02

 真っ暗な体育館の中で、私はパイプ椅子にじっと座っていられないほどそわそわとしていた。佳奈のことなのに、まるで私自身のことのようにこちらが緊張してしまう。

 大切な親友。その晴れ舞台を目の前にして、私は緊張で胸元が気持ち悪くなってきてしまった。いや、それはこれだけの人混みや、両サイド肩が触れ合うくらいの距離に全く話したこともない人がいることも原因なのだろうけれど。

 体育館は生徒と教師、そして保護者や来賓の人達でいっぱいだった。これだけの人数とあの舞台の上から目を合わせたら、きっと心臓は止まってしまうのだろう──それはさすがにないにせよ、心臓は早鐘を打つように高鳴るのだろう。私にはあそこに立つことさえ、到底無理そうだ。

 放送部の人達が進行を始めると、体育館のざわつきは次第に静まっていった。それから全体鑑賞のステージは始まり、男子の二人組がお笑いをしたり女の子が一人で弾き語りをしたりしていた。

 私はその間もステージ裏にいる佳奈のことを考えていると、気が気でなかった。けれど多分、佳奈の方は割とケロッとしていたりするのだろう。あの子はそういう性格だ。

 度胸があって誰にでも好かれる、私とは違う人だ。

 今週の火曜日から、私は半ば強引に佳奈に連れられて学校へと通うようになっていた。そこでまず驚かされたのは、佳奈の人気だ。廊下ですれ違う人のほとんどが彼女に笑顔で「おはよう」とか「よう」とか「おっす」などと声をかけてきていた。

 私のクラスの教室に入ってからも、佳奈は朝礼が始まるまでずっと近くにいてくれた。おかげで彼女目当てで話しかけてきた友達との会話に私も混ぜてもらえて、私は何人かの人と話すようになっていった。

 休み時間の度に佳奈は極力私の近くにいてくれた。だから私が学校で心細くなることはなかった。おかげで私はそこから三日間ちゃんと学校に通えたし、土曜日の文化祭にもこうして出席している。

 佳奈がいるから、私は学校にもちゃんと通える。そして、ここにも私の居場所があるんだと思えている。

 フリーステージが終わると、次は部活動のステージだった。その一番目から吹奏楽部はステージの上に出てきた。金色や銀色や黒色に輝く様々な形の楽器を抱えてステージに出てくる人の中に、他の人とは違って緊張の片鱗すら見せない笑顔の佳奈がいた。

 優しそうな白髪の先生が指揮台の横でお辞儀をする。それから指揮台に上り、先生はステージの方を向いて指揮棒を高く挙げる。呼応するように全員が素早く楽器を構えると、その指揮棒が振り下ろされると共に賑やかなポップスの楽曲が始まった。

 あのステージにいる人達が当たり前のように吹いている金管楽器──私も学校に通う交換条件として佳奈に教えてもらってはいるけれど、想像以上に音を出すこと自体が難しかった。佳奈が言うにはトランペットは難しい方らしいけれど、四日間ほど頑張ってようやく音が出るようになったくらいだ。

 そんな楽器を巧みに扱う佳奈や他の吹奏楽部員がとてもかっこよかった。そして、私はほのかに憧れを抱いていた。

 思えば、こうしてここの吹奏楽部の演奏を聴くのは初めてのことだ。音楽はイヤホンで聴くことがほとんどだったけれど、こうして聴く生の音はイヤホンから流れてくる電子的に作り出された音とは全く違っていて、まるで体育館全体を重厚なサウンドが包み込んでいるようだった。そして、その迫力に私は終始圧倒されていた。

 何曲が演奏し終えると、吹奏楽部のステージの進行を進めていた二人組が残念そうに次の楽曲が最後だと言う。そして、それは佳奈のソロパートがある楽曲だった。

 さすがに緊張した様子が垣間見えたステージの上の佳奈を見て、私も膝の上に置いた拳に力を込める。どうか、上手くいって欲しい──

 ゆっくりと挙がっていった指揮棒が振り下ろされると、明るくアップテンポな楽曲の演奏が始まった。私は固唾かたずを飲んで演奏に聴き入る。

 曲調が変わったところで、トランペットを構えた佳奈だけがステージの上で立ち上がった。

 ステージを照らすスポットライトが、佳奈の構える金色の楽器を神々しく照らす。それは佳奈の魂を吸い込むと、まるで魔法のような音を奏でた。その音色は麗らかな太陽のように柔らかく、しかしアスファルトに咲く花のように力強く私の元に飛んできて、いつも聴いている彼女の音よりも何倍も活力のある音だった。

