、特に大したものでは」
江美子さんは少し罰が悪そうにはにかんだ。そういえば、五年ほど前にも一緒に旅行したような気がするが、ここまで荷物は多くはなかった気がする。
少し古びた駅舎を抜け、老いた駅長が首を揺らす改札に切符を通す。反対側のホームへと続く渡り廊下が少しキシキシと鳴った。冬の身体の奥がしんっとする冷たい風が心地良くて、歩みのリズムが早まると、後ろで、
「ちょっと、待ってよおおおお」と武装した江美子さんがキシキシ、キシキシといわせた。
乗客の少ない電車に乗り込み、座席に着いた途端、江美子さんは風呂敷包みを解き、中から小さなお弁当箱を四つ取り出した。赤、青、緑、黄、色とりどりのお弁当箱の角をきちんと揃えて窓際に置き、風呂敷はきっちり畳んでリュックサックにしまった。
「発車してからね」すかさず手を伸ばそうとする私を牽制するように、びしっと指を指しながら江美子さんは言った。発車ベルが鳴り響き、駅のホームが見えなくなると、江美子さんはお弁当箱を二つ手渡してきた。
色鮮やかな蓋を開けてみると、胃をくすぐる温かな匂いが漂ってきた。中には、真ん丸のおむすびに、さといもの煮物、だし巻き玉子、海老フライ、色々なお漬け物、焼き豚、黒豆。きれいにきっちり詰まっている。しかも、全部江美子さんの手作りだ。
「これ、すごいわね」
「朝早く起きて豪華なお弁当を拵えるなんて、中学の時に初めて男の子と海を見に行った時以来だわ」
江美子さんはがたん、ごとんのリズムに合わせて、歌うように澄んだ声で言った。
「海を、見にね」
海、海と何度か江美子さんは繰り返し言って、
「海のばかやろおおおお」と小さな声で叫んで、私と目が合って、いつものように、あはは、と笑った。
どうやら、江美子さんのやんなっちゃったことは恋愛絡みらしいが、珍しく直ぐには語ろうとしなかった。
江美子さんの豪華なお弁当を食べ尽くし、幾つかの山や平地をごとんごとんと揺られながら過ごし、うとうとしてきたところで目的地に到着した。春になるには程遠い渇いた冷たい風に包まれたが、何だか甘い匂いのするところだった。近くに川があるのだろうか。辺りがごうごうと鳴り響く。
背負っていた小さなリュックサックから宿を探すため地図を取り出そうとしたが、江美子さんはさっさと歩いて行ってしまった。寂れた雰囲気ではあるが、周囲には、小さな居酒屋や土産屋、山菜料理などを掲げた看板が点々と連なっている。
その中の一軒に江美子さんはすたすたと歩いて行き、何の躊躇もなく帳場に「ごめんください」と声を掛けた。
「もしかして、ここ、前に来たことあるの」
「大学生の時、初めて男の子とね」と言って、にやり、とした。
木の香るぎしぎし軋む階段を上り、奥の二階の部屋に通され、窓からは宿の崖下の川が見えた。駅前には人影が見られなかったが、川には釣り人が何人もいて、小さな魚が時折跳ねてはきらきらと光った。
宿のつっかけサンダルを履いて、よろよろと川原に下りる道を下って行くと、真冬の所為でもあるがとても寒々しかった。
川原の座りごごちの良さそうな石に座って釣り人をしばらく眺めた。鳥が川上へ飛んで行く。飛んでは大きな岩に止まり、今度は川下へ飛んで行く。何回でもそれを繰り返す。
「あのね」
しばらくの沈黙の後、江美子さんが口を開いた。川の音がごうごうと響く。
「小さい子って、何にでも”なんで”とか”どうして”って言うじゃない」
川に石を投げながら言った。水が静かに跳ねた。
「成長期頃の子供とか特に」
「そうかな」
江美子さんは何を言いたいのだろう。川を見つめながら、手なんかこすり合わせている。
「私ね。ちょっと、騙されちゃったのよ」
手をこすり合わせながら江美子さんは言った。
六ヶ月前ほどに知り合った男だという。会社の同僚からの紹介だったため、ちっとも疑わなかった。新しい会社を興すだとか、父の会社が不渡りだとかそんなよく分からない、今じゃ思い出す事も出来ないやたら有り勝ちな理由でお金を渡した。
一度に百万ならば疑いもするのだろうが、一回につき三、四万という数字なのでつい油断した。違うな。江美子さんはそんなに馬鹿な女じゃない。きっと油断したというのは嘘で、考えないようにしていたのだろう。
