03

 亮太と祐也、そして最後まで私の話し相手をしてくれていた優香が眠りについても、私は全く寝付けなかった。気持ちの悪い何かが胸郭の内側に溜まり、嫌な考えや思いばかりが頭の中を駆け巡っていて、隣に優香がいるというのに胸騒ぎが全く治まらない。

 結局、あの三人組のことは誰にも話さなかった。話したってなんの解決にもならないだろうし、みんなに無駄な心配をかけるだけだ。それに私自身、取り乱していた所為かあの時の記憶が少し有耶無耶うやむやになっているのだ。

 確かにあそこで三人組に恐ろしいことを言われ、私は大きなショックを受けた。そこまでははっきりと覚えている。問題はその後だ。誰かと話していたような気がするのだけれど──ここがとても有耶無耶で、なぜが上手く思い出せないのだ。

 気が付くと私は泣いた後で、ポケットの中に仕舞った大切な金属の部品を握り締めながら優香達の家に向かって歩いていた。三人組に言われたこととは何か別のことで、私は酷く胸を痛める思いをしたような気もするけれど──それも何かよくわからない。少し取り乱しているのだろうか?

 とにかく、私はそのまま全く眠れなかった。身体を左に向けても右に向けても眠れず、瞼を閉じても眠れず、睡魔の気配すら感じることなく気付けばカーテンの隙間から朝日が射し込んできていた。

 私はみんなを起こさないようにそっと立ち上がり、みんなの身体を踏まないように差し足抜足忍び足でリビングを抜け出す。そのまま脱衣場で寝間着から制服に着替え、そっと家を出た。

 自宅から歩いて五分くらいの所に、遊具も何もない質素で物凄く寂しい公園がある。せめてサッカーのゴールや高いフェンスでもあれば子供達も集まるだろうに、そんな物もなく設置する気配もない公園は相変わらず人っ子一人いなかった。

 まぁ、日の出直後からこんな公園に来る私が珍しいだけだろうけれど。

 朝日がむなしい公園を淡く照らし、緩やかな風が砂を巻き上げることなく吹き抜けていく。私はそんな広い公園の隅の方に立ち、ポケットに手を突っ込む。それから冷たい大切な物を取り出し、昇ったばかりの太陽の光に照らしてみせた。

 淡い太陽の光にマウスピースは眩く光り、まるで本当の持ち主の笑顔のように明るく輝いた。

 私はそれを摘むように持ち直し、漏斗状の口の部分に唇を軽く押し当てる。それから唇を細かく振動させると、空気を絞り出すようななんだか不格好な音が出た。佳奈は確か、こんな風にマウスピースだけで演奏することをバズィングだと言っていた。佳奈がやってもこんな不格好な音が出るのだが、私の音はやっぱり佳奈の音とは違い、不格好さに加えて情けなさが含まれているように聞こえた。

 それでも、ただ夢中でバズィングを続けた。胸郭の内側に溜まっていた蟠りを、マウスピースを通して全て絞り出し、吐き出すように。

 だから、マウスピースを口につけて唇を震わせている間は、何も余計なことを考えなくてよかった。するとようやく現れた睡魔も襲ってきたけれど、私は夢と現実の狭間のようなふわふわとした空間でバズィングを続けた。夢中とは、こういうことを言うのかもしれない。

 どのくらい吹き続けていたのか、気付いた時には唇はヒリヒリするくらい疲れ、もうこれ以上は吹けないなと本能的にわかった。ろくに睡眠も取れていないから、昨日の特訓の疲れも色濃く出ているのだろう。

 こんなに小さいのにそれなりの重みがあって、楽器と奏者を繋ぐ重要な役目を担っていて、特殊奏法としても使えるこの素晴らしい部品を、私は再び太陽の光に反射させて眺めた。それからマウスピースを再びポケットに仕舞うと、結局人っ子一人立ち寄らなかった空しい公園を後にした。

 ポケットの奥深くに沈めたマウスピースに、「さようなら」と心で呟いて。




 ぼーっと貨物船の行き交う海を眺めていると、背後の大きなゲートを誰かが乗り越えようとしている音が僅かに聞こえてきた。その音に反応して身体に変な力が入り、目の前の海とは対照的に激しい荒波にもまれているように気持ちがゆらゆらと揺れ始める。

「あれ、××っち。どうしたの、早いね」

 不思議そうな佳奈の声が背中に向けられる。私はポケットに仕舞っているマウスピースを強く握り締めながら、顔を伏せたまま佳奈の方に振り返った。

「どうしたの? なんか××っち、今日は変な感じがするけれど」

 佳奈はそう言いながら、きっと首を傾げている。そんな優しくふわふわとした佳奈の口調に決心が再び揺らぎそうになり、私は大きく深呼吸をして迷いを頭蓋の外へと吐き出した。

 一歩、また一歩と、きょとんとした様子で動かな佳奈に近づき、私は握り締めた右手を佳奈に突き出した。

「んん? 本当にどうしたの? 何か言ってくれないとわからないよ?」

 佳奈の口調は明らかに困惑していた。けれど、私は突き出した手を引っ込めたりはしない。しばらくお互いに動かないでいると、佳奈は恐るおそる両手を私の突き出した手の下に差し出した。