 佳奈はソロパートを吹き終えると、今まで私が見たこともないくらいに輝く笑顔を見せてからお辞儀する。呼応するように、体育館いっぱいに大きな拍手が響く。

 私も佳奈に届けと手が痛くなるのも忘れて大きな拍手をした。それに満足気な表情を浮かべながら、佳奈は座席についた。

 自分の大切な親友があんなステージの上で見事に練習の成果を発揮しきれたことが、私はまるで自分のことのように嬉しかった。

 演奏が終わった後も、吹奏楽部の奏でた煌びやかな音は、いつまでも体育館の中に響いていた。




 私は自然と頬が緩んでしまうのを我慢できなかった。ソロパートを吹き終えた後に見せた佳奈の満面の笑みが、今も瞼の裏に焼き付いている。

 吹奏楽部は体育館の片付けや楽器の片付けなどの用事があるようだったので、私は校門を出てすぐの大きな木の下にあるベンチに腰を下ろし、佳奈がいつもの黒い楽器ケースと学生カバンを抱えながら出てくるのを待っていた。

 その間にも私は、一体どのように声をかけるのが最も良いのだろうかと必死に思考を巡らせる。

 そうこうしつつまだかまだかと校門の方を向きながらベンチに座っていると、女子三人組が不満そうな面持ちで校門から出てきた。

 何かよくないことでもあったのだろうか──そう彼女達のことを考えていると、真ん中を歩いていた如何いかにも気の強そうな女子と目が合ってしまった。まずい、慌てて目線を逸らす。

 しかし、足音は着実に私の方へと向かってきた。三人組に詰め寄られる時の足音は、思った以上に心臓を強く握り締めた。

「あんたもしかして、佳奈の·····?」

 不機嫌な低い声が、私の鼓膜目がけて飛んでくる。反応するのは怖かったけれど、ここで無視するとよくない展開になるのはわかっていたので、私は恐るおそる三人組の方へと向き直った。

「なんだったっけ、名前忘れたけどさ──あんた、なんで佳奈と仲良いの?」

 見上げた気の強そうな女子の眼光に、私の身体は蛇睨みされたように自由が利かなくなった。両サイドにいる女子も真ん中の女子ほどではないけれど、十分に鋭い眼光を放っている。

「──ねぇ、聞いてる?」

「あ、あぁ·····佳奈とは、その、偶然知り合ったというか·····」

「──ふぅん」

 口篭る私に、気の強そうな女子はつまらなさそうに鼻を鳴らす。それから足元を見て深いため息をこぼすと、どこか遠くを見ながらゆっくりと口を開く。

「なんていうかさぁ、最近佳奈がいっつもクラスにいないんだよねー。部活の後とか休日だって、前は遊んだりしてたのになぁー。なーんか最近、うちらと違うとこで遊んでるみたいなんだよねぇー」

 呑気な口調だったけれど、それは明らかに愚痴であり、そしてそれは佳奈に対してではなく、目の前にいる私に対しての愚痴だった。

「何が·····言いたいの?」

 それに怯みそうになった自分を心の中で叱咤し、私は勇気を持って彼女に食ってかかった。見上げた根性だ、と言わんばかりに気の強そうな女子は鋭い眼光を下ろしてくる。

「忠告。あんたみたいな不登校が佳奈と関わんな」

 今までにない低いくぐもった声で言うと、最後に強く私を睨みつけてから三人組は私から離れていった。

 佳奈と関わるな·····? 一体なぜ、私はあの知りもしない人達にそんなことを言われたのだろう? やっぱり、私が不登校だったから? そんな私と人気者の佳奈が仲良くしていることが、彼女達は気に食わなかったからだろうか?