江美子さんは信じて、これから先一生付き合っていく人だと思っていたので、相手が借りる度に律儀に渡してくれた借用書は溜まっていき、それを収めた封筒に大大と”借用書在中”と書いては二人で笑っていた。
そんな彼が、一ヶ月前に行方をくらまし、同僚に聞けば、知り合いのまた知り合いが飲み屋か何かで話しかけられただけの男だったらしい。名前も本名ではないのだろう。
警察に行こうかと思ったが、騙されましたなんて言うだけ恥であるように感じたし、何より”貯金マニア”の江美子さんにすれば、たかが五十万円で生活が逼迫するわけでもなかった。そのため、今まで誰にも話さずにいたらしい。
江美子さんは優雅に煌めく魚なんかを見つめながらゆったりと語った。今までも目覚ましい話をしてくれる時は至って穏やかなのんびりした様子だった。今回もなかなか厳しい話であるにも関わらず、江美子さんはまるで新聞の端にある三面記事を読んで聞かせる様に、淡々とした口調だった。
「騙されるって、簡単なのね」
「そうかしら」
「自分は騙されることなんてないなんて思ってるでしょ」
「そんなことはないけれど」
大抵の人間は、自分が騙されることなんてないと思っているのが普通である。騙されやすいか、どうかは騙されてみるまで分からないけれど、自分を騙そうとする人間がいるなんてことに、まず考えが及ばないでしょう。江美子さんは説明した。なるほど。確かに、身の回りの人間が自分を騙す可能性、ましてや恋人が騙すなんてことを考える人は数少ないかもしれない。
「どうして」
しばらく、江美子さんの言葉を頭の中で反芻していると、江美子さんの口から言葉がぽろぽろ、漏れた。
「どうして、昔みたいに”なんで”とか”どうして”って言えなかったんだろう」
次々に石を川に投じるので、釣り人は嫌がって違う場所に移ってしまった。それほど大きな石でもないのに。
「私、あんなに好きだった人いないな」
川魚の刺身を口いっぱいに頬張りながら江美子さんは言った。私は、発するべき言葉など見付からず、ただ「そう」と江美子さんへ投げかけるだけだった。透き通った川魚の身がきらきらと光った。
「すごく好きにならせてくれたのよ。さすがよね。さすがに専門家よね」
帆立貝のひもにわさびをつけながら続けた。
「それはもう、こりゃあ”大恋愛”ですわ、って思ったんだもの」
江美子さんは大きなトランクからぱんぱんに膨らんだ封筒を取り出した。大大と”借用書在中”と書かれている。中身を一枚ずつ広げて私に見せてくれると、ぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに捨ててしまった。
「そういうのって、証拠になるんじゃないの」
「いいのよ、もう」
途端に、江美子さんは無雑作に服を脱ぎ始め、今度はリュックサックから、白地に黄緑の水玉の散ったパジャマを取り出して着た。浴衣は着ないの、と聞いてみると、寝てる間に前がはだけてしまうから着ないらしい。卓上のものをほぼ食べ終え、ビールも二人で三本も空けた。
「温泉に行かないの」
「そうね。じゃあ、行ってみましょうか」
着たばかりのパジャマを脱いで、白い薄手のワンピースに着替えた。浴衣を着て、宿の歯ブラシと小さな手ぬぐいを持っただけの私と、かさばるワンピースを着て両手いっぱいに洗面道具を抱えた江美子さんで、宿の廊下をミシミシ言わせながら歩いた。江美子さんから何だか甘い匂いがした。
「ねえねえ」
風呂につかりながら江美子さんが聞いてきた。
江美子さんは私の二倍時間をかけて髪を洗い、三倍の時間をかけて身体中を磨いた。その間、私は風呂に入ったり出たりを繰り返した。ようやく、江美子さんが風呂につかりに来たので、一緒に沈んだが、どうやら江美子さんは私が一回につかる時間の四倍は風呂に沈み続けるようだ。
「ねえねえ、私ね。何回か死にたくなったわよ」
江美子さんの肌は、白くてもっちりしている。細かな透き通るようなうぶ毛がはえていた。
「え」
「あのね、騙されたからじゃなくて」
「うん」
「騙されているって知らない時、あんまりに愛していてね」
私にしてはずいぶんと長く湯に入っているので、頭がぼんやりしてきた。
