或る夏の日の出来事

桜木 玲音

私を見詰める兄妹と 追い駆けて来る子供達

 


 これは私が子供の頃に実際に体験した奇妙な出来事である。

 その時の事はあまりにも印象的でずっと心に引っ掛かっていたのだが、

何故なのか分からなかったのだ。

 と言うのも、私はそれらすべてが単なる見知らぬ子供らからの嫌がらせだと思っていたからだ。

 


 八歳の夏。信州は信濃大町温泉郷に有る旅館に家族で泊まった時の事である。


 蝉の声と川のせせらぎしか聞こえない静かなその旅館に着いたのは、お盆を前にしたある日のお昼を少し回った頃だった。

 普段は静かであろう田舎の温泉街は、年に一度の花火大会が行われる為に車と人でごった返していた。そんな喧騒も大通りを少し外れたここへは届かない。

 私は小さな鞄を持って、袖口とスカートの裾にレースがあしらわれた着慣れないワンピース姿で車を降りた。二人の兄達は揃いの白いブラウスに紺のズボン。スニーカーではなく黒い靴を履いている。

 その日は親戚の誰かの法要が営まれる都合で、父も母も改まった服を着て、私達兄妹もそんな服装をさせられていたと記憶している。

 いつもは後ろで一つに縛るだけの私の髪は二つに分けられて所謂ツインテールにされ、あまつさえ鮮やかなリボンまで結ばれている。少しの気恥ずかしさに俯く私に母が言った。

「ちゃんと前を見て、堂々としてなさい。」

 実は、男まさりの私の普段を知っている兄達と、その可愛らしいヒラヒラの服の事で、ここへ到着するまでに、似合う似合わないで一悶着有ったが、母の一睨みで決着が付いている。母親としては娘を持ったからには、ちょっとでもお淑やかに見える服を一度は着せてみたかったのかもしれないが、ずっと兄達に負けない様にしてきた私にとっては、ワンピースは苦手な服の代名詞なのだ。

 旅館の玄関を見ながら母は日傘を開いた。

「皆さん到着されているかしら。」

「どうだろうな、酷く混んでいたし。とにかく部屋に案内してもらおう。」

 両親の会話をどこか上の空で聞きながら、私は車が旅館の玄関に止まる前から、庭の大きな石の上に座ってこちらを見ている男の子と、その子の妹らしいおかっぱ頭の子に気を取られていた。うちの親族は大人数だからまだ顔を知らない子もいるかもしれない、見慣れない子達だけど親戚の子達だろうか、などとどうでもいい事を考えていた。いや、本当の事を言えば、何時もと違う服装の自分が他からどんな風に見られているのかが滑稽な程気になって、人の目を特に自分と同じくらいの子供の目を気にしていたのだ。

 両親に続いて歩き出した長兄が、ぼんやりしている私に気付いて振り返って言った。

「何してるんだ、早く来いよ。」

 兄から指示された様に後ろから来ていた次兄が、何も言わずに不意に私の背中を押した為に、私はつんのめって転びそうになった。当然あの二人から視線は外れたが、次兄の突飛で乱暴な行動よりも、こんな無様な様子を知らない子達に見られてしまったかと、そっちが気になって物凄く恥ずかしい思いに駆られ、私は思わず庭にいた彼等を見た。しかし、石の上には誰もおらず、庭には人影も見えなかった。間一髪目撃されなかったのだろうか。それならいいが、後から会うかもしれないのに、顔を合わせた途端に笑われたらどうしてくれるのか、と私は次兄を睨み付けた。

「誰かが見てるかもしんないのに、変な事しないでよ。」

「何だよ。お前なんか誰も見てねえよ。もたもたしてるからだろ。早く歩けよ。」

 子供の喧嘩とは些細な事が原因だ。私はさっきの二人がいた場所を指差した。

「あそこにいたもん。こっち見てたもん。」

 次兄も意外と人目を気にする性分なのを私も知っている。そもそも次兄が車の窓から旅館の庭をじっと見ていたから私もつられて同じ方向を見たのだ。あんな目立つ所に座っていた二人が目に入らなかった筈は無いのだ。

「誰もいないよな、兄ちゃん!」

 次兄は先を行く兄を呼び止めた。長兄は車酔いをする体質で、次兄はここまでの道中の半分はずっと兄も窓を開けて外を見ていたのを知っていたのだ。いつもは活発な長兄も、やっと車から解放されたが、さっきとは違って疲労感が半端無い顔色で振り返った。