 佳奈の温かい手のひらの上で、私は握り締めた手の力を抜く。すると、手から僅かな重みが消えた。

「え·····?」

 自分の手のひらに載せられた物を見て、佳奈は一層困惑する。

「なんで·····? 何かあったの? あったのなら言ってよ。わからないよ?」

 言葉を返さない私に佳奈が必死に声をかける。けれど、強く縫い付けられた私の口はなかなか開かなかった。言葉にならない思いが喉元まで逆流しては、軋むくらい強く食いしばった歯に阻まれて口腔に溜まっていく。

「これってどういう意味なの? 練習には疲れたってこと? ねぇ、私あんまり頭がいいわけじゃないから、こんなことじゃ何もわからないよ?」

 私は口腔に溜まったものを必死に呑み込むと、激しい胸の痛みを堪えながら逃げるように大きなゲートへと向かう──しかし、すれ違おうとした時に腕を掴まれた。決心が乱れ、それほどの力はなかったのに動きが止まる。

「ねぇ·····お願い、何か言ってよ」

 辛そうな声で懇願され、私の胸の痛みは限界に達した。

「もうあんたとなんて会いたくないのよ!」

 心の悲鳴は声に乗って、思ってもいない言葉を伴って口から溢れ出した。走ってもいないのに動悸が乱れ、呑み込んだはずの思いが勢いよく逆流してくる。

 私の腕を掴む手の力が、その一言で神経でも途切れたかのようになくなった。後ろで佳奈が上手く言葉にならない吐息のようなものを繰り返しこぼしている。目頭に熱いものが溜まってきて、私はいよいよもう振り返えられなくなった。

 しばらく止まったような時間が流れ、お互いに動けないでいた。ねっとりとした重たい空気が、まるで二人をこの空間に縛り付けているようだった。

「ど、どうして·····どうしてなの?」

「·····とにかく、会いたくない」

 震える声を置き去りに、私は必死にその場から逃げた。これ以上あそこにいると、あの重圧に自分が押し潰されてしまいそうだった。

 大きなゲートを越えても、公園を抜けても、どこまでいっても佳奈は追いかけてこなかった。無性に、いつか背負った深い感傷を重ねて思い出す。

 ──また、同じ過ちを犯した。

 なんでだろう。どうしてこんなことになったのだろう。いくら考えてもわからなかった。あの選択が正しかったのかどうかさえ、全然わからない。ただ、心に巻き付いていた重い錆びた鎖をあの場で振り解けた気がして、どこか心は軽かった。


 重いのか軽いのかわからない足取りは、私をどこへ向かうでもなく進めていく。知っている道を歩いていたはずなのに、気が付けば来たこともない場所だった。このままどこかに消えたって、もうそれはそれでいいのかもしれない。

「それはだめだよ」

 叱咤するような幼い声が聞こえてきて、私は振り返る。そこにはメモリアが立っていた。走って追いかけてでもきていたのだろうか、呼吸がやけに荒い。

「そろそろ戻らないと、まずい」

 明らかにその子は焦燥していた。何がまずいのかわからない。

 いや待って、一体ここはどこなのだろう──あまり気にしていなかったけれど、そういえば周囲の景色がやけにぼやけて、パレットの上で適当に混ぜ合わせた絵の具みたいにぐにゃぐにゃ曲がって混ざっている。

 いや──そもそもこの子って誰だ? ついさっきまでわかっていた気がするのに、よく思い出せない。見たことも、何度も話したこともある気がするのに、上手く思い出せない·····?

「何をしているんだ、ほら、早く!」

 少年は必死の思いで声を出しながら、苦しそうに手を伸ばしてきた。

 何をそんなに焦っているのだろう? よくわからなかったけれど、その手はどうしても掴まないといけない気がした。

 しかしその手を掴もうと足を踏み出そうとすると、なぜか身体が動かない。いや、動いていないんじゃなくて、地面だけが後ろに下がっていって私が進めていないんだ。

「ここは記憶の世界だよ!?」

 少年が振り絞るような大声を上げると、ぐにゃぐにゃした世界が止まった。身体が前へと進むようになり、必死でもがいて少年の手を取る。すると止まっていた混ざった世界は堕ちていくように崩壊を始めた。

「メモ、リア·····?」

「危なかった──もう少しで、記憶に取り残されるところだった」

 握り締めた手から、メモリアの激しい鼓動が伝わってきた。そして繋いだ手の内が汗で滲んできて、如何に先ほどの状況が切羽詰まった状況だったのかを認識する。

「あのままだと、記憶に閉じ込められるところだった──ごめん、本当に」

 メモリアは歯を軋ませるほど強く噛み合わせていた。

 完全に剥がれきった真っ暗な世界の中を二人で揺蕩っていると、握り締めたメモリアの手から淡い光が溢れ出してきた。それはやがて私達を包み、複雑に歪ませたメモリアの表情を残して視界は光しか映さなくなった。

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