「でもね、私、人に愛されているっていうのがはっきり実感できたのは、今回初めてかもしれない」
「愛されていたの」
私が聞くと、
「違ったみたいなんだけれど」と言ってから、江美子さんはくしゃっと顔を歪ませて、いつものように、あはは、と笑った。川で大きな魚が跳ねるのだろうか、鳥が騒ぐのだろうか、時々水面を掻くような音が聞こえてくる。ぽちゃん、ぽちゃんと静かに鳴いている。
「もらったからあげたのかな」
「もらったって何を」
「目に見えないいろんなもの。目に見えないけれどほかほかするもの」
「もらったのかあ」
「うん。確かにくれたような気がする」
「騙されていたのに」
「まあ、騙す専門の人だったしね」
江美子さんは、淡々と「もらったわよ。本当にね」などと繰り返した。
「江美子さんがあげたのは何」
「お金と時間」
「なるほど」
「つまらないものよね、私の方は」
湯船の中で白い顔をほんのり桃色に染めながら、笑った。
もうでるよ、と言い置いて、先に風呂からあがった。部屋に帰ってテレビを見ていたが、江美子さんはそれから一時間経っても帰ってこなかった。
江美子さんの言葉をぼんやり思い返した。私、何回か死にたくなったわよ。そんな風に江美子さんは言っていた。死にたくなるほど人を好きになったことなどなかったので、なんとなく思い出したのだ。どうしてあんなにも苦々しい出来事であるのに、静かに穏やかに気持ちのいい声で笑うのだろうか。
言葉の綾ではあるが、死にたくなるなどただ事ではない。江美子さんのことが少し羨ましいような気分になった。羨ましさの中に、羨ましさだけではない余分ななにかが混ざっていて、それは少々居心地の悪いものだった。どうしてこんな気持ちになるのだろう。
江美子さんはようやく帰ってくると、ワンピースを脱ぎ、トランクの中からスラックスとセーターを取り出して着た。ああ、もうやあめたあと言い、仰向けに布団の上に倒れこんだ。私も江美子さんと並んで横たわり、顔を江美子さんの間近に寄せた。
「そろそろ、千鶴さんも自分の幸せ考えなよ」
ためらいもなく、天井のシミを見つめながら江美子さんは言った。
「幸せよ。食べるに困ってないし、元気で働いてられるし」
「じゃあ、私の前で泣かないでよ」
何を言い出すのやら。窓からは大きな月が見えていた。
「この際だから言うけれど。私、千鶴さんのそういうところが嫌いなのよ」
江美子さんは仰向けになっている私をじっと見つめた。風呂からあがった時には赤みがさしていた頬は、電灯の下で透き通って青白く陶磁器のようだった。江美子さん泣くかな、と思って眺めたが、泣きそうな様子はなかった。
「嫌味よ。田舎の大学から大企業に入って、気付いたら誰にもできないような仕事して、みんな優秀だからなって言うけれど、どれだけ努力してきたか私は知ってる。それなのに、何にも熱を持てないような顔して。努力しても何も残せない私のことなんか見下したっていいのに、絶対に千鶴さんはしないのよ。立派だわ。そのくせ、男で不幸になることで、仕事も上手くいかないふりしてセコくバランスとってるのよ」
電灯がじ、じと虫の羽ばたくような音を立てた。
「それが、分かっているなら私のことは放っておいて」
先ほど江美子さんを羨ましく思う気持ちの中に混じっていた、羨ましい以外の余分ななにかが急に押し寄せてきた。江美子さん、そんなこと言っちゃずるいよ、と言おうとしたが、ずるいというのも少し違う気がして、どうしてか言わなかった。代わりに、江美子さんを起き上がらせて、頬を両手で挟んだ。江美子さんは人形のように軽々と起こされ、人形のように瞬きせずに頬を挟まれた。
「嫌な女」江美子さんの頬に涙が伝った。川はもうごうごうとは響かなかった。
どうしてだろう。江美子さんはきらきらと綺麗だった。どうしてだろう。
頬を挟んでいた手を江美子さんの背中にまわし、抱き寄せた。人形のようだった江美子さんは人間に戻って、私を抱き返した。
それから声を潜める川の音を聞きながら、二人で目を閉じた。
どうしてだろう。私は涙を流せなかった。
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