「えっ……何? 何か言った?」

 次兄は、私と同じ方を指差して半ば同意を求める様に言った。

「庭になんか誰もいなかったよね?」

「ああ。誰もいなかったけど……」

 それがどうした、と返して来た長兄も、私達のくだらない喧嘩を耳にしていたらしい。呆れ顔で私達を見下ろす長兄に、私はピョンピョンと飛び、足を鳴らして精一杯訴えた。

「いたもん。絶対いたもん。男の子と女の子だったもん。」

 普通なら問題は次兄のいきなりの行動だった筈が、この妹の矛先が既にブレ始めていると六歳年上の彼は思ったのか、この面倒くさい局面を一言でもって火消しに回った。

「ごちゃごちゃ言う奴は、置いて行くから。」

 静かな長兄の一言は効果絶大だった。子供は犬猫人に関わらず押し並べてになる事が一番怖いものだ。野生の世界では親に逸れた子供の生存率は極端に低い。私が弱い兄のその一言も、人の子なりに持ち得た本能的な所から来ていたのだろうと思う。

 私は次兄にイーダをして、長兄の服の裾を掴んで隠れる様にくっ付いた。


 二階にある部屋に通され、夕方に始まる催しまで少し時間が有ると説明され、私達三兄妹は早速母に小遣いを貰って、玄関ホール横のゲームコーナーへ出掛ける事にした。

 そんな時も心の何処かで、さっきの子供達にはどうか鉢合わせしません様に、と呟く私がいた。何故そんなにもあの二人が気になっていたのかは説明など付かないが。


 三人で廊下に出て、渡り廊下で繋がった別棟に目線をやった私の胸がドキリと鳴った。例の二人の子供が遊んでいるのが見えたのだ。あの二人もやはり私達と同じ様に改まった服を着ている所を見ると、親類とかではなくても、間違いなく何かの行事に出る為にこの旅館に来ているのだろうと思った。

 私は二人を見ながら長兄に言った。

「お兄ちゃん、あの人達ももしかしてうちの親戚?」

 この時実は、兄達は私とは違う廊下の向こうの、今到着したばかりの一団を見ていたのだ。

「お婆ちゃんの妹の家の人達かな。知らん顔するんじゃないぞ。ちゃんと挨拶しろ。」

 長兄に言われて、私は自分の視界の中で私が見ている事に気付いて顔を上げた女の子にチョコンと頭を下げた。女の子は小首を傾げニッコリと返してきた。赤面してしまう私に兄の方も妹の様子にこちらを見た。私は咄嗟にまた頭を下げた。

「行くぞ。売店でジュースでも買おう。喉、渇いただろ。俺、コーラ。お前らは?」

「俺もコーラがいい……」

 兄達の声に振り返り、出遅れた私は少し先を行く二人に続こうと小走りになった。不思議な事に、挨拶が交せたからか、あの子供達を何故か意識する私は何処かに消えていた。

 しかし、その瞬間から奇妙な事は始まっていたのだ。

 兄達と私の距離は、広いとは言っても建物の中なのだから大して廊下も長く無い筈なのに、私は中々二人に追い付く事が出来なかった。精一杯走っても何故か追い付かないのだ。

 私は息切れしながら半分叫んでいた。

「ねえ、待って!」

 次兄がちらりと振り返ったが、階段を下りて先を行ってしまう長兄に続いて彼も私の視界から消えてしまった。すぐそこのさっき通された部屋に戻れば父母もいる。ここは建物の中なのだから何も心細い事など無いのに、私は酷く焦って、二人が下りて行った階段へ駈け込んだ。

「!」

 二人を追って駆け降りようとした私の目に飛び込んで来たのは、やや暗い階段を埋め尽くす子供の群れだった。彼等は、その光景に絶句している私には気付いていない様に気ままに遊んでいる。しかし彼等は、今から思えば明らかに老舗旅館と言う場所柄に対して違和感が有ったのだ。上は中学生、下は幼稚園児程の幼児までいるのだが、彼等の服装が全体に煤けた色をしていて古臭く、誰もが無言で、みんな薄汚れた裸足なのだ。