 答えの出ない疑問を追求していると、小さく震えていた肩に温かなものが触れた。恐るおそる顔を上げると、そこには不思議そうに首を傾げた佳奈がいた。

「××っち、どうしたの? 具合でも悪い?」

 佳奈の心配そうな声。余計な気遣いをさせていると思って、私は無理をして笑う。

「うぅん、大丈夫だよ。それより、佳奈の演奏凄かった!」

「本当に!?」

 明るい佳奈の笑顔によって、私の心に射していた僅かな暗闇は消失した。

 私は嫌な三人組の忠告など心の奥深くに沈め、今日もいつもと同じように佳奈と楽しく会話をしながら、例の場所へと向かった。


 今日は海風がいつもより穏やかで、大きなゲートを飛び越えるとそこには清々しい空気が漂っていた。

 以前佳奈から聞いた話によると、佳奈は他にいい練習場所がない為に部活動がない時はここで練習しているそうだが、彼女の扱う金管楽器には海風はあまりよくないらしい。それでも今日は海風があまり吹いていないので、絶好の練習日和と言える。

「あはは。さすがに今日は疲れちゃったなー。唇ももう限界」

 佳奈はリップロールをしながら、残念そうに水平線に近づく太陽を眺める。

 細かい唇の振動を使うトランペットは、長時間吹くと唇が相当疲れるらしい。そんな時はリップロールをしたりして紛らわせるそうなのだが、今日は本番やリハーサルやこれまでの詰め込んだ練習の疲れが一気に襲いかかってきたのだろう。こんなに惜しそうに夕焼けに焦がされる海を見つめる佳奈は珍しい。

「だから、今日は××っちの特訓にしようか」

「えぇ、特訓? なんか怖い」

「ふっふっふ。今日は私が徹底的にしごいてあげるから覚悟しなさい」

 小悪魔のような笑みを浮かべながら、佳奈は黒いケースを開けて金色に輝く楽器を私に差し出した。若干頬を引き攣らせながらも、私は重みのある輝きを手に取る。

 そこからいつもより熱の入った佳奈の指導が始まった。つい最近音が出るようになったばかりの私には地味できつい練習内容だったけれど、自分が何か一つのことを必死になって練習していることに、私の心は満たされていくようだった。

 明日が休日だったので、練習は空が完全に暗くなる時間まで続いた。意外なことに先に音を上げたのは佳奈の方だった。私は無我夢中で、というか練習に集中し過ぎていて、辺りがここまで暗くなっていることにすら今まで全く気付かなかった。

「絶対、××っちは上手くなれるよ。下手すれば私、抜かれちゃうかもなぁ」

 洒落にならないなと、楽器を片付けながら佳奈は苦笑いを浮かべる。

「佳奈の教え方が上手いんだよ。とってもわかりやすい」

「相手の吸収が早いもんだからね」

「わかりやすいと、吸収も早いんだよ。美味しい料理をすぐに食べちゃうのと同じ」

「相手に食べさせたいと思うと、料理は美味しくなるんだよ」

 お互いに褒め合いながら帰る準備を終え、大きなゲートを乗り越えていく。

「いつか、××っちとセッションできたら嬉しいな」

「私も、佳奈と演奏したい。そのくらい吹けるようになる。だから、お互いに頑張ろうね」

「うん。あ、そうそう。それなら·····」

 佳奈は肩に下げていた楽器ケースを再び下ろすと、その中から小さなベルの形をした金属を取り出した。これはマウスピースといって、金管楽器で唇をあてて息を吹き込む部分の部品だ。

「これ、予備のやつだからさ。これでも音を出す練習にはなるんだよ。だからこれで、暇さえあれば練習して」

 小さな一つの金属の部品を、私は両手で受け取る。

「ありがとう·····絶対に、上手くなるよ」

 私達は力強く頷き合い、その場でお別れをしてそれぞれ違う方向から公園を出た。


 真っ暗な中、僅かな街灯を頼りに川の近くの堤防敷を上って優香達の家を目指していると、一つ次の街灯の下に三人の人影が見えた。

 もちろんそれだけではなんのことではないのだが、その三つの人影は、まるで私を通さないかのように待ち構えていたのだ。

 その光景は怖かったけれど、あるいは私が意識し過ぎなだけかもしれない。私は気にしないようにしながら歩き続ける──が、その人影の正体がわかった地点で、私の足は石化した。

「あれぇー? うちらの忠告、もしかして聞こえてなかったぁー?」

 ゆっくりとした大股で、動けない私に詰め寄ってくる三つの人影。間違いない──校門の前で私に忠告を突き付けてきた、あの三人組だ。

「特別にもう一回だけ。これが最終通告だよ? ──佳奈と関わんな」

 目の前に立ち塞がった三人から、殺気を帯びたかのように鋭くて痛い視線を浴びせられた。自然、身体が震え上がる。すると、両サイドの二人を残したまま、真ん中の気の強そうな女子がじりじりと近づいて来た。頭が最大音量で全身、そして足に警告を促すが、足は固まってしまい全く言うことを聞いてくれない。

