出会ったばかりの頃、明るくて社交的で友人をどんどん作れるあの子のことを、わたしとは違う出来のいい人間なんだと思っていた。


 いつも笑っていたあの子は、だけどだれにもいえなかったわたしの話を笑わないで聞いてくれた。わたしが泣いているのを笑わないで慰めてくれた。わたしの悲しみを笑わなかった。


 そしてわたしと同じ痛みを知っていた。わたしと同じ傷を持っていた。わたしと同じ重みで言葉を使ってくれるのは、何百と人間がいる学校の中であの子だけだった。


 それはあの子からの、きっと助けての電話だった。すっごく遠回しの。わたしにはその意図がわかっていたけれど。


「あなたしかいなかった頃、あなたがわたしを救うのだと思っていたし、あなたを救うのはわたしだと思っていた。でも違うのね。あなたを救うのがわたしでないように」


 そうあの子はいった。わたしを助けないといいながら助けてという彼女を、自分は助かろうとする彼女を、傲慢だと思った。嫌になった。だからそうだねと答えた。


「そうだね、だからあなたを救うのもきっとわたしじゃないね」


 わたしはあなたの命に責任持てない。そう、答えた。


「大丈夫?」


 突然うしろから話しかけてきたのは、わたしより年上の優しいあの人だった。一昨日、わたしを引き戻してくれた人。ハンカチをくれた人。泣いたら黙って抱きしめてくれた人。


 わたしはずいぶん前からこの人のことが好きだ。だから嫌われたくない。


 いっそ飛び降りてしまおうかと思っていたときにわたしを見つけたのが彼で、めちゃくちゃ動揺した。心臓が止まるかと思った。あんな姿を見られたら引かれてしまうと思ったのに、心配してくれるなんて。


 道徳の教科書に出てくるような当たり前の美しさを、当たり前に大事にできる人だった。目で追うようになったきっかけは顔がわりとイケメンとかそういうことだったけど、彼の健康的な明るさが今のわたしを救っていて、失いたくなくて、だから過去は忘れたかった。重たいことや暗いことはいいたくなかったし、ぜんぶ捨てたかった。いつでも笑っていたかった。影など知らない明るくてただ純粋な子どもっぽい子だと思われたい、いつまでもただ可愛がられていたい、愛玩されたい、そばにいたい。


 だけどときどき、ふいに五つも年上のこの人は、本当はわたしの浅はかな下心をすべて見抜いているのではないかと思うことがあった。


 近づきたくて近づきたくなくて、わたしの汚さを知らないでいてほしくて、心配されるのは嬉しくて。


「もう大丈夫ですよー。昨日一日休ませてもらいましたし。有休で。あ、そういえばハンカチ、ちゃんと洗ってアイロンしましたから」


 にこにこ笑うわたしを、その人は眉をひそめて少し悲しそうに見ていた。


 それから急に、そっとわたしの手を引いて近くの小さな部屋に連れ込んだ。パイプ椅子や長机がいくつも放置された物置代わりの部屋だった。


 いきなり触れられてかなりどきどきした。顔まで赤くなっていないといいけど。


 おそらく目立たないようにするため電気はつけなかったので、うしろの窓からしか光源のない部屋は薄暗かった。


 彼はそっと閉じた扉の向こうを伺ってから、気遣うような小声で話し出す。


「例の件で何か無理したりはしてない?」

「はい! もう大丈夫です!」


 元気よく笑顔で即答しながら泣きたくなっていた。


 わたしはあなたが好きで、あなたを好きになってからは今までずっと痛かった真っ当な正義感や明るさや善さもあまりまぶしくはなくなって、救われるようになって。もっともっと好きになってしまって、好きになってほしいと思うようになってしまっていて。


「本当はいえずに隠したりしていることとか、ない?」

「大丈夫です! ないです! 完全復活!」


 あなたがわたしの暗い部分に触れてくれたら、触れてもなお笑ってわたしを抱きしめて、悲しいことから守ってくれたならと思わずにはいられないのです。


 でもそんなことは望まないから、いい子にしているから、どうかわたしを可愛がってください。そしてずっとわたしの浅はかさを見抜かないでいてください。


「そっか、うん、まあ本人がそういうなら信じるよ」


 親友が自殺したのに笑っているわたしを見て何かいいたそうにしていたのに、わたしが否定するから、その人はわかったもうこのことは気にしたりしないといった。それからつらいこと聞いちゃってごめんねと、わたしの頭を軽く撫でた。イケメンかよ。


 優しくて真っ当で暗闇を抱えていなくて、好きで、触れてほしくて気づかないでほしくて、近づけなくて疎ましくて。


 ときどきわたしが知らない世界の明るいことばかりを知っているこの人が別世界の人のようで、苦しめたいと思ってしまう。


 いっそ首を絞めてしまおうかと思って、わたしに背を向けて出ていこうとしているその人に近づいた。今なら、だれにも見られず知られず、できる。


 背の高いわたしはヒールを履いてしまえばあまり彼と背丈が変わらない。うしろから腕を回して羽交いじめにしようと思って、その首に爪を立ててやろうと思って、できなかった。わたしが触れることすら畏れ多いような気がして申し訳なくて、伸ばした腕を引っ込めようとした。


「どうした?」


 引っ込めかけていたところで気配に勘づいたのか、彼が顔だけで急に振り向いて、わたしは彼に抱きつこうとしていた体勢を見られてしまった。彼は少し目を見開いた。


 もう、何かいわれるまえにその背中にしがみついた。


「なにもいわないで」


 ごめんなさい、ゆるしてください、ごめんなさい。


 こんな風にいきなり抱きついてしまって、嫌われたら、引かれたらどうしようと思うと怖くて、声が震えた。


「つらかったんだ?」

「黙って」


 必死に懇願するはずの自分の声は荒れていて、恫喝しているみたいに恐ろしかった。


 でも優しい年上のその人はうんと頷いて、何もいわずに、何も知らずに、羽交いじめするかのようにうしろから抱きついたわたしの腕をゆっくりとさすった。


 わたしはいよいよ泣き出しそうになりながら、彼をいっそう強く抱きしめるしかなかった。



 かつて、たとえわたしが笑っていなくても、明るくなくても、面白くなくても、重くて暗くて性格が悪いことしかいわなくても、わたしのことを好きだよといってくれる子がいました。


 この世に二人きりだったらよかったのに、ずっと二人で手をつないで行けたらいいのにと、お互いに思っていたはずだった。でもいつか、二人でいるのは傷を舐め合っているだけで、二人では幸せになれないのだと気がついてしまった。


 幸せになりたいと思ったとき、わたしはすべてを忘れて傷つかないふりをすることを選んだ。でもあの子は忘れなかった。


 忘れないで相変わらず傷ついていて、いつも泣き出しそうなあの子は暗くて闇をまとっていて、救われたくて光りのある道を歩きたかったわたしは、もう彼女と手をつないではいられなかった。


 一番死にそうだったとき、そばにいてくれた子でした。でもあの子といっしょだとわたしは幸せになれそうになかったから、だからわたしは、きっと彼女を見殺しにしたのです。



 かつてわたしを確かに救ってくれていた子を見殺しにして、わたしは、今わたしを救ってくれている人に縋りついてその肩口に顔を埋めている。

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親友だったかつての少女を見殺しにした彼女の話 祈岡青 @butter_knife4

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