 少しの不自然さは感じたが、とにかく普段通う学校ならば、そんな子供達が何人いても皆が顔見知りだから平気だが、ここは私の学校ではない。知らない子供達の間を抜けて行ける程、その時はまだそんなに人馴れしていなかったのだ。

 私は咄嗟に後ろを振り返り、廊下の反対側に有る階段を使おうと慌てて駆け出した。

 ところが。

 勢いよく一歩踏み出そうとして、私はまた息を呑んだ。今来た廊下には階段と同じく、学校の休み時間の様にたくさんの子供達がひしめき合っていたのだ。特に私のすぐ後ろには、通せん坊をする様に小さな丸刈りの男の子が一人、手を精一杯広げて私を見上げて立ち塞がっていた。

 何時の間にこんな大勢の子供達が、何処から湧いて出て来たとのかと言う疑問など、その時の私には一切浮かばなかった。

 ましてや私の前に立つこの子は、図々しくも初対面の私に遊んで欲しいとでも言うのだろうか。行く手をいきなり阻むなんて年上の者に対して無礼だろうと思うのみだった。

 私は目を吊り上げて、目の前の男の子を睨み付けた。

「どいて。」

 口から出た声は、自分でも驚く程低かった。

 男の子はそれを聞いた途端、目に涙を溜めてそれでも通せん坊を止めなかった。

 道を空けないなら、と私は男の子を避ける様に横に小さく跳び、手の届かない距離を取って駆け出したが、男の子は、どうしても私を止めたいのかスカートの裾を掴んだのだ。

 その感覚を振り返らず、私は男の子を振り切って走り出した。ところが、今まで私には無関心だった廊下にいたその他大勢の子供達が、次々と邪魔する様に動いたのだ。

 私は口をぎゅっと結び、彼等を掻き分けて廊下を進んだ。私よりも背の高い上級生も、さっきの子の様な小さい子もいる。そんな中で私は、何か大事な事の順番の為に並んだ列を乱そうとする私を諫める様な事を、彼等が口々に言っている事に気が付いた。私は彼等と目を合わせない様に真っ直ぐだけを見て、肩を掴もうとする手と言う手をすり抜け、とうとう子供の群れから脱した。

「私は関係ない。そんな列に並んでない!」

 汗だくになりながら、振り返らずにそう叫ぶと今度こそ一気に駆け出した。

 とにかく一階の売店へ行かなくては。きっと兄達が私の分のジュースも買って待っているに違いないのだから。その時の私の頭の中は何故かその事だけで埋め尽くされていた。まさか遅れたからと言う理由で勝手に要らないものだと判断されて、兄達に私のジュースを飲まれては大変だ。とにかく早く行かなくては。八歳の私にはそれが最優先だったのだ。

 見知らぬ子供達に通せん坊をされた事も、ジュースにありつけなくなると言う焦りに比べれば取るに足らない日常だ。

 ところが、何かの気配に気付いて走りながら振り返ると、さっきの子供の群れが一斉に私の後を追い掛けて来るではないか。

 何だこのしつこさは、と思った途端に、鼓動が跳ね上がった。私はそれに素直に従って走る足を速めた。一体私が何をしたと言うのか。さっきの小さい子に、と言った事がそんなに悪いのか? 無礼なのはあちらだ。

 自慢ではないが私は同学年の男子よりも足が速い。こんな服を着ていても私に追い付けるのは、ここでは長兄だけだと強く思った。

 私はスカートの裾を翻して階下への角を曲がり、一気に下へ駆け降りた。大勢の足音が私を追い掛ける様に階段を下って来る。一階の廊下に出ると、後は売店がある玄関ロビーへは一直線だ。ただし、一番近い階段に群がっていた子供達に気付かれなければの話しだ。いや、あいつらに私の目的地が売店だと知られさえしなければ上手く行く筈だ。

 この旅館の建物は中庭を囲む様にロの字型になっている。庭に面してぐるりと廊下が廻っている為解放感が有る。つまりは見通しがきくのだ。玄関への通路が有る角を1とするなら、今いるのは2のかど。対角に有る一番遠いのが3の角。そして最終コーナー4である。

 彼等の様子からして、後ろから来ている奴等と階段にいた奴等をわざとぎりぎりまで引き付けて売店の傍から引き離し、追い付かれない内に反対側へおびき寄せ、隙を衝いて兄達のいる売店に逃げ込むしか無いと思った。

