04

 瞼を開くと、もう見飽きた綺麗な木目の天井が見えた。麗らかな太陽の光が私の上に覆いかぶさっている柔らかい布団を温め、冷えきった身体の中身を徐々に温めてくれている。けれど、まるで憔悴しているかのように全身は怠かった。

「ごめん·····僕が力不足だったから、あなたを危険な目に·····」

 温かな光をこぼす窓と反対方向から、喉を通りにくそうな言葉を必死に絞り出す声が聞こえてきた。ゆっくりと顔をそちらに倒すと、そこには手を強く握り締め、顔を顰めながら俯くメモリアがベッドの隣に座っていた。

「メモリア·····私·····」

「本当にごめん。僕があなたを上手く引き戻せなかったが為に、あんな危険な目に合わせてしまった。もう少しであなたは──」

 その続きは引き攣った喉に阻まれて声になっていなかった。けれど、メモリアが言おうとしていたことはなんとなくわかっていた。

 あのままメモリアの手を取れていなかったら、きっと私はあの記憶に取り残されていたのだろう。

「私こそごめんなさい·····私が一度、君を拒絶したから·····」

「違う、あれは僕の力不足だ──」

「私、あんなことになるなんて思っていなかったから──」

 私も俯き、自分の感情的で疎かな行動を心の中で叱咤する。優しく手を差し伸べてくれたメモリアの手を八つ当たりで突き放したから、あんな危険な状況に陥ってしまったんだ。

「あそこまで記憶に引き込まれると、記憶の中でしか存在できなくなってしまう。だから本当は、一度目の時にあなたを連れ戻さなければならなかったんだ。けれど僕は、そこから上手くあなたに接触できなかった·····」

 今まで定期的にメモリアが記憶の中で現れ、私にそこが記憶の中だと気付かせてくれたりここに連れ戻してくれていたのは、そのまま記憶にのめり込むとここに戻れなくなる危険性があったかららしい。

「ここは記憶を整理する場所だ。同時に、ここで自分は記憶の中に存在するのではなく、記憶を取り戻す為に記憶を追体験しているんだと認識する場所なんだ。本当は、そんなことをあなたが知るべきではなかったのだけれど·····」

 どれだけ続けても、メモリアの表情は複雑に歪んだままだ。そんな彼の表情が、あの状況がどれだけ生み出してはいけなかった危険な状況なのかを物語っている。

「とにかく、今回はなんとか助かった。でも、あなたがどれだけそんな危険性を秘めているのかもわかっていたのだから、あるいは初めから言っておくべきだったのかもしれない──これからは、ちゃんと気を付けるよ」

 メモリアはそう謝ったが──本当に悪いのはいつもいつもメモリアに感情的に八つ当たりする自分自身だということが、よくわかっていた。結局私は、小学生の記憶を経ても何も成長していない。考えれば考えるほどに自分が嫌になって、そして触れるものを傷付けてしまっている。

「大丈夫。僕は大丈夫だから、あなたは自分を責めてはいけない」

「でも、私っ──」

「あなたが見なきゃならないんだ!」

 起き上がって勢いよく反論しようとした私の両肩を掴み、私以上の勢いでメモリアは訴えかけてきた。その瞳には純粋な気持ちが宿っているようで、真っ直ぐな視線が私を貫く。心の中に巣食っていた戸惑いのようなものは、その視線に射抜かれて消え去った。

「あなたは、ここで記憶を取り戻さなくちゃならない。僕はそれを、きちんと案内しなくちゃならないんだ。だから、あなたは自分を責めないで」

 いつもの穏やかな口調を取り戻しながら、メモリアは私を宥めてくれた。色々なことが重なり過ぎてごちゃごちゃになった胸の内を、何度か深呼吸を繰り返してから覗いてみる。

「私、佳奈に酷いことを言った。こんな私と仲良くしてくれていたのにっ──」

 思い返しただけで全身がりきみ、やりきれない思いが胸を強く締め付ける。同時に湧き上がってくるのは、あの三人組に対する強い怒りだった。締め付けに反発するかのように膨張していく怒りが、みるみるうちに表情にまで染み出してくる。

「──彼女達に何があったのかも、佳奈さんのあの時の気持ちも、僕にもあなたにもわからない。けれど、今まであなたと佳奈さんが築いてきた友情は本物だろう? 僕には、佳奈さんがショックを受けたとは思えても、本当にあなたを嫌いになったとまでは思わないよ」

