第3話 泡沫メロディー

01

 庭園には今日も柔らかな風が吹き抜け、降り注ぐ麗らかな太陽によって私はほのかに温められていた。まぁ、正確にはここには時間の概念がないのだから、今日というのもおかしいけれど·····。

 私は小学生時代の記憶を取り戻した後、しばらくはこの庭園で過ごしたり、館の部屋を色々と見て回ったり、館の外の草原に出ていたりしていた。時間では言い表せないけれど、ベッドで三回くらいは普通に眠っていたはずだ。

「あ。ここにいた」

 今回目が覚めてから初めてメモリアと会った。この場合は「おはよう」と言うべきなのだろうか、いつも悩む。

「調子はどうだい?」

「快調だよ。まぁ、普通なら色んな人から叱られるくらい惰眠を貪っているからね」

 時間のない世界でも、やはり心の傷を癒してくれるのは時間だった。前回の追体験から、体感的にはそれなりに時間は経っている。

「それじゃあ、そろそろ次の記憶に進むかい?」

 私の心の治癒が完了しているのを確認して、メモリアはそう提案した。

 あまりにも居心地のよい空間だからつい本来の使命から目を背けたくなるけれど、今の私が最も遂行するべきことは、辛い記憶を取り戻すことだ。いつまでもこうしてはいられないと、余裕の出てきた私は思っていたところだった。

「うん。また頑張ろうと思う」

 私が力強く答えると、メモリアも力強く頷き、それから手招きをした。麗らかな庭園を離れ、私はそのままメモリアに付いていく。行き先はもちろんあの大きな柱時計の前だった。しかし、その柱時計には少しの変化が起こっていた。

 ゆっくりと振れる大きな金色の振り子、その上の大きな円盤の中の短針が、ほんの少し進んでいたのだ。数で言うと、7の手前辺りくらい。

「記憶に這入る前に一つ、訊いてもいいかい?」

「何?」

「前回でどのくらい思い出せた?」

「どのくらいって訊かれると、小学生の頃までとしか·····」

「それじゃあ、家族のこととかは思い出せたの?」

 家族のこと·····? だからお父さんは転勤の多い仕事で、お母さんは·····あれ、どうだろう·····お母さんはどんな人だったんだろう? いや、お父さんですら本当は全く人格も掴めていない。