 私は階段の下で立ち止まり、ロビー側の1の階段を見た。案の定、仲間の動きに気が付いてたむろしていた子供達が私の姿を見付けどやどやと階下に降りて来たかと思うと、一斉に廊下をこちらへ向かって走り出したのだ。私の後ろからも階段を下りて来る大勢の子供の足音が迫って来る。振り返った私と先頭の子供の目が合った。それを合図の様に私はゆっくりと目的地とは反対側へ移動した。

 彼等は、さっきは通せん坊までしたくせに、今度は牽制する様に二m程の距離を置いて肉迫しては来なかった。

 私は、全員の眼が私を見ているのを確認し、彼等を見ながらじりじりと後ずさりして一つに固まるのを待った。

 何故私は追われているのか。そんな疑問など、その時の私には微塵も湧かなかった。売店へ逃げ込めば、兄達の他にロビーには旅館で働く大人もいるだろう。彼等はそれ以上追い掛けて来ない筈だ。つまりこれは全く楽しくない一方的な追い駆けっこなのだ。

 大勢の足音を背に私はゆっくり走り出した。

 思った通り子供の群れが一塊になって私の後に付いて来る。ロビーへ続く通路とは対角の3の角へ来ると、私は立ち止まって振り返った。子供達は先頭が不意に止まった為に、次々と前の者にぶつかり団子状態になった。

 私は彼等の様子に呆れながら腕を組んだ。

「何で付いて来るの?」

 不機嫌な声で言った私の問いに、先頭にいた男の子が困り顔になって言った。

「分からんのかよ。」

 そう遣り取りしながらも、私は向こうの廊下にいる子供達の様子を見ていた。

「分かんないから、聞いてんでしょ。向こう行って!」

 ロビー側の階段付近に子供の姿が途切れた。もう充分だと判断した私は、答えを聞かずに出し抜けに走り出した。そのまま全力疾走で見えている4の角を曲がり、最後の直線を誰にも追い付かれずに駆け抜けた。しかし、廊下からは見えていなかったロビーへの通路に入ると、別棟にいた筈のあの二人の兄妹が、私の通過を阻む様に手を広げて立っていたのだ。私は駆けて来た勢いそのまま二人の手の間を潜り抜けてロビーの空間へ滑り込んだ。後ろには追い付いて来た無数の子供の足音と、逃げられたと知って、私をなじる声が聞こえていた。私は通路から入って来ないでうろうろしている彼等を振り返り、やはり大人の目が有れば何も出来ないんじゃないか、と呆れ、売店へ向かってわざと悠々と歩き出した。

 私が駆け込んで来た事に気が付いた長兄が、次兄の興じるUFOキャッチャーを覗き込むのを止めて手招きをして、台の上に有るジュースを指差した。

「買っといたぞ。何やってたんだよ。」

 私は嬉しくてついピョンと跳ねてジュースを手に取り、素早くそこら辺でまだうろうろしているだろう子供の群れを見た。ところが、

「あれ? 誰もいない。」

 そう、あれだけしつこくしておいて彼等は蜘蛛の子を散らす様にいなくなっていたのだ。

 喧騒が消えたその同じ視界の中へ、法事が始まるよ、と母が知らせに来た。

「リボンはどうしたの? 片方無いわよ。」

 母に指摘されて頭を触ると、ツインテールにされていた一方のリボンが解けて無くなっていた。私は固まった。見知らぬ子供達に訳も無く追い駆けられた事や、自分より小さな子にちょっと酷い事を言った事まで、全部説明しなければならなくなりそうだからだ。

「走ったりするからよ。旅館の人に探してもらうから、代わりのを付けましょう。急いで部屋に帰るわよ。お兄ちゃん達は宴会場に先に行っていて。お父さんが待ってるから。」

 いつもなら何だかんだと母の小言が始まるが、今日は特別らしい。冷汗をかきながらも私はちょっとほっとしたのだった。

 