「そんな、都合のいいこと──」

 誰も許されないし、私も許さない。

 私は佳奈を自分勝手に傷付けた。それが事実だ。たとえその先、佳奈が私を許したとしても、私は私を許さない──許せない。

「私はなっちゃだめなの。両親みたいに、自分勝手な人になっちゃだめなの。相手の気持ちをくめるようにならなくちゃいけない。だからっ──」

 そう考えると、ある意味で両親は私の見本となっていた。こうなってはいけないという、反面教師のような見本に。

 だから私は反対のことをする。自分がそうしたい、そうでありたいと思っていることと反対のことをする。佳奈ともっと仲良くしたくても、それを阻む人がいるのなら──私は佳奈と仲良くしない。それが正しいと、私はあの両親から学んでいる。

「あなたは佳奈さんの気持ちをくんだのではなく、あの三人組の気持ちをくんだのだよ?」

 その一言に、胸の締め付けが一層強くなった。悔しさや情けなさ、そして憤りの混じった赤黒い感情が身体の底から湧き上がってくる。

 あの三人組さえいなければ──そんな恐ろしい考えが、一瞬脳裏をよぎる。

「──どうすることが正解だったのだろう」

「そんなことは、きっと神様にだってわからない」

 そして、俯いていたって答えは出てこない。

 わかってはいたけれど、私は肩に載ったままだったメモリアの手を振り払い、もう一度ベッドに寝転がった。

 メモリアの気持ちを蔑ろにすることも辛かったけれど、今はあまり深く考えたくなかった。この温かい布団の中で、じっと記憶から目を背けていたい。

 そして、そうしていればメモリアが私を気遣って放っておいてくれることもわかってきていた。こうして落ち着くことが大切で、気持ちを整理して記憶と向かい合い続けることが大切なのだから。メモリアは、そういう心優しい少年だ。


 時間のない世界でも、心の傷を癒してくれるのは時間。改めて認識した。一度眠って、色々と館の中の部屋を巡ったり庭園で花を眺めたりしていたら、ある程度心は落ち着いてきた。

 どれだけ悔やんだって、結局記憶は変えられないんだ。割り切るわけじゃないけれど、これ以上考えたって全て想像で終わってしまうのが現実。実際に私が経験した記憶は、どうやっても書き換えられないのだから。

 どれだけ記憶にのめり込んだって、私は過去の私を追体験することしかできない。でも、しかしそれは、私がやるべきことだ。

 次にメモリアを見つけた時に、もう迷いはなかった。あの記憶の続きを見届けること、佳奈との記憶を思い出すことが、あるいはあの時の佳奈に対する償いになると思った。

「今回は、ちゃんとあなたを連れ戻す」

「心強いよ。私、あんな最低な人間だから──優しい君を平気で傷付けて突き放す人間だから。こんなことを言うのはよくないと思うけれど、いつでも見放して欲しい」

「そんなことはしないよ」

 メモリアは屈託ない笑顔を見せると、例によって金色の振り子に触れた。目を瞑って光を受けると、今の自分が剥がされて昔の自分に戻っていくような感覚を感じる。こうして私は、昔のだめな私に戻ってしまうのだろうな·····




 私が不登校児に逆戻りしてから二週間くらいが経った頃、私は思い切って両親のことを優香に話した。すると優香は、こんな提案をしてきた。

「付いていってあげるから、あんたのお母さんの家に行こう」

 いくら馴れた優香の尖った口調も、これは本当にただただ本当に痛いだけのものだった。そこに優香の優しさがあるとわかっていても、頼れるお姉さんの提案をなかなか呑み込めない。

「私も悪かったよ。いくらあんたが可哀想に思えたからって、こうしてあんたの問題を放ったらかしにしてうちに泊め続けていたんだから」

 吊り目をさらに細めながら、優香はまるで自分自身を叱っているようだった。私のことを考えてくれている優香を初めてちゃんと見つめると、今まで優香の優しさは私の居場所を提供してくれることだけだとどこかで思っていた自分に気付く。

「──わかった。優香が一緒なら·····」

「もうここまできたら、あんたは私の大切な妹だよ」

 優香は思い立ったらすぐに行動に移すタイプの人だった。私は気持ちの整理をしたいと別の日を望んだけれど、「そんなことをしてもいつまで経ってもあんたは覚悟なんて決められない」と半ば強引に家を連れ出されてしまった。

 私は子供のように優香の腕にしがみついたまま、言われるがままされるがままお母さんの家を目指して歩いた。次第に見慣れた道になり、お母さんの家が近づいているんだと思うと、心臓が高鳴り嫌な汗が全身から噴き出してきた。