「あんまり思い出せていない·····」

「そうか·····なるほど。あなたには本当に辛い記憶が多かったようだね·····」

 悲しそうにそう呟くと、メモリアは硝子張りの扉を開くことを僅かに躊躇った。しかし頭を左右に振ると、再び扉を掴む腕に力を込め、その扉を開く。

 ゆっくりと振れる振り子にメモリアの手が触れると、光が奥から溢れ出す。私は身を任せるように光に呑まれ、そして取り込み、失った自分の記憶へと這入っていった。

 次は、一体いつの記憶なのだろうか。




「だから、タバコを吸いながら近づかないでって言ってるじゃん」

 私は文句を言いながら、煙たい亮太りょうたから狭く散らかった部屋の中で距離を取った。

「なんだよ。なんか文句あんのかよ」

「あんたの吸ってる銘柄、臭いのよ」

「子供にはわからないんだよ、大人の好みってのは」

 短く刈り上げた頭を撫でながら、亮太は胡座をかいて小さなテーブルの前に座った。 話すだけ無駄だと思い、私は台所の換気扇を急いでつける。

 手をついて逃げ回っている時に何か硬い物を踏んでしまったようで、手のひらが痛い。どうやらテレビのリモコンか何かを踏んでしまっていたみたいだ。

「おい亮太、さっさと台所の換気扇の下へ行け」

 荒っぽく亮太に移動命令を下したのは、私の二つ年上の優香だった。

 金髪を掻き上げて耳たぶや軟骨についたたくさんのピアスを見せながら、鋭い眼光で亮太に威圧をかけている。

「ちぇっ·····んだよ」

 亮太は少しイライラしながらも、さすがに優香に言われたことには従い、のそのそと台所へと向かってきた。

 私は息を大きく吸い込んで息を止め、亮太とすれ違って優香がいるテーブルにつく。二人で亮太を台所の隅に追いやった気分だった。

「あーあ。ほんっと、子供だよなぁ」

 独りごちるように亮太は悪態をつく。

「何よ。あんたも子供じゃない。タバコ吸ってるからって大人だと思ってんの?」

「少なくともお前よりはな」

「タバコ吸えば大人って考えが子供なのよ。だいたい、未成年がそんなことすんなっての」

 些細な私と亮太の口論に、静かにスマホをいじる優香が徐々に表情を歪めていく。そろそろやめないとまずいかもしれない。

 そんなところで、玄関扉が開く音が聞こえてきた。続いてリビングに、小さなビニール袋をぶら下げた祐也ゆうやが這入ってきた。

「おかえり、祐也」

「ただいま。亮太、買ってきたぞ」

「悪ぃ。さんきゅ」

 そう言いながら祐也がビニール袋から取り出したのは、美味しそうな果物が描かれた缶の飲み物、つまるところチューハイだった。

「お前も飲む?」

 ここまでの軽い言い争いを酒に流そうと提案しているかのように、亮太は祐也から受け取ったチューハイを私に向け、それで手招きのようなことをしてくる。

「未成年だし、酒なんて無理だし。あんたとは違うから飲まない」

 キッパリ言うと、亮太はまた眉間にシワを寄せた。

「もうここに来てんだから、お前も一緒だよ」

「何を·····」

 私は唇を強く噛み締めた。それは違う、そう言いたかったけれど、言えなかった。亮太の言う通りだったからだ。

 私は今、中学三年生だ。なのにこうして、血も繋がっていない人と一緒に暮らすことを選んだのは──他でもない私だった。

 中学二年生の時、両親が離婚した。あれだけ私に転校を繰り返させ、散々振り回してきたお父さんは呆気なく私とお母さんを家から放り出した。そこで私の家族というものは壊れた。

 私はお母さんと共に再び引っ越しをすることとなり、住む所も学校も変わってしまった。けれど一番変わってしまったのは、お母さんだった。女手一つで娘を育てる母親と、突然片親を失った娘の関係は上手くいかなかった。みるみるうちに二人の間には深い溝ができていき、私はお母さんと顔を合わせるのも嫌になっていった。そうして家に帰らなくなり、同時に学校にも通わなくなり、平日休日問わずに外をほっつき歩くようになった。

 そんな時に、私はこの三人に出会った。

 亮太は私と同じように親から離れていった人で、一番年上で高校に通わず働いている祐也とその恋人の優香が、昔の知り合いの亮太を引き留めてやっているという感じだ。そこに私も上手く滑り込んだ形で、今は基本的に四人暮しをしている。

 こうして些細なところで不穏になることはあるけれど、基本的に全員が仲良しで、特に祐也と優香は私にもよくしてくれている。家を飛び出した私を泊めてくれているのはもちろん、ご飯まで毎日ごちそうになっているのだ。

 けれど、そんな祐也や優香を含め、私達が世間的には『はみ出し者』と言われているということは、よく理解していた。

「無理に飲む必要はないぞ。亮太も、女の子の嫌がることしてんじゃねぇ」

「ちぇっ。まぁまぁ、俺は四人で酒飲める日を楽しみにしているよ」

 優しい祐也が亮太を自分の弟のように叱ると、亮太は悪態をつきながら勢いよくチューハイをあおった。私と同い年のくせにおっさんみたいな飲み方だ。

 呆れた私は古い型のスマホを取り出し、時刻を確認する。この古いスマホは優香からお下がりとして貰った物で、Wi-Fiさえあればそれなりに扱えるので重宝している。

 午後一時前か──そろそろ来てるかな。

「私、ちょっと出かけてくる」

「どうしたんだよ、こんな昼間から」

 亮太は不思議そうに頭を傾げる。

 あんたこそなんで昼間から酒飲んでんだよ、とつっこみたかったけれど、私は素直に目的を明かすことにした。

「ちょっと、会う約束があるの」

「会う? 誰に?」

 ──俺達以外に。

 そう言っているように聞こえた。

「友達──だけど」

「友達? なんだよ、お前、友達いたのかよ」

「うるさい。友達くらいいるから。それも──」

 ただの友達ではない。私がこれから会いに行く友達の女の子は、私が通っている学校の同級生なのだ。

「──とにかく。亮太には関係ないから」

「ふぅん? わかったわかった。彼氏の顔なんて気にならねぇよ」

「は!? 彼氏とかじゃないって!」

 勢いよく反論すると、亮太はにんまりと笑った。どうやら、必死に反論した様子を図星だったと勘違いしたらしい。本当にそういう関係である祐也と優香は、そんな亮太を呆れた目で見ていた。