 誰の法事だとか当時は教えられていなかったが、とにかく賑やかな事が好きで、特に親戚が一堂に会する機会を生前も度々設けていた故人を偲んで催されたのだと言う事は聞かされていた。何でも命日は二週間も後だが、わざわざ温泉街の花火大会の日を選んだのには訳が有り、法事が終われば皆で花火見物に繰り出して楽しんで欲しい。そしてこの日を忘れないで欲しいと言う思いだったとか。子供だった私達には堅苦しい法事は一分一秒でも早く終わって欲しいと思うだけだったが、素晴らしい花火のお陰か、二十年以上経つ今でも親戚が寄れば話題に上るのだから主催側の思惑通りになったと言える。私には別の記憶のお陰も有るのだが。

 

 法事の後、部屋の窓からも花火は見えたが、各々温泉に浸かりに行ったり、浴衣に着替えて河原へ夕涼みがてら花火を見物に行ったりしていた様だ。私達兄妹の楽しみは専ら会場近くで開かれていた出店の方で、花火の爆音を背中に金魚すくいやリンゴ飴に夢中だった。


 花火が終わり旅館へ帰って来た時、私はあの兄妹が玄関に立っているのに気が付いた。勝手に仕掛けられた追い駆けっこを振り切って逃げた私には、何故か少しの優越感が有った。黙って恨めしそうに見ていないで、一緒に遊びたいならそう言えばいい。私はわざと知らん顔をする事にした。

 しかしそんな思惑の私ならいざ知らず、両親も兄達も、二人の前を通る時には黙ったままそこに誰もいない様に行き過ぎて行く。法事の席でも見掛けたのだから彼等も親戚の子供達の筈なのに、声も掛けないのかな、普段挨拶には煩いのに、らしくないなと両親の様子を不思議に思ったが、何か言いたそうにしている兄妹を見ながら私も家族に続いた。遊んでいて花火を見逃したのだろうか。それで楽しそうに戦利品の金魚を持って帰って来た私達が羨ましかったのかな、と少し思った。

 黙って立っていた二人は、私と目が合うとはにかんだ様に笑って、示し合わせた様に私達の後に付いて来た。部屋が近いのなら一緒に行けばいいかと別に嫌な思いは無かった。

 二階の一番奥の角が私達家族の部屋である。袋に入れられた小さな金魚の様子を見ながら歩く私の後ろに付いて来る二人も、その内に何処か自分達の部屋へ入って行くだろう。そう思って別に気にもしていなかったが、どうした訳か二人は離れても行かず、とうとう私達に付いて部屋に上がって来た。

「さあ、お風呂に行くわよ。金魚は洗面所の洗面器に入れて上げなさい。下着とかタオルは自分で持って行ってね。」

 慌ただしく用意を始めた母を尻目に、他所の子がここにいるのに、部屋からは誰もいなくなるから自分達の部屋へもう帰った方がいい、とか言って上げればいいのに、と思いながら私は勝手に遊び始めた二人を見た。

 父も兄達も、別に彼等がそこにいる事を気にもしていないのか何も言わない。その内に私達が風呂へ行った事が分かれば、勝手に帰って行くだろう。みんなそう思って黙っているのかな、と私もそう思う事にした。

 大浴場では、当然ながら親戚の女性陣と行き会い、見知らぬ利用客らとも和気あいあいとして過ごし、湯船で一泳ぎも二泳ぎもして上がると、母と連れだって売店へ立ち寄った。母は職場の友人への土産を買い、私は小さなキーホルダーと缶入りの飲むオレンジゼリーを買ってもらった。昼間のゲームコーナーとは隣り合っていて、性懲りもなく兄達が誘ったのか父と一緒の姿が見えた。他に客はいなかった。

「先に部屋に帰っているから。」

 母の言葉に手を振る父を見ながら、母と手を繋いでその場を後にして部屋へ戻った。兄達とゲームをしたい気も少しは有ったが、濡れた髪を一刻も早く乾かしたかったのである。

 少し赤い明かりの点った廊下を歩きながら、母とは何気ない話をした。

「お料理は美味しかった?」

「うん。鮎の焼いたのも大好き。」

 私は何処かからあの二人がこちらを見ていないか気になって、無意識に目線を走らせていた。時刻は九時を回った頃だ。退屈だからとまた部屋にやって来ないか何故か心配だった。そうなれば今度こそ母が彼等に帰るように言ってくれるだろう。何も気に掛ける事は無いのに、そんな事が気になってしまうのだ。