 懐かしいとは思えない見慣れた景色の中に、その忌まわしい一軒家は建っていた。この辺りに、そしてこの家にいい思い出なんて一つもない。なのに、この景色はまるで今までずっと私の中にあったものだった。人間は、嫌な記憶はよく覚えているみたいだ。

「ほらっ」

 優香は腕にしがみつく私を振り払う。

「あんたがまず行かなきゃ話にならないだろ。大丈夫。私も謝ってやるから」

「でも·····」

 会いたくない、顔も見たくない。それが正直な気持ちだ。

「直接話聞かなきゃ、本当のことはわからないだろ。それとも、あんなクソ三人組の言うことを鵜呑みにしてお袋を嫌うのか?」

「それは·····」

 答えは目の前の扉の向こうにある。けれど、なかなかインターホンを押す勇気が出てこない。お母さんには何かしらの都合があっただけで、本当は私をまだ大切に思ってくれているのかもしれないという希望的観測と、あまりに現実味を帯びた三人組の戯言が事実になるかもしれないという恐怖が、指先をインターホンに近づけたり離したりを繰り返させる。

「そうやって逃げていたら、佳奈ちゃんとも向き合えねーよ」

 優香の口調は、もうそのまま私を残して引き返しそうなものだった。そう言われて溢れ出てきた佳奈への思いがほんの少し後押しをして、ついに私の指差しはインターホンを触れてしまう。

 ピンポーン、とやけに耳につく音が出て、私は固唾を飲んだ。しかしその音が発生してからどれだけ待っても、返事は帰ってこなかった。首を傾げた優香が今度はインターホンを押す。しかし、やっぱり反応はない。

「××、行くぞ」

 私の腕を握ると、優香は玄関扉へと向かった。そして優香が勢いに任せて扉を引くと──すんなりと扉は開いた。優香は拍子抜けしたような表情を見せる。

「なんで鍵がかかってないんだよ。元々そういう感じだったのか?」

「いや、鍵はちゃんと閉めていたよ」

「だよな。心優しい人ばかりの田舎じゃあるまいし·····」

 不思議そうに首を傾げながらも、優香は玄関に足を踏み入れようとする。私は咄嗟に手を引いた。

「ちょ、ちょっとちょっと」

「あ? なんだよ。あんたの家だろ? 別に入っていいじゃん」

「そう、だけど·····」

 私が一瞬弱気になった隙を突き、優香は私を玄関の中に引き込んだ。

 家の中には誰かしらが住んでいる気配のない、まるでもぬけの殻のような空気が漂っていた。昼間なのにどこの部屋からも明かりが溢れ出してはおらず、全てのカーテンが閉められているみたいだ。嫌な記憶を思い返してみても、家はこんな半籠城状態ではなかった。

「ずっとこんな感じだったのか?」

「いや、もっと普通な家だったよ。見た目はね·····」

 私と同じく、優香も明らかに嫌な予感がしていたようだ。自然と足が竦むが、腕は優香に引っ張られる。乱雑に靴を脱ぎ捨てると、私達は人気のない不気味な家の中に闖入ちんにゅうした。

 廊下を真っ直ぐ進んでリビングに入ると、そこにある光景は私が記憶しているものとは全く違っていた。難しそうな書類や本や雑誌が乱雑に放置され、キッチンにはカップラーメンやお惣菜のゴミが放置されており、部屋全体がやけに埃っぽかった。到底、誰かが最近まで住んでいたような様子ではない。先ほどまでとは違う嫌な胸騒ぎが、私の中を満たしていった。

「さすがにこれは、何かあったな」

 震える私を部屋の隅に置き、優香は部屋を見て回った。部屋に広がる生活感を超える荒れ具合は、むしろ誰ももう生活していないような雰囲気を漂わせている。

「ちっ·····そういうことか·····」

 ある一つの書類に目を通していた優香が顔を酷く引き攣らせた。私も優香が見た紙をみようと優香に近寄ろうとする。すると、

「だめだ。見るな」

 そう言って、優香は紙をくしゃくしゃに丸めてポケットに仕舞った。

 私の中に巣食い始めた嫌な予感はますます膨れ上がり、段々頭が重たくなっていく。優香はきっと、そこで私が受け入れられないと思うような真実を見つけたのだ。

「もういい·····一回帰るぞ」

「なんで? お母さんを、お母さんを見つけないといけない!」

「今は家にいないんだよ! わかったら、さっさと帰るぞ」

 強引に再び私の腕を掴もうと伸びてくる優香の腕を、私は避けた。

「何やってんだよ。私はあんたを引き摺ってでも今から帰るぞ!?」

 じりじりと、焦燥を表情に滲ませながら優香は私に詰め寄ってきた。その目は今まで見たこともないくらいに血走っていて、いつも冷静の冷静な優香はどこかにいってしまったようだった。一歩、また一歩と後ろに退くと、最後には襖に背中が当たった。リビングの隣にある和室とを隔てる襖だ。