「はぁ──行ってくる」

 祐也と優香の優しい口調の「いってらっしゃい」と、亮太の浮ついた「いってらっしゃい」を背中に受けながら、私は玄関の扉を開いた。




 川の近くの堤防敷を下っていくと、川の近くにある小さな公園が見えてくる。公園の入り口を過ぎた辺りで遠くから、明るく綺麗な楽器の音が微かに聞こえてきた。

 よかった。どうやら今日も来ているみたいだ。そう思いながら、私は初めてここでこの音を聞いた時のことを思い出す。

 それは一ヶ月くらい前、何気なく外をほっつき歩いている時のことだった。

 例によって部屋中がタバコの臭いで満たされた時に、こうして私はよく散歩と称して部屋を一時的に脱出していた。

 そんな散歩の途中、ちょうど公園に足を踏み入れた時に、さらに河口に近い方から何やら綺麗な楽器の音が聞こえてきたのだ。その魅力的な音はすぐに私を釘付けにし、身体ごと私を惹き付けていった。

 その音は公園の河口側の端にある錆び付いた大きなゲートの向こうから聞こえてきていた。興味本位から私は錆の部分に触れないように注意しながら大きなゲートを登り、それからその向こうへと降り立った。

 大きなゲートの向こう、ほんの少しの余地の周囲には雑草が生い茂っていて、中央だけは砂の地面が見えていた。そしてそこに、金色の楽器を抱えた少女は立っていた。

 私が大きなゲートから飛び降りた足音に気付き、少女はこちらに振り返る。美しいロングストレートの黒髪が、目の前に広がる海から吹き付ける風に靡いた。

「あの、何か用ですか?」

 不思議そうに首を傾げる少女の声は、先ほどの楽器の音色のように柔らかかった。その少女の手に大切そうに握られていた金色に輝く楽器、公園まで聴こえてきていた綺麗な音色を生み出していたのは──トランペットだった。

「いや、その·····綺麗な音が聞こえてきたから·····」

 練習の邪魔をしてしまったと思い、恐るおそるそう言うと、少女の驚いた表情はみるみるうちに明るい笑顔へと変わっていった。

「ほんと!? 私の音、綺麗だった!?」

「う、うん。綺麗だったよ。私、そういうのはよくわからないけどさ」

 初対面の私に至近距離まで詰め寄って早口でまくし立てる少女に、私は圧倒されてしまった。長いストレートの黒髪の似合う容姿からは私と同い年か年上くらいには見える大人っぽさが溢れ出ているのに、その瞳は年端もいかない少女の瞳のように輝いていた。

 しかしそれ以上に、私には少女について気になったことがあった。

「うん? どうかした?」

 少女は私がじっと自分を見つめていることに気付き、不思議そうに首を傾げる。

「いや、その制服·····」

 紺色のブレザーとスカート、そして赤色リボンが特徴的な少女が着ていた制服は、私が通っている学校の制服だった。さらに赤いリボンということは、私と同じ学年だ。

「あぁ。もしかして、あなたも××中学の生徒さん?」

「う、うん·····」

「なら、学校で会ったらまた声をかけて欲しいな」

「うん·····」

 私は返答に窮した。

 「声をかけて欲しい」と言われても、私は学校に通っていない不登校児だ。行こうという気にもなっていないし、だから彼女と学校で会うこともない。

「どうかしたの?」

 言葉を詰まらせている私に対し、少女は頭に疑問符を浮かべていた。

 本当のことを言った方がいいのだろうか? でも、そんなことをいきなり言われても少女は困るだろう。

 私がしばらく逡巡していると、傾いていた少女の表情が緩んだ。

「言いたくないなら、言わなくてもいいよ。でも、言えるのなら言った方がいい。せっかくなんだから」

 私には少女が優しく手を差し伸べてくれているように思えた。

 そして直感的に、私は彼女には素直に不登校を打ち明けた方がいいと思った。それでどうにかなるとかではなく、とにかく言った方がいいと思った。

「学校には·····行ってないの。つまり、不登校」

 私は視線を足元に落とし、言葉に詰まりながらも言った。その時、ほんの少しだけ胸のうちが軽くなった気がした。

「そっか。それじゃあ、いつでも会えるんだね」

 屈託ない笑顔を見せながら、少女はそっと手を差し出した。私は戸惑いながらも、その場の勢いでその柔らかな手を握った。

 そこから私と彼女の交流は始まった。私達はすぐに親しくなった。彼女はいつも笑顔で話をしてくれるし、話すこともとても楽しく、私はそれからよくこの場所を訪れるようになった。そして彼女もほぼ毎日、ここで楽器の練習をしている。私は会う度に、楽器のことや音楽のこと──それから学校のことを、よく彼女に訊いていた。