「リボンは何処にも落ちてなかったって。あなた何処で遊んでたの?」

「えっ……売店と廊下だけだけど……」

「そうなの? 買ったばかりだったのにね。色も気に入っていたのに、残念だわ。」

 落としたのは間違いなく二人の手を掻い潜ってロビーに突入した時だ。でも言われてすぐに探しに行ったが、何処にも見当たらなかった。もしもあの二人のどちらかが持っているのなら、返してくれてもいいのにと思った。


 部屋の前まで来た時、視線を感じて見ると、通り過ぎて来た隣の部屋からあの兄妹が顔だけを出してこちらを見ていた。さっき部屋まで付いて来たのも、実は拾った私のリボンを返してくれるつもりだったのかもしれない。部屋の何処かにもう置いて行ってくれたかもしれないと思い付き、私は確認しようと部屋に入ったが、リボンは何処にも無かった。

 そんな訳無いか、とちょっとがっかりしていると、私達の部屋の玄関に当たる所の横に設置された廊下の電灯のスイッチを、パチンパチンと何度も入り切りさせる音がして来た。

 部屋に戻ったのを見て、あの二人が私に出て来いと誘っているのだろうか、と少し思ったが、時刻を考えれば向こうの親だって、寝る時間だと言って止めるだろう。聞こえない振りをして、出て行かなければ二人もその内に諦めるだろう。そう思っていたが悪戯は中々止まず、母にドライアーで髪を乾かしてもらっている間もずっと音は続いていた。

 親戚の子供達だろうが何だろうが、いい加減にして欲しいと私は苛立ち始めた。

 父と兄達が帰って来て、寝る準備を進めていると、向こうの部屋にも人が帰って来た気配がして、あの二人も中へ呼ばれたのかいつの間にかスイッチの音は止んでいた。

 これで静かに眠れる、と思ったのも束の間。今度は何人もの人の声が壁を通して隣の部屋から聞こえ始めた。何を話しているのかははっきり聞こえないが、かなりの大声であまつさえ麻雀が始まってしまった様だった。ジャラジャラとパイを混ぜる音。雑談をする大人の声。そしてあの子供達だろうか笑いながら走り回る足音だ。普通ならそろそろ就寝の時間だ。迷惑だろうとは思わないのだろうか。

 足音が廊下へ走り出て行く。私達の部屋の前に来た。きっと性懲りもなくまたスイッチを悪戯する気なのだと思ったら、今度はインターホンを鳴らしてきた。

 玄関横の洗面所で歯を磨いていた私は、家族が誰も呼び鈴に反応しないのを不審に思いながら、奥で化粧を落としている母に言った。

「誰か来てるよ、お母さん。」

「えっ? 何も聞こえなかったわよ。」

「ピンポーンって鳴ったよ。」

「手が離せないから、代わりに出て。」

「うん。」

 私が応対に出ても、彼等を静かにさせる効果は無いんじゃないかな、と思いながらドアを開けて顔を出すと、やはりあの二人が廊下でうきうきした様に立っていて、私の顔を見ると何も言わずにキャッキャと笑いながら素早く隣の部屋に入って行った。

 馬鹿にされた様でムッとしたが、私は精一杯我慢しドアを閉めた。

「誰だった?」

「悪戯みたい。」

「悪戯? 一体誰かしら。アナタも歯磨きが終わったら早く寝なさい。朝ご飯の時間に間に合う様に起きるのよ。」

「はーい。」

 そうは言うものの、隣の部屋の大人達はまだまだ眠る様子は無い。麻雀はさっき始まったばかりなのだ。きっとあの子達もそんな中では眠る事なんて出来ないのだろう。

 

 横になって一時間以上は経っていたと思う。

 私が予想していた通り、騒がしい隣の部屋の様子は変わらず、私はその音が耳に障り全く眠る事が出来なかった。

 走り回る音が笑い声と一緒に聞こえて来る。世の中には常識的な大人ばかりいる訳では無いのだとその時私は半ば呆れていた。注意する大人は隣の部屋にはいないらしい。自分達の方が夜中ずっと騒いでいたいから、子供達も好きな様にさせているのだ。隣の部屋に聞こえていようがお構い無しだ。大人が悪いのだと始めは少し同情し理解しようと思ったが、明らかにあの子らもそれに倣っている。誘いになんか乗ってやるもんか。もしも次にあの子らがインターホンを鳴らしたら、ドアを開けて思いっ切り怒鳴ってやるんだ。どれだけ迷惑しているか言わなきゃ分からないなら、そうするしかない。

 眠れない私は、彼等が仕掛けて来るのを今か今かと身構えていた。

 その時は意外と早く来た。走り回っていた足音が私達の部屋の前で止まったのだ。

 ピンポーン

 来た! 現行犯だ! 