「いいから早くこっちに来いよ!」

 私に逃げ場がないと見た優香は、そのまま距離を詰めてくる。もうこの状況から逃げられる場所は、後ろの和室しかなかった。意を決して振り返り、襖を開ける──するとそこには、リビングの荒れ具合なんて比じゃない恐ろしい光景があった。

 天井に見慣れない乱雑に取り付けられた引っ掛けがあり、そこから一本のロープが伸びている。その先に、全く生気の感じられない大きな人形がぶら下がっていた。

 いや──それは間違いなく、私のお母さんだった。

 巻き付いていた鎖が勢いよく締め上げられ、ついに心は押し潰された。足には力が入らなくなり、埃を巻き上げて身体は地に堕ちる。そして破壊された心から自分が飛び出して、私の身体はこの家同様に蛻けの殻と成り果てた。

「·····おい、××!」

 優香に激しく揺さぶられる私の身体は、目の前にぶら下がるお母さんと同じように力なく、糸の切れたあやつり人形のように衝撃に連動してしなる。

「くそっ──」

 そのまま私は優香に担がれ、とにかくその場から引き離された。靴も履かず扉も閉めずに家を抜け出し、過ぎ去る懐かしい景色の中を優香の腕の中でぼんやりと眺めていた。

 こんな別れの経験は、一体何度目になるのだろう。私はどれだけ多くの人と引き離されるのだろう。こうして私を抱えてくれている優香とも、いつかは遠くに離れてしまうのだろうか? 誰とも、近くにはいられないのだろうか·····。


「大丈夫か·····?」

 目を覚ますと、亮太、祐也、優香が私を覗き込んでいた。みんな、今まで見たこともないような複雑な表情をしている。あんな亮太でさえこんな表情ができるのだと驚いた。

「××、お前っ──」

 亮太が辛そうに歯を軋ませる。一体何が辛いのだろう。

「大丈夫。お前には俺達がいつまでもいる」

 祐也が到底信用できない荒唐無稽なことを熱く言う。

「だから、あんまり辛く思うな──」

 亮太は同情ではなく慰めるように言った。けれど、一体何が辛いんだろう? あぁ、もしかして私のお母さんのことだろうか? うぅん、辛い、か──この嫌な胸の内の蟠りは、そういう名前なのだろうか?

「俺達にできることがあるなら、なんでも言ってくれ──お前は、俺の大切な家族だ」

 見たこともないくらい男らしい亮太が、なんとなくかっこよかった。今はそれに甘えることにしよう。そうだな、それじゃあ少し喉が乾いているから、何か飲み物でも取ってきてもらおう。

「··········」

「·····え? どうした、××?」

 祐也がきょとんとした情けない目で見返してくる。こういう状況だと案外、亮太の方が男らしいのかもしれない。でも、よく見れば亮太も優香もそんな表情をしていた。私は何がおかしいのかわからなくて首を傾げる。

「··········」

 喉が乾いた。

 さっきからそう言っているのに、誰も反応してくれない──いや、誰も聞き取れていない·····?

「··········」

「あんた、もしかして·····」

 どれだけ口と声帯を動かしても、私の意思は誰にも伝わらなかった。私の口から出てくるのは私の言いたいことではなく、ただの空気だけだった。

 私はお母さんと一緒に、声を失っていた。


 失声症。

 しばらくスマホの画面を見つめていた祐也がみんなに教えてくれた。過度なストレスなどによる心因性の症状のようで、私も名前は知らなくとも声が出なくなることがあるくらいは知っていた。まさか自分の身に起こるとは思いもしなかったけれど。

 とにかく、専門の病院に行く必要があるらしい。けれど、私は病院に行く気など一切なかった。まず頭に浮かんだのはお金の問題だ。けれど、多分それは国からの補助とかでどうにかしようと思えばできるんだと思う。

 しかし、正直に言うとそれがとてもめんどくさかった。そこまで手間をかけて声を取り戻したいと思わない。話せなくなくたって別にいい。話したい人なんていないんだから·····。