 そんな馴れ初めを懐かしみながら私は公園の奥へと進み、トランペットの音色が聞こえてくる大きなゲートの前で足を止めた。そこからの錆び付いたゲートの乗り越え方はもう手慣れたもので、私は軽々しくゲートの向こうへと降り立った。

「あ、おはよう××っち」

「おはよう。佳奈かな

 佳奈はにっこりと微笑むと、トランペットの唾抜きをしながら管の中に息を通す。

「日曜日もこんな時間から、偉いよね」

「偉くないよ。天才さんじゃないから、こうして練習しないと上手くなれないの」

 それはただの謙遜けんそんにしか思えなかった。けれど、彼女が努力家なのは事実だった。

 佳奈は雨の日を除いてほとんど毎日、この場所でトランペットの練習をしている。家や近所では大きな音量の出る楽器の練習はできないので、少し住宅地から離れたこの公園の、河口側の大きなゲートの向こうを練習場所とし、楽器のベルを海に向けて練習しているのだ。

「××っち、学校来ないんだね」

 金色に輝くトランペットを眺めながら、佳奈はどこか寂しそうに呟いた。

「··········」

「明日、一緒に行こうよ」

「·····嫌だ」

 せっかくのお誘いを私が素っ気なく断ると、佳奈は「そっか。それじゃあ、仕方ないよね」と少し残念そうに言った。

 しばらく気不味い沈黙が漂った後、佳奈はトランペットを顔の前で構えると、頬を膨らませながらそれに命を吹き込んだ。すると燦然と輝く金色の造形物は柔らかい音色を響かせた。その音は臓腑に響き渡るように力強く、そしてそっと私を包み込むように優しい音色だった。

 彼女が作り出した音は海風に逆らい、遠く向こうまで続く水平線へと消えていく。

「·····今週末、文化祭があるのは知ってる?」

 トランペットを口から離し、遠慮がちに佳奈は問うた。目線が合わないことから、彼女が容易に切り出した話でないことはわかった。

「·····知らなかった」

「·····私、その文化祭の全体鑑賞ステージに吹奏楽部で出演して演奏するんだ。それも、ソロパートを貰えたんだよ」

「ソロパート·····一人で吹くってこと?」

 佳奈は黒髪を靡かせながらこちらを向き、手に持ったトランペットにも負けないような明るい笑顔で頷いた。

「だから、どうしても××っちに聴いて欲しくて」

「佳奈のトランペットなら、いつもここで聴いてるじゃん」

「それとは違うでしょう。親友の晴れ舞台、見に来て欲しいんだけどなぁ」

 佳奈はトランペットのベルのようなアヒル口をして見せた。後ろ姿や楽器を吹いている時は凛としているのに、普段はいつもこうあどけない。

 私は唸りながら悩む。佳奈の晴れ舞台を見に行きたいという気持ちは大きい。けれど、こうも長い期間の無断欠席を続けていると、なかなか学校には行きづらくなるのだ。

「××っちは何組なの?」

「えっと、確か三組だったけど」

「おぅ! 私二組だから、すぐ隣じゃん! 私、三組にも友達多いから、よく遊びに行くよ?」

 よく遊びにいくと言われても·····新学期が始まってから二ヶ月ほど経っているけれど、私は一度しかその教室に足を踏み入れてはいない。クラスの人の顔もほとんど覚えていないし、多分クラスのみんなも私の顔なんて覚えていない。

 あそこは私の居場所ではないのだ。

「私、××っちがいてくれる方が楽しいんだけどなぁ。最近、結構暇なんだけどなぁ」

 晴れ渡る空を眺めながら、チラチラとこちらに目線を送りながら佳奈は独りごちる。

「·····わかった。今日言っていきなり明日は嫌だから、明後日からなら·····」

「本当に!?」

「ただしっ! 条件付き!」

 飛びかかってくる佳奈に手のひらを突き出し、私は条件を提示する。

「──私に、その楽器の吹き方を教えて欲しい」

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