 私は素早く起き上がり、玄関に走り出ると勢いよくドアを開けた。今度は例の子供の姿は見えなかったが、軽い足音が愉快そうに隣の部屋のドアを開けて入って行ったのが分かった。私は彼等の後を追い掛ける様に廊下に出て叫んだ。

「いい加減にして!」

 それに応える様に笑い声が聞こえた。

 まったく有り得ない。どれだけの怒りをぶつければあいつらは静かになるんだろう。私は息が切れる程頭に血が昇っていた。治まらない鼓動のまま布団に戻ったが、そんな状態では益々眠れる筈がない。

 麻雀パイを混ぜるジャラジャラと言う音が、背を向けた壁の向こうでまた始まった。枕で耳を塞ぐと少しは聞こえなくなったが、私が怒った様子を見せた事で、あの子供達は中の大人達に話したのか、彼等はそれを面白がっているらしく、ゲラゲラと笑う声が聞こえ、そいつが隣の部屋にいる、とでも言ったのか、非常識にも今度は壁を叩き始めたのだ。

 私は堪らず隣に寝ている長兄を揺すった。

「お兄ちゃん、隣が煩くて眠れない。」

 しかし、一度眠ってしまうと長兄が滅多に起きてくれないのも知っている。反応したのは長兄を挟んでその向こうで寝ていた次兄だった。

「騒いでんのは、お前の方だろ。早く寝ろ。」

 彼は眼も開けずに面倒臭そうに言うと、ごろりと背を向けた。

「違うもん、私じゃないもん。」

 それでも家族の誰一人として起き出す様子も無い。

 私の中で何かが音を立てて切れた。

 話し声が聞こえて来る隣との壁に向かって、私は精一杯の声で怒鳴った。

「うるさい!」

 呼応する様に沸き上がる隣の笑い声。

「うるさいって、言ってんでしょう!」

 私は目の前の壁に嵌った柱を思い切り蹴った。それがどう伝わったのか、その瞬間、ざわついていた空間が明らかにシンと鎮まった。


 昼間の疲れも有ったのか、私はそのまま翌朝、旅館の支配人が私達の部屋へ挨拶に訪れるまでぐっすり夢も見ずに眠っていた。

 玄関で話す聞き慣れない人の声に目を醒まして私が顔を出すと、黒服の穏やかな笑顔の支配人は、優しく私に笑い掛けて来た。

「よくお休みになれましたか?」

 私は小さく首を横に振り、昨夜の隣の部屋の逸脱した様子を子供なりの言葉で訴えた。彼は一瞬困った様な表情を見せたが、静かに言った。

「そうですか。昨夜、お隣のお部屋はどなたもお泊りではなかったのですが……」

「それならきっと、無断で入り込んだ人達よ。もっと許せない。煩くされて全然眠れなかったんだから。」

 子供が相手でも、彼はあくまで礼儀正しく対応してくれた。

「何が有ったのでしょうね。隣のお部屋をご覧になられますか?」

 支配人は私を伴って部屋を出た。何事かと後ろを付いて来た母に、彼は申し訳無さそうに言いながら隣の部屋の鍵を開けた。

「隣の客室は空調が壊れておりまして、暫く使えない状態なのです。お客様はお子様をお連れとお聞きしておりましたので、少しでも静かな角部屋をと、割り振ったのですが。」

 あの傍若無人な奴等に、部屋の中は滅茶苦茶に荒らされていて、この冷静な支配人も母もきっと驚きに声も失くす筈だ。

 ところが……

「この通り、掃除も行き届かず埃が溜まったままになっております。お嬢様はきっと慣れない場所でお疲れだったのかと存じます。」

 彼の言葉通り、カーテンが閉められたその部屋は、暗くガランとしていて何も置かれておらず、締め切られていた部屋独特のカビ臭さと、畳の上に薄っすらと積もった埃が、かなり長く人の行き来が無い事を物語っていた。