「そんなこと許さないぞ!? ちゃんと病院に行けるように手間でも準備するんだ!」

 優香は手にしていた私の意思が書かれた紙を破って怒鳴り散らしたので、チャンスとばかりに一つ、ここは演技をしてみた。激しく怖がる演技だ。すると効果覿面てきめん。心に大きなダメージを負った少女である私にこれ以上負担はかけられないと、祐也と亮太はこの場では私の肩を持ってくれた。

 不利になった優香は渋々、取り敢えず落ち着くまではと放置することを認めてくれた。

『ありがとう。頑張って治すから』

 声に出せばぎこちなくなったであろう偽りの言葉は、紙になら平気で書けた。

 自然に治るのならそれでいいし、治らないなら治らないでいい。そもそも思い返せば、この口はいつもいつも災いを起こす口だった。それが上手く機能しなくなって、私はどこか安心していたのかもしれない。

 私が正常心を保っていることを理解すると、私を心配してくれていたみんなは各々おのおの、滞っていた自分の用事に戻っていった。運がいいのか悪いのか、優香と亮太はアルバイト、祐也は仕事だった。みんな遅刻しているとのことで、私のことを心配しながらも足早に職場へと向かった。

 家に誰一人いなくなると、なんだか妙に安心した。近くにいる人はいつか離れてしまうと思い込みすぎて、もはや誰もいない方が安心するのかもしれない。失うくらいなら、端からない方が気が楽だから。

 それでも、たった一人家に残っていてもすることがないというのも事実だったので、私はなんとなく散歩にでも出かけることにした。適当に歩いていたら、あるいはこの虚無感くらいならなくなるのかもしれない。とにかく、狭い空間にいたって自分が圧迫されているような気分になるだけだった。

 何もない公園は、こんな晴れた日の昼下がりであろうと誰もいなかった。いつもいつも時間帯が悪いのだろうか? ボール一つでも持ってくれば、それなりに遊べる場所だとは思うけれど·····。とにかく、そこに誰もいないのは今は好都合だった。群青の中をゆったりと流れていく雲を眺めながら、私は頭の中を空っぽにした。

「今回は、大丈夫だった?」

 だだっ広い公園の隅で空を見上げている私に話しかける物好きが一人いた。視線を落とすとそこには、安心と心配が半分ずつ混ざったようななんとも言えない表情をしているメモリアが立っていた。

 ここは記憶の中。メモリアに会う度に私は認識する。記憶に没頭し過ぎることは危険、なんだった。

「··········」

 全然、なんともなかったよ。

 私の意思は伝わらず、メモリアの表情からは安心感が消え失せた。そうか、今は声が出ないんだった。

「まさか、声が出ないの·····?」

 声を詰まらせながら恐ろしそうに問うメモリアに、私は素直に頷いた。まぁ、この公園には何もない代わりに足元は全部砂だから、ここに書けばいいか。

 私はその場に屈み、地面に指先を走らせた。

『全然、なんともなかったよ』

「そう、かい·····」

 メモリアはとても複雑そうに言葉を詰まらせる。いや、声が出なくなっているのになんともないと言うのは、さすがにおかしかったかもしれない。

『声は出なくなっちゃったけど、平気』

「なら、いいんだけど·····」

 地面に書き直した私の文字を見て、メモリアは複雑な気持ちを呑み込むように納得する。

 そう言えば、メモリアは私の見た私の記憶をどこまで見ているのだろうか? もしかして、私のお母さんのことももう知っているのだろうか? 小学生の時の記憶は確か、断片的には知っていたような気がするけれど。

『メモリアは、今回の私の記憶を知ってるの?』

「まぁ、あなたのお母さんなこととかは、もちろん·····それでも平気なの?」

『うぅん。なんて言うのか、そんなに思い出もないし、知らない』

「そう·····」

 なんでだろう、その場には重苦しい空気が漂っていた。話題が少し、暗いからだろうか? それに、メモリアはなんだか納得しているのかしていないのか中途半端な感じだ。私が大丈夫だと言っているのだから、私は大丈夫だと言うのに。

「·····わかった。とにかく、一旦戻ろう」

 差し出されたメモリアの手を取り、私は立ち上がった。すると周囲の空しい公園の景色は薄くぼやけていき、次第に意識もゆったりと遠のいていった。

 かすむ意識の中で、私は知らず知らずのうちにお母さんも置き去りにてしていたんだと、悲しみの残滓ざんしが私に教えてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優しい記憶のゆくえ 夢野 夜空 @kirai-yume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