 気の強そうな女子は私と肩が擦れ合うような距離にまで来ると、私の耳元に口を近づけ、

「あんたの秘密、ぜーんぶ知ってるんだから」

 と、艶かしいような声で囁いた。

「えっ·····?」

 私が反射的にようやく一歩引くと、気の強そうな女子は悪魔のような笑みを浮かべた。

「家族のことぉ、それから今の家族代わりのことぉ──佳奈は知ってるのかなぁー? 知ったら、どう思うのかなぁー?」

 それはまさに悪魔の囁きだった。

 いつ探られた? どこまで知られている? それで、それを脅しに使われている? ──湧き上がる疑問と共に、私の身体の震えはより大きくなっていった。

 呼吸が次第に激しくなっていき、心臓が嫌に高鳴る。足は徐々に竦んできて、真っ直ぐ立っていられなくなりそうだ。

「·····ついでに、いいこと教えておいてあげる」

 人間のものと思えない狂気の沙汰のような表情をしたまま、悪魔のような女子は続けた。

「あんた、随分長い間学校に通わずだったけど、普通は色々と問題が発生するよねぇ? それに、子供がどこかに行ったまま帰って来なかったりすれば、親は普通警察に相談したり、必死になって探したりするよねぇ? でも、そんなことは一度もなかったでしょう? なんでだかわかる?」

 震える吐息しか出せない私に悪魔は大きく微笑むと、愉しそうに答え合わせを始めた。

「あんた、親に棄てられてるんだよ」

 身体の中の大事な部分から、大きな亀裂が入ったような嫌な音が聞こえてきた。同時に後頭部の内側に強い衝撃が走り、膝が崩れ、力なくその場に堕ちるように座り込んでしまう。

 心臓も、時間も、世界の全てが止まってしまったかのように思えた。

 そんな私を愉しそうに高い位置から眺め、高笑いをすると、三人組は踵を返して暗闇に消えていった。

 ──わかっていた。そんなこと、本当はずっとわかっていた。

 最初の些細な家出だって、本当はお母さんが探してくれるとどこかで思っていてしたことだった。私はそれで、感じられなくなっていたお母さんからの愛情みたいなものを確認しようとていたのだ。

 けれど、実際にお母さんは思った通りの行動をしてくれなかった。

 それから次第に行動はエスカレートしていき、最終的に優香達の家に転がり込むまでに至ったのだ。それでも、お母さんは何も言ってはこない──

 私はお父さんに棄てられ、お母さんにも棄てられた。

 この世に、本当の私の居場所なんてない──

「大丈夫だ」

 耳元で力強く囁いたのはメモリアだった。

 そうか──ここは記憶。私は、今は中学生の頃の私か──でも、そんなことはどうでもいい。

 いや、全てがどうでもいい。

「あなたには、ちゃんと居場所があるじゃないか」

「··········」

「優香さんに祐也くんに亮太くん。それに佳奈さんだって。あなたの大切な居場所だろう?」

「·····わかったようなこと言わないで」

 感傷を撫でられているような気がして、私は小声で呻く。

 この記憶は私の記憶だ。この痛みは私の痛みだ。だから、他の誰にもわからないんだ──たとえメモリアにでも、この痛みはわからない。

「けれど、あの子の言うことなんか──」

「知ったようなこと言わないでって言ってるでしょ!?」

 私は血相を変えてメモリアを睨みつけた。

「君に何がわかるのよ!? 君が何を知っているっていうのよ!? 所詮君は私の見た記憶しか知らないんでしょ、そうなんでしょ!? 私の心なんて──痛みなんて、全然わからないんでしょ!?」

 私は血眼になってまくし立てた。血を吐き出すような怒声に、メモリアは私から一定の距離を取る。それはまさに年相応の、恐怖に対する恐れという反応だった。

「ご、ごめんなさい·····」

 怯えながらしゅんとするメモリアを他所に私は膝を抱えると、その間に頭を突っ込んだ。治まっていく動悸や過呼吸が涙となって、強く閉じた瞼の隙間からこぼれ落ちていく。

 居場所が欲しい──温かくて、私が必要とされていて、私もその場にいるみんなを必要としているような場所。本気で信頼できる人がいる場所。

 いや──そうか、優香の家がそうじゃないか。

 私は力なくふらふらと立ち上がり、微かな希望の拠り所を目指して暗闇を歩き出した。

 制服のポケットの中の、小さな金属の部品を握り締めながら。

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