 いつの間にか二人の兄も私達の後ろから部屋の中を覗き、ついでの様に次兄が言った。

「昼間も運動会みたいに一人で走り回ってたし、誰もいないのに、誰かいる、とか言って脅かそうとするし。そんな手に乗るか。」

「一人じゃなかったもん! あの煩い二人だって親戚の子達なんでしょう!」

 すぐ後ろにいた長兄が、遮る様に私の頭を押さえて黙らせた。

「あの二人って誰の事を言ってるんだ? お前、昨日ずっと変だったよ。支配人、本当、妹がすみません。」

「他にお子様のお客様もいらっしゃいませんでしたし、退屈されていたのでしょう。」

 それを受けて母も慌てて話に加わった。

「退屈なんてとんでもない。花火大会も縁日も充分楽しみました。それにリボンも一生懸命探して頂いて、色々ご迷惑をお掛けして、申し訳有りませんでした。」

 子供の客は私達以外いなかったと言われ、全く納得出来なくて、涙を溜めて見上げた私に支配人は小さく頷き、目線を合わせて頭をそっと撫でてくれた。

「いいえ、お子様は賑やかなものです。私どもこそ、申し訳有りませんでした、お嬢様。」

 彼のその一言は、あの子供達をまるで自分の家族の様に思っている人の言葉の様に聞こえ、私の心は不思議と鎮まった。

 

 帰宅後、母がクリーニングに出す為に見ると、私が着ていたワンピースのスカートには、くっきりと小さな子供の泥の手痕が残されていた。母からは、こんなに酷く汚して、と叱られたが、私の手よりも随分小さいその痕を見ても、何故かあの時の支配人の優しい顔が思い出され、代わりに謝ってくれたからもういいんだと思い、私は何も反論しなかった。



 十数年経ち、またあの旅館に泊まる機会が訪れた。

 私も二十代半ばになっていたが、まだあの日の事が頭に有り、また眠れなかったらどうしようと心は重かった。それはどこか懐かしいが、子供の頃の面倒臭い友達との再会に似て、照れ臭いような嬉しい様な複雑な思いだった。しかし、到着した私を出迎えたのは姿は似ているけれどあのではなく、私は暫く玄関ロビーで立ち尽くしてしまった。

 何かが無い。

 昔感じた何かが完全に無くなって、そこが普通の、他のホテルなんかと変わらない場所になったと思った。

 何もいなくなった? 空気が変わった?

 何だろう、と思って考え込んでいると、久し振りに会った叔母が話し掛けて来た。

「どうしたの、何か心配事?」

「大丈夫。そうじゃない。ただね……」

「どうしたのよ。」

「ここって、昔のまま? 何だか雰囲気が全然違うから。」

「どうしてそんな事を聞くの?」

 そこで子供の頃の体験を話して聞かせると、叔母は眉を寄せて言った。

「ああ、そっか。昔よくここに来てた時の建物はこの玄関を残して全部建て替えたのよ。だから雰囲気変わって当り前。その子等はアレね。あの建物に棲んでた姿なき住人。以前の建物はね、一部戦前の小学校の校舎を改築したものだったから、年の近いアナタが泊まりに来て、その子らは嬉しかったのよ。私も何度もここには来たけど、残念な事にもうオバサンになってたから一度も遭ってないわ。アナタがもっと優しい性格だったら、もうちょっとでもっと奇妙な世界に連れて行かれていたかもよ。」

 絶句した私の様子を見た叔母は何かに納得した口ぶりで、

「そう言う事か。もっと小さかった頃、アナタをここに連れて来ると決まってはしゃいで眠らないの。池で一人で遊んでたり廊下で転げ回って笑ってたり。」

「えっ……何度も来てたの?」

「そうよ。ウチの親戚関係の行事は決まってここ。最後に来た記憶が有るのはその時ね。小学生になってたから当然か。それは私達には見えてなかったソイツらからの最後のお別れだったのよ。もうアナタに会えないのを知っていたんだね。子供だから素直にさよならを言えなかったってやつだよ。」 


 あのスイッチを入れたり消したりする連続音は、典型的な霊症のと言うらしい。

 

 叔母には、それは霊現象だったに違いないと指摘されても、私にとっては今でもちょっと奇妙だが普通の夏休みの出来事なのだ。確かに彼等はいたのだから。

 もう一度会いたかった。

 そう思うのも正直な気持ちだ。



 最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。




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